図書室のあの子

F_able 作
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 学校生活の希望を失った日から一夜明け。
 今日は牧田をはじめとするグループからは特に何も言われなかった。僕を使うより、牧田を慰めようとすることに必死になっていた様子だった。実際、牧田はまるで魂が抜けたかのようにうな垂れていて、机を叩きながら何度も「畜生」と呟いている。
 その気持ちは僕も同じだ。芦野楓花の意中の男とやらの顔を一度も見ていない。当然僕よりも成績優秀で、背が高くて、明るい男なのだろう。後藤諒大という存在の真逆の人間像を想像すると分かりやすい。
 僕は憧れを失った生活に何を見出して生きていけばいいのだろうか。一度も声を掛けないまま、芦野楓花は僕の前から姿を消す。誰にも好かれず、孤独に生きるだけ。あまりにも空しく切ない高校生活が目の前に広がっていると考えると、それだけで吐き気がする。魂が抜けるどころか、このまま死んでしまいたい。僕の精神は衰弱しきっていた。

 その日の昼は図書室に行かなかった。行けなかったという方が正しい。もう芦野楓花には近寄らない方がいいと判断したからだ。誰もが羨む才色兼備の女子生徒は、底辺を生きる陰湿な僕には手の届かない存在。あらゆることに希望を失った僕。授業も全く身に入らず、たまたま心優しい女教師に「保健室に行ったら?」と勧められ、ふらふらと教室から退出する始末。自分で言うのもなんだが、情けない男だ。
 保険医に体調不良を訴えると、快くベッドを貸してくれるというので、僕は横になった。胸の奥で得体のしれない気持ち悪い感覚がぐるぐる渦巻いている。それと眠気が相まって、僕の意識は自然と深い所に引きずり込まれていく。


「諒大くん」
 誰かに声を掛けられて、僕は目を醒ました。
 ぼんやりと視界が霞んでいる。どのくらい寝ていたんだろうか。僕は声の主に聞いてみた。
「今何時ですか、先生……」
「……くすっ」
 すると、2重3重に見える人影が、いきなり噴き出した。訳が分からない。何がそんなに可笑しいのだろうか。
「先生……?」
「諒大くん、私は先生じゃないよ」
「……じゃあ、誰――」
 焦点が定まってきた。それと同時に僕の脳がフル回転して、目の前にある人影を認識し始める。
「……あ」
 間抜けな声が出てきた。
 しっとりとした黒髪は肩の辺りまで伸びていて、艶やかに輝いている。少し目尻が垂れた大人しそうな目。丸くなく尖りすぎてもいない端整な鼻。そして何より、その少し下にあるもの――高校生にしては大きな、その胸。まるでバレーボールでも詰めているのではというくらい大きなその膨らみは、セーラー服を内側から押しのけようとして、生地はぴっちりと張りつめていた。
「……あ、し、の……!?」
 見間違いかと思った。目の前でにこやかにほほ笑む女性。それは間違いなく、僕が憧れ続け、昨日牧田の告白を断った、芦野楓花そのものだった。
「……諒大くん、大丈夫?」
「え、あ……あ、ええ?」
 訳が分からないし、意味が分からない。どうして芦野楓花がここにいるのだろう。僕の顔を心配そうに覗き込んでいる。彼女の瞳がとても近い所にあって、そこに僕の馬鹿みたいな顔が映っている。
「あ、え、な、んで……?」
「何でって……私、保健委員だから。ここに来たら、先生が急用で離席するから、そこで横なってる人を見ててって言われたの。それが諒大くんだったからびっくりしちゃって」
 芦野楓花は楽しそうにこの状況に至るまでを語ってくれた。その笑顔は輝かしく、可愛らしい。僕が憧れつづけた綺麗な笑みだった。
 と、ここで疑問点が浮かび上がる。
 芦野楓花は何故僕の名前を知っているのだろう。僕から自己紹介したことは一度もないはずなのに。してこなかったはずなのに。
「……どうして、僕のこと……」
 素直に聞いてみると、彼女は僕から目を逸らした。少し恥ずかしげな表情に切り替わる。そして、小声で呟くように言った。
「……知ってるよ。だって、ずっと私の事、見ててくれたでしょ?」
「!!」
 心臓が破裂しそうなくらい、一気に心拍数が上がる。まるで口から出てきそうなくらいに勢いよく。
 ばれていたのか……僕が芦野楓花を観察していたこと……。
「図書室で私の事、何度も見てた。だから、諒大くんのことは知ってるよ。昨日、図書室前でぶつかった時も……牧田くんから告白されたときも、いたよね」
「……は、はは……全部知ってるんだ……」
 弁解の余地なし。僕はただひきつった笑みを浮かべることしかできなかった。
「……で、でも、名前は? 自己紹介、してないし……」
「名前は……読者履歴。諒大くん、難しい本を読むんだなって」
 悪戯っぽく笑う芦野楓花。対して僕は心底驚いた。僕が彼女の名を知ったのも、読者履歴だ。ということは、彼女は僕がダミーとして使った本を見つけ出し、僕と同じように読者履歴から僕の名前を見つけ出したのだ。
「……僕も、同じだよ。履歴から、知ったんだ、名前……」
「え、そうなの? 偶然だね」
「うん……凄く、偶然……」
 僕はずっと驚愕しっぱなしだった。少し目線を下げると、やはり彼女の大きなおっぱいが、微かな動きに合わせてぷるぷると弾んでいる。瑞々しく、豊かな自己主張をする芦野楓花のおっぱい。
「……また、見てる」
「あ……」
 芦野楓花は視線を下げて、自分の胸を下から両手で持ち上げた。たっぷんと音が聞こえてきそうな大きな柔肉が波を打って震える。
「……私、この胸、嫌いだったの」
 芦野楓花は少し切なそうに話し始めた。僕は彼女の顔と胸を交互に見ながら、芦野楓花の話に耳を傾ける。
「中学生の頃からかな……胸が大きくなり始めたの。他の友達は大きくならないのに、私だけ大人みたいにどんどん大きくなって、嫌だった。変な体だって言われて、自分の事が嫌いになっちゃったの」
 今度は両手で左右から押し寄せる。むにゅっと潰れたおっぱいは前方向に張り出して、セーラー服を更に圧迫させる。
「こんな胸、無ければよかったのにって、何回も思った。だから、私、高校に入学するのも嫌だったんだ。こんな大きなおっぱい、気持ち悪いもん」
「そんなことない!」
 僕は思考とは別のところで喋りはじめていた。急に大声を上げられて、芦野楓花は目を丸くした。
「大きな胸が気持ち悪い? そんなことはないさ! 女性の胸が大きくなるのは当たり前なんだ。人によって早い遅いの違いはあるけど、君の場合それが早かっただけだよ。それに、その大きさは不気味なものなんかじゃない。寧ろ誇るべきものなんだ。大きな胸を持つ女性は美しいんだから。だから……」
 そこまで言って、僕は急に恥ずかしくなってしまった。絶対に公衆の前では言っちゃいけない言葉なんだろうなと思い返し、無口になる。顔から火が出そうだった。
「……ありがとう、諒大くん。顔、真っ赤だよ」
 芦野楓花は、僕に優しく笑いかけた。彼女も恥ずかしそうに頬を紅く染めている。
「……だから、私は諒大くんが私を見てくれるの、嬉しかった。初めて図書室で出会った時から、ずーっと私の事、見てくれた。変な人だなっていう目じゃなくて、もっと別の……何ていうか、その……エッチな目で」
「……くっ、あはは」
 僕は思わず笑ってしまった。あの芦野楓花から、エッチって単語が聞けるなんて思ってなかったから。だから、僕は思っていたことを素直に吐露した。
「そうだよ。僕はスケベで最低な人間だ。君の胸をずっと見てたし、大きさは何センチあるんだろうな、触ったらどんなに気持ちいいのかな、なんてずっと考えてる男だ。……僕の事、嫌いになったでしょ」
 もうどうでもよかった。僕という存在がどんなに下賤で下品で下劣なものなのか、それを分かって欲しかった。僕のことを嫌いになって、僕とさようならしてほしかった。本当に好きな、僕じゃない男のところに行ってほしかった。
 だが、返ってきたのは意外な答えだった。
「……違う、それは違うの」
 芦野楓花は首を横に振った。
 違う? どういうことだろう。
「今まで私を見てきた人は、私の事を気味悪がってた。体は小さいのに胸ばかり大きくて、子供なのに豊胸手術したのか、とか、パッド何枚入れてるんだ、とか……それが耐えられなかった。けれど……諒大くんは……」
 大きな胸に手を当てて、目を閉じ、思い出すように語る芦野楓花。そのいでたちは、まるで女神のようだった。
「諒大くんは、私の事、好きだって分かる目をしてた。狼みたいで怖い時もあったけど、ほとんど毎日感じてるうちに、諒大くんは私のこと、好きなんだなって分かった」
「そう、僕は君のことが好きだった。……でも」
 僕は昨日の出来事を持ち出して芦野楓花に語りかける。
「好きな人がいるって言って、牧田を断ってたじゃないか。僕のことを意識するよりも、その好きな男のところに行ってあげたら……」
「……むー」
 すると、芦野楓花は急に不機嫌そうな顔になった。小学生みたいに頬をぷくっと膨らませる。
「ど、どうし――」
「諒大くんの馬鹿!」
 そう叫んで、芦野楓花は僕に覆いかぶさってきた。
「わっ……!」
 むにゅんっ。
 みぞおちの辺りに柔らかい感触がぶつかる。紛れもない、芦野楓花の大きな胸の感触。ふわりと女の子特有の放つ芳しい香りが鼻を刺激して、艶やかな黒髪が目の前で踊る。彼女の顔が近い。
「だから、私は……好きなの! 諒大くんが好きなの! 私を気持ち悪く思わない諒大くんが大好きなの!」
 鼓膜を破る勢いで言い放つ芦野楓花。
 僕は呆気にとられていた。芦野楓花が好きな男は……僕……!?
「そ、そんな、冗談は」
「冗談じゃないもん! 諒大くんの分からず屋!」
「わ、分かった! 分かったよ、楓花!」
 僕に体を擦りつけるように駄々をこねはじめた。僕の胸に柔らかい感触がぐにぐにと感じられ、とても心地よい。ばたばたと暴れる芦野楓花は、まるで子供のように可愛らしく見えた。
 ひとしきり落ち着くと、僕と彼女は無言で見つめ合った。傍から見ると、芦野楓花が僕をベッドに押し倒しているような体勢だ。カーテンで仕切られているとはいえ、誰かに見られたらまずいことだ。
「……ぷっ」
「……くすっ」
 なんだか可笑しくて、僕らは笑いあった。初めてまともに会話したのに、ずっと昔からお互いを知っていたようでなんだかとても嬉しかった。
「……やっと、名前で呼んでくれた」
「あ……今、楓花って言った?」
「うん。……諒大くん。もう一度、いいかな?」
「何?」
 楓花は更に顔を近づけて、目を細めて言った。官能的でとても美しい表情だ。
「……私、芦野楓花を、諒大くんの彼女にしてください」
 そして、楓花は目を閉じ、僕に唇を突きだしてきた。
 僕の出す答えは、一つしかない。
 この退屈で色味の無い高校生活に一筋の光を与えてくれた彼女を、僕が突き放すことはできない。手放すつもりもない。少なくとも、この高校生活の中で、ずっと僕は楓花と一緒にいたい。
「……ありがとう、楓花」
 僕は彼女の頭を優しく撫でて、ゆっくりと唇を重ねた。唇の感触が柔らかい。
 これが夢であってもいい。僕の走馬灯でもいい。とにかく、この清らかで心安らぐ時間が、永遠に続きますように――。


 次の日。
 僕は図書室に来ていた。
 図書室の扉を開ける。廊下とは違う、本を扱っているからこそ漂う紙の匂いが鼻を刺激する。視界に入る名前も知らない十数人の生徒が、読書をしたり、勉強をしたり、携帯電話を弄ったりと思い思いに過ごしている。
 その中に、彼女の姿があった。彼女は僕の姿を見つけると、にこやかに笑って、手招きをした。僕は静かに、ちょっとだけ急いで、彼女のもとに向かう。黒髪に可愛らしい顔、大きな胸を机の上に乗せて、彼女は今日も本を読んでいた。
 今日から、僕は彼女を追いかける必要はない。なぜなら、彼女はずっと僕の傍にいてくれるからだ。こんな陰湿で最低な男を大切に思ってくれる、神様みたいな心を持った可憐な女の子。

僕と彼女は、これからも図書室にいる。この高校生活が終わるまで、ずっとずっと。