|
作:宏一郎
※ 1.バハン島 ※ バハン島、タカナ海岸の夕日、二千年紀最後の落日。此処に集結した、いつものこの時刻の倍を越える、数千と見積られる人々が、この劇的で、かつ有意義な情景を現実として目撃したわけだ。この南太平洋でも有数の集客力を誇る高名なリゾートの島に数あるビーチの中で、ここは唯一、沈む太陽が見られる場所なのだ。 巨大な夕日が西の水平線へ沈む瞬間、タカナの浜辺に蝟集した彼等の間に海鳴りのような歓声が沸き上がったのだった。二ケ月近くここに居ついたクリスにとっても初めての、感激の瞬間だった。クリス、クリストファー・ジョンソンはもう三年を越えて世界を放浪している。一年間通ったカリフォルニアのカレッジもすでに籍を抜いているし、戻る場所はもうない、と思うこともあった。この賑やかな島は、彼の十何番目かの落ち着き場所だった。しかし、どうもここはしっくりしない、とクリスは思う。どの仕事も長続きしないのだ。先刻、浜のビアショップから解雇を言い渡された。新しい世紀で、ひと区切りつけたいとオーナーがいう。まあ、予告はあったからショックはなかったが、いい気分ではない。ここに来て三回目の失職だった。もちろん、二週間分の賃金はもらったけれど、彼が自分から望んだことではなかった。ともかく、クリスは今、自由の身だった。完全に自由な身だった。 完全な自由といえばそうかもしれないが、少し苦い気分があるのはその“完全な自由"というやつのなせることかもしれない。まあ、いいや、ここにいればまた何らかの職にありつける。しばらくは自由を楽しもう。大きなカフェテラスの中ほどに座って好きなビールを呑み干した。なにげなく周囲を見回した彼の目が、その斜め後ろの席にいた一人の女を捉えた。長い髪が女らしさを強調する。若い? ・・そう、二十五、六というところだろうか。女の一人旅だ。バックパックというのだろうか、背中に黒いぺちゃんこの袋を背負って、長い手足を男っぽいシャツブラウスと着古したジーンパンツで包んでいる。汚れたスニーカーとも合わせ、どうみても余り金を持っているようではない。この浜では珍しいツーリストだ。大抵の若い女客はグループで、しゃれた衣装に身を包み、おおいに買い物や食事を楽しんでいるのだが。茶髪に近い、肩を覆うほどの長い髪も、手入れがいいとは言い難いし、身なりもそんな彼女たちとは段違いに質素だった。印象を強く持ったクリスは、ちらとその顔を盗み見、彼女が泣いているのでは、と一瞬疑った。いや、確かにそうだ。泣いている。男は、見てはいけないものを見たような気がした。 ぼおっと夕日に向かって開かれている大きな目が、その最後の輝きを反映して濡れたルビーのように赤くきらめいている。その痩せた頬にまで涙の筋が伝って光っているのだった。思わず視線が離せなくなったクリスに気付いた女は、表情を変え、激しい怒りの表情になってにらみ返したあと、すぐ顔を背けて立ち上がり、浜をあとにしていずこかへ去っていった。クリスはすぐ後をつけようかと考えて、危ないところで思い留まった。弱いところを見られた女は、決してその男を許さないだろう。興味はあったけれど、望みのないことに連綿とこだわることをしないクリスは、そこであっさりと思い切ったのだった。それにしても、とクリスの心の中で未練っぽい別の人格がつぶやいた。いい女だったな。白人ではなかったが、背が高く、抱きがいのある躯だった。そう、日本人かもしれない。ならクリスには懐かしい人種だった。しかし質素だったり、長い髪がなげやりに乱れ、手入れしてなかったり、男をにらみつけたり、どうもそれらしくない雰囲気でもあった。ともかく、あの気の強さはただごとではない。ひょっとすると、恋人を失って気が苛立っているのか。ならチャンスもなくはないが。 豪華な打ち上げ花火の饗宴、お定まりのカウントダウンショウ、夜を徹して音楽の途切れない賑やかな浜で過ごしたクリスは、夜明けがた、貸しベンチでしばらくうとうとした。熱帯に属する島で季節感はないが、雨季だという。強いていえば真夏にあたるのだろう。雨はなくても朝晩は浜風があって過ごし易い。浜近くにまで高級ホテルが林立しているのはどこのリゾートも変わらないけれど、この浜は治安も悪くなく、こんな気ままな過ごし方も出来るのだった。こんな気軽さがこの島をポピュラーにしているのだろう。昨日の女はどこに泊まったのだろうか。やはり浜で夜を明かしたのか。今、何をしているのだろう。夕日に泣くようなロマンチックな彼女のことだ、ホテルなどでぐずぐずせず、騒ぎを避けて近くのヒンズー寺院などを覗いているのだろうか。そこでは今も日常の静かな時間が流れていて、特別な騒ぎはないはずだ。ちらとそんなことを思い浮かべる。 空腹に気が付いて近くのファーストフードの店に入ったのは既に昼を過ぎていた。そこで、隅のスタンド席に座って飲み物を呑んでいる女を見つける。昨日の、夕日の女だ!奇跡は起こるものだ。しかし、一晩置いて眺めるとまた印象が異なっていた。シャツブラウスの裾が巻き上げられて、前で括られている、当世風のコケットな着方で、短いジャケットのようになり、痩せた腹が剥き出しになっている。形の良い臍がよく見えた。ジーンパンツは更に形を変えて、トランクスが股下すぐでざっくりと切り落とされており、腰骨に辛うじて引っ掛けて穿いていることで、セクシーなマイクロパンツの趣があった。滅多に見られないような綺麗な素の脚線がまぶしいほどだ。クリスはあっけに取られた。女は化けるという。昨日の、お世辞にも余り冴えない女は、同じ衣裳で、見事にセクシーな今風美女に変身したのだ。もちろん繁華なリゾートの海岸近くであり、ビキニの水着などもそこでは珍しくない。むしろビーチにはトップレスが普通に見られるほどなのだが。彼女としては、ただ、バックパックがそのままで、野暮なスニーカーもどうにかしたいと思う。それらが昨日のままで若い美女のコケットリーには不似合いな、不粋な小道具といえた。しかし魅力がある。クリスはまた女から目を逸らすことが出来なくなった。多分、とクリスは勝手に思った、女は自分に“来て、来て"と呼びかけているのだ。そばに誰もいない、居た気配もないことを確かめると、勇気を奮い起こして隣りの席に座った。 「ひとり?」 日本語で言ってみた。図星だったようだ。疑わしい目でにらみつけたが、昨日ほどの迫力ではなかった。第一段階は突破した。少し警戒を緩め、そっけなく聞き返してきた。 「日本にいたの?君。」 クリスは半年近く東京にいた。いわゆる不法滞在だったが、アメリカ人としては珍しいのかもしれない。しかし、女にはよくもてたし、旅上の地では一番居心地がよかった。危うくそこに根を張るところで、これでは駄目になると、自分から逃げ出したのだった。 「貴女とすれ違ったかもしれない、東京では。」 「さあ、どうだか。私はこの二、三年、日本にはいなかったから。」 そこで、この女が軽薄そのものの外観に似合わず、英語も達者な、知的な人間だということにクリスは気付いた。もっとも、英語は達者でも、知的な話題を振り回しても、実質軽薄窮まりない、嫌味な“痴的美女"は東京にはいくらもいたけれど、この女はどうだろう。装いはともかく、女は、さほどクリスに妥協しようとは思っていないようだ。口はあまり滑らかではない。それも意識して抑制された寡黙だった。ともかく、男の日本語の能力の限界を知って、女はひけらかすという感じでもなく、クリスの母国語での会話を促したのだった。ふーん、とクリスは感心した。俺は、この個性的な女を気にいってしまうかもしれない。 女はマヤと名乗った。昨日のクリスを覚えていた。夕日を見ると涙が出るの、と弁解したが、それ以上の打ち明け話はしなかった。むしろクリスの一方的な話になった。マヤも旅行は好きといった。無愛想なようで、クリスの話にはよく興味をそそられていることを匂わせた。三十分ほど話し込んで、クリスはすっかりこの女に引き込まれた。二十六と言った。その正直さが嬉しかった。聞き上手というのだろうか、自分からは余り話さず、クリスの長話をよく(辛抱強く)聞いてくれた。彼が日本で知り合った何人もの女とは全く違っていた。英語の堪能な女もいたけれど、これほど飾らず、無造作な感じでいて、相手を満ち足りた思いにさせる女はいなかった。化粧っ気はなかったが、大きな目やまくれた唇など、華やかな造作が誇張する表情の豊かさ、愛らしさが男の目を楽しませた。こんな女が一人でリゾートをうろうろしていることが、奇跡のようにクリスには思えた。どうせどこかに男がいるんだろうが。 「昨日と、随分変わったようだけど……。」 マヤは真面目な顔で言った。 「貴方を、引っ掛けようと思ったのよ。うまくいったと思わない?」 「俺だけじゃない、君ほどの疑似餌なら、他にもかかってくる獲物はいただろう。昨日のままでもなかなかのものだったけど。」 「なかなかいないのよ、その積もりになって見れば、ね。いざとなってみれば、皆尻込みするの。だから、沢山引き寄せて……。一般公募ってわけ。」 一見近寄り難い印象を裏切るような、蓮っぱな言葉が出る。結局、こんな国際リゾートで男漁りをしているのは、平凡な精神の、好色の美女のゆきつく先なのか、この女も、とも思う。クリスは女の印象が大きく振れて、その話になかなか乗っていけなかったが、どうやら彼女が何かの具体的な目的のために自分を利用しようとしているらしいことに気付いたのは、随分たってからだった。 マヤは、このバハン島から北へ百キロばかり離れた珊瑚礁の島、ボラ島に行きたいのだった。そこは若干のリゾート施設があって、わずかだが住民もいる。ここ一年は観光客を入れていなかったが、最近は少し緩んできた。住民のために二週間に一度は小型船が往復しているので、観光客はこれに乗って島に渡ることが出来る。ただ、カップルに限っており、グループや、女一人、男一人という客は乗せないという。これは島の風紀が悪くなるのを防ぐ意味があるらしい。その船が今日出るのだ。船は向こうで乗客と荷を降ろすとすぐ戻ってくるので、少なくもその孤島で二人は二週間を過ごすことになる。 「そこに、何があるんだ。飢え死にすることはないんだろうな。」 「ごみの見えない綺麗な浜辺、おいしい空気、素朴な村人、おいしいお魚、澄んだ海には大きな貝やえびの仲間が、食べられるのを待っているわ。民族舞踊のアトラクションや、カラオケバーはないけれど、バンガローや、日用品を売る店くらいはあるらしいし、たっぷりと静かな時間が楽しめるはずよ。」 どうしてそんな面白味のない島に、若い娘が着目したのかとクリスは不思議に思って聞いた。以前読んだ日本人の小説の舞台がその島だった、とマヤは具体的なことを言ったが、クリスは腑に落ちなかった。もちろん英語しか読めないクリスはそんな小説を知らなかったし、島にしても他にもっと気の利いた、便利なリゾート地はあるはずだと思った。女は何か、隠していることがあるのだろうか。 「その島に棲む若者に君が恋をした、というようなことなのかい。どうも、分からないんだな。二週間となると、夜は一週間あるんだ。君は退屈しない自信があるにしても、ちょっとね。」 マヤは彼と出会ってから一番妖艶ともいえる表情になってクリスに顔を寄せた。 「ねえ、クリス、私からお願いしているのよ。だから、貴方さえ了解してもらえるなら、私は貴方の喜ぶこと、何でもするわ。多分、貴方を退屈させないわ、その間は。」 はしけのような古いエンジン船は外洋に出るにはいささか危険な感じもしたが、クリスたちを含めて三組の旅客がその狭い船内に思い思いの場所を占めて、六時間の船旅を楽しむことになった。その他にも、多分島の住民だろうか、数人の無口な男が乗り合わせた。船倉へは多くの食料、雑貨などが積みこまれていた。カップルの中ではマヤたちが最も若かった。後は似たような中年の米人夫婦二組、テントや食料も含め、かなりの荷物をそれぞれ持ち込んでいた。クリスはそれを眺めながら、自分たちが殆ど身ひとつで出発したことに不安を持った。あいさつがてら、そんなことを聞いてみる。四人は笑って、私達のキャンプに合流すればいい、と言う。実は、私たちもボラ島の現状がはっきりしなくて不安で、一応ホテルの予約はとったんだが、駄目になった時の準備だけはしてきた。結局、テントなどは使わないかもしれない。クリスはすべてを任せていたマヤに、宿泊場所は確保できているのかと聞く。マヤの返事はあいまいだった。 男たちが優勢な船室で、一番若いマヤは当然、注目された。大胆ななりにもかかわらず彼女の挙止や表情には気品のようなものがあって、中年の女たちからもよく話に誘われていた。しかし、多くの場合、マヤは笑うだけで余り相手にならなかったから、もっぱらクリスが話を受けていた。周囲に全く島かげも他の船も見えない外洋で、大きなうねりが大げさでなく船体を翻弄し、中年夫婦は皆青い顔になって吐くものも出、パニック寸前のときもあった。そんな中でマヤは終始落ち着いていて、クリスだけではない、男たちの賛美を浴びた。マヤ自身はただ、恥ずかしそうに横をむいただけだったが。 夕刻近く、船はボラ島を捉え、接近していった。豊かな森がケーキのように盛りあがった、高いピークのない、平坦な島だった。島がすぐそばに見えてからも、かなりの時間船は進み続けて、その周囲の珊瑚礁を回り込んでいる。島の本体はその中の礁海に浮かんでいるのだ。そのころから、マヤはずっと船室を出て舷側につき、船長らしい男の注意も聞かず島を眺めていた。心配になって出てきたクリスにすっかり上機嫌で話しかける。ねえ、この島へ近付くにはこの水路しかないのかしら。不便なのね。暗くなってからではとても難しいわ、潮もあるし、珊瑚礁に舳先をぶつける覚悟で入らなきゃね。クリスは船がようやく島の周囲を囲んでいる珊瑚礁のわずかな切れ目を見つけ、内に広がる浅い礁海へ入り込んでいくところだということに気が付いた。干潮が始まったのか、強い潮の流れが逆流になって、船のエンジン音が急に高まった。 『2.ボラ島』へ |