それはついさっきの出来事だった。何の前触れもなく、唐突に、その瞬間は訪れた。
季節は夏真っ盛り。夕日が綺麗な時間帯。
その日、俺はいつものように退屈な授業を消化して、西日が落ちる通学路の帰路に着いていた。その日は特別なことも無くて、ありふれた金曜日だったと自覚している。ああ、明日は休みだし、どこかに出かけようか……俺自身もぼうっとしながら、銀行の前の交差点で赤信号の為に立ち止まった。
はっきり言って、俺の高校生活は平和で、平凡で、それでいて退屈だった。何かしらの刺激が欲しい――そりゃ、ミサイルが飛んできて街を滅ぼすような行き過ぎた真似はしてほしくないが、俺の枯れた心に何らかのアクションを起こしてくれる何かを求めていたことは事実だ。
「……晩飯、何だろなぁ」
と、独り言を呟いて、信号が青に変わったのを確認し、歩き出した。
その瞬間、世界が目まぐるしく回転した。
視界の片隅に、夕日を反射する銀色の塊が映って、すぐに視界は暗転した。
☆
気が付くと、俺は浮いていた。
俺の体は地に足を付けていないにも関わらず、自由落下も急上昇も行わず、ただ一定の空間を漂っていた。その場所は真っ暗で、でも自分の体の辺りだけが発光しているように、自己の姿は見て取れた。学校から帰る格好――すなわち、制服を着ていた。持っていたはずの鞄はどこかにいってしまったらしい。
「……どこだ、ここ」
一つ呟いて、今までに起きた状況を整理する。
俺の体は右からの凄まじい激突に吹き飛ばされ宙を舞った。視界の片隅に、太陽の光を反射する銀色の塗装が見えて……ああ、トラックのバンパーだ。この状況を頭の中で整理して一つの結論に達する。
俺、トラックに撥ねられたっぽい。
「ヤベ、死んだのかな、俺――」
他人の死ならともかく、まさか俺の死が俺自身に来るとは、呆気にとられて逆に笑えてくる。俺は頭を抱えて、口元を綻ばせた。
「はぁ、俺、どうなんだろうなぁ……」
「心配ご無用ぉ!」
すると、傍らから大層元気な声が聞こえてきた。その声が聞こえた方向に目を移すと、そこには見慣れない人影が立っていた。俺より少し小さいくらいの、女だ。
彼女は全身を黒いローブのようなもので纏っていて、体のラインが分かりにくい。それでも、発した声色と、長い髪が俺に女だと印象付けた。その髪も、日本人離れしたピンク色で、かなり違和感を覚えたが。
「……アンタは」
「あ、ゴメン。私、悪魔なんだけどさ」
「……は?」
変なことを言う奴だ、と思った。普通こういう時、名前を答えるものだと思ったが、まさか悪魔なんて名前のはずもない。一昔前だったら市役所が通して一悶着起きそうな感じだ。ともかく、I am a devil ――私は悪魔ですと名乗られても困る。
「……いや、そういうのいいから」
「そういうのって……本当に悪魔なの! はうぅ……やっぱり修業不足なのかなぁ……」
彼女は腕をぶんぶん振り回して自らを正当化したと思えば、両手の人差し指同士をつんつんさせながらしょぼくれた。感情豊かだな、と思った。
「……まあ、百歩譲ってアンタが悪魔だということにしよう。で、名前は?」
「……譲られたのは腑に落ちないけど、悪魔と認めてもらって安心したよ」
悪魔はコホンと咳払いをすると、一礼した。
「私の名前は、レイチェル。仲間からは『チェル』って呼ばれてるから、あなたもそう呼んでいいよ。あなたの名前は?」
「……俺は、浪川優希(なみかわ ゆうき)」
「ユーキ……なんだか女の子みたいな名前」
「言うな」
両親から授かった俺の大切な名前に何て事言いやがる。
……とは思いつつ実の所、俺自身もこの名前はあまり気に入ってなかった。「優しく希望のある子に育つように」との願いを込めたとかなんとか……。だが、高校生になった現在でも、俺は優しさのある男ではないし、将来に希望を抱いてもいなかった。つまり、名前負けということである。更に言うなら、響きもどこか女のよう。改名できるのならそうしたいと日頃から思っていた。
「……で、悪魔さんが何で俺の前に?」
「あ、そうだった。本題本題」
悪魔――チェルは再びコホンと咳をした。
「ユーキは、どうして自分がここにいるのか、分かる?」
「……だいたいな。俺、死んだんだろ? トラックに撥ねられて……」
「うん。ご愁傷様です」
「死んだ本人に言うな」
俺がそうツッコむと、チェルは悪戯っぽくクスクスと笑った。悪魔と言うよりはただの無邪気な女の子のそれである。
「さて、ここでユーキに質問です」
「何だよ」
「……あなたの人生、楽しかった?」
突然真面目な顔になったチェルが、俺にそう投げかけてきた。
俺は言葉に詰まった。
先の通り、俺の人生は平凡で退屈で、何の捻りも無かった。ただ漠然と、学校と自宅を往復しているだけの、極めてフラットな日常――その延長で、俺は死んだのだ。
「……いや、楽しくはなかったな」
俺は素直に今の心境を一言で語った。
すると、チェルが「その言葉を待っていた」と言わんばかりに口元を緩ませた。
「そうでしょう? だから、悪魔の私が、あなたにもう一度チャンスを与えてあげようと思うの」
「……は?」
「具体的に言えば……そう、ユーキのその楽しみの無かった人生をもう一度やり直させて、楽しみを見つけて貰えたらなって思う」
「それってつまり……俺を生き返らせるってことか?」
「ご名答! 悪魔の力を持ってすれば、人間の魂を現世に戻すことなんて軽いんだよ」
そう言うと、チェルは自信たっぷりに胸を張った。
俺は考えた。
……あながち、悪い話でもない。あっさりと死んでしまった以上、現世に何の未練も無いとは言い切れない。読みたい漫画はあるし、できなかったことをできるようになりたいと思う。そのチャンスを与えてくれるなら、こいつに――チェルに懸けてもいいのではないか。
その時の俺に、首を横に振る選択肢は無かった。
「……ああ、お願いするよ」
「お、ユーキって話が早いんだ。それじゃあ、契約成立だね!」
すると、チェルは俺の眉間を人差し指で軽く突いた。
その瞬間、俺の視界はゆらゆらと動いて、焦点を失い始める。次第に遠ざかっていくチェルの姿から、彼女の元気いっぱいの声が聞こえてきた。
「行ってらっしゃ〜い! 第二の人生、目一杯楽しんでね〜!」
☆
気が付くと、クリーム色の天井が目に映った。
俺の部屋の天井だった。
……今までのは、夢だったのだろうか。
帰ってくる途中にトラックに撥ねられて、見知らぬ空間に飛ばされて、そこでやたら元気な悪魔の女と出会って、それで――。
「――ぇちゃん、いい加減起きて」
ぼんやりと考えていると、視界に誰かが入り込んできた。
妹だった。
起き抜けの脳みそをフル回転させ、何とか答えようとする。しかし、声がなかなか出てこない。
「もう、お姉ちゃんは本当に寝坊助なんだから」
そう言うと、妹は俺が寝ていたベッドの掛布団を引っぺがした。
五月蠅ぇなぁ……もっとゆっくり寝かせてくれてもいいじゃないか……。
…………。
待て、今こいつ、何て言った?
「もう朝ごはん出来てるよ。折角作ったんだから、お姉ちゃんも食べて」
妹が俺の体を揺らしてくる。
……『お姉ちゃん』?
俺はこいつにとって、『お兄ちゃん』のはずなのだが……。
ふと、霞む視界を下方に移す。
その先は、得体のしれないもので塞がれていた。
俺がいつもパジャマ代わりに着ているジャージの、丁度胸の辺りが、こんもりと大きく盛り上がっている。更にファスナーが下がっていて、覗いている隙間から、肌色の二つの山と、それによって形成された谷間が俺の目に映った。
――何だ、これ。
俺はその膨らみに手を置いてみた。
片手では収まらないその膨らみは、ふにふにと柔らかく、それでいて程よい弾力。指を動かす度、変幻自在に形を変える。
――おい、これ、まさか。
俺はその刹那、自分でも驚愕するほどの身体能力でベッドから跳ね起きた。傍らに立つ妹を腕でどかし(小さな悲鳴が聞こえたが無視する)、部屋の隅に立っている姿見に自身の鏡像を映した。
そこに立っていたのは、『俺』ではなかった。
無造作でボサボサだったはずの髪は、しっとりと艶やかなショートヘアに。
身長一七〇センチ前後という特筆することも無い体格は、背丈はそのままにしなやかなくびれを持った曲線美に溢れ。
男として存在するはずの無い、大きな二つの膨らみが胸に張りついていて。
フツメンだった俺の顔も、生まれつき右頬にある黒子(ほくろ)を残して、全体的に丸みを帯びた可愛らしい風貌に。
そこに立っていた鏡像は、紛れも無く、『女』だった。
「――な、なんじゃこりゃあああぁぁぁ!!?」
朝八時二十一分、俺が発しているとは思い難いアニメ声の絶叫が、我が家に鳴り響いた。