「んじゃ、ハムサンド3つ頼むぜ、リョータ」
そう言われて、僕はいつものように無言で教室を出た。
僕――後藤諒大(ごとう りょうた)の高校生活は、他の人と比べてとても色味が無いものだと思う。勉強したり、部活に励んだり、友達と楽しく過ごしたり――。色んな暮らし方が高校生活にはあるだろう。しかし、僕の生活はそれらとは大きくかけ離れたものである。大して成績がいいわけでもなく、部活にも通わず、仲の良い友達もいない。僕の周りには気の強そうな運動部員が何人か取り巻いていて、僕はその連中からいろんなことを頼まれている。彼ら風に言うなら「体裁のいいパシリ」といった感じだ。暴力を振るわれるでもなく、無視されるでもない、中途半端な扱い。入学して半月も経たないうちに、僕のこのポジションは確定した。体が弱くて、内気で、童顔だった僕は、高校デビューに見事に失敗し、味方を一人も作ることなく、この高校のヒエラルキーの最下層に置いてけぼりにされてしまったのだ。そんなことをしながら1年半が過ぎ、2年生の中ごろになる現在でも、僕のこのパシリのポジションは不動だった。2年生になったと言えば、入学当初から身長が158センチのまま一向に成長しないことが悩みでもある。
購買でハムサンドを3つ買って、それを持って教室に戻ると、さっきの連中がそれをニヤニヤしながらひったくって、僕なんかそっちのけで食べ始める。「もう行っていいぞ」ということらしいので、僕は無言でその場を去る。
これでいい。これでいいのだ。
だって、僕は彼らにはない別の楽しみを持っているのだから。
僕が向かったのは図書室。昼休みのこの時間、僕は必ずここに来ることにしている。本を読むためではない。勉強をするためでもない。僕はここにいる『彼女』を見るために来ているのだ。
図書室の扉を開ける。廊下とは違う、本を扱っているからこそ漂う紙の匂いが鼻を刺激する。視界に入る名前も知らない十数人の生徒が、読書をしたり、勉強をしたり、携帯電話を弄ったりと思い思いに過ごしている。
その中を見回して、僕は『彼女』の姿を探す。いつもこの時間帯、『彼女』はいつもここにいる筈だ。
――いた。
『彼女』の姿を見る度に、僕の心臓は心拍数を上げていく。
できるだけ近くに、しかし『彼女』に気配を悟られないように、近くて遠い距離の席について、読書に耽る『彼女』の姿を見る。じっと見続けては怪しまれるから、ダミーの本を1冊用意して、あたかも本を読んでいるように周囲には見せかける。
芦野楓花(あしの ふうか)。
初めて出会ったのは、何気なく立ち寄った図書室だった。何故僕が図書室に来ていたのかは覚えていない。たまたま僕が図書室に入った時、彼女の姿が目に留まった。彼女は全く僕に気付かない様子で、本棚に視線を注いでいた。その姿形に僕は一瞬にして心を奪われた。
僕が小さすぎるため、身長はそれほど変わらない。しっとりとした黒髪は肩の辺りまで伸びていて、艶やかに輝いている。横顔からでも拝見できる少し目尻が垂れた大人しそうな目。丸くなく尖りすぎてもいない端整な鼻。ぷるんとした唇に当てられた右手は、健康的な肌色をしている。
そして何より、その少し下にあるもの――高校生にしては大きな、その胸。まるでバレーボールでも詰めているのではというくらい大きなその膨らみは、セーラー服を内側から押しのけようとして、生地はぴっちりと張りつめていた。その他は年頃の少女とほぼ変わらないのに、胸だけが異様な大きさをしている。僕はしばらく呆然と立ち尽くしたまま、彼女の姿を凝視していた。圧倒的なプロポーションを目の前に、僕の脳は思考を停止し、その映像をまるで射影器のように深く脳の記憶装置に焼き付ける。彼女が読みたい本を手に取って僕に背を向けるまでの十数秒が、まるで1時間くらいの長さに感じられた。はっと我に返った時、彼女はもう本棚の陰に隠れて姿を消してしまっていた。もっとずっと見ていたかったのに――そんな思考が勝手に脳内に浮かび上がってきた。芦野楓花という名前は、彼女が借りていた本を返却して帰ったその隙に、その本の背表紙の裏にある読者履歴で知った。『ふうか』……その響きさえも美しく、僕は瞬く間に彼女に一目惚れしてしまったのだった。
だが、僕には彼女に告白する勇気はない。僕のような陰湿で内気な男子生徒など、話しかけられるだけでも気味悪がられると思ったからだ。僕は誰かに嫌われることを恐れる人間だから、最初から彼女には僕の存在を知ってほしくはなかった。
けれど、僕の脳は芦野楓花の姿を消すことを許さない。僕の行動パターンの中に、図書室で芦野楓花の姿を見るというプログラムが形成されてしまい、僕自身もその欲望に素直に従った。初めて会ったその日から、何度も図書室に通っては、読みもしない本をダミーに芦野楓花の姿を見続けた。美しい髪、整った顔立ち、巨大な胸……。僕の中に眠る『男』を刺激するのにこれほどの女性はいない。こんな邪なことを考えていることがばれたら、周囲は僕をいよいよ軽蔑しだすだろう。そんな境界ギリギリのところで、僕は芦野楓花の観察を続けている。
この日も、芦野楓花は本を読んでいた。席に座って、じっと文面に目を通している。その横顔は相変わらず、どの女子生徒よりも美しい。そして、特筆するべきその巨大な胸は、机に乗っかって程よく潰れている。彼女が少し身じろぎをするたびに、ふるん、ふるん、と微かに揺れる。その柔らかく巨大な存在感は、僕でなくとも男なら思わず見てしまうのではないだろうか。
芦野楓花が顔を上げた。気づかれたのかと思い、慌ててダミーの本に目を通す。1秒、2秒、3秒……10秒ほど数えて横目で彼女を見ると、芦野楓花は首を傾げて、左手で右肩を揉んでいる。ああ、やっぱりそれだけ大きい胸だと肩が凝るのか……などと思いながら、僕はそんな仕草さえとてもかわいらしく思えてしまうのだ。
何分程経っただろうか。芦野楓花は本を閉じて、すっと椅子から立ち上がった。
ぷるん、と机の上から胸が離れて、小さく震える。セーラー服をぱつぱつにするほど大きな胸。僕は終始その胸に見入っていた。当然、彼女にばれないように。
その時だ。芦野楓花がこちらを向いたのだ。
慌てて僕はダミーの本に視線を落とす。
……どうやらばれていなかったようで、芦野楓花は僕の椅子の後ろをとことこ歩いていく。それと同時に、僕の鼻先に女の子の良い匂いがふわりと漂ってきて、僕の心臓はいきなり激しく鼓動しだす。芦野楓花は持っていた本を本棚に返して、そして全く急ぐことなく、マイペースな歩みで僕から遠ざかり、図書室を出て行った。
この日も僕は、芦野楓花をじっくり堪能することができた。明日もまた、彼女は来るだろう。僕がこうして、人として最低の行動をしていることを知らずに。僕の中に罪悪感が無いわけではない。でも、僕のこの窮屈で自由が無い高校生活には、余りあるほどに刺激を与えてくれるのだ。だから、僕は明日もここに来て、芦野楓花を観察する。頭からつま先まで、一つの芸術品を堪能するかのように。