secret police 海猫
(2)

作:出羽 健




美人弁護士登場

旧式の快速電車は鼠色の車体を雨にうたせながら、千葉市に到着した。

車両から吐き出された半数近くの乗客は、成田空港へ向う別の列車へ乗り換えるべく、指定のホームに急いでいく。残りの半数はこの新千葉駅周辺の、都市計画などまったく無視して林立しているオフィスビル群をめざすビジネスマンがほとんどだろう。雑多な国籍の男女は駅ビルを出ると、ことのほか雨足の強いのを知り、ある者は傘を拡げ、ある者は地下連絡通路に続く階段に消え、またある者は舌打ちしながら移民の運転するタクシーに乗り込んでいった。

「まったく運輸省も考えてくれなきゃ。日本語が喋れない運転手じゃどうしようもないのにさ、ねえ……」

タクシー待ちの行列に並ぶ初老の男がハンカチで濡れた髪や服を拭いながら、後の女に声をかけた。
その女はにこりと笑っただけで、それ以上の反応を示さなかったが、もちろん反応などどうでもいいのであって、男は本来の意図どおり、女の美貌をまじまじと見つめることができた。

黒い重そうなアタッシュケースを持った彼女は男より頭ひとつ大きい。170センチはあるだろうか。大柄な肢体を地味な色調の服装に包んでいる。ベージュのジャケットとスカート、幅の広いブラウスの白襟を表に返して、第一線でばりばり働く女性のコスチュームともいえる。厚い胸や腰の肉付きから察するに三十歳前後の女盛りと思われるが、なめらかな浅黒い肌のせいで年増女の印象は薄い。ボリュームのある黒髪を無造作にポニーテールにしていて、あらわな美貌は知性的で野性的だ。どちらかといえば濃い眉、大きな瞳、柿の種状の美孔を持つ癖のない鼻、やや肉厚の唇……。右の頬に十代の名残のような小さなプチッとしたにきびが見られるが、かえってこの女のワイルドな美しさにアクセントをつける感じで気にならない。しかし一方的に野性味が勝ちすぎているのだったらこうも人目を引かないだろう。彼女の表情の奥底には、どん底の哀しみを味わった過去のある女だけが見せる、ある情感が漂っていた。それに傷つきうちのめされ、そして這い上がってきたけなげさが、男の本能を刺激するに違いない。相反するような美しさの融け合った独特の雰囲気が、この女にはあるのだ。

男はうっとりと見惚れてしまう──いったいどこの会社で働いているのか、どんな仕事をしているのか。まったくその職場の連中は羨ましい。毎日こんないい女と顔を付き合わせていけるなら、退屈な毎日でもつらい仕事でも精がでるってもんだ。どこのコングロマリットだろう、畜生、いい女まで大手が独占する時代だよなあ……。

「順番のようですわ」

女が澄んだアルトの声で男を促した。

「へ?……」

女は手でタクシーを差し示した。タクシー待ちの行列は男のところで滞っていた。男は慌てて車の後部座席に上半身を乗り込ませる。何事か運転手と喋ったのち、再び車からでてきて、

「さ、どうぞ、お先に。この運転手、日本人だから、ね」

と、何十年もしたことのなかったウインクまでして見せる。

「え、でも……」
「まあまあ、いいからいいから。柄の悪い移民の運転手が多いんだから、こっちの方がいいって」

男は女の二の腕を取り、肩を押すようにして勧める。軽く触っただけなのに女の肉の具合の良さが伝わってくるようで、ズボンのなかのものが思わず硬くなる。

「それではお言葉に甘えてお先させて戴きますわ」

あまり断るのも失礼と思ったのか、女はタクシーに乗り込んだ。扉が閉まり、欝陶しい湿気と隔絶された冷房車に一心地ついたようにほっとため息をすると、女は行く先を告げた。

「埋立地の収容所まで──」

えっと振り返る運転手。もちろんこの辺りで仕事をしている運転手なら、それだけで十分である。番地などを告げる必要のないほどの公共施設だから、知らなかったらそれこそ移民の運転手だ。しかしこんな美人がまたどうして、とつい職分を忘れて聞き返してしまったのである。

女は苦笑する。こういう経験は初めてではないのだろう。

「特務庁第三収容所までお願いします。私に弁護を依頼した容疑者が首を長くして待ってますから、急いでください」
「ああ、弁護士さんで……」

運転手は合点がいったように車を発進させたが、女の美貌に動揺したのか、エンストしてしまう。

哀れにノッキングを繰り返して遠ざかっていくタクシーを初老の男はいつまでもぼんやりと見送っていた。

特務庁が直轄する収容所は全国に九つあって、この第三収容所は唯一女子専用の収容所と医療収容所とで構成されている。全国各地で捕えられた女性政治犯や病質のある犯罪者はここへ集められて本格的な聴取が行なわれる。民主化され、ガラス張りになった警察や刑務所とは違い、治外法権のような隔離された空間がまだ残っていて、広く冤罪事件の温床となっているとかねがね批判の集中する特務庁収容所の中でも、この第三収容所の悪名はつとに名高い。もっともそれはほんの断片的に漏れてくる噂を根拠とするもので、なかなか実態がつかめない。とにかくここへいれられたら、ただでは帰ってこれないというのが、反体制運動をしている人間たちの一致した見方なのだ。不起訴になるケースはまずなく、かならず自白をさせて裁判に持ち込むことになっている。収容者の死亡率は他の収容所と比べても並はずれて高いし、稀に釈放されても精神に障害を負っているか、入所前とはがらりとおとなしい性格に変わっているか、どちらかで、そんなところから性的拷問や洗脳が横行しているのではないかとの噂も信憑性を帯てくるわけだ。

千葉沖に造成された広大な埋立地はそのほとんどを工業地区として売り出されたものだから、収容所の四方は巨大プラントが連なって、長い無数の煙突から吐き出される灰黄色の煤煙が淀んだ大気をつくり、空はいつも低く垂れ篭めたスモッグ雲に隠れていた。

収容所の塀は当然のように高く、訪れる者を威圧し、塀の上に据え付けられたロボットカメラが始終首を振り、高圧電線がときおりスパークして青白い火花を散らしている。タクシーから下りた女弁護士は正門にある監視所に入っていき、所定の手続きを済ませる。

氏名 森川恭子  職業 弁護士  性別 女  年齢 三十一歳──。

いちいち口頭で、能面のように無表情の男性職員に告げねばならず、いつもながら不愉快になる。嫌がらせは随所にあって、中に入るまでに徒労を覚えてしまうが、それが連中の魂胆と思えば、負けているわけにもいかない。

収容所の敷地は広く、無人のカートに乗って移動しなければならなかった。カートの車体の差し込み口に監視所で発行された磁気カードを入れると地面に張り巡らされた走査線を辿って目的地につくシステムである。関係のないところで下りようものなら、有無を言わせず非常サイレンが鳴り、たちどころに逮捕されてしまうわけだ。

森川弁護士は中央のブロックにある建物に入っていった。胸もとからハンカチを出し、額の汗を拭う。いつものことだが、収容所の建物に入っていくときにはある種の緊張感に包まれる。これから始まる仕事の重要さへの怖れとは違う。なにかここへ脚を踏みいれたら二度と出てはこれないのではないか。単純な恐怖心が彼女の胸を覆うのだ。もう何度もそんな悪夢にうなされていた。

(ああ、敬一さん、恭子に力を貸して……)

森川弁護士は殺された夫の面影を思い浮べて、自らの弱気を打ち消した。

最上桐課長はそのグローブのような手を洗っていた。ちょうど午前中の詮議が終ったところである。今も耳に残る佐藤ゆり子のつんざく悲鳴。自分の指に絡みついているゆり子の頭髪──何度も髪を掴んで引きづり回し、床に貌を打ちつけた──を洗い流しながら、桐は反芻するように女コマンドののたうちまわる姿を思い浮べた。

(思ったよりしぶといわね、あの女。弱音を吐かなかったのは見っけものだわ。最後までこの最上桐様を罵って、とうとう失神しちゃったけど、まだまだ抵抗するでしょう。午後はあの桃尻を鞭でうちのめし、逆さ吊りにして陰毛焼きにしてくれる──)

それが駄目なら、あれをやってこれをやってと、次から次に拷問のアイデアが湧いて、鬼女課長の醜怪な表情はますます残忍さを帯てくる。あの肉づきのいい愛らしい鼻に玉の汗を浮かべ、縦皺をつくり、小鼻をひくひくさせるゆり子のこらえ貌を、桐は気に入ったらしくすこぶる機嫌がよかった。迷彩色の制服を正し、黒ベレーをかぶり直す。

洗面所を出たところで、収容所の職員につかまった。

「課長、昨日収容した女子大生の弁護士が来ていますが……」
「何言ってるの。いつものように適当にあしらって追い返しなさい。何年、ここで働いているのよ。私はこれから野辺地局長のところにいかなければならないんだからね」

大女の上司に見下ろされ、職員はビビりながら報告する。怠ればあとでもっとビビるハメに陥るのだ。

「そ、それが、その弁護士というのが例の森川恭子でして……」

その名前を耳にすると、桐の表情が見る見るうちに険悪になっていった。

「あの森川恭子が来ている! 女子大生の弁護を担当することになったって!」

怒髪天をつく荒声に職員は縮み上がる。

「いつもの部屋で待たせており……」

最後まで言いおわらぬうちに、桐は職員を突き飛ばし、のしのしと歩き出した。先程までの上機嫌はどこかに消し飛んで、憎悪と復讐のみが形相を支配した。

(あのスベタの森川恭子が、あの黒ブタの森川恭子が、またまたこの最上桐の前に姿を現したと? 性懲りもなくまた私の可愛い小羊の弁護を引き受けたって!)

最上桐と森川弁護士の出会い、または初対決は三年前に遡る。当時、桐は一般警察の女刑事としてエリート中のエリートコースを驀進していた時期であったし、またそうするために一般警察としてはかなり強引な点数稼ぎをしていた頃でもあった。

ある時、捕えた女性政治犯の口を割らせるために禁じられていた拷問を加えたことがある。その被疑者の弁護士がこれまた当時売出し中だった恭子だったのだ。恭子が若き美人弁護士で、マスコミにもちょくちょく貌を出し、ちょっとした有名人だった経緯もあり、桐にとっては激しい対抗意識を燃やすに十分な相手だった。弁護士の要求をことごとく突っぱね、逆に恭子をゲリラの一員であるかのように、嫌がらせの尾行を付けたりもした。恭子は恭子でこの不当な被疑者の扱い、弁護士への抑圧等をマスコミを使って宣伝し、反撃する。

焦った桐は致命的なミスを犯してしまった。自白を取るのを急ぐあまり、女性政治犯を責め殺してしまったのである。もちろん辞職をよぎなくされた。恭子はたたみかけるように、殺人の罪で桐を告発する。

進退極まったかに見えた桐であったが、捨てる神あれば拾う神あり、彼女の『才能』を高く評価していた特務庁が助け舟を出したのだ。野辺地局長を中心に桐自身もスタッフに加え、さっそく反撃にでる。まず、アンダーグランドの三流ジャーナリズムを動かして、森川弁護士の偏向性を強調するキャンペーンを張り、放送局にも圧力をかけて恭子を全マスコミから追放することに成功した。さらに玉枝一家をけしかけて、彼女の最愛の夫で同じく弁護士をしていた敬一を惨殺する。桐の裁判も結局証拠不十分で無罪となり、晴れて治安局への奉職が認められた。

この勝負は森川恭子弁護士の全面的な敗北に終ったのである。

『海猫に盾をつくものがどうなるのか、見せしめのためにもとことんやらねばならないのだ』

野辺地の言葉を聞きながら、最上桐はこの海猫こそが自分の才能や欲望を満たしてくれる場所であると知ったのである。しかし桐の森川恭子に対する怨念がすべて晴れたわけではない。現に恭子はまた弁護士活動を細々と再開したと情報網から聞いていたし、結局、特務庁という組織をもってしてようやく打ち倒したのだ。桐のプライドが著しく傷つけられた事実は厳然と残っている。いつか、必ずこの手で森川恭子を懲らしめてやる──決意は桐の胸の奥底に沈み、ふつふつと醸成していったのである。

それが一気に吹き出してきた。森川恭子の名前を聞いた途端に。エリートコースから挫折して憔悴した日々がよみがえってくる。

(でも私はあの時の最上桐ではない。一回りも二回りも大きくなって、残忍になって復活したのよ。ふふ、楽しみだわ。あの汚い黒い貌がどんなになっているか。抜群のプロポーションが熟れに熟れきって、さぞや責めごろの身体になっているはずだわ──)

桐は別棟にある来訪者控え室に急いだ。

「お久しぶりね。森川弁護士──」

その声に、窓辺にたたずみ、押しつぶされそうなドス黒い熱雲を見上げていた恭子は振り返った。

「……こんにちは。最上刑事、いえ今ではりっぱな最上課長ね」

恭子は濃いエキゾチックな眉を少し吊り上げて笑う。彼女も高橋ミカの担当が最上桐であるのを知り、驚き、内心忸怩たるものをやっと整理したところであった。

「フフ、相変わらずお綺麗で、相変わらずの皮肉屋だこと」

桐は恭子の貌や肉体を無遠慮に眺める。貌は少し痩せたかもしれない。その方が小麦色の肌にマッチして野性的で似合っている。身体の方は予想どおり、豊満になっていた。プロポーションが強調されない服装だが、胸のふくらみや腰の丸みは同性の目にも魅力的だ。パットが入った肩がムッと盛り上がり、むんむんする三十女の色香がオーラのように放たれている。

「最近、テレビでも拝見しないからどうしたのかと心配していたのよ」

桐はせせら笑いながら握手を求めて手を差し伸べた。恭子はくっと顎をだすように桐を見返し握手をする。テレビに出演できないように画策したのは海猫ではないか。桐のごつい手に包まれるように恭子の指の長いほっそりした手が隠れる。無言のまま握手をかわす二人。

(ふん、そのうち握手じゃなくて足に接吻するお行儀を仕込んでやる……)

桐はそう思いながら握った手に力を入れた。

「うっ……」

女とは思えない握力に骨がきしみ、貌をしかめる恭子。

「あらまあ、ごめんなさい。あんまり懐かしくてつい力が入ってしまったわ。許してね」

海猫の課長は哄笑して椅子に坐り、煙草に火を付けて脚を組んだ。恭子は手を押さえながら唇を噛み、桐を睨みつける。しかし時間はない。女弁護士も椅子に坐り、アタッシュケースから書類を取り出した。

「さっそくですが、昨日あなたたちが不当逮捕なさった高橋ミカ、仙花女子大学法学部四回生二十二歳の即時釈放を要求します。そして彼女に会わせてくださいますね、今すぐに──」
「あら、不当逮捕だなんて聞きづてならないわね。あの娘、ゲリラコマンドの女と一緒にいて爆弾闘争の相談をしていたのよ。それに任意同行してもらっての詮議中に私の貌に唾を吐きかけたのよ。りっぱな公務執行妨害だわ」
「挑発したんでしょう。あなたがた海猫のよくやる手じゃなくって。任意同行も怪しいものだわ。暴力的に拉致された疑いもある」
「ほう、誰か証人でもいらっしゃるの?」

桐はにやりと嗤った。その不敵な態度は確固とした自信に裏打ちされていた。恭子のほうも弱いところがある。昨晩、高橋ミカと一緒にいたと思われるサークルの部員たちと話をしてもまったく要領をえないのだ。かんじんのところになると知らぬ存ぜぬではぐらかそうとする。強く詰問してもめそめそと泣きだしてお手上げだ。きっと海猫一党に圧力をかけられているに違いないが、証言がない以上どうしようもない。桐はそんな恭子の手のうちを見透かすように嘲笑しているわけだ。

「いずれにせよ──」
と、恭子は話題を変えねばならなかった。

「面会させてもらいますよ、高橋ミカに。いいですね」
「いくらお世話になった森川先生でもそれはできないことね」
「どうして?」

恭子はきりっと貌をきびしくする。

「接見交通権をないがしろにする気?」
「まあ、おっかない貌。昔と少しも変わっていないのね。でもその貌は悪くないわ。先生、器量があがったわよ。新しい恋人でもできたんじゃない」

桐は恭子の右頬のにきびを見ながら意味ありげな表情をする。

(あのにきびをベロベロ舐め回してやったらこの女、どんな声を上げるのかしら……)

恭子は怒りを抑えるのに難渋しなければならなかった。夫との思い出を愚弄するような言葉は許せない。

「私の胸の中には夫がいます。これからもずっと生き続けるでしょう。他の男の方との交渉なんてありえないわ」
「あーら、ごちそうさま。野暮を言ってしまったようね」
「男性に愛された経験のない女性にはなかなかこの気持ちは理解できないでしょうけどね」

今度は恭子がにやっと微笑む番だ。永遠の独身女性、最上課長は憤激したように立ち上がった。

「とにかく高橋ミカとの接見は禁止してよっ」
「そんな違法は許されないと言ってるでしょう」

恭子も思わず立ち上がる。いつもは大柄という表現があたっている恭子だが、桐と並ぶとさすがにか弱い感じがしてくる。

「勘違いしているようね。ここは一般の警察とは違うのよ。特務庁の管轄なの。甘い法律が通用する場所ではないわ」
「何言ってるんですか、あなたはっ。特務庁長官の国会答弁でも……」
「ホホホ、それじゃあ、言うけど、高橋ミカは弁護士との面会を望んでいなくてよ」
「なんですって!」
「あんなものには頼りになりたくない、弁護士はうまいことを言って金を毟り取っていくだけだ、自分自身の力で十分だ、とこう泣いて頼むのよ。だからここにこうして文書にして署名捺印してもらっているのよ。疑り深い弁護士さんにいらぬ詮索をされるのはいやですものねぇ」

と、桐は愉快そうに胸のポケットから紙を取り出して恭子に見せた。たしかにそのよううな文面に高橋ミカの名前が書かれ、印鑑が押されている。しかしこんなものが有効なわけがない。騙されてそうしたか、暴力に屈したに違いないのだ。

「無効だわっ。信じられないわよ! 面会させないんならしかるべき手続きを取りますっ」
「ご自由にどーぞ。さてそれでは私はこれで失礼するわね。仕事がつまっているのよ。昨今は無頼の輩が多くててんてこまい。どうしてこう、どいつもこいつもお国に反抗するのかしら。身体が幾つあっても足りないってところね。ところで先生はまさかゲリラコマンドとのつながりはないわよねえ。ま、もし我々の手にかかるようなことがあっても心配は無用よ。森川恭子大先生なら万難を排して最高級の取り扱いを準備しますから──」

最上桐課長はそう言うとげらげらと高笑いを繰り返して部屋を出ていく。

(ふふ、待っていなさい、森川恭子。お前が自由に街を歩けるのもそう長いことではなくてよ。今に絡め取ってヒィヒィ泣かせてやるわ。その浅黒くて汚い貌を私のお臀で押し潰してやる。その小生意気に高い鼻を吊り上げてブタ鼻にしてやる。それともぷっちりした双つの乳首に電極コード付きのクリップを挟んで電流責めがいいかしら。山上朋子も涎を流して許しを乞うたやつよ。いやいや未亡人のハメごろ女には、二十四時間ぶっ続けの媚薬バイブ責めがふさわしいかもしれない。黒ブタのお前は体力はありそうだから、これ全部、お見舞いしても壊れないでしょう。楽しみだわ、森川恭子。それまでせいぜい股の手入れでもしておきなさい──)

治安局局長、野辺地大洋は自分の部屋でビデオに見入っていた。四年前、大手の映画会社が制作した文芸大作である。主演女優はもちろん内藤基子。この美人女優のほぼ最後の主演作品で、彼女が三十六歳の時のものだ。これ以降、内藤基子は銀幕から姿を消してしまったのである。

そう、結婚を契機に。

野辺地はあの頃のほぞを噛むような思いが蘇ってくるようで苦笑してしまう。

(この女のことになると、泣く子も黙る海猫の総帥の俺様もアホ面したただのアイドル親衛隊だ)

美しく日本髪を結いあげ、薄紫の大島紬を着こなして夫と若い芸術家の間を揺れ動く人妻役を見事に演じている基子。野辺地を含め、熱烈なファンを多数引き付けた彼女が選んだ伴侶というのが、よりによって例の映像作家、田村弓彦であった。田村は社会派の反体制監督でタブーと呼ばれていた問題を果敢に取り上げて作品にし、海外では数えきれないくらいグランプリを取っているほどの評価をされているものの、もちろん日本ではバージされて大手の興行にはかからない。ごく一部の支援者とともに自主上映の形で細々と活動をしているにすぎなかった。

(くそっ、あんな乞食野郎に……)

内藤基子がどこでどう田村と知合ったのかは知る由もないが、たびたび社会的な発言を繰り返していた基子だから、そう不思議でもないのだろう。長らく独身を保っていた彼女もついに入籍と相成ったわけだが、とにかく異端児との結婚である。いくら大女優でも業界にとどまることは許されなかった。基子もまたバージされ、映画界の桧舞台から姿を消したのである。

多くのファンからは遠ざかったが、ただ一人、かえって近付いた男もいた。それが野辺地である。基子が結婚した衝撃からふと我に返ると、治安局の立場であれば田村をなんのかんのと難癖を付けてひっくくるのは朝飯前だろう。そして芋蔓式にその妻の基子も──と色めき立って画策を開始しようとした矢先、二人は撮影のために東南アジア方面に長期出国してしまったのだ。

ビデオの中で基子と若い芸術家が塗れ場を演じるシーンが巡ってきた。もう何度、目を皿のようにして観たかわからない官能的な場面。瓜ざね貌をほんのりと紅潮させて、眼ぶたをうっすらと閉じ、長い口吻が展開される。おくれ毛がほつれて、うなじにかかりわずかに生汗が光っている。帯がとかれ、着物が大胆に肌けられる。ムッチリとした艶かしい乳白色の肩が露出し、男の唇が細い頚へと下がってきた。胸もとからゆっくりとふくらんでいく双乳と深い谷間があらわになるが、どう頑張っても乳輪を目にすることはできない。しかし男優の片手はたしかに彼女の乳房を掴み柔らかく揉んでいるのだ。

(あいつ、猥褻罪で逮捕だっ)

これまた何度、口走ったかわからない罵りを口にし野辺地は股間を熱くする。が、シーンはそこで終わりだった。これでも当時は大胆な塗れ場として話題になったものである。

あれから四年──今、内藤基子はちょうど四十だろうか。均整の取れたプロポーションに適度に脂がのりこってり爛熟した大年増になっているだろう。その基子と面と向って対峙する時も実は近い。彼女が夫を東南アジアに残し、一人、ひそかに帰国したとの情報が入ったのが一週間前だ。動向は逐一部下に探らせている。どうやら撮影費や生活費が底をつき、その工面のための一時帰国らしい。

(すべては好都合に運んでいる。後は原田からの連絡を待つだけだが……)

コツコツとノックする音が聞こえた。

「入れ──」

しかし入ってきたのは原田ではなかった。

「最上課長、お邪魔させて戴きますっ」

野辺地は慌ててビデオのスイッチを切った。その動作を素早く盗み見た桐はかすかな冷笑を浮かべた。野辺地の内藤基子狂いは局内の公然の秘密である。

「どうしたのかね、最上君……」

野辺地は咳払いをひとつして、威厳を正す。服装は桐と違い私服だが、胸のところに海猫のトップの地位を示す階級章がついている。アンコ型の相撲取りのようにでっぷりと肥っているものの、それに騙されるとえらい目にあってしまう。彼はスポーツ万能で空手柔道の武道はもちろんラクビーで鍛えた敏捷性も持ち合わせているのだ。後退している頭髪にはまだ白いものは見当らず、額や肌の色艶はカメ虫の背のようにてかり輝いている。

最上課長はデスクに書類を置き、

「昨晩捕えた女子大生の収容期間延長を申請して戴きたいのですか」
「女子大生……ああ、あの娘か」と、野辺地は書類に目を落とした。
「しかし、君、この女子大生は連行してくる予定ではなかっただろう?」

部下を掌握していくためにもたまには難癖を付けてみなければならない。

「あの女コマンドを検挙するのが主たる目的だったのではなかったのかね?」
「はっ、かなり生意気な娘で予防収容の必要ありと判断いたしまして……」
「そういうことは君の一存でやられてもね、最上課長」

野辺地は引き出しから新しい収容者のファイルを取り出した。

(高橋ミカか……悪くはないが、しょせん痩せっぽち女子大生にすぎん)

一ページ目に女子大生の正面の貌のアップと横貌の写真が貼りつけられている。たしかにふてくされた表情をあらわにしている。彫りの深い美貌が少し歪んで見えるのは片方の頬がやや腫れているからだろう。おおかた暴れて手を焼かせ、桐のビンタを食らったからに違いない。次のページには直立の全身像だ。これは正面、真横、後ろ姿と三方向からのもの。それもほぼ全裸に近い。ただ、若々しい盛り上がりを見せる双つの胸の先端には乳頭を隠すように黒いガムテープ──これはニップルバンドと呼ぶ習わしだが──がX字型に貼りつけられているのと、股ぐらのデルタ部分にはこれもバストのテープと同じ色・質の前張りが施されてはいた。ここに収容されている者は全員この姿で監房生活を過ごさなければならないのだ。その眺めはオールヌードの裸体よりもいかがわしく、女性の人権に配慮して素っ裸ではない、とする笑止な建前とは裏腹に女の性に対する著しい冒涜に他ならない。そして一際目を引くのは右の尻たぶに黒のマジックペンでスイカの値札のように書き殴られた『178』の数字。収容者番号というものでここでは名前の代わりにその番号で呼ばれるのだった。

(なんだ、こいつ、乳輪がでかくてニップルバンドからはみ出しているじゃないか。尻の形は悪くないが、まだまだ青すぎる……)

恋情に狂うと、他の女をみてもあらばかりが目立つのが人の常だが、今の野辺地には内藤基子の豊満な肉体しか頭にないらしい。

「予防収容は手続きが面倒なのは君も知っているだろう」

いつもなら、すぐに判をつく局長なのに今日は蟲の居所が悪いらしい。

「実はその女子大生の弁護士が……」

と、最上課長が森川恭子の名前を告げた。野辺地が恭子にご執心だったのはこれまた周知の事実である。

「なるほど──」

野辺地は記憶にある女弁護士のグラマーな容姿と野性的な美貌を思い起す。内藤基子が海外へ渡航してしまった空白感を癒した極上の女だった。

「あの女に手柄を与えるわけにもいかないのだな」

野辺地大洋は大きな局長印を朱肉に付けると、高橋ミカの書類にどすんと押した。哀れな女子大生にこれで六十日の収容延長がつき、事実上永遠に幽閉されることになった。どんなに気丈な女でも、この第三収容所で二ヵ月以上暮らすとなれば、正気を保っていられるのは不可能である。高橋ミカがここから出ていく方法は、死体になるか、完全に精神を破壊されて洗脳されるか、ふたつにひとつしかないだろう。

「ところで、この森川恭子の件なんですが……」

桐は野辺地の耳もとで何やら囁きかける。二人の密談はその後、長時間にわたって続けられた。




『メニュー』 『前へ』 『次へ』