桜木ミリアの長い一日

ブラン 作
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「ミリアさん、衣装の方はいかがですか?」

桜木ミリアは控え室で準備されていた衣装を着て鏡で自分の姿をチェックしていた。

「問題ないですよ。なんで?」

「よかった〜。少し小さいんじゃないかと心配だったんです。特に胸の部分が」

確かに衣装のボタンは少し窮屈そうに見えた。胸を強調する目的なら丁度よい
くらいのだけど。

「思ったよりもボリュームが凄くて・・・ミリアさんの胸が」

衣装係は用意したもので問題なかったことにホッと安心した。
言われてみると確かに少し胸の辺りが窮屈だとミリアは思った。
彼女の胸のサイズを見誤って衣装が小さいことは昔からよくあることだった。
しかし、心当たりがないこともなかった。20歳を過ぎたと言うのに少し胸の
サイズがまた少し増えてしまったのだ。見た目にわかるほどの変化ではないけ
れどマニアなファンならもしかして気づいているかも知れない。

髪型とメイク、衣装を完璧に整えてミリアは出番が始まるのを待っていた。
今日は歌手デビューの記念として1万人のファンとの握手イベントが開かれるのだ。
桜木ミリア、21歳。今や押しも押されもせぬトップアイドルだ。
18歳でモデルとしてデビューを果たすとグラビアでも人気1位となった後、
バラエティ番組にも進出して大人気となり国民的な人気を博すようになった。
CM本数もダントツでトップとなり、その後、ドラマにも出演して女優として
の片鱗も見せると次は歌手としてデビューした。
デビュー曲の「ミリアはハートブレイク」はダウンロード数で年間1位を飾った。
モデルとして完璧なルックスとグラビアアイドルも真っ青になるほどの爆乳が
彼女のトレードマークであった。公称93センチのバストは彼女のイメージを
保つためにかなり控えめに設定されたものであり、デビュー時には実際は
100センチあったとされる。そのため「ミリアの1000ミリ砲」との異名がつけられていた。



ミリアの握手会を心待ちにしているファンは大勢いたが、塚口たかあきの
思い入れは他の熱心なファンの意気込みを遥かに凌ぐものであった。
というのも、彼は並みの桜木ミリアファンではなかった。たかあきはいわゆる
アイドルオタクであり、自他共に認めるヲタ中のヲタであった。
36歳、独身。彼女いない歴も36年。背はやや低めで小太り体型である。
ミリアとの最初の出会いは人気ファッション雑誌であった。ガチのアイドル
オタクである彼はデビュー前のアイドルをチェックするだけでは飽き足らず、
ファッション誌のモデルにまで食指を伸ばしていた。
古い例えであるがフランス人形のようなルックスをしたミリアを見て、
"彼女は必ず売れる"と確信したそうである。
その後、彼はミリアが出るイベントには参加できる限り参加し、大口径の
レンズに彼女の姿を収めた。
彼の8畳ワンルームの部屋の壁と天井には彼が撮影したミリアの写真が所狭し
と貼られている。
彼が衝撃を受けたのは新作水着の発表イベントでのことであった。
そこで初めてミリアの水着姿を目にしたのだが彼女の華奢でスリムな体型に
アンバランスな巨大な胸は彼を含めて会場にいた参加者達の度肝を抜いたのだった。
後でわかったことだが、ミリアはモデルのイメージを保つために普段は胸を
サラシで抑えていたが、事務所が間違えて水着の仕事を入れてしまいそれが
日の目を浴びることとなってしまったのだ。サイズを過小に申告していたため
準備されていた水着はいずれも彼女には小さく、カップから横乳、下乳が溢れ
る大サービス状態となったのである。
たかあきは今でもその光景をありありと思い出すことができた。
そして、そのときの写真は自分だけの宝物として誰にも公開していなかった。
大きなバストが関係者の目にとまり、彼女はグラビアの仕事も始まることになった。
プロフィールのスリーサイズは93・58・84と控えめな数字に設定されていた。
たかあきの目算ではどうみても90台の後半、下手すると3桁に乗っているのではないかと推測していた。
ミリアのファースト写真集とDVDは飛ぶように売れ、年間1位のセールスを記録した。彼女が18歳の頃のことである。
たかあきの生活は急に忙しくなった。ミリアのイベントがあるとなれば可能な限り出かけてゆき、
写真集やDVDはもちろん彼女が載った週刊誌、少年誌、青年誌、ファッション雑誌は
全て購入して大事に保管した。
今や30万人を超したと言われるミリアのファンクラブには真っ先に申し込み、一桁の会員番号"9"をゲットしていた。
彼はいち早くミリアの才能を見抜いていた。
インタビューなどでは要領よく話すし、受け答えでもユーモアたっぷりの返しも出来た。
そのためバラエティ番組にもきっと通用すると考えていた。その予想はすぐさま的中し、
TV出演を果たすと次々とレギュラーの座をものにしていったのである。
やがて彼女一人で街ブラをする企画が考えられ、それが高視聴率を記録したのである。
たかあきはファンの間で伝説の神回と呼ばれた"千々山村"のロケをハッキリと覚えている。彼女が19歳のときである。
それはミリアが一人で田舎の村の名所を訪ね回るという企画で普通なら芸人や
ベテラン俳優が担当するようなものなのだが、彼女は見事なバラエティ能力を発揮したのだ。
千々山村は爆乳女性が多いことが有名で、彼女は自分より胸の大きい人に
次々と出会って自尊心を傷付けられながらも、それでもロケを面白くしようと
様々な工夫をしていくのは秀逸だった。
この時のロケが彼女のタレントとしての幅を大きく広げた、とたかあきは回想する。
都会育ちのミリアにとって千々山村の大自然と澄んだ空気と水、純朴な人達との出会いは
彼女に大きな影響を与えた。
そのロケ以降、彼女が人間味にあふれるようになりますます人びとに親しまれる存在に成長したのだと彼は言う。
そして、彼女自身も千々山村にすっかりハマってしまった。
名産のメロンやトマト、キャベツ、ミネラルウォーターを取り寄せたり、毎朝、欠かさず豆乳を飲んだりしているということだ。
お風呂には"千々山温泉の素"を入れてリラックスし、いつか休みが取れたら一人でゆっくり
温泉に浸かりたいと漏らしているそうだがその願いは叶っていない。
20歳になったのを機にミリアは歌手デビューを果たした。
デビューシングルの「ミリアはハートブレイク」は自ら作詞を手掛けており、
恋をしたくても自由にできないアイドルの心情を歌った切ない歌詞で多くの人
の心を惹きつけ、瞬く間に年間のダウンロードランキングのトップを記録した。
年末の国民的音楽番組にも出場を果たした彼女は今やモデルやアイドルという
枠に捉われない新世代のマルチタレントに成長を遂げていた。
そんなミリアをたかあきは教え子がメジャーリーガーになって遠い海外に行っ
てしまったような気持ちで見守っていた。だが、彼には誰よりも早くからミリアを応援し、
もっともコアでディープなファンであることに強い自負を持っていた。
この握手会についても、彼は何としてでも参加するつもりでいた。
ミリアのとって初めての試みであり、しかも1日で1万人は相当なハードワークであり、
応援しない訳にはいかなかった。
だが、握手券はファンクラブ会員の中から抽選で選ばれるので確率は低くはないにしろ当たる確証もなかった。
彼自身、その抽選には外れてしまったもののオタクネットワークを利用し、
何人かのファンにも抽選に申し込んでもらっていたので何とか握手券をゲットすることができた。
コアなファンの中ではたかあきは"ヲタ長"とか"隊長"とあだ名が付けられ、
すっかり有名人になっているのだった。

"オレも当たったでー"
"たかあきさんは外したんすか?"
"俺、遠くて行けないので隊長!お願いします!"

彼はオタク仲間の協力で得たチケットを握りしめて会場へと向かっていた。
繰り返すが、ミリアが握手会イベントを開くのは初めてのことである。
通常は複数のチケットを持っていればそのぶん長い時間アイドルと触れ合えるという形式が多いが、
出来るだけ沢山のファンと会いたいというミリアの意向でチケットは1人1枚と決められていた。
会場ではチケットと引き換えにに整理券が配られ、その番号で順番が決まる。
朝8時半に始まり、夜10時頃に終わる予定となっており、その間、
彼女はわずかに休憩は取りながらもほとんど立ちっぱなしでファンの相手をするのだ。
一人当たりの時間は3〜5秒程度となる。



ミリアは開始の30分前に会場に入りメイクと髪型を整えていた。
まだ朝8時だというのに既に大勢のファンが彼女を待ち侘びていた。
時間になるとスタッフに導かれて控え室を出て、ステージの脇にやって来た。そして、金髪の長い髪を弾まれながら一人で段上に上がった。

"ワァー!!"
"キタァー!"
"ミリアちゃーん!"

ミリアの登場に観客から一斉に声援が上がった。うねりのような声は地面に響くほどであった。

「みなさ〜ん!こんにちは〜!桜木ミリアで〜す!こんな朝早くから集まって
くれてありがとうございま〜す!今日はなんと!1万人のファンの方々と握手
しますのですっごく時間がかかると思うけどよろしくね。
順番が回ってくるまで良い子で待っててくれるかな〜?」

"ウォーッ!"
"待ってるよー"
"ミリア〜!"

「では、さっそくスタートしま〜す!」

ファン達はいくつかのブロックに分かれて座っており、ブロックごとにステージ前に導いて来られる。
そして列を作ってステージに上がり、一人ずつミリアと握手してから下りていくという流れになっていた。
一人目のファンがスタッフに導かれて壇上に上がり、ミリアと握手をした。
続いて次々とファンが握手していく。ステージの前には長い列ができていて、
さらに列が継ぎ足されている。
たかあきの番はやや後ろの方だった。
整理券の番号は"6756"ということなので、番が回ってくるのは日が暮れてからだろう。
番号が小さいほど早く順が回ってくるが握手が終われば退場しなくてはならない。
順が遅い方が待っている時間を楽しめるし、なんと言ってもミリアと同じ空間、
時間を共有できるのだから断然お得だと彼は思った。
待ち時間の間、ファン同士でメッセージのやりとりをして情報交換するのもまた楽しかった。
たかあきはファンの間ではちょっとした有名人になっていたので彼の携帯電話
にはひっきりなしにメッセージがやってきたのだ。

"たかあきさん、こんにちは!"
"やっぱ、来てましたか!"
"隊長は何番ですか?"
"順番が近づいてきましたよー"

ミリアは1時間に一度、控え室に戻って休憩を取った。
休憩と言っても1、2分程度である。その間にメイクを直し、喉を潤した。
握手はどんどん進んでいく。ミリアは常に笑顔を絶やさず、一人一人のファンに一言ずつ声をかけていた。

順番を待つファンの間でも早い方がいい、遅い方がいいがあり番号の交換が行われていた。

"オレ、1855なんですけど後ろの方と交換してくれませんか?"
"5694だけどいい?明日仕事早いんで早く帰りたいんよ"

このように交渉が成立すると会って整理券を交換するのだ。
たかあきは美味しいものは最後に取っておく性格なのでどんどん後ろの番号
と交換してゆき、7000番台、8000番台とチェンジしていった。
後ろの番号の人はもし握手会の時間が押した場合、終電に間に合わなくなるんじゃないかと
心配して早めの番号と変えたい人が多いようだった。
たかあきは次の日はちゃっかり有給を取っていたので、悠々と後方で対峙できるのだった。
そういう訳でたかあきはいつしか最終ブロックに来ていて、ここは9000番台の中でも後ろのグループだった。

"たかあきさんが最終ブロックに移動したぜ"
"やっぱ神だわ、あの人。"
"いっそのこと、トリはたかあきさんがいいんじゃない?"

ファン達の中で、たかあきを列の一番後ろにしようというノリが生まれて、
彼はとうとう最終ブロックの最後尾に回ることになった。
彼は皆んなに感謝し、悠々と最後の出番を待つのであった。

昼を過ぎて、夕方になってもミリアは明るい笑顔を絶やさなかった。
しかし、日が暮れてくるとさすがに少し疲れを見せるようになった。
休憩の時間も長くなり、時間は押し気味になった。
たかあきの最終ブロックの番が回ってきたのはもう夜11時を過ぎてからだった。
ミリアは14時間以上立ちっぱなしてファンと握手を続けていたのだ。
彼はいよいよ待ち望んでいた瞬間が近づいていることに胸を高鳴らせた。
今まで幾度となくイベント、コンサートに足を運んだが彼女とこんなに近い距離で、
しかも握手をするなんて初めてのことだったからだ。
列はどんどん短くなっていく。たかあきはとうとうステージの階段に足をかけた。
彼が1万人の最後の1人なのだ。
ミリアとの距離がだんだんと近くなる。彼女に声をかけるのは一瞬だ。
彼は"これからも応援します"と言うことに決めていた。
あと10人、5人。
そしてとうとう彼の順番がやってきた。

「こ、これからも・・・!!」

ミリアに手を差し出した瞬間、彼女はたかあきの方に倒れてきたのだ。

「ミ、ミリッ!」

たかあきはミリアの身体を支えようとした。
しかし、急だったので身構えることができず自分もバランスを崩してしまった。

「あぶないっ!」

誰かが叫ぶ声がした。
周りのスタッフが助けに入ろうとしたが間に合わなかった。
たかあきはミリアを支えきれずにステージの床に頭を強く打ちつけた。

貧血だった。
桜木ミリアは握手会の後半から少し具合が悪くなっていた。
スタッフに中止を勧められたが頑として受けつけず、休憩を多くするなどして自分の身体を騙し続けた。
何度か気が遠くなりそうなときもあったが強靭な精神力で耐え抜いていた。
しかし、いよいよあと一人というところになってふと気が抜けてしまったのだ。
ミリアは塚口たかあきに身体を預けたお陰で直接床に叩きつけられることもなく特にケガもなかった。