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作:宏一郎
※ 2.ボラ島 ※ 空室はない、という。マヤは至って呑気そうにしていたが、ともかくその日の夕食を算段しなければならなかった。ホテルの従業員に教えられて、しばらく浜伝いに行ったところに旅行客相手の日用品を売る小さな店を見つける。既に日が暮れていて、ぼんやりしたランプを頼りに、迷惑げな若い男の指し示すバナナとスナック、それに冷たくもない缶ジュースなどを買って夕食にする。マヤは、いいところがあるの、とクリスを浜伝いに導く。岩場と砂浜が交互に出現して、その小さなポケットに二人は落ち着いた。船が着くまでに確かめていたらしい。よほどの大波は礁海にはないし、大潮も十日後だとマヤは言う。星あかりの下で粗末な夕食を取り、乾いた砂の上に転がって二人はとりとめのない会話を続けた。 「ねえ、びっくりした?少なくも、ホテルの予約位してあるだろうと思っていたでしょう。」 「そうだな、僕はいいけれど、若い女にこんな荒っぽい野宿が出来るなんて、思ってもいなかったから。バンガローがあるって言っていたんじゃあ?」 「ごめんなさい。あてずっぽうで言ったの。ないようね、ここには。」 さほど悪びれる様子もなく、正直に謝るマヤを見ながら、クリスも腹を立てても仕様がないと思い、本来こんなことは、男女の旅で二人の身を護ることは、男である自分の責任なのだろうと気が付いた。ただ僅かな時間で女の勧めに引きずられ、出ようとしている船に飛び乗ってしまった。ホテルでもっと強引に室を交渉しても良かったのだ。しかし、この女の不敵な自信はどこからきているのだろう。 「明日は、どこか、民家に頼んで泊まりましょうか。ここじゃあ、覗かれても文句はいえないし。ひょっとすると、明日の戻り便で本島に帰る組がいて、ホテルが空くかもしれないしね。そうする?」 乗ってきた船は一晩繋留され、明朝早く出るのだという。 「君がいいのなら、そうしよう。でも、実際、これまではどんな旅をしていたの。まさかタカナの賑やかな浜で、女一人がごろ寝というわけにもいかないだろうし。」 「ええ、昨日まではシェラトン……。」 そういって、自分で吹き出した。いずれ、そんな身なりでは一流ホテルへは入ることも出来ないだろう。安い宿に泊まっていたのだろうけれど、若い女ひとりには、危険なことではある。やはり、クリスに対したように、ゆきずりの男の間を渡り歩いていたのだろうか。ふと、クリスは、船の中でマヤが中座した時を見計らったように、中年の夫婦に尋かれたことを思いだした。 「ねえ、あのひと、貴方の奥さん?違うでしょう。よく分からないけれど、貴方、気を付けなさいね。危険な感じがあるわ、あの女。」 自分の夫が女に強く引きつけられているという状況もあったのだろう。その常識人めく四十代後半の米人の妻が言いたいことは、クリスにも伝わったように思ったのだけれど、彼女に強く惹かれてもいる若者としては、マヤの持つ危険性が、どんな種類のものかということがどうもはっきりしなかった。彼女の持つ魅力自体が危険だというのならそれは分かる。しかし、それについてはもう手遅れだ。既にクリスはマヤの手の内にあって、二週間の(期限付きながら)同行を約束してしまったのだ。それがどんなものになるのか、彼には全く分かっていない。もう一組の夫婦も似たような反応を見せていた。テントを貸してあげようとか、一諸にずっと過ごそうとか、夫の方はしきりに秋波を送ってきた。それがマヤを取り込む目的からであることは明らかだった(マヤには不思議な魅力があるようだった)けれど、彼女自身はあいまいなままで、むしろ消極的な態度だった。実際、船中でマヤはクリスにすら親密な態度を見せたことは、一度もなかったのだ。ひょっとして、見せかけのカップルとして、まんまと船に乗ったからには、もう彼女としては自分は無用の人間になっていたのかもしれない。そんなことすら考えた瞬間もあったクリスだった。 今、二人だけで、他に誰も居ない砂浜の中で寝につこうとしている若い男にとって、マヤの内心はなお全く分からなかったけれど、少なくとも、島に着いた瞬間に彼女が姿を消すという最悪の事態はなくなったという安堵感はあった。女の視線を感じながら、クリスは見事な星空を見上げている。 「分からないな、全く。」 何が?と尋く女の声が多少クリスを揶揄するような色を帯びた。 「君のことが。」 少し間を置いて続けた。 「船で同席した夫婦も言っていた。こんな不便な島に渡る若い者はいないってね。二週間の間に喧嘩別れをしたって、いずれ鼻突き合わせていなければならないんだから。しかも、僕らは今日の昼、意気投合しただけの、行きずりの男女なんだし、おまけに、最初の夜から最悪の状況で……。」 「最悪って、この、野宿のこと?じゃあ、さっそく愛想が尽きた?とても長くは持てないだろうって?でも、逃げられないわ、ここからは。少なくも二週間は。それとも、明日、戻りの便で帰る?私を置いて。」 からかわれているという印象から抜けられないクリスは、女を見た。正面から自分を見詰める女の顔は、とても男を揶揄しているとは思えない真剣さがあった。 「僕のここに居る理由がなくなったのなら、そうなるかもしれないな。」 「貴方には、まだ居て欲しいのよ。」 静かな声だったけれど、真剣な響きがあった。 「貴方の好みにもよるけれど、綺麗な自然があって、それを満喫出来て、おまけに、美女が存分にできるとなれば、若い男としては、しばらくは我慢出来ないこと?」 マヤは、男が息を詰めて自分を凝視したのを確かめると、やがて上半身を起こし、ブラウスを脱いだ。予想はしていたが、すぐ下から現れた形の良い、尖った上向きの乳房が星明かりの中で白く光り、クリスを魅了した。ゆっくりと周囲を見回したあと、少し腰を浮かせてパンツもするりと剥き落とすとその下には恥毛以外何もない白無垢の躯で、声を失ったクリスに身を寄せてきた。抱き寄せる男の上に覆いかぶさるようにまず唇を奪い、ズボンの中で強く弩張しているものを引き出すと、あっさりと受け入れてしまった。既に十分潤っていたし、その強い収斂と弛緩の繰り返しに若いクリスは長くも耐えられず、ほどなく降参してしまう。その間もマヤの上下の唇は男を強く吸い続け、舌を絡ませたままだった。 しばらくそのままで二人は息を整えていた。クリスは、女の手際の良さに度胆を抜かれた。彼も、もちろん経験は少なくなかったが、こんな女には出会わなかった。ひょっとすると、この女は素人ではないのかもしれない。自分ではむさぼることがなく、男に抜かせることに専心した観があった。そのうち、マヤはおとこのものを元に収め、汚れも気にせず、自分も衣服を身につけてそばに寄り添った。 「一晩中でも裸で抱き合っていたいけれど、ここはホテルの密室ではないし、ちょっと用心しなくちゃね。」 セックスを秘匿する(恥じらう)習慣は、その間の外敵に対する無防備を意識することにオリジンがある、という説をクリスは思い出した。しかし、そんなことには関係のない言葉が口をついた。 「君も、満足したの?」 強く手を握り返したのがマヤの返事だった。 暁闇の寒さでクリスは目覚めた。そばにいるはずのマヤはいなかった。ひと形の砂のへこみを手で触って、その冷たさに彼女がかなり前から居ないことを推測した。頭のあたりに彼女のバッグが残されているのを見て少し安心する。去ったのではないらしい。そんな心配を浮かべる自身に少し嫌悪を催す。いずれ、こんな小さな島で、どこへ行くというのだ。一時間もたってようやく空が白みはじめたころマヤは戻ってきた。熱帯の島でもこの時刻は肌寒さを感じるほどだ。その寒さの中で、マヤは再び身につけたものを取り去り、クリスにも全部脱ぐことを要請して、抱き合った。今度はマヤも存分に楽しんだようだった。男をじらし、じらしたまま挿入の前の様々な局所と躯のこすり合い、なぶり合いを続け、快楽を長引かせた。クリスも今度は明け方のあおみがかった光の中で、マヤの一級の裸身を存分に目で楽しみつつの行為だったし、悦びは前夜の比ではなかった。すっかりあたりが明るくなり、朝日が水平線に現れる直前に二人は一緒にそのフィニッシュを済ませた。汗と砂まみれのまま、二人は長い間抱き合ったままでいた。 海にも入らず、朝日の昇る様を二人は裸のままで身を寄せ合って眺めていた。砂を落として衣服を身につけると誰からともなく口が綻びる。 「明るい方が、大胆になるんだな、君は。」 「昨日は、気掛かりだったのよ、誰かに見られないかと。暗い方が敵さんも、近付くのだって、覗くのだって気楽でしょう。」 「それで、近くを偵察に出かけたのか、明け方。誰もいないのを確かめて、存分に燃えたわけだ。」 マヤは無言のままだったけれど、男のからかいを楽しんでいる趣があった。 「砂浜も捨てたものではないけれど、森の中がいいかもね。毒蛇はここにはいないはずだし。」 おやおや、まだ彼女はこの野生の生活を続ける積もりなのか、とクリスはおかしく思った。いいじゃないか、女がその積もりなら、俺だって音をあげるわけにはいかない。 三日間、マヤたちは船着き場のあるリゾートの浜や、現地民の住むその隣りの海岸地域には近付かなかった。むしろ、離れて行こうとしているようだった。昼間は森に入ってバナナや、何とか食べられそうな柔らかい草、木の芽、などを集めた。もちろん海で泳ぐ時間も多かった。マヤは布の部分の極めて少ない水着を持っていて(荷物にならないものだから、という言い訳がついた。大柄で、スレンダーではあったけれど、セクシーな躯のマヤにはそれがよく似合った)、それに着替えて海を自在に潜り、必要な動物性の食物を獲た。マヤは泳ぎが上手だった。ゴーグルもつけず、クリスが驚いたほど長く潜って貝などを採った。手のひらに入る位のナイフを持っていて、それを木の枝に括って銛を作り、大きな魚も獲物にした。火を起こす道具も持っていて、焼いて食べることが多かった。マヤはそんなサバイバルの知識や技術に詳しかった。 大抵の女が、関係を作ったあと少なからず男に対する態度を変えて、夫婦気取りといった気分で、より男に依存するような態度で接するようになる現象をクリスも経験していたが、マヤはさばさばして、さほど変わったという印象を受けなかった。それは、彼女の豊富な(性)経験がそうさせているのか、それとも、もともとクールな性格なのか、クリスには分からなかったが、多分、彼女はいろんな意味で独立心が強く、それが強い自信に裏打ちされているからだろう、とも考えてみた。確かに、マヤは夕日に涙するような繊細な精神の持ち主である半面、一人で荒野に生きる技術と強い体力、少々の不快感などにはこだわらない自制心を持った女のようだった。 二日目の夜、よく調べて選んだ森の奥の茂みの中に、居心地の良い二人のベッドを器用に、短い時間にマヤが作ったことも、もうクリスを驚かせなかった。彼女にこの点で張り合おうという気を、クリスは既に喪失していたのだ。その、誰にも気兼ねなく抱き合える獣の巣のようなベッドで二人は夜中戯れ合った。しかし、夜のマヤは決して声を出さなかったし、どんなに狂おっていても、いつでもすぐ冷静になって耳を澄ますことが出来るのだった。もっとも、それをクリスは気が付かなかった。次の日マヤが海で言った言葉でそれと気付かされたのだったが。 「ごらんなさい。ずっとわたしたちを監視している男たちがいるのよ。夜も、森の周囲を歩き回っているんだわ。」 彼女の目の動きを追って、クリスも現地民が一人、浜をゆっくりと過ぎていくのを見た。確かに、こんな場所を、彼等の棲む浜の反対側を歩いているのは不自然でもあった。 「気の回し過ぎだろう。」 「そうだといいんだけど。」 諦めたようにいい捨てて、すぐ 「最初の夜よ、私たちを覗いていたんだわ。昨夜は、さすがに見つけられなかったらしいけど。でも足跡があったのよ、森の入口に。気配もあった。」 クリスはその朝も彼女がしばらくいなくなったことを思い出していた。 覗かれていたという。知っていたにしては大胆な彼女の夜の行動だった。いまさらそれがいつのことだったのか、などと聞くのも馬鹿らしかった。なるほど、そういえば、夜の濃厚さに比べても丸二日間を通した昼間の彼女の淡泊さは、まことに見事とも言える切り替えの妙といえた。クリスは全裸に近いマヤの大胆な水着姿を浜でただ眺めるだけで、抱くことも、キスも許さない彼女に苛立ち、また奇妙にも思っていたのだ。 「どうして、やつら、そんなことをするんだ。どうして楽しもうと、我われの勝手じゃあないか。」 マヤは陰気にいい捨てた。 「彼等の趣味なんでしょう。自警団か何かの組織があるのかもしれないけど。」 三日目に二人は初めて海で戯れた。浅い礁海で、見通しの良い、島から離れた環礁に属する砂の岡へ移った二人は、そこに衣服とわずかな持ち物を置き、マヤが水着に着替えるまでにクリスが仕掛けたのだった。遠目には二人で抱き合っているのが想像出来るだけだったけれど、もちろん二人は全裸だった。砂浜に戻って、二人は疲れた体を休めた。マヤは長い間一人考えに耽っているようだった。そんな時のマヤはクリスにも手の負えない無愛想な女になるのだ。外海の波音が聞こえるだけで、静かな昼近い頃だった。ここは他人に眺められこそすれ、話し声を聞かれる心配はなかった。そこでマヤは驚くべき計画を打ち明けたのだった。 「クリス、ボートは漕げる?。」 マヤも女としては大柄だったが、クリスは更に上背があったし、肩幅も広かった。ボート漕ぎの経験はないが、体力には自信がある積もりだった。しかし、唐突とも言えるマヤの質問だ。怪訝な表情で返す言葉もない男に、マヤはたたみかけた。 「村から、カヌーを一艘盗み出そうと思うの。漕いでくれる?、私を乗せて。」 マヤの言う目的地はこのボラ島から更に北東に百キロの洋上にあるサランボ島だった。クリスはすぐ彼女がこの島に来た目的が、結局、このサランボ島への足掛りのためだったということを知った。サランボ島、クリスには未知の島だった。もっとも、このボラ島も彼はマヤに聞いてから知ったのだ。サランボ島など、誰が知ろう。 「何があるんだ、そんな島に。」 しばらく言い淀んだあとマヤは答えた。 「兄がいるのよ。」 「どうして直接その島に行かなかったんだ。大体、太平洋の真ん中を百キロも、手漕ぎボートで航海するなぞ、無茶だ。ここに来るまでも、あれだけひどい大波にあったんだし、嵐に遭わなくても、危険なことには変わらないだろう。」 「あら、ポリネシアの人々は、手漕ぎのカヌーで何千キロも航海するのよ。滅多に遭難することなどないわ、方角さえ間違わなければ。たかだか百キロじゃあないの。」 「おまえと話していると気が変になってくるよ。向こうの島は、ここより少しは増しなリゾートがあるのかい。一度バハン島に戻って出直したらどうなんだ。」 「バハン島から楽に行くルートがあったら、こんな島なんかに来ていないわ。サランボ島は今、閉鎖されて、誰も入れないのよ。少なくも、ここ三年はね。」 「なるほど、結構なリゾート地なんだ。三年間の長期休暇中ということか、おまえの兄さんは。」 「フリーのカメラマンなのよ。飛行艇で島に向かって、着いたことは確かなの。でも戻れなくなったという連絡のあと、行方不明になったわけ。一年半ほど前のこと。」 「入れないし、出られない島なんだ。インドネシアの水上警察にでも頼めば?。」 「サランボ島はインドネシアの力が及ばないのよ。一度軍が上陸に失敗してからは、放ったらかし。島の独立派とイスラムの過激派が占領しているって噂だけど、なにもない小さい島だし、火傷するよりはと、おおっぴらにはせずに、隠し通してきたんだわ。でも、兄の他にも何人か、島を目指して消息を断ったひとがいるらしいって。」 「軍隊が上陸に失敗した島に、カヌーで若い男女が、何の武器も持たずに、つけられると思っているのか。おまえは、馬鹿か、それとも早く死にたくて、そんな面倒な手続きを踏もうとしているのか。」 マヤは、しばらく黙って仰臥したまま空を見詰めていた。いつの間にか身につけていた例の黒いビキニが、クリスには彼女の今の心の状態を物語っているような気がした。女は今殆ど自身の心をあらわに見せたのだ。彼女と出会ってから、ずっとクリスの心に影を落としていたマヤという不思議な女の謎が今解けようとしている。しかし、一番肝心なことがまだ隠されている、とクリスは思った。 確かに、考えてみればクリスにもそんなニュースの記憶はあった。マヤの話はでたらめではなかった。それほど昔ではない、たまたま目に入った英字新聞の囲み記事にあった、孤島を目指した日本人カメラマンの失踪。その原因となった島の騒乱。 以前ポルトガルの領有地だったこの島も、十年前にその権利が現地民に戻り、すぐインドネシア軍の占有するところとなった。しかしインドネシアがさほどの手をいれなかった間に、北から島伝いにやってきたイスラムの武装組織が軍を追い払い、占領した。現状はどうなっているのか、追われたインドネシアは彼等を非難しているが、再び島に上陸する動きはない。犠牲を払っても、それだけのメリットがない、ということなのだろう。現地民がどうなっているのか、まだはっきりした情報はない。カリマンタンにあるこの武装組織の事務所の“何の問題もなく、島でイスラム化が進んでいる”という発表が出されているだけで、誰も島に入れず、第三者の確認はなされていないのだった。国際的な通信社による潜入(個人の資格だったが)が数度にわたって行われたが、いずれも失敗している。行方不明者は三名とその記事にはあった。その内の一人がマヤの兄なのだろう。 マヤが兄を思う気持ちはクリスにも理解出来る。しかし、どんなに彼女が兄思いでも、これほどの危険を冒して会いにいきたいと考えるだろうか。第一、兄がなお生きている可能性は少ないのではないか。生きていたとして、万一島で会えたとして、無事に再び島を出られる可能性はもっと少ない、とクリスは思う。国軍を海に追い落とした強力な武装集団のいる島だった。治安、ことに外からの侵入者に対する警戒はひととおりではないはずだし、首尾よく上陸出来たところで、彼等への扱いは最悪だと考えねばならない。マヤが死を賭して、一目なり会いたいと思う兄は、彼女にはどんな存在なのか。単なる肉親ではないだろう。ひょっとして、兄などではなく、恋人か、夫なのか。いや、それはないだろう。これほど奔放に、自分の性を利器として使う女が、愛に殉じようはずはない。 「サランボ島のことはよく調べたのよ。夜の内に近付けば、うまく上陸出来るはずだわ。こことはくらべものにならない位大きい島で、とても、千人位で海岸線を警備出来るはずはないの。そう、島の住民が千人足らずだというから、それ以上の兵士はいない筈だわ。島には火山があって、他にも、雲がかかるほど高い山がいくつもあって、ジャングルに覆われている。飛行場も、ヘリポートすら作れない険岨な土地で、周りは断崖に囲まれていて大きな船がつけない。米の偵察衛星もいつもかかっているこの雲のおかげで、島の内情をうまく掴むことができないでいるの。だから、うまく入り込みさえすれば……。」 「君が、女にも似合わず大層勇敢で、我慢強く、サバイバルの訓練も受けたらしいことは認めてもいいけれど…。」 クリスは女の話を途中で遮って言い返した。 「誰が考えても無謀な行動だ。お兄さんとの連絡は、やはり国際機関を通じて要求し、気長に待つんだな。」 少し間を置いて、 「君にも両親や他の肉親はいるんだろう。悲しませることになるよ。お兄さん以上に悲惨な結末で。」 マヤが半身を起こしてクリスに這い寄ったのはその時だった。彼はその愛くるしい双眸が激しい意思の力で恐いほどに強く輝いているのを見た。 「私のことはいいのよ。両親はいないし、兄しかいないの、私には。それより、私をともかく島に送り届けてくれる勇気が貴方にあるのかどうか、それが知りたいのよ。」 クリスは殆ど息が詰まりそうな圧迫を感じながら、辛うじて返事をした。 「そんな美しい、愛らしい君を、死なせるわけにはいかないんだ。」 マヤは、口惜しそうに唇をきゅっとゆがめると、急に立ち上がり、クリスに背を向けて砂浜をいっさんに走り出した。その先は、礁海と外海を隔てる小高い岩場だった。クリスは急に女が何を始めたのか分かったように思った。すぐ立ち上がってマヤの名を呼びながら女のあとを追った。何も身につけていないのと変わらないような紐ビキニで激しい動きを見せるマヤのすべやかな後ろ姿はまことにセクシーだったが、その伸びやかな動作には無駄がなく、美しい海辺のニンフともいえる姿で若いクリスを魅了した。 マヤは早く走った。はだしのままで、進むのが困難なほどの危険な岩場を、躊躇なく大きく跳び継ぎ、クリスとの距離はむしろ広がった。やがて荒い白波が噛む外海のへりが先に見えた。女は大きく前へ頭からダイブして、群青色の深い海へ沈んでいった。クリスは続いて飛び込もうとして少し怯じた。環礁の外海は急激に落ち込んで深く、底知れない暗い色をたたえて不気味だったし、マヤの影はもうどこにも見えなかった。しかし、少し考えれば、達者な彼女が溺れて死ぬことなどありえなかった。自分をからかっているのだろうと思った。すぐでなくても、昨日も自分を驚かせたほど長く潜ったあと、とんでもない場所に顔を浮かせて笑いかけた。そんな情景をクリスは想像した。しかし、長かった。長すぎる。ここまでの岩場を走る間にもクリスは息を切らしていた。マヤだって変わらないはずだ。しかも、休む間もなく彼女は飛び込んだ。こんな長い水中での息詰めが彼女にどれほど辛いものであるか。しかしクリスは待ち続けた。マヤのことだ、遥か沖合いに浮かんで手を振ることも想定して、クリスは広い範囲に気を配り、目を凝らした。 やはり、あれは絶望からの自殺だったのか。いや……。不安が大きくクリスの胸を圧迫しはじめた頃、よく澄んだ暗い青の、殆ど目と鼻の先の海の底にほの白いマヤの躯がゆらめいた。ああ、マヤ。クリスの歓喜に膨れた胸は、しかしすぐ不安に凍れた。何か違う。大きな手足の動きが見えるはずが、水中で意味なくあがいているような、いや、力を失って浮き上がることができないでいるのか。クリスはその水中の女の姿を目がけて飛び込んでいった。 長い髪をたゆたわせた水中のマヤは目をつぶって動きがなかった。美しかったが、眺めている余裕はクリスにはなかった。下から腰を抱き、懸命に押し上げていった。二人はすぐ水面に浮いた。強いうねりが抱き合った男女を翻弄したが、クリスは青白いマヤのなお目を開けない顔を平手で叩き、ぐったりした躯をゆすった。 「マヤ!、マヤッ。」 突然クリスは激しく突き離された。マヤの両手が動いたのだ。その反動でマヤは四、五メートルも沖へ浮き身で進んだ。ひゅーっという、息づきの音とともに、我慢し続けたあとの暴発のような、鳴咽のような感情の爆発がしばらく続いた。マヤは、笑いむせんでいるのだった。すぐ二人は抱き合った。キスをしながらも、マヤのしゃくり上げるような笑いはしばらく収まらなかった。 「ちょっと……、顔を…、顔を出せなかったのよ。なくなっちゃって……。」 クリスはすぐマヤが今、ブラジャーを失っていることを知った。大きくダイブした時の、水に入った直後の衝撃で脱げてしまったのだ。下穿きも紐が緩んであぶない状況なのをクリスも手で確かめる。 「ともかく一度は深く、深く潜ってみたかった、外れたのが分かったけれど。それで、苦しかったけれど、きっとこのあたりに漂っているだろうと思って、捜しながら浮き上がってきたの。貴方に見つけられる迄にと思って。」 おかしくてたまらないというような様子のマヤにクリスは、こんなあぶなっかしい水着で飛び込みなんかするからだ、ぬげて当然だよ、と渋面を作りつつ、さっきまでお互い全裸で戯れあっていたくせに、今更こだわることもないじゃあないかとも言った。黒い海草のような布片はすぐ二人の身近かで見つかったのだった。 あれだけ激しく、岩場を駆けたマヤの足うらは、わずかに切れて血がにじんでいるだけだった。しかし、鮫の危険もあったのですぐ二人は助け合いながら岩場に上がり、礁海へ戻った。マヤの水着は上も下も繕いが必要だったし、衣服は遠くにあったので結局全裸のままでそのあとの時間を過ごした。遠くに人影が感じられないこともなかったけれど、もう二人は気にすることもなかった。クリスは脱がなかったけれど、マヤはイブのように自然に行動し、また抱き合った。サランボ島のことは、お互いに禁句になったような雰囲気が出来て、結局、それ以上の進展はなかった。 四度目の夜、前夜とはまた異なった森のベッドで抱き合い、ひと勝負終えたあとのマヤの言葉が昼間の口論をクリスに思い出させた。 「ねえ、クリス、貴方は、ここに来て良かったと思っているの?」 意地悪く、クリスは返事をしなかった。もっとも、マヤはいい返事を自分に強いるような口ぶりでもなかった。それは彼女の人柄だろうか。やはり、男に好意的な返事が欲しかったのは確かだろうけれど。 実際、クリスにはこの数日が新鮮な驚きの連続だった。ボラ島の美しい自然もさりながら、その殆どにマヤという女が係わっていた。最初彼女に近付いたのが自分の方だったという弱みがあったし、その女は期待した以上の、いや、想像を絶する悦びを彼に与えた。彼女自身が男から得たものも、相応のものがあったとするのはあたらないだろう。マヤが好色な女であり、クリスから楽しみを得ていることは確かだとしても、それは殆どが男の欲望をよく知った彼女が、男を中心に据えた適切な応接の中で、相対的に得られたことだろうし、その惜しみない肉体の露出も、暗闇の中での見事な献身ぶりも、クリスには文句のつけようもないものだった。それに加えて、殆どなにもしないクリスを食住で、大車輪で支えた生活者としての、有能なマヤの存在があった。もっとも、ホテルが空いていればこのような苦労はしないで済んだ筈だったわけで、それをしない彼女自身の事情もあったらしいことではあるけれど。 それらの、マヤの献身に対して、クリスは、こんな所まで来てやったのだから、当然だという尊大な態度で終始している感は拭えない。彼女に対する賛辞を用意しながら、やはりクリスはそれを言えなかった。もっとも、それを一度、彼は言っているけれど、尋常な文脈の下ではなかった。つまり、マヤへの賛辞はその口論とワンセットだったわけで、クリスが危機感を感じたのにはそんな連想があった。そしてそれは当っていた。長い沈黙のあと、マヤは再び男の胸にその尖った乳房を押しつけて、耳に唇を寄せ、囁いた。 「ねえ、サランボ島まで、送って。貴方は上陸しなくていいのよ。ボラ島に戻って呉れれば。たやすいことでしょう?」 とうとう来た。クリスは胸の激しい高鳴りを覚えた。マヤにそれを聞かれると思うと口惜しかった。実、クリスは“サランボ島”のことをむし返されることを恐れていた。しかしやはりマヤには何よりも、それが最大の関心事だったのだ。マヤの献身も、結局、男からそれについての色良い返事を引き出すためのものだったのかとクリスは腑に落ちた。もちろん、彼が強いられている命がけの行動の対価に、彼女のそれが見合ったものだったのかは、クリスにも判断がつきかねた。もっとも、命がけとはいえ、マヤと一諸の行動だったし、彼女自身は更に危険なその後の行動があった。クリスには想像もつかない彼女の心理状況だった。何にせよ、クリスには荷の重い仕事だったし、避けたかった。常識論で逃げられるのだろうか。この場合、マヤはやはり不可解な女としてクリスを苦しませた。 「そんなことが出来ると思うか。君を危険な島に置き捨てて返るなんて。」 「危険ではないわ、少なくも、私たち女にとっては。それに、兄がいるし。」 どんな根拠から女はそんなことを言うのだろう。クリスはマヤの精神状態をいぶかしんだ。 「誰か、君の前に別の女性が島に入って、無事だった実績でもあるのかい。ないはずだ。君の美貌や、セクシーな躯がそこで武器になるかもしれないとか考えているんだったら間違っているよ。それは全く逆だ。人間が強大な力を手にした時に、暴君にならない例はない。単純な、欲望にあふれた男たちが銃を持った時が、そのありふれた例なんだ。彼等の無法な暴力集団の前では、君はとても甘くておいしい、レアなステーキ以上のものにはならないだろうって。死ななくても、機関銃が君を狙う機会を逃れても、君のセックスは無茶苦茶にされ、一生正気に戻らなくなるほどの目に遭うことは間違いないよ。南米の独裁政権などで行われている女性への虐待などを持ち出すまでもない。君が知らないはずもないだろう。」 マヤに沈黙が続いた。言い過ぎかな、と思ったが、彼女がこの無茶な計画を諦めてくれるのなら、何でも言うつもりだった。 「君の勇気は凄いと思う。君が、お兄さんを強く思い、救う意思に奮い立っていることは本当に尊い、高貴な精神がそうさせているのだと思うし、だからこそ、君を死なせたくない。今からでも、先進国に戻って君の主張を訴えれば、世界は動くだろう。兄さんを救う最短距離だとは思わないかい?。」 「そうは思わないわ。明日にも、兄が島で処刑されるかもしれないし、世界の論調はそれを止めることは出来ないでしょう。」 マヤの覚めた声を聞き、クリスは、とうとう言ってしまった。 「君を危険な目にあわせたくないんだ。死ぬかもしれない危険に自ら立ち向かう、そんな女には珍しいタイプの君が好きだ。愛している。だからこそ……。」 マヤは静かに身体を引き、立ち上がった。暗闇の中で衣服を捜しているようだった。パンツを穿き、シャツブラウスに腕を通す。靴を履き、ぺちゃんこのバックパックを掴む。 「有難う、クリス。四日間つきあってくれて。楽しかったわ。」 それだけ言い、くるりと身を返して、遠ざかっていった。クリスは何を言う気力も失せてそのかすかな影を凝視し続けていた。それから、しばらく暗闇を見詰め、自分が何をしなければならないかを悟った。マヤに続いてクリスは慌ただしく身を整え、女の後を追っていった。 ともかく森から出ようと思った。思ったより困難な行動だった。なんとか浜へ這い出ることが出来た。マヤの影はもうどこにもなかった。夜空に星はあったが、月がなかった。見当をつけて、森の際にそって歩いていく。無人の砂浜が続いた。やがて小高い岩場になり、森が退いて身を隠す場所がなくなる。よほど歩いて、島民の石としゅろ葺きの集落がある浜に近付いた。マヤの影はなおどこにも見つけられなかった。更に先の、船が着いた浜の方かもしれない。クリスは無人のように眠る貧しい集落を遠巻きに抜け、ホテルの見えるあたりまで行った。結局、丸三日かけて島を一まわりしたわけだった。マヤは意識してそのような野宿を、島の周囲を逆回りに島民の集落へ近付いていたのかもしれないとクリスは彼女の計画性に思いあたった。 マヤを追って空しく慣れない土地、それも闇夜をさまようクリスは悲しかった。既に夜半を過ぎていた。多分、彼女は、月のない今夜、島を出る覚悟だったのだと見当をつけていたのは、間違っていたのかもしれない。彼女はまだ森にいるのだ。そう考え直して戻る途中、クリスは集落に人の気配を感じた。一軒だけ他から離れた小屋から、ゆらりと現れた女の影は背が高く、髪が長かった。マヤだ。続いて男が、二人、いや三人。彼女に立ち混じって浜へ向かう。皆無言だった。浜に引き上げてあったカヌーの一つを男たちが押し、海へ浮かべた。それに一人で乗ったマヤの白い顔が遠目にも不機嫌だった。クリスの胸は複雑に塞いでいたが、一旦決めたことはやらずには収まらない性格だった。舟を送り出した男たち、多分この村の人間だったろう、が長くも浜に立たず、引き返したのを幸い、クリスはホテルの方へ戻り、船着き場あたりから夜の海に入り、泳ぎはじめた。マヤのカヌーがゆっくり近くを過ぎる。クリスはあやうく見捨てられるところを、辛うじて漕ぎ手に気付かせるのに成功した。濡れねずみのまま舟に乗りあがり、転がり込んだ男に、マヤは無愛想で、殆ど構わないどころか、全く剣呑だった。 「このオールで、叩き沈めてやろうかと思ったのよ。」 『3.サランボ島』へ |