悪魔とネコ缶

グラデュス・アド・パルナスム 作
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1
 真っ暗闇に響くのは、途方もなく不気味な呟き。その呟きを耳にした常人は、大半がそこに意味など見出さない。聞いたことのない異国の言葉とさえ、思わないのだ。しかし、言葉には意味があった。
 外は凄雨。時折雷が鳴り響き、暗幕越しに部屋の中を明々と照らし出す。
 その部屋にいる二人のうち、女の方が溜め息を吐いた。そして、心の中で呟いた。(馬鹿馬鹿しい)
 と、そのとき、雷鳴が轟いた。近くに落ちた気配とともに、ふと呟きが途切れた。シンと静まり返る室内。何が起きたのか分からず、女はあたふたと周囲を見回した。だが、何ごとも起きていないのだ。むしろ、これから起こる。
 もう一人の人物、男の方が言った。「さあ、これでいい」男は、真っ黒なレインコートのようなものを見に纏い、怪しげな方陣を前にしている。
 「さあ、近いの印を」
 「何? それ」
 「言ったじゃないか。その血塗られた刃で手首を」
 「血塗られた刃って言ったって、ただのカッターナイフじゃない。それも、アンタが美術の時間に間違って指切ったときの血が付いてる」
 「血塗られた刃に違いはないだろう。それよりも早くしてくれ。ちょっとでいいんだからさ」
 「分かったわよ」ブツブツと文句を垂れながら、女はカッターナイフの刃を軽く手首に当て、ほんの少しだけ滑らせた。切れ味が最悪なだけに痛みは一入だったが、血液は必要最小限しか出てこなかった。予め男に説明されていた通り、女はその滴り落ちる赤い液体を、方陣の中心に垂らした。
 「よし」男が、仰々しくも両手を天井に向かって広げ、叫んだ。
 「いでよ! メフィストフィレス!」
 雷鳴。静寂。
 「何も起こらない」女の呟き。(こんな奴に頼った私がトチ狂ってたのね)後悔は胸の中にしまっておいた。
 馬鹿だった過去の自分に背を向け、女は立ち上がって帰ろうとした。しかし、その視線の先には、真っ黒な影が浮かんでいたのだ。
 動けない。そして、動いてはいけないと、本能がしきりに訴え掛けていた。
 部屋中に響くようだが、空気振動とは根本的に異なった原理による声が、こう言った。
 「我と契りを交わした者は貴様か」抑揚のない声。
 男は、震える全身をそのまま首だけに保存し、全力で否定した。そして、女の方を指差して、「あっちです」と言った。
 黒い影は不気味にうごめき、女の方に向き直った。群青色のローブを纏った老人だった。それが人ではないことを気付かせてくれるのは、青白く輝く目だ。そこには眼球など存在せず、ただ煌々と光っていた。
 老人はやはり感情のこもっていない口調で言った。「貴様か?」
 「そ、そうよ」声が震えていた。
 「して、貴様の望みとは?」
 (ほ、本気なの?)女は老人を挿んだ向かい側にいる男に目を向けた。頷いている。
 「望みとは?」
 さらに問うその声に、女は言った。
 「胸を……大きくして」
 雷鳴。静寂。
 「再度申してみよ」
 「だからぁ……胸をね、大きくして欲しい訳よ」
 「心を広くするのではないのか? 心臓を鯨並みにして欲しいのではないのか?」
 「ううん、違う。胸。分かる?バスト、チェスト、乳房、おっぱいよ」
 人ではない者が押し黙った。
 「できないの?」
 「そんなことはない」即答だった。「我に不可能はない。だが」悪魔のくせに、そいつは言葉を濁した。
 「恐ろしく低次の望みであるので。これほど陳腐で浅ましき望みを前にするのは、我の長きに渡る経験にも無かったことである」
 「よかったじゃない、これも経験よ。さ、早くやって」
 「承知」

2
 「ジン。アンタも結構手の込んだことしてくれるわね」
 男の名は迫島 陣。今はレインコートを脱いで、普段着になっていた。そして、女の方は清水 真紀。
 人は真紀の言葉に怪訝な表情をして、「何のこと?」と問い返した。
 「さっきの黒魔術ごっこ、なかなか良くできたわよ。雷のタイミングは偶然だとしても、あのメフィなんとかっていう奴、変装にしてはなかなか。危うく本当に信じるとこだったわぁ」
 「メフィストフィレスだよ。ゲーテのファウストにも登場してくる、有名な悪魔だよ。それであれ、僕の仕込みだっていうの?」
 「当たり前じゃない。悪魔なんていないのよ。百歩譲っていたとしても、アンタなんかに呼び出せる訳ないじゃない」
 「いるよ! あんな仕込みができるんだったら、僕は今頃、日本のデビット・カッパーフィールドなんて言われてるよ」
 間髪いれず、真紀は大声で返した。「だけどねぇ! 見てよ、これ。何も変わってないじゃないっ! Bよ? それも、寄せて上げまくってBっ!」彼女は自分のささやかな乳房を、したから持ち上げよとしたが、扁平なので滑って通り過ぎてしまった。それがまた悔しくて、座りながらも地団太を踏みたくなった。
 「大体、そのメルカプトだか何だか知らないけど、いい加減すぎるの!」
 「もう、最初のメと最後のトだけしか合ってないよ」
 メフィストフィレスは、こう言った。「貴様の理想とする体型は、乳房を大きく、その他を細くしたものだというのだな?」
 「そのとおり」そのときの真紀は、嬉しくて飛び跳ねたい気分だった。
 「ならば、そのようにしよう。貴様の理想どおり」
 そう言って、悪魔は消え去った。それなのに。
 「なんでっ! 何にもっ! 起こらないのぉぉっ!」怒りのあまり、真紀は勢いよく立ち上がった。その瞬間、天地がひっくり返ったように前後不覚に陥り、そのまま後ろに倒れこんだ。
 「マキ、大丈夫? 貧血?」
 まだ目の前はぐらぐらと揺れていた。「うーーん、そうみたい」と、そのとき、唸り声が室内に轟いた。
 「何? 今の」と、陣がキョロキョロと音源を捜している。そこへ、実に申し訳なさそうに、真紀が手を上げた。
 「今の、私」
 「え?」
 「私の、お腹。お願い、何か頂戴」
 陣は溜め息を吐き、「何かあったかなぁ」と呟きながら、部屋を出て行った。
 しばらくして戻ってきた彼は、紙袋を手にしていた。
 「ごめん、こんなものしかなかった」そう言って、彼は袋の中味を絨毯の上にゴロゴロと転がした。
 「何、これ」と、間の抜けた声を真紀。
 「ネコ缶。うちの金之助のご飯」
 「何? こんなもの私に食わす気?」
 「結構おいしそうだよ?」彼は缶詰の蓋をパカリと空けた。
 「こんなもの」そう呟きながら、空腹の真紀は缶の中にぎっしり詰まった肉を横目で盗み見た。そして、彼女の中で心的な革命が起きた。
 (なんで、こんなおいしそうなものを猫だけに食べさせるんだろう)気が付くと真紀は、陣が開けたその缶詰をひったくり、あっという間に空けてしまった。
 「うわぁっ! ホントに食べた」そんな陣の声など聞こえないように、真紀は二つ目の缶を開けていた。三つ、四つと食べていくうちに陣は、「ああっ、金之助のご飯がなくなるっ!」と、非難とも悲鳴ともつかないことを言っていた。
 そして、ネコ缶はただの空き缶になってしまった。
 「金之助ぇ、ごめんよぉ」後には、そんな陣の嘆きが残された。

3
 帰路。真紀は考えていた。何故、キャットフードをおいしいおいしいと食べたのか。あのときは確かにおいしそうだった。それは確かだが、何故そのように思ってしまったのか。その答えは、家に帰ってすぐに明らかとなった。
 「ただいま、お腹空いた」
 「帰って来るなり何なの?」彼女の母は呆れたように言った。そして、真紀自身、呆れていた。ほんのさっきまえ、考えられないくらいネコ缶を食べていたにもかかわらず、もう空腹を自覚していたのだから。
 「もう少しでできるから、待っててね」そう言いながら、彼女の母は真紀を見た。そして、首をか傾げた。「あら? 気の所為か、ちょっとやつれてない?」
 「だったらいいなぁ」そのときは大して気にも留めず、彼女はさっさと自分の部屋に入っていった。
 部屋に入って三十分くらいした頃には、もう彼女の空腹は限界を突破し、軽い幻覚を彼女に見せ始めていた。テーブルの上には、山と積まれたあらゆる食材。全世界版満願全席。それを、好きなだけ食べる自分の幻影。
 ふと気が付き、やばいところまで来ていることを悟る。
 「ん?」何やら焦げ臭い匂いが部屋の中に漂っていた。彼女が台所まで行ってみると、炭を満載したフライパンを持って、母が右往左往しているところだった。
 「どうしたの?」
 「こ、焦がしちゃった」母は、一応それを皿の上に盛った。そして、「ダメね」と呟いた。だけど、真紀はそれにまたもやおかしな感情を抱き始めていた。炭である。原型は何かも分からない。それなのに、食べたいと思った。そして、母がフライパンを洗っている隙に、彼女は平らげてしまったのだ。
 夕食の後。彼女はこう思い始めていた。何故か自分は、何でも食べたくなる体質にでもなってしまったらしい。ネコ缶といい、消炭といい。普段なら、食べようなんて思わない食べ物に対しても、食欲を抱いてしまう。どうしてしまったのだろう。
 「お風呂、先に入っちゃって」という声がしたので、彼女は考えを中断し浴室へ向かった。
 何も考えずに服を脱ぎ、浴槽に首まで浸かった。そのままの体勢でいると、湯気の所為か頭が熱を帯びたようにぼおっとしてしまった。そんな真っ白な意識に、誰かの顔が浮かぶ。それが誰かを認識した途端、真紀は顔を湯船に沈めた。
 息が続かなくなり、顔をあげると、小声でその名を呼んだ。「リュウジくん」
 秋山 龍二は、真紀にとって、去年、高校一年生のときに同じクラスだったというだけの存在。だが、それは現実的な関係性でしかない。精神的な関係性も含めると、それだけでは語れない。それまで、どんなに希薄な関係であったとしても、唐突に変化することはある。例えば、朝、電車で同じになる別の高校に通う男の子がいたとして、声さえ交わしたことがなく、遠くから眺めていただけだったとしても、ある日、電車が脱線事故に遭い、大勢の人の下敷きになった彼女を救ってくれるのは、その男の子かもしれない。そんな運命的な出来事は何もなかった。だけど、何かが起こらなければならない訳でもないのだ。
 何気ない仕草の積み重ねは、彼女に恋心を抱かせるに十分だった。くせのある髪の毛をよく触るとか、トイレで手を洗ったあと、ズボンの後ろで拭いてしまうとか、そんなこと。
 龍二に振り返って欲しい。そのためには、彼の好みに合わせなければ。
 龍二が過去付き合ったことのあるとされている女は二人。そのうちの二人は、Eカップ上の巨乳だった。第一次審査はこれだと、真紀は思った。そして、自分のバストを振り返ったのだ。
 正真正銘のA。絶望とか、落胆とか、挫折とか……。全身に着いている無駄な肉が、全部胸に移動すればどんなにいいことかと思った。
 そんな真紀の思いは、オカルト趣味の幼馴染にすがってしまわざるを得ないほど、強いものだった。
 いい加減のぼせかかっていた真紀は、湯船から上がった。そして、髪を洗い、身体を洗い始めた。ほとんど無意識だった。
 「あれ?」そう思い呟いたのは、身体を洗い出してから少ししてのことだった。視線は前方。ボディソープを吸い込んだスポンジがさすっているのは胸。いつもと感触が違うと思い、彼女は視線を自分の身体に移した。心なしか、大きくなっているようだった。
 「嘘」スポンジを放り投げて、両手でしたから持ち上げてみた。「ちゃんと引っ掛る!」
 「お風呂で叫ばないの! 響くでしょ、家中に!」母が外から怒鳴った。
 「ごめんなさーい!」と、これまた叫ぶ。
 このときはとにかく、嬉しかったのだ。

4
 お風呂から上がって、もう一つ気づいたことがあった。それは、「あら? 気の所為か、ちょっとやつれてない?」という母の言葉を思い出させるものだった。
 二の腕は細く引き締まり、足もモデルのように美しい形をしていた(長くはないが)。背中の肉も落ちて薄くなっていたし、お尻も小さくなっていた。ウェストはギリシャ彫刻のようなくびれが形成され、お臍は縦に細く伸びていた。
 胸が大きくなって、それ以外の部分は痩せる。理想的だった。
 それからお腹が空いていたので、冷蔵庫に入っていた物を口に入れて眠った。
 ぐっすると眠っていた最中、真紀は唐突に目が覚めた。意識があまりにも鮮明なので、一瞬前まで眠っていたことが信じられないくらいだった。(金縛りだ)そう思ったのはほんの僅かな間で、実際は普通に身体を動かすことができた。ただ、このようないきなりの目覚めが、金縛りに通じるというイメージが先行してしまったのだ。
 本当の目覚めた理由は、愚問だった。あきれ返るほどの空腹感。
 真紀が上半身を起こすと、何やら違和を感じた。「ん?」違和の中心は、彼女の胸部にあった。そこに、ずっしりと重みが掛かっていたのだ。
真紀は自分の乳房をパジャマの薄地越しに持ち上げた。
 「Dくらいになってる」
 胸に重量感。それは初めての経験だった。
 このようなことになったのも、あのメフィストフィレスの力なのだと、彼女は思い始めていた。メフィストフィレスが言ったこと。
 「貴様の理想とする体型は、乳房を大きく、その他を細くしたものだというのだな?」
 そして、真紀の望みは、身体中の無駄な肉が胸に移ってしまうこと。メフィストフィレスは、この望みを叶えたのだ。そう考えると、この異常な食欲も説明がつく。本来、身体に蓄えられる筈の栄養が、全て乳房の肉に変換されるのだから、常にエネルギーが不足している状態になってしまったのだ。しかも、その食欲に任せて摂取した栄養は、一部生存に必要なエネルギーとして使用される中、余った分は胸にいく。
 普段ならあり得ない行動だ。夜遅くの食事が太る最大の原因となることは、一般常識だ。けれども、今の真紀場合、太るとしたらそれは胸なのだ。
 「この調子でいけば、Eカップ以上も夢じゃない」
 真紀はベッドから立ち上がり、胸部の皮膚が鉛直下向きに引っ張られるという新しい感覚に陶酔しながら、台所へ向かった。戸棚にカップラーメンがあった。「あった、高カロリー」彼女は早速カップにお湯を注いだのだった。それは深夜の三時頃であった。

5
 翌朝のこと。息苦しさで目覚めた真紀は、仰向けとなっていた胸部に乗っかっていた物を見て、唖然とした。それは彼女の身体の一部である。胸はさらに膨らんでいたのだが、予想を遥かに凌いでいた。パジャマの前で止められていたボタンは一部弾け飛び、大きく開いていた。
 起き上がると、その重みはかなりのものだった。立ち上がって歩き出そうにも、バランスが上手く取れない。それもその筈で、昨日まではこんなものついてはいなかったのだから。
 もう両手では覆い隠せないほどだったそれが、一体どのくらいあるものなのか、測ってみた。96cmのHカップ。爆乳としてグラビアを飾るような、雲の上に住んでいる如き人たちと同じようなものを、今彼女は手にしていたのだ。
 「あっちゃー。これは大きすぎるかなぁ」一度入ってみたかった台詞ではあったが、確かに、Eカップを目指していた彼女にとって、これは若干過ぎたものであった。(カップ麺、二個までにしておけばよかった)と後悔しながらも、内心これで龍二にも振り返ってもらえるとほくそ笑んでいた。
 時計を見て、いつもより少し遅れていることを知ると、学校へいく用意をし始めた。だが、ふと気が付き、動きを止めた。
 「どうしよう」
 真紀はパジャマの上を脱いだ状態のまま、部屋を出た。「お母さんお母さん」そう呼びかけながら。台所にいた母は、「なあに、騒々しいわね」と言いながら、やって来た我が娘を見て言葉を飲み込んだ。「お母さん、これじゃあ学校行けないよ」その訴えは、聞こえていないようだった。
 「どうしたの? それ」
 「朝起きたらこうなってたの。それよりも、どうしよう。入るブラがない」
 「へぇー、いいわねぇ、成長期の子は」
 「そんなことより、お母さんの貸して?」
 母は真紀の胸をしげしげと見つめ、「何カップ?」と尋ねた。
 「H」
 「それは無理だわ。私のはCだもの。でも前に一度、見栄を張ってDのブラを買ったこともあったわね。サイズが合わなくて着たことないけど」
 それでも構わないということで、我が家に現存する最大のブラを探しにタンスをひっくり返すこととなった。出てきたDカップブラの中に二人がかりでHカップの乳房を押し込むのは、紛れもない力仕事だった。なんとかホックをはめて一息吐くと、すぐにホックの縫い目部分が破れ、弾け飛んだ。
 「やっぱり学校に行けなーい」
 「いいえ、行くのよ。出ないと、とんでもない嫌疑をかけられるわよ」
 「え?嫌疑?」
 「そう。喩え今日休んだとしても、いずれは行かなくちゃいけないでしょう? そうすると、以前見たときにはAカップだったのが、突然Hカップになっていたのよ。普通ならどう思う? ああ、手術したんだなぁって……」「そんなの嫌だ!」母の言葉が終わらないうちに、真紀は叫んだ。
 「分かったでしょう?」
 結局真紀は、着けるブラもないまま、学校指定のブラウスに袖を通した。幸い、ボタンは閉じられたものの、上から二つ目のボタンホールは無残にも横に引っ張られ、歪な形になっていた。
 今は夏服の着用が義務付けられている時期だ。そのため、ブレザーを着ることはできないからして、内側から布地を押し上げる乳首の形は、外から鮮明だった。
 「は、恥ずかしいなぁ」しかし、豊胸手術を受けたなんて思われるのは最悪だ。
 朝食をとる時間は残っていなかったので、そのまま食べずに出てきた。相変わらず空腹だったが、昨日まで彼女を覆っていた同じ欲望に比べれば、減退している方だった。
 出かけに、母が二万円をくれた。「新しいブラ、Hカップなんてどれくらいするのか知らないけど、これで買ってきなさい。それと、制服もね」そう言って。
 急がなくては遅刻してしまう。だが、走ることはできない。走れば、揺れて痛いし、何よりボタンが千切れてしまう。ただ、こうして歩いているだけでも十分危ういのだから。
 歩を進めるたびに、胸が大きく揺れる。それが、ブラウスの内側の布に擦れると、身体の心から熱が生み出されていくような快感を覚えた。てんてこ舞の朝だったが、自然とその口許は真横に広げられていくのだった。

6
 学校に着くと、まず同性の友人達が真紀をわらわらと取り囲んだ。
 「マキ! どうしたの?」「すごーい」「おっきい」「あの貧乳マキがねぇ」「何したらそんなになったの? 教えて」「教えて」「教えて」「教えて」
 男たちの様子はというと、それほど変わった様子も見せず、「昨日のプロレス、見た?」とか、「日本史の時間に読む漫画、貸して」とか、いつものような会話をしている。しかし、時折視線が向けられるのを彼女は知っていた。本当は、女達よりも、彼等の方がより興味深々なのだ。
 (注目されるのも、なかなか悪くないなぁ)そう思うようになっていた。
 午前中の授業が終わると、昼休み。真紀は龍二がいるクラスを尋ねていった。噂の広がり方は、インフルエンザもまだまだ敵わない、そう思わせるほどで、既にそのクラスにも彼女の突然大きくなったバストの話は伝わっていた。だが、一番知って欲しかった人には伝わっていなかった。秋山 龍二は、欠席だった。彼の属しているサッカー部は、遠征中だった。
 がっかりして教室に戻ろうとしていると、廊下で陣と出会った。
 「やあ、マキ。随分大きくなったねぇ」
 「そうなのよ。もう大変で大変で」
 「メフィストフィレスは叶えてくれたんだね」
 「お陰様でね」満面の笑みを浮かべる真紀に、陣は深刻な顔を向ける。
 「言い忘れてたことがあるんだけど」
 「え、何?」笑みを固め、返した。
 「メフィストフィレスって悪魔なんだよ。それで、君は悪魔と契約を交わしたんだ」
 「それで?」
 「そろそろ代償を求めてくる」
 「代償?」
 「そう。お店でお金を払わずに物を持って行くと、犯罪だろう? それと同じように、何も支払わずに願いを叶えてもらうことはできない」
 「そんなの聞いてないよ!」思わずもれた大声に、廊下を行き交う視線が一瞬そちらに集中した。
 「だから最初に言い忘れてたって言っただろう?」
 「代償って、どの低度の物なの?」
 陣は両腕を組み、首を傾げた。「さあ。ファウスト博士は、最終的に魂を要求されたけど」
 「魂ぃ!」またも視線が集中。「なんてことを。アンタがメリクリウスとかいう変なものを呼んだりしなきゃ」
 「メフィストフィレスだよ。それに、勝手なことを言うなよ。やれって言ったのはマキだろう?僕は止めたほうがいいって忠告したじゃないか。それを……」
 それはつい昨日のことだった。登校してくる陣を道の途中で待ち伏せし、ヘッドロックをかけながらむりやりやらせたのは確か真紀だ。それを、長時間拒んでいたのは、陣。
 「自業自得なんだよ」
 陣はそう言い放つと、真紀の横をすり抜けて言ってしまった。
 その後教室に戻った真紀は、いつもの友人達と弁当を広げた。だが、その視線は虚ろで、心も上の空だった。弁当は、昨日の旺盛な食欲を目にした母が気を利かせたのか、二つ入っていた。そのうちの一つなら、既に午前中食べていた。
 タコ型のウインナーを口に入れようとしたそのとき、突然……。
 真紀は立ち上がって、「ちょっと」と言って、教室を飛び出した。その左腕は、バストのトップを押さえるような位置にあった。トイレに駆け込んで、個室の鍵を閉じると、彼女は呟いた。
 「な……何なのよぉ」
 押さえていた左手を外すと、大きな胸が露わになり、下にちぎれたボタンが落ちた。ボタンはそのまま二、三度地面で弾むと、便器の水に沈んだ。だが、真紀はそんなことよりも、自分の胸に注意を向けていた。その大きさは今もなお少しずつ変化している。無論、プラス方向へ。
 「また、大きくなった。どうすればいいの?」
 今や、その胸はさらにカップ数を上げていた。IだかJだかに。最早、制服のボタンは上から三つが全て外れてしまっていた。
 途方に暮れていたそのとき、流してもいないトイレの水が突如流れ出し、その流れが生き物のように天井高く達したかと思うと、水柱の中から昨日出会った悪魔が現れた。
 「あ、モリブデン」それは最早、本来の言葉から離れすぎ、原型を留めていない。信じられないかもしれないが、原型はメフィストフィレスだ。
 メフィストフィレスは抑揚のない声で言った。「貴様の望みは叶えられた。故に代償を支払ってもらう」
 真紀は何も言えずに、唾をごくりと飲み込んだ。言葉を待つ。
 「我がこれまで叶えてきた人間の望みの中でも、貴様の望みは群を抜いて陳腐であった」
 「ほっといて」
 「それ故、代償も陳腐にしてやろう」
 「え? 本当に?」
 「嘘など言わぬ。本来なら、魂の一つくらいを望みたいところであるが、特別に貴様の運命で支払ってもらうことにする」
 「運命?」何を言われているのか理解できなかったが、取り敢えず死ぬことはないのだと胸を撫で下ろした。
 「貴様の運命だ。これから出会い、最高の人生を歩むためのパートナー。それを貴様から奪う」それまで終始無表情だった老人が、初めて感情らしきものをその顔に浮かべた。だが、あまりにも邪悪な笑顔だった。
 「そ、そんなぁ。じゃあ、こんな胸あってもしょうがないじゃない。戻してくれない?」
 「それはできぬ」
 「不可能はないんじゃないの?」
 「無論だ。だが、するわけにはいかないのだ。貴様と交わした契約は、血の契約。それは、この世に存在するあらゆる契約のうち、最も強力な契りである。これを違うようなことがあれば、全宇宙の秩序が崩壊してしまうことになる」
 「じゃあ、戻せないの?」
 「戻せぬ。貴様が死ぬそのときが契約の期限だ。そのときまで、貴様の願った事柄は叶えられ続ける」
 それはつまり、胸の大きさを戻せないというだけではなく、物を食べるたびに胸が大きくなるというこの体質自体、変わることがないということだ。
 それに気付いた真紀は愕然とし、膝を折った。「そんな」そう呟いたとき、悪魔は既にいなくなっていた。

7
 購買にて最大の制服を購入し、切れなくなったブラウスはゴミ箱に捨てた。袖は手がスッポリと入ってしまうほど長いし、丈はスカートが要らないくらい長い。それにもかかわらず、バスト部分だけはぴちぴちだった。
 五時間目は、メフィストフィレスが昼休みのトイレでのたまったことを考えていた。
 (運命の相手と出会う運命を奪うって言ってたわよね。それはつまり、誰が運命の相手なのか、まだ分からないのよ。最高の人生を歩むためのパートナーと、私はまだ出会ってさえいないのかもしれない。つまり、私の好きなリュウジくんではないかもしれないってことなのよ。もしかしたら、リュウジくんは二番目に最高の人生を送れるパートナーかもしれないじゃない!)
 ポジティブシンキング。それは彼女の取り柄でもあった。まだ、希望が費えた訳じゃない。それは、まだ彼女を動かすことができたのだ。
 六時間目は体育だった。体操着は、当然買っていなかった。以前のものを着用すると、明らかに丈が足りなくなった。臍が出るどころではなく、下からは隆起の一部を覗くことができるほどだった。
 その日は運動能力テストの一つ、50メートル走の測定日だった。練習で何度か走ったが、軽く走っただけで千切れるかと思うほど痛い。そして、グラウンドの反対側の方から向けられる男子の視線。いやらしいと思った。かといって近くでは、女子達の視線。そこには嫉妬が見て取れた。露骨だったのは、体育教師だ。それは筋肉か? と疑いたくなるような扁平な胸をしている。それだけに、真紀のような爆乳には嫌悪感を抱くらしい。浴びせられる言葉がきつい。
 本番に走ってみると、やはり本気で走ることはできなかった。足は前へ前へ進もうとするのだが、胸は上下左右に動き回り、真っ直ぐ走らせるのさえ邪魔しようとした。結局タイムは11秒台。去年は7秒台で走れたのに。いや、昨日までは走れただろう。
 その体育の時間、ニュースが飛び込んできた。それは初め、男子の方の体育教師へと伝えられた。それが、あっという間に彼女のもとへも舞い込んできた。龍二が怪我をして入院したということだった。
 授業が終り、ホームルームが始まる頃になると、噂はより詳しくなり、龍二が入院したと言う病院名まで分かるようになっていた。
 ホームルームが終り、皆は一時的に学校から開放される。
 真紀は学校帰りにそのまま龍二が入院したという病院へ向かった。だが、病室までは分かっていなかったので、受付で部屋を調べてもらった。外科病棟の、302号室だと分かり、早速エレベーターで3階へ行こうと思ったが、エレベーターはもうかなりの人が乗り込んでいたので、階段で行くことに。
 今の体型になってからまだ、歩くのに慣れていない。そのため、異常な疲労感を覚えながら、階段を一歩一歩登っていく。背中がいつの間にか痛みを訴えていた。よく巨乳は肩がこるというが、真紀ほどの重さになると、肩どころでは済んでくれないらしい。その上、空腹まで蘇ってきていた。
 たった3階へ行くだけだというのに、着いた頃にはぼろぼろの気分だった。病室のプレートを数えながら302号室へやって来た。ここは、個室のようだった。その方が都合も良い。
 ドアを開けようと取っ手に手を掛けたとき、真紀は固まった。中から話し声が聞こえてきた。
 「大したことなくてよかったね、リュウくん」女の子の声。
 「大したことあるんだよ。せっかくの試合に出られなくなったんだから」と、龍二。楽しげなその声は、真紀の胸を締め付けた。
 「入院したって聞いたときには、心臓止まるかと思ったんだからぁ」
 「悪かったよ。許してくれ、ナツミ」
 「いやだ」
 「どうしたら許してくれるんだ?」
 「うーん……どうしようかなぁ。そうだ、チューしてくれたら、許してあげる」
 もう聞いていられなかった。真紀はすごすごとドアの取っ手から手を離し、踵を返した。
 待合室で、ナツミという少女が通り過ぎるのを待っていた。龍二の彼女が一体どういう人なのか、知らずには帰れなかった。
 程なくして、廊下を通り過ぎていった制服姿の少女は、原田 夏美。サッカー部のマネージャーだった。彼女の胸は、Eカップどころか、Cも怪しいくらいだった。

8
 病院から出る頃、外は雨が降っていた。真紀は傘を持っていなかったが、濡れることに今更躊躇する気などなかった。
 雨宿りをしている人たちを尻目に、彼女は一人雨の中へ出て行った。夏の雨は暖かいが、身体を冷やすことに変わりはない。彼女は寒さに震えていた。
 びしょびしょに濡れた衣服は、ピッタリと真紀の身体に張り付き、動きを制限した。傘を差した道行く人々は、濡れて半透明になったせ衣服の向こうに浮かび上がる、女性としては特大の象徴を見て、感嘆の声を上げたり、或いは嫌悪感を露わにしたりした。だが、そんな視線に曝されても、真紀は気にならなかった。
 やがて、一軒のコンビニに入った。ずぶ濡れの彼女を見るなり男性店員は嫌な顔をしたが、その透けて見える巨大な乳房を目にした途端、驚きと喜びの入り混じった表情に変えた。
 真紀はその店で、買い物かご一杯の食料を買った。菓子パン、サンドイッチ、おにぎり、スナック菓子、惣菜、弁当、ウーロン茶、イチゴミルク、ヨーグルト、プリン、アイスクリーム、ケーキなど各種。彼女は運動部のマネージャーで、買出しか何かだと思われたに違いない。だけど、空腹に意識を奪われた彼女は、それを躊躇わず食べるつもりだった。
 朝、母に貰ったお金から支払って店を出ると、自動ドアのすぐ横の地べたに座り込んで、袋いっぱいの食料を一つ一つ食べ始めた。
 失恋によるやけ食いだ。彼女の場合、そこに昨日からの異常食欲が加わっていた。
 もの凄い勢いで食べる。形振り構わず食べる。恥も外聞も捨て食べる。十分くらい食べ続けていると、胸部に何やら不吉なことが起き始めた。それは三分もしないうちに、最大サイズのブラウスの前部をいとも容易く破り、なおも成長を続けた。
 自動ドアが開くたび、人々が出たり入ったりして、好奇の目や猜疑の目を向けた。だけど彼女には関係がなかった。彼女にとっての世界は、ほんの何分か前に崩壊してしまったのだ。
 自と他の境界が消失し、自分が他人のように見えた。誰かの胸が馬鹿みたいに巨大化していく。自分に起こっている出来事が、そのようにしか感じられなかった。
 肥大した乳房が、その重みで垂れ下がり、太腿の辺りに到達したかと思うと、そのまま膝の方まではいずりながら成長していく。
 袋の中が、ゴミだけになると、彼女は立ち上がろうとした。だが、上手くたつことができず、そのまま地面に突っ伏してしまった。見下ろす人々の視線。そこにはもう、軽蔑の感情しか込められていなかった。
 「あはははははははは、ははははっはははははは」真紀は笑った。何故笑ってしまうのか、自分でも分からない。多分、定かではないが、自分を笑いたい気分なのだ。
 やはり笑い続けながら、真紀はよろよろと立ち上がった。今までとは比較にならない負荷が全身に掛かる。胸の重みで背中は前のめりに曲がっているし、乳房自体が自重で千切れ、落っこちてしまいそうだ。最早、その肉塊は自分の両手で支えることができないまでに重たくなっていた。
 コンビニとそこで彼女を見ていた多数の人たちを後に、歩き始めた。雨は相変わらず降っていた。そして、相変わらずと言えば、彼女の笑い声もだ。本当は笑いたくなんかないのに、笑うことしかできない。
 (これからどうなるの? どうすればいいの?)彼女は完全に行く道を失っていた。それは、あらゆる意味での道。何もかもがどうでもよくなった今、どこに行く気にもなれず、ただ彷徨っていた。そして、これからどうして生きていけばいいのか、それさえ分からなくなっていた。
 道ですれ違う人は、真紀のその異様な体型を見て、道を譲ってくれる。彼らにとって真紀の姿は、巨大なバストをした人ではなく、巨大なバストをした化け物でしかないのだ。それを真紀自身、痛いくらい分かっていた。
 (こんなもの、見世物にしかならないじゃない。見世物……サーカス。これから私、サーカスにでも入ろうかな。そうすれば、この胸も役に立つかもしれない)
 日の輪をくぐるライオンや、玉乗りをする熊に混じって、驚異的な彼女のバストはショーとなる。彼女が大袈裟な口上と共に登場すると、会場には驚きの声が溢れる。だが、彼らは真紀を人としては見ない。やはり、人間ではない何かとして見てしまうのだ。ステージに立つ彼女と観客達の間には、マリワナ海溝のように深い溝があるのだ。
 空想の中から抜け出して、真紀はまた行く当てもなく彷徨っていた。
 と、そのとき、背後から聞き覚えのある声が彼女の名前を呼んだ。 
 「おーい、マーキー」呼ばれて降り返ると、走り寄ってくる陣の姿があった。
 彼は出会い頭に、「うわぁ、また大きくなったみたいだね」と言った。誰に見られても何を思われても無関心、無感想だったのに、陣にそう言われると無性に腹が立った。
 何かを言い返してやろうと思った。だけど、「それにこんな濡れちゃって、風邪ひくよ」と、言われてその気も失せてしまった。
 陣は着ていたレインコートを真紀の肩に掛けた。そして、何も言わない彼女に向かって、「どうしたの?」と、優しい声で尋ねた。その瞬間、彼女は分かってしまった。自分がどこに向かって彷徨っていたのか。彼女は、泣かせてくれる人を探していたのだ。
 感情が堰を切ったように溢れ出し、真紀は陣にすがって泣き始めた。雨なのか涙なのか。雨が涙なのか、涙が雨なのか。何も分からないまま、彼女は泣き続けた。

9
 真紀の涙が枯れ果てた頃、空の涙も同じように枯れ果てていた。西の空は茜色に染まり、背後から二人の行く先を赤く照らしていた。
 真紀が語る。「私、勘違いしてた。胸さえ大きくなれば、リュウジくんが振り向いてくれると思ってた。馬鹿だ、私」
 「うん、馬鹿だよ」
 いつもの彼女なら、言い返せたかもしれないが、今は無理だった。
 「もう、誰も好きにならないかもしれない。トラウマだ。それに、こんな化け物みたいな胸の女なんて、誰も好きになんかならないよ」
 「分かってないよね、マキは」と、陣は追い討ちをかけてくる。
 「なんでそんなこと言うの? 確かに馬鹿だけど、アンタにそんなこと言われる筋合いはないわよ」
 「いや、あるよ」自身有り気に陣は言った。
 「なんで? あの変な悪魔をジンに呼ばせたのは私だけど。それでなの?」
 「そうじゃないよ」
 ジンは少し歩みを速めて、先を歩き出した。それに追いつこうと真紀が同様に歩みを速めて並ぶと、彼はまた少し先に行く。それをしばらく二人は繰り返した。長い影法師が二つ、頭を突き出しあったりしながら揺れた。
 「ねぇ、ジン。何で私が馬鹿だなんて言うの?」
 彼は急に立ち止まった。それに合わせて真紀も止まろうとしたが、重量のある二つの房が得ていた慣性を完全に殺すことはできず、少し前に引きずられた。そして、陣にぶつかった。
 「僕が真紀に出会ったのはいつだっけ?」降り返ることなく、彼は尋ねた。
 「えっと、陣が引っ越してきたのは、私たちが5歳のとき。だから、12年前ね」
 「そうだよ。12年も前なんだよ」
 「それが?」
 「12年」陣はそう言いながら、彼女に向き直った。「君は気づかなかった。一度たりとも。だから、馬鹿だって言うんだ」
 「何に気付いてないの?」そう訊くと、彼は深い溜め息を吐いた。そして、こう言った。
 「馬鹿もここまで来ると凄いね。僕が君を好きだってことだよ」
 「え……」真紀は言葉をなくした。たった今まで山のように持っていた言葉を、一瞬にしてなくしてしまったのだ。
 「初めて会ったときからそうだったんだよ。友達になるよりも先に、この人と一緒にいたいって思ったんだ。まだ幼かった5歳の子供がだよ?」
 「でも、私……昔からの私じゃないわよ。見ての通り」彼女は自分の身体を見回した。膨らんだ胸は今、膝の辺りまで達している。「これからも、何か食べるたびに大きくなっていくのよ。それでも?」
 「胸の大きな人、結構好きだよ。それにね、真紀はやっぱり真紀なんだ。胸の大きさなんて関係無い。たかが身体のパーツじゃないか」
 「私は……私」
 「そう。真紀は真紀。だからさ、これから僕んちに来ない? お腹空いたでしょ? ネコ缶くらいならあるよ」
 真紀の目に霞みが掛かったようになる。重たいのは胸だけではなく、瞳の中に溢れてきた涙もだ。陣の言葉も心に重たかった。
 「うん、行く」その短い声は、震えていた。寒さではなく、喜びに。
 「あれ? 泣いてる?」
 「馬鹿、雨よ」
 赤い光を背後から受けて、影法師はまた、並んで揺れ始めた。