この日も僕は、昼休みにパシリの仕事を終えて、図書室に向かっていた。今日は注文がいつもより多く、予定時刻よりもだいぶ遅れてしまっていた。
廊下を進んで、丁字路になっている個所を左に曲がると、その奥数メートルのところに図書室の扉がある。今日は芦野楓花はどこに座っているのだろうか。またあの大きな胸を机に乗せて、幽雅に本を読んでいるのだろうか。色んな妄想を膨らませながら、丁字路を左に曲がる。
「!」
僕はそこにあった光景に衝撃を受け、とっさに戻って息をひそめた。
そこには、いつもなら図書室の中にいる筈の芦野楓花が、入り口前に立っていたのである。隣には名前の知らない別の女子生徒がいた。おそらく友人だろう。
僕は壁にぴったりと張り付いて、息を殺して気配を消す。とっさに引き返してしまったので、芦野楓花の隣を通り抜けて図書室に向かう気にはなれなかった。そこで僕は、こっそりと二人の会話を盗み疑義することにした。
「――でさ、楓花って日曜とか何してるの? 勉強?」
「うん……いろいろ。外には出て行かない、かな」
後から聞こえてきた大人しそうな声が、芦野楓花だ。大人しく優しい声。一緒に話している生徒は対照的に、明るく快活な今どきの言葉を話す。
「やっぱ楓花は違うなー、あたしら凡人と違って頭めっちゃいいじゃん。テストの点もいいしさ〜、羨ましいな〜」
「そんなことないよ。ちゃんと勉強すれば誰でも点は取れるから……」
謙遜する芦野楓花。その態度が実に彼女らしくてすばらしい。
芦野楓花は優等生で、1年生の頃からあらゆる教科のテストで高得点を叩きだしてきた。この高校はテストの成績が良かった上位10名の名前を掲示するのだが、そこに芦野楓花の名前が載らない日は無かった。僕のような、ヒエラルキーの最下層で這いつくばってる人間とは天と地よりもかけ離れた存在だ。
「楓花は勉強好きだもんね〜。今日だって勉強しに図書室に来てるんでしょ?」
「ううん、図書室では勉強しないの。本読んだり……するだけだから。勉強漬けすればいいってものじゃないんだよ」
「へー」
芦野楓花は図書室で勉強しない。その生徒は発言に驚いたようだが、そのことはもう僕が知っている。彼女は本を読んでいるのだ。僕がじっくりとその体を見つめていることを知らずに。僕は人として最低な行為で優越感に浸ってしまう。
「……んじゃ、あたしもう行くね。……あ、後で数学の問題教えてほしいな」
「うん、いいよ。じゃあね」
二人が別れる旨の発言をする。僕はそれから少し待って、丁字路に繰り出すことにした。早く芦野楓花の姿を見たくて仕方がない。このまま何もせずに昼休みを棒に振るのは嫌だ。1秒、2秒、3秒、4秒数えて、僕は丁字路に足を踏み入れた。
身体に何かがぶつかった。
「きゃっ!」
可愛らしい女の子の悲鳴が耳に入る。僕の胸に柔らかい衝撃が走る。びっくりして目を見開くと、目の前にはしっとりとした黒髪、整った顔。
それは紛れもなく、僕が追い続ける女、芦野楓花だった。
「……!」
僕の思考は一瞬でフリーズした。彼女は図書室に向かうとばかり思っていたが、こちら側に来るとは想定外だった。そして、僕の体にぶつかった心地よい感触。あれは、まさか――いや、確かにそうだ、間違いない――。芦野楓花の巨大な胸、間違いなくその感触であった。
目の前の映像がスロー再生される。
「あん!」
僕とぶつかったことでバランスを崩し、後方に倒れて尻もちをついた芦野楓花が可愛らしく声を上げる。その衝撃で大きな胸がぶるんと大胆に弾んだ。本能的に立ち上がらせようと手を差し伸べようとする。
「……だ、大丈――」
「どった〜?」
先ほど聞こえていた女子生徒の声が耳に刺さり、僕ははっと我に返った。その直後、背中にぞくりと悪寒が走る。
まずい。芦野楓花に触れてはいけない。僕の存在を彼女に知られてはいけない。知られてしまえば、もう彼女の姿を見ることはできなくなる。逃げなければいけない。ここから早急に立ち去らなければ!
僕はそう考えるや否や、踵を返して一目散に駆け出した。危険な現象から逃れんとするように、脱兎のごとく。背中で何か声が聞こえた気がしたが、そんなものは耳に入らない。僕は急いで階段を駆け下り、できるだけ遠くへ、遠くへと走り抜けていった。
その日の午後の授業は、まるで集中できなかった。眠かったからではない、逆に意識は必要以上にはっきりとしていた。しかし、僕の注意は教師の解説を完全に無視して、深い思考の中に沈んでいく。
あの時触れた、柔らかい感触。僕の大して逞しくない胸板に押し付けられた、弾力のある柔らかい塊。あれはまるで餅のようにむにっとした柔らかさを持つと思えば、ゴム毬のように張りのある弾力で、ぽよんと僕の体を押し返してきた。たった1秒くらいの出来事を、僕は脳の中で何十回とリピートする。
むにっ、ぽよん。
むにっ、ぽよん。
むにっ、ぽよん。
むにっ、ぽよん。
むにっ、ぽよん。
「後藤!」
脳天に激しい衝撃。目から火が出たような感覚に陥って顔を上げると、教師が出席簿を持って仏頂面をしている。これで叩かれたのか、と即座に理解する。
「……集中しろ」
「……すみません」
棒読みで謝罪する。はっきり言って、集中しろという注意が無理な話だ。僕は今、最高に幸せな自分の世界にどっぷりと浸かっているのだから、邪魔しないで欲しいものだ。今まで芦野楓花を追い求めてきて、初めて触れた、あの胸の感触――いや、胸と呼ぶと堅苦しくさえ感じられる。あれは胸じゃない、おっぱいだ。小柄な体格に似つかわしくない、たわわに実った二つのおっぱい。柔らかく、弾力があって、直接触ったらとても気持ちいいのだろう――。
結局、その日の午後の授業の内容はさっぱり頭に入らなかった。後で教師に呼び出しをくらったが、色々と適当な言い訳をして乗り切った。
放課後。
帰宅部の僕は、まっすぐ家に帰ることにしている。図書室に立ち寄ってもいいのだが、どうやら芦野楓花は、放課後は図書室にいないらしい。目的の無い場所に行っても仕方がないので、僕はそのまま家に帰るだけだ。
教室を出て、階段を降りて、昇降口に向かう。下駄箱から自分の靴を取り出し、履きかえる。今日は本当にびっくりした。胸の感触が味わえたことで吉と見るか、芦野楓花に存在を知られかけたことを凶と見るか、今の僕には判別がつかない。芦野楓花の姿が見えない学校になど要は無いので、さっさと帰って、また妄想に耽るだけだ。
昇降口を出て、校門まで続く校舎前広場を歩く。その時、それが見えた。
「……?」
視界の隅を何かが横切った。
気配の方に目を向けると、男子生徒が一人、校舎の裏手の方に向かって小走りに去っていくのが見えた。それは、いつも僕をパシリに使っている男子生徒だった。確か、牧田とかいう男だった。僕を使っている男たちの事はよく知らないが、苗字くらいなら覚えておける。
何をしているんだろう……。
普段無気力な僕が珍しく興味を引かれて、僕はこっそりと後をつけてみた。
やって来たのは、やはり校舎の裏手。体育で使う陸上競技の道具を入れる小屋が立っているだけのその場所は、授業以外では滅多に人が立ち入らないため、所々に雑草が生えている。その中に、例の牧田は一人佇んでいた。警戒しているのか、周囲を見回している。どうやら誰かを待っている様子だ。僕は昼休みと同じように物陰に隠れ、牧田の様子をうかがっていた。
しばらくして、牧田が右を向いて手を振った。僕の隠れている方向ではない。彼が向いた方向に目をやると、その光景に僕は戦慄した。
芦野楓花。
間違いなく、やって来たその女子生徒は、芦野楓花だった。小走りで駆けてくるため、相変わらずその大きなおっぱいが上下にゆさゆさと揺れている。牧田はそれを正面から堂々と見ることが出来ているのだろう。横顔しか見えないが、鼻の下が伸びているのがよく分かる。僕の心に巨大な嫉妬心が渦巻き始めた。
それにしても、こんな場所に彼女を呼び出すとは……。もしかしたら、あいつは芦野楓花と関係を持っているのか? 僕の知らないところで、芦野楓花に何をしているというのだ? もっとも、僕は芦野楓花の何者でもないのだが。
「……ごめんなさい、待たせました?」
「んや、お、俺も来たところっす」
昼の出来事と違い、芦野楓花は敬語で牧田と話し始めた。対して、牧田の方は少し緊張している様子で受け答えをする。僕に勇気があったなら、ここで割り込むこともできるのだろうが、陰湿な男である後藤諒大にはそんなことは出来なかった。
「……あの、牧田さん、ですよね。お手紙を頂いて、ここに来てって書いてあったので……。お話しって何ですか?」
その言葉を聞いて、僕は少し安堵した。芦野楓花と牧田は顔見知りではないらしい。
「あ、ああ……あのさ……」
牧田は急にしどろもどろしだした。何か言いたいことがあるのだろうか……。僕は直感ですぐに牧田がしたいことを理解した。
愛の告白だろう。牧田は芦野楓花を恋人にしようとしている。僕の体は勝手に震えはじめた。恐怖によるものか、激昂によるものか、判断が付かない震えだった。多分両方が合わさっていたのだろう。僕はようやく事の重大さが分かってきた。牧田の告白に芦野楓花が了解すれば、僕は芦野楓花をみることが出来なくなる。牧田は芦野楓花を独占し、誰にも渡さないであろう。そうなると、僕はこの高校生活に見出した希望を失うことになる。来る日も来る日も芦野楓花を観察し続けて、今日はとうとう彼女に触れることができたのに、この素晴らしい快感も無価値なものになってしまう。
嫌だ、それだけは嫌だ!
そして、牧田は遂にその言葉を放った。
「お、俺、芦野さんの事、めっちゃ好きっす! つつ、付き合ってください!」
牧田は勢いよく頭を下げる。芦野楓花は驚いた様子で目を丸くしていた。僕の中の時間は停止し、芦野楓花がどう答えるかに全神経を集中させている。おそらく牧田よりも僕の方が強い気持ちで答えを待っているだろう。
芦野楓花は、とうとう重い口を開いた。
「……ごめんなさい」
その言葉を聞いて、牧田は一瞬びくっと痙攣してから、ブリキの人形のように小刻みに上体を元に戻した。僕は呆気にとられて硬直していた。しかし、芦野楓花の声はしっかりと聞こえている。
「牧田さんとは付き合えません。ごめんなさい」
「な、何で? 何でっすか?」
震え声で問いただす牧田。おそらく一世一代の懸けで告白したのだろう。目が泳いでいるような感じがする。芦野楓花は少し目を細めて理由を返した。
「私、他に好きな人がいるんです。だから……」
「そ……そうなんすか……ははは、参ったなぁ……。が、頑張ってください!」
牧田はけらけら笑いながら、がたがたと音を立てそうなぎこちない動きで、芦野楓花が歩いてきた方向に去っていった。
広い空間に、芦野楓花と、彼女を見守る僕だけが取り残された。
僕は一部始終を見届けて、僕は校舎の壁を背に座り込んだ。
「……好きな人、いるんだ……」
僕の心は絶望していた。
やはり、芦野楓花は年頃の女子学生。意中の人がいてもおかしくないだろう。僕は今まで彼女に存在を公表しないできたから、僕には全く関係のない話だ。牧田が告白するまでもなく、芦野楓花と寄り添う男は既に存在しているということだ。もう僕は芦野楓花に近づくことはできないのだ。本当はもっと前から近づいてはいけなかったのだろう。黒髪も、顔も、おっぱいも、僕ではない誰かの為にある。ヒエラルキーの最下層で暮らす僕にとって、輝かしい芦野楓花は近づくことすらできない人だったのだ。僕は存在を知られないように振る舞っていたが、最初から僕のことを知ることも無かったのだ。
「……はは……帰ろう」
失恋すると妙に心が晴れると誰かが言っていた。その意味がようやく分かった気がする。
僕はふらつく足取りで、その場を後にした。背中に芦野楓花の気配を微かに感じながら。