海 の マ ヤ
作:宏一郎

 ※ 3.サランボ島 ※


 舟は島の大木から切り出したくり舟で、古かったけれど、安定のよい平底だった。三日分の食料だという島の果実と水も積まれてあった。一両日には戻るとの約束で村人から借り出したのだ。行く先は西にあるマドラ島と言ってある、とマヤは言葉少なに言った。そうなのか、マヤの躯がこれらの成果になったのだ。それだけの(これぼっちの値打ちの)女なのだ。クリスは幾分皮肉っぽくそれらを値踏みしたが、彼女を貶める、そんな思いを口にはしなかった。幾分か自分の責任もあるような気がして後ろめたい気分があったし、ぎりぎりの状況で最悪の決断を余儀なくされた女の辛い気持ちを想い、彼女を可哀そうにも思っていた。しかし、マヤと彼等との間に実際何があって、どんな交渉だったのかをクリスも正確には知り得なかったし、実際、何も見なかったに等しかった。ただ、深夜に三人の男とマヤが暗い小屋に一時間余り一緒にいたことは状況証拠として確かだったし、言葉の通じない彼等の間に何があったかは明白だった。しかし、それがマヤのリードでなされたとは、彼女と三日間を一緒に過ごしたクリスにも信じられないことだった。いや信じたくなかった。別れ間際に、彼女に愛を告白したクリスだったし、その女に、すぐ裏切られたような心地すらしたマヤの大胆さであり、恥知らずの行動だった。本当に彼女はそんなことが出来たのか。


 実際、カヌーを操るマヤの憔悴はひととおりでなかったし、クリスを水面に見つけたときの表情も、先刻、不本意に別れた同棲の相手が「思いがけず」この冒険に参加してくれたという驚き、喜びのそれとは全く異なり当惑が勝って、むしろ悲しげですらあった。彼女の落ち込んだ気分、ゆきずりの異性ではあったけれど、好きだ、とまで言わせてしまった男に、自分の理不尽なまでに望んだものを得るために、その取引の相手に躯まで提供したという事実を、とても見せたくないものをどうやら見られたらしいという彼女の辛い意識が推し量られた。どうして肝心なときに居てくれなかったの?私が躯を売ることまでは避けられたかもしれなかったじゃあないの、という口惜しさをそれに見たクリスは、読み過ぎだったろうか。実際、彼女の怒りが爆発しても、彼は反論出来なかっただろう。しかし、それがあっさりした口喧嘩で終わったことにマヤの人柄が現れているようで、クリスは彼女をけなげにも思った。何にせよ、凄い女であることは確かだ。ここまで行動力のある女だとは、クリスは想像も出来なかった。


 マヤの疲れを見かねて、クリスは漕ぐのを替わってやった。長いうちわのような一本の楷は、うまく舟をまっすぐ進ませるまで時間がかかった。マヤは星を見て進むべき方角を見当づけているようだったが、クリスは不安だった。


 洋上での百キロという距離がどんなものか、最近、一度経験しているが、もっと巨大な(その時は二十トンほどのはしけが頼りなく思え、やはり嫌になったものだった。今になってみれば、余りに贅沢だったと思える)エンジン船だったし、距離感を比べることは出来ない。あの時は六時間かからなかった。今度は、うまくいってその四倍近くかかるだろうとマヤは言った。クリスには分からなかった。大体、こんな小舟で大丈夫なのか。本当に行き付けるものか。少しでも方向が狂えば先には果てしない大洋が広がって、漂流は避けられない。それに先日の航海のようなひどい時化(とクリスは思った)にまた遭ったなら、こんな舟だったらひとたまりもないだろう。しかし、あの時に一人平気でいたのがマヤだった。今度も彼女は、表面上は自信ありげだった。クリスはこの初対面からあと、汚れる一方の莫蓮女を軽晦しつつも、底知れない不可解さ、神秘的なというのはあたらないだろうけれど、を感じもしていた。謎の女だった。疲れていないはずはなかったが、クリスが進ませる舟の方角を注意深く指示し続け、眠らなかった。狭い舟の中で、彼女の長い髪や体の臭いがクリスを息苦しくさせた。それはクリスには悪いものではなかった。多分先刻の三人の島の男の体液も身につけているだろうマヤだったが、そんな妄想めく思いがむしろクリスの性欲を煽るようでもあった。何度か、彼は楷を捨てて、その華奢な肩を抱き寄せたい欲情にとらわれたが、我慢した。マヤは、そんな男の気分を知らぬ風で、始終憑かれたように前方の星空を見詰めて、最小限の指示の言葉を発するだけだった。


 幸い海は、うねりはあったが夜中穏やかだった。小舟は漕ぎ手を交替しながらひたすら進んだ。

 朝日が感動的に昇ってきた。しかし、それは南緯八度という、赤道近い灼熱の陽光の中で一日耐えねばならない時間の始まりでもあった。クリスはしばらくうとうとしたが、マヤは眠らなかったようだった。相変わらず不機嫌だった。


 それからの、灼熱の中での長い航海の間にマヤは少し打ち解け、自分から昨夜のことをうちあけることになったのだけれど、そしてそれは彼女の弁解とも感じられた。やはり、彼女とて後味の悪いことであり、言わないではおれなかったのだろう。

 クリスの眠っていた早朝の三日間、マヤはその村に通ったのだった。彼女が、まだ暗いうちにあたりをつけた舟のそばに立つと、間を置かず近くの小屋から男が出てきたという。恐くはなかったが、盗むのは無理だと思った。

「全財産をはたいて、まだ足りないって。こんなぼろ舟よ。いい加減にしてよって、切れたんだけれど。」

 なるほど、マヤの財布は乏しかったのだ。クリスをあてにしなければ、ホテルなどに泊まる余裕もなかったようだった。何にせよ、思ったより大きな、重い舟で、ともかく一人で盗み出せるものではなかったのが誤算ではあった。その結末が自分の躯で不足分を贖うことに、三人の島の男に同時に身を任せる仕儀になったのだろうけれど、彼等も食料や水など、言われたこととはいえそれなりに約束は守ったのだった。今でも数人の国軍の兵が島には残っているが(では、彼等が二人をずっと監視していたのだろうか)、一年前なら兵も多く、こんなことは無理だったろうと男たちは言ったことだった。インドネシア国軍の武装兵士が島に多数現れた時期。おそらくサランボ島での騒乱が絶頂に達した頃だろう。かように恩着せがましく、男たちはマヤに迫ったのだ。なまなかな若い女が受け入れるにはよほどの覚悟が必要な、恐怖の伴った、危険な取引、状況だったに違いない。

「よく我慢したね。俺がついていたら……。」
「それは、余計だったかもしれない。私も、一挙に舟を盗み出すんじゃなかったら、貴方と一緒に交渉する積もりはなかったの。彼等は、結局、私が目当てだったのよ。それはわかってた。」

 しばらく沈黙があった。クリスは思い切ってさっきから考えていた疑問をぶつけてみた。
「……君は、娼婦だったことがあるんじゃあ……。」

 クリスが思い浮かべていたのは、東京で知り合った“有名な”ソープランドという娼家の女だった。マヤほどではなかったが、魅力があり、セックスの技術は驚くばかりだった。マヤが、男の気分をよく知り、その行為に手慣れていること、愛なく男に躯を許すことにさほど罪悪感を持っていないことは確かだった。しかし、普通の若い女にそのような連想をし、あからさまに疑問を浴びせることが、ひどい侮辱であることは間違いない。激しく怒るかと思いつつ、とうとうやってしまった質問だった。女が苦笑いをしながら言った応えは平凡だった。

「貴方が、とことん私に失望して、軽蔑しているらしいことは分かるし、だから、口惜しいけれど、そのぶしつけな言葉も、こんな私に対する質問としては、大して的外れではないのかもね。でも、答えはノーよ。がっかりした?
 バハン島のあちこちのリゾートで、貴方を見つけるまで、ひと月近くうろうろして、お金も乏しくなるし、よっぽど躯を売ろうかって思ったこともあったけれど、そこまでは落ちぶれなかった。もっとも、貴方に会わなかったら、どうなってたかしら。
 もちろん、こんな私だって、親しくもない男とやるのは嫌なものよ。あら、貴方は別にしてね。でも、私は躯が、気軽に出来る体質だから、面倒くさくなったら許してしまう。誓いあったひともいないし、これ自体、嫌いではないしね。」

 マヤは、不妊手術をしたといった。どんな動機からなのか、それは明かさなかったが、クリスは一つの懸念が解決した思いだった。マヤは無制限に彼の体液を受け入れたし、汚れを気にしなかった。それはクリスを悦ばせたけれど、野放図で自身の躯に自覚のない女も世にはいたし、マヤがそんな女でないという証拠もなかったからだ。


 陽光が強いこともあったけれど、一日マヤは裸を見せなかった。もっとも、昨夜の生々しい出来事の後で、彼女らしくもなく恥じらっているのかもしれなかった。しかし、海で泳ぎたいと漏らしたことは何度かあった。多分、島の男たちの思い出を躯から払拭したかったのに違いない。それが出来なかったのは、早く海路を進んで、日が落ちるまでに島を見たかったことの他にも、鮫が執拗にそばをうろついたからだった。舟が転覆したら、二人はひとたまりもなく食われていただろう。外洋特有の大きなうねりにはたびたび出合ったが、嵐にも、時化にもあうことなく、舟は順調だった。


 休みなく漕ぐ手に潰れたまめが堅くなって、感覚もなくなっていた。これでマヤが一人で出た日には、とてもその日の内につくことは不可能だったろう。自分を執拗に誘ったマヤの気分がクリスにも理解出来た。夕刻、マヤは水平線に島影を見て嬉しがった。理想的なアプローチが出来た。日没前のひとときを、豆粒のような島を見失わないようにしながら、二人は久しぶりに一緒に身体を休め、戯れ合った。鮫は随分以前から姿を消していたし、全裸になって海に入り、狂おしい時間を過ごした。お互いに、これが最後になるかもしれないという予感が、その時間を余計に満ち足りたものにしたいという、激しい気分にさせていたのだろう。引き返すクリスにしても、気が晴れやかなわけはなかった。まして女の身で、ひとり危険に飛び込むマヤの気分がおだやかなはずもなかったけれど。

 マヤは激しかった一ときを終え、これからの過酷な仕事のために体力を残して舟にあがった。無口になって身体を拭い、衣服をつける彼女を見る内にもクリスは、それを例え様もなくいとおしいものに感じた。何の返事も得られなかったけれど、一度は愛を告白した女だった。彼女を危険な目に遭わせたくない、という強い意思がクリスをつき動かした。

「このまま、引き返そう。君をあんな島に置き捨てては戻れない。君を愛している。俺のためにも、戻ってくれ。」

 マヤは、覚めた表情で、その気持ちは嬉しいけど、と計画通りの行動を変える様子はなかった。それなら、とクリスは自分も一緒に上陸することを提案した。マヤはその提案も強く拒んだ。

「二人じゃあ、目立つのよ。それに、つかまったら、貴方の命はないわ。私はまだ望みがある。それに、二人とも消息を断ったら、誰が私達のことを世界に伝えるの?少なくも貴方は生きて戻る必要があるのよ。水も、果物も、舟にはまだ十分あるわ。」
「じゃあ、君はどうしてこの島から出るんだ。少なくとも、再びここを離れるための手段が必要じゃあないか、お兄さんの安否がはっきりした後に。二人で助けあっていこう。君がとても心配だというわけじゃあないが、ここまで来たんだ、僕一人が回れ右をして帰れるはずがない。一緒に島に上がる積もりでここまで来たんだから。」
「私のことは何も心配しないで。私のために、戻ってほしいのよ。」

 そして、マヤは自分のパスポートを男に託した。それは自分の人格を抹消することだった。彼女の生命と人権を守ってくれるはずの国家権力の象徴を自ら捨てて、ただの若い女に、何の後ろだてもない、半面捉縛もない自由ないきものになったのだった。マヤは本気なのだ、とクリスは思わず身ぶるいした。今から入る地域に勢力を張る主義者の間で、米国は敵対国とされていることをクリスは思い出した。この女の勇気は本物かもしれない。だがなぜ?この女の心に燃えている炎の源は何なのだ。

 すっかり暗くなってから、二人は舟をサランボ島に漕ぎ寄せていった。マヤは再び無口になった。パスポートを出したバックパックを腰に巻いたのが唯一の準備だった。クリスはまだ迷っていた。マヤに言い負けたとは思っていなかった。どこか、見つかりにくい入江にカヌーを隠して彼女を追うことも考えた。マヤは、どこでもいい、浜でなく、見つかりにくい場所に降ろして、少し泳いでもいいから、と言った。一時は離ればなれになっても、狭い島だ、すぐ合流できるだろう。しかし、この緊張感はどうだ。生死も見通せない危険な地へ入っていくという、自分にとって未曾有の経験がそうさせているのか。三人の人間を呑んだ謎の地獄島はすぐそこだった。マヤはどんな気分なのだろうか。なお潮の気の残る身体にはおったシャツブラウスの裾をパンツに押し込み、傍目には緊張しているようにも見えなかった。

 島が近くになるにつれ、この島の、少なくも西岸はボラ島とは全く異なった、近付くものを厳しく拒む、見上げるような断崖で守られていることが分かってきた。夜が深まるにつれてうねりが強くなって、崖の直下の岩場が白く波を噛み、暗いこともあり、カヌーを壊さないで寄りつくことが難しかった。岸に沿ってしばらく進んだ。崖が途切れ、たぶん深い森が水際まで迫っているらしい、真っ黒な入江が見えた。二人はその方向へ舟を向けた。急に強い光がそのあたりから射した。その光のスポットが二人の乗った舟に直接浴びせられた。直後に起こった銃声。一発、二発。クリスが舟の中に伏せた時、舟が激しく揺れ、水音がした。マヤがいないことに、クリスはすぐ気付いた。舟から落ちたのだ。撃たれたのか!?クリスは頭をあげ、水面を見た。再び銃声がして、クリスは伏せた。舟が旋回しているように思った。その時、マヤの声が聞こえたのだった。

「漕いで、早く。逃げて! 追って来るわ。」

 続いてどん、と船尾が何かに突き当ったような衝撃を覚え、カヌーは滑るように光を背にして走り出した。クリスはわけが分からず後ろを見た。光は、やはりこのカヌーのような舟の上から自分に向けられているのだ。舟に乗った数人から、奇声がこちらへ浴びせられた。近付いてくる。銃が撃たれたのもそこからに違いない。クリスは恐怖に捉えられた。捕まるだろう。逃げよう。しかし、落ちたマヤはどうなったのだ。混乱した頭の中でクリスは、やがて一つの状況を推定した。マヤは誤って落ちたのではない。上陸するために自ら海に入ったのだ。声が、彼女の声が、確かに聞こえたではないか。水中で舟の船首を外海へ回し、船尾を蹴ったのだ。俺を逃がすために。この危機の中で、自が身を護るだけではなく、それだけのことをやってのける女なのだ。では、マヤは今、暗い海の中を泳いでいるのだ。多分、潜って岸へ向かっているのだろう。懸命に楷をくりながらクリスはそこまで考えた。また銃声が、舟の際を金属音をたてて弾が過ぎた。死ぬかもしれない。追跡の舟は確実に近付いていた。わっと後ろで歓声があがった。光が消えた。クリスは漕ぎながら後ろを振り返った。暗闇の中で、舟の姿は嘘のように消えていた。何か、事故が起こったようだった。ラッキーだ。クリスは少し気が緩んだ。しかし楷を漕ぐ手は休めなかった。


 夜っぴてクリスは力の限り舟を進ませ続けた。出来る限り島から、サランボ島から離れようとしていた。マヤに教わった夜の星たちから方角を割り出す方法を思い出しつつ、楷を漕いた。恐怖が彼をつき動かしていた。いずれ、エンジン船が後ろから追いかけてこないとも限らなかったし、早くボラ島へ逃げ込みたかった。それが唯一の生き残る方法だとも思った。

 時折、マヤを見捨ててきたことに後ろめたさと自分の憶病さを思いだし、やりきれない思いにとらわれることがあった。言葉には出さなかったが、一度はマヤに合流し、一緒にサランボ島へ入る決意をした自分だった。銃声に追われ、すぐその勇気はついえた。やはり、自分はこんな男だったのだ、マヤもそれを見抜いていたからこそ、優しく、戻る道を指示したのだろう。別れ際にマヤが見せた行動は、クリスがいなくても、十分あの危険な場をしのいでいける彼女の勇気と、非凡な適応力を示していた。それに引き換え、とクリスは幾分か自己嫌悪に陥ることがあった。自分は平和にしか適応出来ない平凡な男なのだ。


 激しいスコールに遭った。水をかいだしつつ、しかしこれで追っ手も諦めるだろうと思い、恐怖は少なかった。

 眠さは感じなかった。殆ど食事も取らず、水も余した舟で遥か遠くの水平線に見覚えのある環礁の島を見つけた時には、クリスは涙を流した。自分の幸福を実感し、そして自ら死の弾幕の間へ飛び込んでいったマヤのことを思った。マヤは死ぬだろう。舟に残された、履き潰れたようなスニーカーを見ながら彼女の不幸を思った。マヤははだしでサランボ島へあがったのだ。いや、果たしてあの場を生き延びることが出来ただろうか。彼女が夜の海で溺れることはないにしても、あの、敵の巣窟のような、銃弾の乱れ飛ぶ入江で。


 記憶を辿りながら島を取り巻く環礁の切れ目を捜し、ようやく夕闇が近い礁海へ入っていった。幸い潮の流れはクリスに味方した。浜に近付くにつれて、その砂浜に五、六人もの島民が立って彼の舟を待ち受けている様子が見えてきた。一言くらいはその舟の持ち主に声を掛けて置かなければならないだろうと思っていたクリスだったが、その出迎えの大仰さに少し緊張した。浜に降り立ったクリスを男たちが取り囲む。中の一人が下手な英語で、おまえを拘束するという。多分警察か、マヤが言っていた軍の関係かもしれない。クリスは逆らっても無駄だと感じ、彼等に促されるままホテルへ同行した。

 数日間、クリスはホテルの狭い一室で、舟で漕ぎ出た二人の行動について尋問された。マヤが島人に言っていたマドラ島へ舟が行っていないことは知られていたし、それは舟の戻ってきた方角からも明白だった。彼等はよくクリスたちの始終を観察していたのだ。マヤが途中で舟から誤って落ちて行方不明になったとでも言えば良かったのだろうか。インドネシア国軍の兵士だったら、マヤの力になってくれるかもしれない。結局、クリスはマヤの行動をすっかり言ってしまった。国軍の手で、早く彼女を救って欲しいとも言った。クリスは予想に反して更に一晩拘束を解かれなかった。


 ホテルの管理人は、後日、彼等国軍を名乗る男たちが次の連絡船で島を去る時に、一度連れ込まれるのを見た若い白人がその中にいないことに気が付いた。もちろん彼等が使っていた部屋に居残ってはいなかったし、いつか話題になった、若い女と一緒に島のどこかに棲みついたということもないようだった。そういえば、あのときの女も、いつからか、いなくなった。男の方の行方は、やがて分かった。漁民が見つけたのだった。環礁の外で鮫に半分食われた死体があがったのだ。女は、行方不明のままだった。


 浜から少し入った茂みの中で、マヤは息を切らせながら油断なく海を見詰めていた。もちろん、周囲にも、後ろにも気を配っている。ここがどんな場所か、マヤには分からなかった。幸い茂みは深く、彼女をすっかり隠している。たった今接触した敵を見失わず、彼等の出方を知ることで、これからの彼女自身の身のふりかたを考えようということだ。一人、海から上がってきた。続いて一人、また一人、銃を持っている。誰かが呼んだ。皆引き返し、海からボートを揚げようとしている。マヤがさっき引っくり返した舟だ。逃げるクリスの舟を追う二本櫓の舟は、そのままでは間違いなく彼に追い着いていただろう。銃が使われなくなったのは、生きて捕まえる気になったのだろう。彼等の自信が見えるように思ったマヤには、何とかその邪魔をして追跡を遅らせる必要があった。マヤは水中で待ち受け、オールを掴んで奪い、次いで舟のヘリに手を掛けて転覆させたのだ。危険な作業だったがうまくいった。行き過ぎた程だった。だから、水中で一人に足を掴まれて、逃れるのに大層苦労したのはその報いだった。ナイフを出していたら、さほど手間取ることもなかっただろう。しかしそれはなお腰のパックの中だった。ともかく蹴りつけ、もがいて離れると、そのまま潜り続けて近くの岩場に上がった。


 そこはのっぺりした、身を隠す場所のない所で、マヤはすぐ浜へ周り込み、足跡をつけずにこの茂みに身をひそめたのだった。すぐにでも裏手の山へ逃げ込みたかったけれど、しかし遭遇した敵の姿をもっと知りたかった。何人いて、どこに住んでいるのか、など。こんなところにぐずぐずしていたら、やがて敵は新手を沢山呼んであたりの捜索を始めるだろうし、つかまってしまうことになるだろうけれど、それを知ってから逃げても遅くないと思ったのだった。舟を砂浜の上に引き揚げたあと、男たちは岩場やこちらの茂みなどを眺めながら何事か相談している様子だった。五人いた!ライトは海に失われたようだったが、その人数の多さに自分の無鉄砲さを実感した。海で捕まらなかったのが奇跡だった。せいぜい三人位だろうと思っていた。その火器の乏しさもマヤが強気に出た理由だった。機関銃などがあったら、当然マヤたちは死んでいただろう。

 岩場に上がる時にマヤは見つけられているはずだった。彼等がその方向をしきりに眺める。しかし彼等は上陸した不審者をそれ以上捜索する様子はなく、二人は歩き去り、三人が舟の近くに残った。仲間を呼びにいったのか。マヤはその二人をつけることにした。茂みは進み難く、しばらく進んでから浜へ出た。幾らも歩かないうちに前方に小屋が見えた。二人はそこへ入っていった。薄暗い光が入口から漏れていた。マヤはすぐ茂みへもぐり込んだ。やがて小屋から新手の男たちが何人も出てきた。十人ばかりいただろうか。皆手に銃を持っていた。舟を揚げた浜に行き、そこから手分けして山狩りを始めるのだろう。マヤは銃が欲しかった。彼等が出たあとの小屋へそっと近付き、灯が消えてまっ暗い中を覗く。誰もいないことを確かめて、大胆に入っていく。闇に目をこらして、中が単なる寝起きをする空間で、枯れ草などが敷き積めてあるほかは何もないことを確かめ、がっかりしてそこを出る。すぐ裏は険しい山が迫っていた。マヤは休まず木の根や草を掴み、岩にすがって登っていった。

 島の者、恐らく兵士たち、に見つかったことでマヤの行動はひどくやりにくくなった。そっと、誰にも知られず上陸する積もりが、折り悪しく彼等の舟とはち合わせをして、島に入った事が知られてしまった。しかも、彼女が危険な人物であることも。しかし、もうどうしようもない。今は出来るだけ彼等から離れることだ。彼等には想像もつかない離れた場所へ早く移動するしかない。海岸伝いに進むのは迷わないだろうが、見つかる危険性が高かった。島の内部へ深く入っていこうと思った。今夜は眠れないだろう。悪戦苦闘して、どうやら山の上の比較的平坦な場所に出た。もっとも密林のような場所で、進みにくいことは変わらない。毒蛇などのいないことを祈りつつ、ともかくがむしゃらに進んだ。曲がりなりにも袖のある上着はともかく、短いパンツにはだしで山や密林のしげみを進むのは危険ですらあった。スニーカーは泳ぐのに邪魔だと思い、舟に脱いできた。サランボ島には毒蛇はいないことを文献で確かめてきた。しかし、居るという知人もいて、マヤは少し不安だった。はだしで自然の中に暮らす訓練を受けて、マヤのあしうらはかなり堅くなっている。そして、怪我をする可能性は高いけれど、マヤは動きやすいパンツ姿が好きだったし、後悔はしなかった。

 やがて夜空が木々の間に見え、再び崖のふちに立っていることを知る。先刻の場所に戻ったのかとぎくりとする。しかし、密林行の訓練も受けたマヤには、方向感覚に自信があった。星空の下に海はなく、山が延々と連なっていることにほっとする。崖を貼りつくようにして降りると、そこは清水の流れる谷川だった。マヤは注意深くあたりを見詰め、何者の気配もないことを確かめると、まず渇いた喉を潤し、海水に浸ってなおじっとりしたシャツとパンツを脱ぎ、静かにその浅い川の水に裸の身を浸し、全身をこすり洗い、髪を洗った。しかし長くも居られなかった。裸のままそこを離れ、大きな岩の陰に身を寄せた。膚が乾くまでそのまま居ようと思った。衣服を敷いて横たわった。ボラ島での最後の夜から一昼夜以上マヤは眠っていなかった。身体を動かし続け、緊張し続けて、疲れ切っていた。ついうとうとした。


 暗闇ではあったけれど、屋根がやぶれて、外の星あかりがほのかにあたりを明かるませていた。枯れ草を一面に敷いた小屋の中に二人の男が待っていたのをマヤは確かめた。外で彼女を導いた一人と合わせて三人、約束が違うわ、と言おうとして我慢をした。

「脱ぎなよ。」

 一人が言って、しばらく正座したまま動かなかったマヤを軽くそばの男が突いた。その手首を掴んだマヤは低く言った。

「約束は果たして貰うわ。三人だと舟も早く押し出せるわね。」

 分かった、と男は言った。マヤはもう無言のままシャツブラウスを脱ぎ、パンツもさっさと取ってしまった。暗闇では大胆になれるのかもしれなかった。相手が見えないことも決断をかえって早めたのかもしれない。ともかく早く済ませたかった。最初の男が重なって来たところで、マヤは目を覚ました。ひどい寒さだった。全裸のまま眠っていた自分に驚いた。近くに何か居る。人間ではなかった。ぎらりと目が光った。大きな猫のような獣だった。襲われるかもしれない。低く唸って身構えている。マヤに何の武器もなかったが、臆せず正面からにらんだ。獣はやがて興味を失ったのか去っていった。眠ってしまったことをマヤは後悔した。なるほど起伏は激しかったが、距離にすれば、上陸した浜からまだ、さほど離れていないのだ。もっと進んでおくべきだった。しかし、誰にも見つけられなかったのは幸運だった。山の上で、蚊など、吸血性の虫、毒虫のたぐいがここには少ないこともマヤをほっとさせた。すぐ、汚れて、ぞっとしない衣服を身につけ(裸でいるよりも寒く、不快だったが、すぐ慣れるだろう)ちょっと考えて、パックの中から唯一の武器であるナイフを出して厚地のパンツに縫うように刺す。頭の中に叩き込んできた島の地形を思い描きつつ、なお暗い森の方へ、斜面を登っていった。星はなく、曇っているようだった。いつともなく細かい雨が降り始めていた。寒かった。この島は南緯六度、赤道直下といってもいい島だ。山地のせいもあるだろうが、マヤには予想外だった。森に入り、雨を避けた。心地よい空気と気温だった。見通しは全くなかったが、ほっとした気分だった。しかし、先刻の獣がひそんでいるかもしれず、気は抜けなかった。

 明るくなると山狩りが本格化するだろう。山が深いとはいえ、周囲が三十キロほどの小さい島で、見つからずに何日居られるだろうか。それまでに兄の居場所が見つかるだろうか。そも、兄の啓一はどこにいるのか。果たして生きているだろうか。生きていたとして会えるものだろうか。会って、彼等に懇願しても(武装組織の言語であるマレー語を多少勉強してきた)、すぐ釈放される可能性はゼロに近いだろう。これまでの事例がそれを示している。マヤが女であることがどれほどプラスになるか。パスポートをクリスに渡したのも、ひとつにはオフィシャルな接触が意味のない相手だと踏んだからだった。ことによっては肉体を効果的に使って交渉するか、無理やりにでも連れ出し、何らかの非常識な手段で島から出なければならないかもしれない。


 状況は限りなく悪かったが、マヤに恐怖はなかった。極めて楽観的な性格のマヤは、死ぬかもしれないとは思わなかった。なんとかなると思っていた。しかし、身ひとつのマヤには、ナイフがあるだけで、今朝の食餌のあてもなかった。この島の自然を調べたときも、野に寝たときの危険を主に調べただけで、植生、山に実る果実などは調べなかった。海に出て魚を捕って食べること位は考えたけれど。しかし、資料が限られていたとはいえ、よく調べたとはお世辞にも言えなかった。現に、マヤの前に現れた、あの危険にも見えた大型獣は予想外だった。ナイフを用意したのもそのためだった。あんな獣が彼女の行動に対して障害になるとは思えなかったが。


 マヤは米国軍人の妻だった時期がある。不幸な結婚だった。夫は武官として南米に赴任し、ついていった新婚のマヤの目前で当地のゲリラ兵に慘殺された。マヤ自身も彼等に暴行された。それで身篭もり、堕胎の手術が失敗し、不妊の身体になったのだ。マヤは自分の弱さを実感した。夫を救うことが出来なかったことが心の傷になった。依願して米軍の特殊部隊に訓練生として入隊し、一年間厳しい特訓を受けた。マヤにサバイバルの知識と技術があり、逆境に耐えられるのはその結果だった。マヤがさほど自分の生命や人生に執着しないのは、その不幸な過去と、ひどい死を身近かに見たことがあったからだろう。変に危機に際して自信があるように見られるのは、一時期専心した格闘技、日本の空手と柔道をある程度身につけて、やわな男のひとりふたりに絡まれても退けられるという気があるからだろう。銃やナイフの扱いについても一流のプロにトレーニングを受けている。今度の行動はそれらを実地で試せる最初の大きな試練になるだろう。もちろん、これは彼女自身が自分で決めたことだ。


 夫をなくし、係累を持たないマヤにとって、五つ違いの兄啓一は今、世界でただ一人の愛の対象だった。子供の頃からの偉大な尊敬の的だった。学生の時に柔道で度々全国的な大会に出場し、一転警察庁のキャリアに合格した。五年を経ずしてその累進途上の席を蹴ってフリーのジャーナリストとしてデビューした。その方面では国際的に権威のある懸賞論文に次席を取ったのがきっかけだった。その後、カメラマンとしても非凡なものを示した。一年余の潜伏を経て、東ヨーロッパの戦乱の内情を撮った生々しい写真を発表したのが話題を呼んだ。しかし有名人になることを嫌った啓一は自身の顔を殆ど社会の目に晒さなかった。様々な、実質的な仕事を進める上で、有名人になることは手を縛ることになるという考えを持っていた啓一は、またその後、一般の耳目から姿を消した。だから、彼がサランボ島に潜入しようとして消息を断ったことは、その事実の確認が困難だったことも合わせて、さほどニュースとして騒がれなかった。

 有名人であることを拒否した啓一にとって、その結果は予想出来ただろう。そして、それが彼にとって幸せだったのか、どうか。インドネシアに大きなコネクションを持つ日本の国情もあったかもしれない。彼の大国の恥部といわれたサランボ島の事情自体、大量に犠牲者が出たというような話題性に乏しい、地味な事件だったこともあるだろう。しかしマヤは米国にあって、日本にいるよりも豊富な情報に接することが出来たし、実兄の消息不明という、彼女にとってのこれ以上ない深刻な事件が、これに深入りすることを余儀なくされたのだった。マヤはインドネシアに飛び、考えられた様々な経路から啓一の救出を依頼し、懇願した。世界でも有数のニュース通信会社は、犠牲者が出ることを恐れてマヤへの協力を拒んだ。マヤは孤立し、自分でやるしかないという、追い詰められた気分になったことだった。


 島の地図をマヤは米国の情報省から正式に入手した。殆ど円形に近い、平地の殆どない島で、中には活火山もあり、ピークは多く、山は峻険だった。島民の殆どは海近くに住み、山岳地帯には入らない。浜といえる海岸はわずかであり、漁と農業をして東の礁海に百戸ほどが生きてきた、とある。マヤが舟をつけようとしたのはその反対、西の隆起海岸である。東と対照的に船がつけられる浜はない。島民も住まず、大抵がそそり立った崖になっており、島を占領している武装集団も住んではいないだろうし、見張りもおろそかだろうとの読みがあった。しかしそれは間違いだった。崖の崩れた間に入江が存在して、砂浜もわずかだが、あった。すぐ密林が迫っていたが、占領者の見張り小屋が作られていたのだ。マヤはなんとか彼等をやりすごし、島の奥へ侵入することに成功した。しかし、問題はそれからだった。マヤの来たルートを彼等もまた追ってくるだろう。彼等は十人以上おり、銃も持っている。そして女が一人、島に侵入したという報告は当然ながら島の中枢にも届いているはずだった。中枢というのは、島の人口の殆どが集中する東の海岸地帯だ。火山島でありながら礁海が存在する。そのために、小舟ならともかく、少し大きな船はつけることが出来ない。今、これらの事情もあって、定期航路はここには来ていない。ドウブという村がそこにあり、百戸ほどの島民が住んでいることになっている。植民地時代の総領事館もあり、そこが彼等の根拠地になっている可能性が高い。ともかく、マヤはその村に兄がいると考え、目的地にした。

 二年前、ここでインドネシアの上陸部隊が全滅した。少数の武装組織が効果的に火器を使って彼等の上陸を許さなかったという。ここの兵士が不審な舟の接近と、一人の女の上陸を聞いて、多くの兵士の派遣を西へ行ったことは、容易に想像出来た。しかし、それらは大抵海岸沿いに、あるいは船で北や南の海からなされた可能性が高い。内陸部は、マヤの得た地図に見る限り道はなく、移動は困難だった。何本かの川も短く、多くの滝を形成していて、楽なルートにはなっていない。ごく最近に入った武装兵力が道を開いた可能性はなくもないが、限られたルートと場所に留まっているだろうことが想像できた。マヤはそんなことを考えながらひどい蔦と低木の茂みで覆われた激しい起伏の続く山を苦しみながら進んでいた。誰であっても、特別の目的がなければこんな急な崖を登ろうというものはいないだろう。大抵の人間が、訓練を受けた者でなければ途中で音をあげることは間違いない。まして昨夜の兵士が銃を抱えて辿れるルートでは絶対ない。そんな思いが彼女をこの崖征服に駆り立てている。幸いマヤの姿は稠密な植物に隠れてどこからも見えない。しかし、マヤには、わずかな足場の取り方のミス、浮き石の崩れが遥か下への滑落と死につながる危険な行動になっていることを自覚していた。太い蔓がある程度登攀者を安心させているけれど、これらの植物がなかったら、このルートは恐らくA級のフリークライマーでも二の足を踏むような危険で、長大なルートになっているだろう。もっとも、その崖も半ば以上は植物も生えず、むきだしの岩肌を這い登ることになる。

 ひとつの尾根に達してマヤは何時間ぶりかの休息を得た。しかしここも物理的に安心出来るような平坦な場所ではない。すぐまたひどい急坂が深い谷に向かって落ち込んでいる。おまけにこちらは植物の繁茂がまるでなく、文字通りの岩壁そのものだ。マヤは溜め息を漏らし、しばらく尾根を綱渡りのように下り降りた。しかしすぐ雨が降り出し、風が加わった。マヤは突風に吹き飛ばされる危険を思い、少し降りて岩壁のポケットにしばらく丸くなって寒さをしのいだ。パックの中のチョコレートを少しかじって飢えを紛らせた。追っ手を振り切ったことは確かだ。今、殆ど島の中央部に居るはずだった。しかし、ここで雨に降り込まれると、衣服が防寒にまるで役に立たないマヤは寒さで衰弱死する可能性もあった。気力を奮って、マヤは再び崖に取りついた。岩壁の下りは、体力はともかく、危険が更に高い。足場の選定が困難だし、行き詰まった時のルートの変更、つまり逆に登るための決断にひどい気力が必要で、身動きもならず体力を尽くして落ちる場合も多い。しかも雨風がしきりで、マヤの手足は凍え、とうとうかなりの距離を滑落し、何とか途中で止まった。擦り傷の他に怪我は殆どなかったが、手足の爪が剥がれた。腰のパックのベルトが切れて落ち、シャツのボタンがかなり飛んだ。疲れは激しかったが、暗くなるまでに森に入りたかった。ここはまるで開けていて、遠くからでもまる見えだった。人影はなかったが、見つけられる心配があった。なんとか沢近くに降りたときは暗くなっていた。へたへたと座り込みたい脱力感に襲われた。

 横合いからなにものかが飛びかかったのはそんな時だった。腰をひねって正面にそれを抱き抱えるように受けた。肩のあたりに痺れるような苦痛があって、マヤは死にもの狂いでそれを引き剥がし、ついでに投げ転がした。転がった敵は驚いたことに、再び間髪を入れず飛びかかってきた。マヤはパンツに縫い止めていたナイフを手にした。恐れず、敵の正面で下から切りあげた。その前肢はマヤの手よりも長いはずはなかったし、うまくタイミングがあって、敵は喉を切り裂かれて転がりまわり、マヤのとどめの突きで絶命した。大きな猫だった。明け方出会った奴とは異なっているようだった。よほど飢えていたのか、それとも、マヤの憔悴を見て、なめてかかってきたのか。人間を襲うくせのある獰猛な獣のようだった。大抵のことには驚かない勇敢なマヤでなかったら、そして武器がなかったら、恐らく何も出来ずにパニックになり噛み伏せられて、餌食になっていたかもしれない。マヤ自身怪我をしているのにしばらく気付かなかったのは、やはり動転していたのだろう。シャツの左肩が裂け、血が止まらなかった。しばらく右手で止血を続けた。落としたパックを近くに見つけ、苦痛をこらえて消毒をする。胸と背中にも爪の傷があった。幸い雨はあがっていた。

 災いをプラスに考えるマヤだった。暗闇の中で、まだなま暖かい獣の肉を生のままむさぼり食った。こんなことも軍のサバイバルの訓練にはあった。まだ腐らない獣の生肉は、慣れれば美味なほどだった。日本では刺身を食べる習慣がある。マヤはチームメートの中で最初から吐き戻さなかった少ないメンバーだった。

 凍えた身体が少し元気になった。マヤは近くの茂みに入って沢を吹く冷たい風を避け、すぐ眠り込んでしまった。

 火を起こしたい誘惑にマヤはかられていた。パックの中はマッチもあった。寒さもあったし、こんな谷では誰にも見られないだろうという安心感もあった。昨夜倒した獣の残り肉を焼いて食べたかったし、肩の傷の消毒にナイフを焼いて潰す手当もしたかった。獣の咬み傷は死に至るひどい感染症を引き起こすことが多いのだ。幸い、痛みはそれほどではないけれど、持参した消毒薬だけではこの菌は死なない。明け方、マヤは破れたシャツの袖(木綿であり、よく燃えた)を切って燃やし、目的を達した。久しぶりの焼肉は、わずかのコマ切れだったが美味だった。肩の傷は骨近くまで達しているようだったが、慎重に焼き潰した。極力煙を出さないようにした。一日、マヤは動かず、傷と疲れを癒した。獣の死骸は石の下に埋めた。臭いを感知したのか、大きな鳥が上空を舞った。彼等も危険な人食い禽獣になる可能性があった。

 次の日、マヤは再び斜面へ挑んだ。北向きの斜面は植物が大いに繁茂する傾向があった。猫と鳥に注意しつつ、マヤは山を越え、再び降りた。今度の沢を下ろうとマヤは思っていた。ここは大きな滝などはなく、比較的楽に海へゆけるはずだった。もっとも、麓には島で二番目の村セブがあり、人家がある。島民に遭う可能性は高い。それをやり過ごし、海伝いに一日行程で西岸の礁海に入る。そのあたりが占領部隊であるイスラム過激派の武装兵の拠点のある、島で最も大きい村ドウブだ。その村のどこかに兄は幽閉されているはずだ。更に何人かの西側のジャーナリストも。


 その夜は島民の家に泊まる予定だった。危険はあったが、よそ者の兵士に反感を持っている島民がいないはずもなかったし、わけを話せば密かに味方に引き入れることも不可能ではない、とマヤは楽観的に思っていた。彼等から脱出用の小舟を借りる算用すらしていたマヤだった。しかし、そんなにうまくいくものだろうか。夜もとっぷり暮れて、久しぶりに下界の温和な空気に触れたマヤは気が緩んでいた。どこか、村のささやかな畑でヤム芋などを掘って腹のたしにしようと思っていた。しかし、畑地らしい場所はどこも荒れ果てて自然林になっており、食べられそうなものはなかった。落胆して慎重に村へ入っていく。星空の華やかさに比べて、夜の貧しい、五十戸程の集落は真っ暗で、人の気配はまるでなかった。寝静まったのなら、寝息位聞こえてもいいのだが。ひと通り全部の小屋を油断なく確かめ、浜に出て、舟が一雙もないことを知る。ここは廃村なのだ。マヤは再び小屋の並ぶあたりに引き返し、中のひとつに決めてもぐりこんだ。おびただしい虫が這い回っている気配だったが、こんなことで驚くマヤではなかった。火をつけたかったが、誰に眺められているかも分からなかったし、虫を追い出し、そのまま敷いてあった藁を集めて横になった。久しぶりの、屋根付きの暖かいベッドだった。もちろん耳を澄まして外の気配を長い間確かめた。やがて浅い眠りに入った。


 まださほど経ってはいなかった。虫が身体を這ういやらしさで目が覚めたマヤは、大胆過ぎた自分の過失に気付いた。どこか、村の近くで監視していた者がいたのだろう。罠にかかった気分だった。小屋に近付く複数の人間の気配を知る。まだ間にあうだろうか。入口の反対側の草壁の隙間から外を窺う。一人、立っている。緊張して銃を構える姿が拙かった。マヤは思いきり急に穴を飛び出して男に体当りした。男は予想通り何も出来ずに後ろへ反っくり返った。マヤはそのまま走った。罵声が起こった。銃声が続いた。マヤは小屋を縫って走り続けた。先は砂浜から海になっていた。その海からも呼応して何人か現れた。逃げられない。マヤは横っとびに再び集落へ入り、苦し粉れに一つの小屋に飛び込んだ。ひとまず追っ手を巻いたと思った。しかし、多くもない集落で、いずれ見つかるだろう。何か次の手を考えなければ。外を走り過ぎる気配が続く。ふと無人のはずの小屋内にうごめく何者かの気配に気付いたマヤは、そのたまらない異臭に恐怖を覚えた。死者ではなかったが、病人らしかった。わずかに漏れ入る外の光を鈍く反映した双の目がマヤを見上げた。男でも、女でもなかった。マヤはある不幸な予感に背筋が寒くなるのを感じた。暗い中でもそれと分かる顔の異風な変容、手足の変形、これは未開発国でなお見られる死病、ハンセン氏病ではないのか。こんな地獄に入るよりも、まだ彼等に捕まったほうがよかったかもしれない。しかし、面前の不幸な病者はこの無礼な闖入者の心を知らないかのように、じっと穏やかな表情で相手を見ているようだった。マヤも少し落ち着いてきた。すると、病者は不思議な素振りでマヤに語りかけてきた。自分の後ろに寝るのだ、そんな謎掛けのような気がマヤにはした。マヤはその通り、いかにも異臭は激しかったが、その崩れ行く躯に回り込み、重なるように横になった。そのすぐ後、小屋の戸が開き、強い光が射した。病者が少し半身を起こしてマヤを隠した。驚きの声と、舌打ちが聞こえ、すぐ戸は閉じられた。マヤの姿は彼等の目には入らなかったようだった。

 マヤは長い間そのままでいた。前で背中を向ける病人へのせめての恩返しにと、更に密着し、腕を腰に回した。ハンセン氏病は、極めて感染力の弱い病気だという知識がマヤにはあった。それに、今また外へ出ることは危険でもあった。そのまま、マヤは再び寝入ってしまった。

 浅い眠りと目覚めをマヤは繰り返した。敵地で野営する時の寝方だった。ずっと外には多くの男たちの気配が絶えなかった。夜が明けた。マヤは病人が起き上がり、小屋内にある幾らかの食材で朝食を作り、摂るのを眺めていた。水も隅の瓶にあった。誰かが、時々ここに来て、それらのものを置いていくことを続けているのだろう。病人が男であることも明るくなって分かった。次第にマヤはその醜悪な獅子顔と変形した手足の異様な姿を気味悪く思わなくなっていた。優しい人間のようだった。マヤの肩の怪我をいとおしそうに見詰めていた。

 病人は押しかけた未知の客に自身でこしらえた食事を勧めすらした。丁重に辞退したマヤだったが、残り少ない瓶の水は少しだけ舐める誘惑を押さえ切れなかった。病人は更に勧めたが、マヤにはそれ以上むさぼることが出来なかった。お返しに、少なくなったチョコレートを贈った。昼下がり、マヤは横たわって彼女を見詰める男の前で片袖のブラウスを脱ぎ、パンツも取って、全裸のままで正面に横たわった。荒れた男の胸に乳房を押しつけ、抱き締め、全身を密着させて汗を相手に舐めさせた。男のものは勃起もしなかったが、その腫れぼったい目から涙が流れたのをマヤは見た。


 男から何かひとつでも聞き出したかったマヤだったが、病人の声帯は既に侵されているのか、声をだすことは出来ないようだった。深夜になって、マヤは小屋を抜け出した。海へ出るか、見当をつけていた川に入って癩者を抱いた身体を洗いたかったが、どこで見張られているか分からなかったし、そのまま再び山に戻り、深い茂みの斜面に入って苦しみつつ西岸を目指した。明るくなると、視界に海が見え、海岸を走る道を何人もの男たちが行き交った。マヤは茂みの陰で草を噛みつつ、じっと息をひそめているしかなかった。バックパックのチョコレートを食べ尽くした。

 続く夜のうちにマヤは礁海が眼下に広がる大きな村ドウブに達した。島を占領した武装組織の根拠地だった。幾つかの近代的な建造物も見られた。もっとも、大きなホテルのようなものは皆無で、以前のポルトガル領事がいた瀟酒な二階建てのペンションめく建物の他は、簡単な急作りのプレハブ住宅が二、三あるだけで、それらを取り巻いて現地民のしゅろ葺きの小屋が百以上はあった。これらの中のどこかに兄、啓一は囚えられているのだろうか。夜の内にとマヤは苦労して村の裏手の崖を落ちる滝の源流へ登り、身体を洗い、喉を潤した。誰もここまでは来ないのだろう。たわわに実ったバナナがたっぷり食べられた。久しぶりの満腹感だった。

 昼間は崖を少し降りて村を観察した。活気がなく、村人が全く見受けられないのが奇妙だった。漁に出る舟もない。漁の舟はこのあたりの浜には全く見受けられなかった。ただ兵士たちがどこからか舟で戻ってきて、また出ていく。彼等は銃を携えており、危険な存在だった。村の中心である「元領事館」へは頻繁に兵士たちが出入りする。表に見張りも立っている。やはりあの中に兄は居るのだろうか。そうは思えなかった。女の姿は全くなかった。村人の集落も荒れ果てており、生活の匂いがなかった。誰も住んではいないようだった。彼等はどこへ行ったのか。次第に様子が飲み込めてきたマヤの目には、集落の小屋のなかに、兵士が時々出入りするものがあるのが分かった。彼等が住まいとして利用しているのだろう。妻がそこで待っているのか。しかし、不特定の男が出入りするのは不自然だった。何か、作業場か、打合せに使われている可能性もあった。兵士の出入りは、夜になってからより頻繁になった。マヤはあることを思いついて、吐き気を催した。


 何か、事態を打開するための行動が必要だった。しかし、まさか「領事館」へナイフ一つで入り込む勇気はマヤにもなかったし、投降する積もりもなかった。左肩の傷が疼かなくなったのを見て、マヤは行動を起こした。遠回りに集落へ近寄った。兵士が頻繁に出入りする小屋ではなく、それまで一人しか来なかった、不人気な小屋に忍び込んだ。

 女がひとり、しゅろのベッドに横たわっていた。気配に気付いてものうく顔を向けた。若くはなかった。疲れ切った、熱でもあるような表情だった。身体に掛けたサリーを自ら取ろうとして凍りついた。初めて、客が若い女だということに気が付いたのだ。マヤはそれ以上驚かせないように、静かにそばに膝をついた。

「騒がないで。聞きたいことがあるの。」

 女はマヤの片言のマレー語を理解したようだった。侵入者の立場を知り、落ち着いたようだった。

「島のひとたちはどこへいったの?」

 海と反対の方向を指し示した。
「どうしてだか、分からない。皆連れられていった。残ったのは私達だけ。」

 山へ?
 あれだけの人数を?
 有り得ないことだ。殺されたのか?。
 それなら世界的な、恐ろしい犯罪だ。

 マヤは身震いして言葉を失った。しかし、勇気を奮ってもうひとつの質問をした。

「飛行機で来たよそのひとを知らない?。彼等に捕まったらしいのよ。」

 女は知らないといった。しかし、男たちは皆山へ行った。そのひとも多分、そこだと思う。ここには“やつら”だけ……。

 憎しみが篭められていた。住民たちがひどい災厄に見舞われていることをその言葉が物語っていた。女の痩せた足を眺め、その片足首に鎖が巻き着いているのを知った。一メートルばかり延びた先が鉄の杭に結ばれている。むごいばかりの、性の奴隷だった。マヤ自身の行く末を暗示しているようでもあり、目をそむけた。鍵がかかっていて、外すことは出来なかった。さあ、これからどうしよう。ここにいても無駄かもしれない。山へ戻るのか?あの厳しい自然へ。その時、男が突然入って来た。マヤはむしろの戸が開くまでそれと気付かなかった。女が激しくわめいた。マヤを見限ったのだ。もちろんマヤのすることは決まっていた。棒立ちになった男が銃を構えるより早く、低く身を回したマヤは反射的にナイフを抜き、半身のままぶつかっていった。銃が暴発した。後ろの女がまた悲鳴をあげた。当ったのかもしれない。しかしマヤも必死だった。相手のみぞおちに刃を埋め、足をからめて押し倒す。十センチばかり切り上げると、もう男は気絶して動かなくなった。


 銃を奪おうかと、一瞬考えたのがマヤのミスだった。外に居たもう一人に充分な待ち伏せの時間を与えてしまった。開いた戸から飛び出した出会い頭にどんと胸を突かれ、息が出来なくなった。二つ目が後頭部にきた。マヤは気を失った。




 このお話には続きがあります。
 この続きは、宏一郎様主催の 『物語館 アマゾニア』 でお読みいただけます。

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