超乳少女 久美子

ジグラット 作
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episode 2 新学期

 その晩、高梨幸一は憂鬱だった。

「明日までに受け持つクラスぐらい、顔と名前を一致させておけよ」担任からそんな事を言われて生徒全員の顔写真が載った一覧を渡された。
 無理もない。新任教師として赴任して、いきなり2年生のクラスの副担任に抜擢されたのだ。近年の厳しい就職状況を考えればそれぐらいのことは当然受け入れるべきだろう。
 だが、はたして今日一日で憶えられるものだろうか。自慢じゃないが自分は人の顔を憶えるのは苦手で、けっこういつも苦労している。それを一度に32人も…。しかし仕方ない。気が進まないうちに開いて端から顔と名前を憶えるともなく眺めていった。
 最初のページには男子生徒が並んでいた。なんとなく個性に乏しい、どこにでもいるような顔が並んでいるように思えてそれだけでくたびれてしまった。この上まだ女生徒がいるのか…。暗くなる気持ちを抑えてページをめくった。
 めんどくさくなって女子の方はなんとなくさーっと眺めただけで終わらせるつもりだった。しかし…ある一人の顔写真まで来た時、吸い寄せられるように目が留まった。
 やはりさほど目立たない顔が並んでいる中で、ひとりだけ浮き上がってくるような写真があったのだ。
「1人だけめちゃくちゃレヴェル高いのがいるんだな」
 ついつい他の生徒をそっちのけでその写真ばかり見つめてしまう。美少女…そんなありふれた言葉でくくるのも惜しいぐらいに思えた。芸能界入りしたらまたたく間にトップアイドルになるだろう、そんな事をついつい考えてしまうほど、ある種のオーラみたいなのがその小さな写真から放射しているような感じさえした。受け持つクラスにこんな子がいるのか…。現金なもので、この子に会える――と考えるだけでなんだか明日が楽しみになってきた。
「名前は――堀江久美子…。久美子ちゃんかぁ」
 どうにもこの子の事が気になって、一緒に受け取った過去の各生徒の成績表もチェックしてみた。
「な、なんだこれは」
 驚いたことに、成績もずば抜けていた。入学試験でもほとんど満点をとっているのを皮切りに、定期試験も模擬試験も、文系理数系に関わらず満点以外はとった事がない、というぐらい飛びぬけていた。
「すごいなぁ、才色兼備の美少女か。まあ体育だけは普通のようだが…」

 結局彼女の事ばかり考えてしまって、他の生徒のことはまったくといっていいほど憶えられずに初日を迎えてしまった。
「おう、どうだった、全員憶えられたかい?」
 朝、職員室に入ると、さっそく担任の福田先生に声をかけられた。既に20年以上のキャリアを持つ、なかなか精悍な感じを受ける教師だった。
「いやぁ、なかなか…」けどこれでは何にも見てないのではないのかと受け取られてしまうのでは、と心配になり、思わず気になったあの子の事を思い浮かべた。
「でもクラスに一人、すごい美人がいるみたいですね。しかも成績が抜群な」
 福田先生はそれを聞くと、やっぱりな、とでも言いたげにニカッと笑った。
「堀江のことか。まあ正直、男だったら気になるよな、やっぱり。彼女は、あらゆる面でずば抜けてる存在だから。だからこそ気をつけろよ、彼女にかかっちゃ先生だって簡単に立場を奪われかねない」
 不可解なことを言う。さらにそれからちょっと間を置いて、こんな不思議な言葉を続けた。
「まあ、堀江に実際会ったら、顔なんてほとんど見てられないだろうけどな」
「どういうことです?」
「まあ、会えば分かるさ。とにかくあいつには気をつけろ。教師でいたかったらな」

 朝のHRが始まる。高梨は担任の福田と一緒に受け持つ2―Bのクラスに入った。この学年は1年からの持ち上がりでクラス替えはない。担任もそのままだ。ということは――副担の自分だけが、このクラスの新入りということになる。第一印象が肝心、と分かっていても緊張してしまう。
 まず担任の挨拶がある。今年もよろしくな、と簡単に済ませて最後に新しい副担任を紹介する、と後を任された。ちょっと膝が震える。
「はじめまして。わたしは…」
 落ち着かせようとクラスの子たちを端から一人づつ眺めていく。やはり――なんとなく顔に見覚えはあっても、誰ひとりとして名前が浮かんでこない。ただ…ただ一人、あの美少女の写真だけは頭に勝手に浮かんできた。堀江久美子…。しかし見渡したところ、あの写真の顔は見当たらない。今日は欠席か…それとも単にあの写真の写りがとびきりよかっただけで、実際にはそれほどではないのかもな…。なんか自分ひとりで勝手に盛り上がっていたみたいで情けなくなってきた。
 そんな様子を察したのか、あいさつが済んだ後、担任は高梨に出席をとるように指示した。少しでも顔と名前を憶えさせようという配慮だろう。しっかりしなければ、と腹に力をこめてまず最初の一人を読み上げた。
「相沢くん」「はいっ」
 そうか、あいつが相沢だっけ、となんとなく記憶が呼び戻った。
 その後もひとりひとり、頭に刻み込むように顔を見た。
 出席簿は男女順/五十音順だった。男子の最後「渡辺」を済ましてまた女子の「あ」に戻る。それから「か」「さ」「た」「な」…。と進んでいった。
 そしてハ行に来た。その名前が近づいてくるにつれて、なんかまた緊張してくるのが自分でも分かった。いよいよその名前に来た。声が震えそうになるのをぐっとこらえ、一層声を張りあげてその名を呼んだ。
「堀江さん」
 ――しかし返事はない。なんか肩透かしを食らったような気になる。
「堀江…堀江 久美子さん。いませんか?」
 その時、廊下でどたどたと足音がし、ガラッと扉が開いた。
「はいっ!!」
 思わず声の方向を見る。扉の向こうから垣間見えた顔を見てハッとした。きのう写真で、思わず長い時間じーっと見つめ続けてしまった、まさしくその顔が今、現実に目の前にいきなり現れたのだ。
 高梨は思わずその顔を改めて見つめてしまった。その顔は写真そっくり――いや、それ以上だった。彼女がいるその部分だけなんだか光があるように明るく感じ、まぶしいほどだった。
 しかし、本当に驚くのはそれからだった。
「すいませーん。遅刻しちゃいました」
 扉を全開にしてその少女が教室の中に入りこむ。しかしその体が扉を通るだいぶ前に、顔の下あたりから、何かとてつもなく大きく丸いものが2つ、勢いよく突き出してきた。
(何…!?)
 一瞬それが何だか分からなかった。しかし彼女の体全体が教室の中に入ってきた途端、高梨はその正体があまりに信じがたいものであることに気がついて知らずに口をあんぐりさせて呆然と立ち尽くしていた。それは…彼女のバストだった。その大きさたるや顔の何倍にも大きく胸から盛り上がっていて、今にもブラウスのボタンをはじけ飛ばさんばかりだった。
 高梨の時間はその瞬間停止した。そのまま何分も立ち尽くし、高梨は一言も口を開かな――いや、開けなかった。

「すいませんでした」止まったままの高梨を怪訝そうに見つめながら、久美子は皆の机の間をすり抜け、自分の席に向かった。彼女が身体の向きを変えるたびに巨大な胸の膨らみがふるんと揺れて、気をつけないと近くの人にぶつかりそうになる。
「ごめんね」久美子はまわりに呼びかけながらようやく自分の席までたどりつくと、鞄を机の脇にかけて腰を下ろした。
「ふうっ」
 久美子の机はその身長のわりにちょっと高めのものだった。だから座るとごく自然におっぱいが机の上に乗っかる。途端に肩や背中にかかる負荷が一気に軽くなった。
(やっぱりずいぶんと重いもんなんだなぁ、わたしの胸…)改めてこんな事を思うのはそんな時だ。普段、特注ブラによってうまくその重量が分散されていて、さほど気にならない程度にまで軽減されているのだが、やはり一気にそれがなくなると違う。(あー楽だ)と思う。

 久美子はひと段落すると、改めて教壇の上の高梨に眼をやった。相変わらず久美子をじっと見つめたまま微動だにしていない。
(ね、誰あれ? 新しい先生?)
 久美子はななめ前に座っている加寿子に小声で話しかけた。
(うん、そうなんだけどね…)加寿子は久美子に向けて二ヤッと笑った。(どうやら久美子にノーサツされちゃったみたいなの)
(もう…冗談はよしてよ)久美子は取り合わず視線を前に戻す。ちょうど、いつまでも動かない高梨に業を煮やした福田先生が、高梨から教壇を取り戻して出席の後を続け始めていた。その間も、高梨はどこか心あらずといった風にぼーっとしていた。

「なんだあのざまは」
 教員室に戻った後、案の定高梨は福田にこっぴどく怒られた。
「すいません…」ようやく我に返った高梨はさすがに落ち込んで、その雷を甘んじて受け止めていた。しかし一通り落とし終わった後、福田は急に声のトーンを落とした。
「まあ気持ちは分かる。分からんでもない」それはまるで自分に言い聞かせているようでもあった。「でもな、俺らは教師なんだ。絶対にそのことだけは忘れんなよ」

 進学校であるこの高校は、始業式当日から時間割どおりの授業が始まっていた。しかも3時間目はいきなり、高梨が受け持つ世界史の授業が入っている。高梨の気持ちは複雑だった。またあの子に会える、という気持ちと、あの子の前でまた失態を演じないかという不安がまぜっかえされていた。
 それほどまでに彼女の印象は強烈だった。それはなんというか…自分が子供の頃からずっと捜し求めていた――現実には絶対ありえないと思っていたひとつの理想の姿がいきなり目の前に現れたような衝撃があった。
 一目見ただけで、その姿は高梨の脳裏に強く焼きついてしまって離れようとしなかった。キューティクルが内側から満ちあふれているかのようなつややかな黒い髪が肩まで伸び、顔を動かすたびにサラサラと動く。化粧っ気のない、白くきめの細かい肌の上に大きな瞳とすっとよく通った鼻が並び、小さめの唇は適度に濡れてつややかだった。何よりも全体に生気が満ち満ちていて、活発にくるくると変わる表情のどれもがこたえようもなく魅力的だった。まさしく、こんな完璧な美があるとは予想できないほどの究極の美少女――なんて大げさな形容を思わずしたくなってしまうほどだった。しかし一方でどちらかというと年齢より若干幼く見え、女っぽさみたいなものはまだあまり感じさせない。それだけに却って純粋な、まじりっけのないかわいらしさといったものが際立っているようにも思えた。
 しかし、彼女のそんな印象は、視点をちょっと下にずらすと一変する。首より下、肩甲骨のあたりからその胸はすさまじい角度で盛り上がり続け、真正面に巨大な2つの山を築き上げている。その量感たるやすさまじく、片方だけで小さめの頭の何倍もの質量を持っていそうだった。やもするとその美少女ぶりをもってしても顔の印象を薄れさせんばかりの圧倒的な存在感を持っていた。
 それはあたかもその大人の女性としての魅力をすべて胸の中に封じ込めたかのようだった。その豊かすぎる魅力がすべて胸の中にはちきれんばかりに充満し、今にも制服を突き破ってあふれ出しそうになっているのを、非力なブラウスのボタンがなんとかかろうじて食い止めているようにすら見える。その容貌とプロポーションはおたがいそれぞれ"究極"の姿を見せていた。その顔の純真なかわいらしさと、その胸の大人としての女性らしさと…。普通なら合うはずのない両極端なものが、それぞれ最高のレヴェルで不思議な融合をして唯一無二な存在になっている――とても言葉では表しきれない究極な容姿――それが堀江久美子だった。

「おい、時間だぞ」
 福田先生に声をかけられてびくっと我に返る。いつの間にかぼーっと彼女の事を考え続けていたらしい。いけないいけない、何はともあれこの学校での初授業なのだ。社会人として、ひとりの先生としてしっかりしなくては――。
 しかし教室の前まで来るとやはり足が止まってしまった。この扉の向こうにあの子がいるのか…そう思うと、教室に入るだけでも相当の覚悟を決めなければ足が動こうとしなかった。
「あの…」その時、ふと横から声をかけられた。振り向くと――当の堀江久美子本人がそこに立っている。しかも、その大きく突き出したバストがあともうちょっとでぶつかりかねないほどの至近距離に!
「☆△×◇○」
 心の準備ができていなかった高梨は一瞬パニックを起こしかけた。おそらく休み時間中にどこかに行ってて今あわてて戻ってきたんだろうけども、それにしても…。
「あ、すいません」教室の扉の前を塞いだまま再びフリーズしてしまった高梨の横をすり抜けて、久美子は素早く扉を開けて教室の中に入った。
 すり抜ける際――高梨の左ひじあたりにふにゅっと極上のやわらかさを持った感触が伝わってきた。「あ、い、今のは…あの子の…胸…!?――ひょっとして…」

 小走りで教室に入ってきた久美子は、一直線で自分の席に着いた。勢いよく座ったので、その途端自分の胸が机の上にどすんと音を立てて乗っかった。その音の大きさに自分で驚いて、上目遣いにまわりの反応を見てまわった。
 どうやらさほど周囲にまで響かなかったらしいと納得すると、久美子は改めて机の上に広がった自分の胸を見おろした。高校入学から1年、日に日に大きくなっていくそのバストはどんどん机の上を占有していき、今や腰掛けると机の大半はその胸で埋まってしまう。正直、教科書やノートを広げる余裕はほとんどなくなっていた。
 しかし久美子は授業中あまり困ったことはない。というか、そのために神様は自分に特別な記憶力を備え付けてくれたのではないのかと感謝したくなるぐらいだった。
 教科書の内容ぐらい、久美子の頭の中に隅から隅まで記憶されている。学年の始めの頃、一通り教科書を読破してしまい、それだけで1年分の予習は完了だった。ただしそれではノートをとる事ができない。そのために、久美子は去年から新兵器を導入した。
 机の脇にかけてある鞄を開くと、その新兵器を取り出した。それは、薄型のノートパソコンだった。しかも開くとキーボード部分とディスプレイ部分が切り分けられ、両者を無線で通信して別々に使えるように改良されてあった。
 久美子はまずキーボードを机の中に入れ、ディスプレイを座った自分の胸の上に固定した。そして電源を入れると、久美子の目の前で画像が現れる。机の中に手を差し込み、その中で手早く文字を打ち込み始めた。ブラインドタッチはお手のものの久美子ならではの技だった。そうすることによってどんなに胸が大きくなってもまったく邪魔されずにパソコンを操作できるようになる、という久美子にとっては理想的なパソコンになった。頭の中の教科書をめくりながら授業を聞き、手早くノートを"打ち込んで"いく。そのスピードは皆が手書きするより明らかに早かった。先生の板所やしゃべったことはもちろん、その際自分が感じた疑問点、後で調べようと思った問題点等がディスプレイ上に次々と現れ、記録されていった。もはやノートというよりも――授業を活写した一種のドキュメンタリーと言っていいほどだった。

 覚悟を決めて教室に足を踏み入れた高梨は、久美子のその姿を見てとまどいを隠せなかった。教科書もノートも出さず、ただその胸の上に、液晶ディスプレイを乗っけただけの格好を思わず注意しようとしたぐらいだ。しかし彼女の方を向くたびにどうしてもその胸が気になってしまい注意しそびれている間に、彼女が非常に集中して授業を受けているのが分かった。途中試しに何度か質問をしてみると、実にしっかりと受け答えしてみせる。自分が喋ることを全身で受け止め、書き記している事が分かってきて、次第に授業にも熱が入ってきた。自分が話していく内容が口に出すそばから彼女の中に吸い込まれていくような気がして、口調はますます勢いを増していく…。
 終業のベルが鳴った時、高梨は全力を出しつくしたかのようにどっと疲れを覚えた。のどもいがらっぽくなっている。自分が持っているすべての力を久美子一人に精一杯投げつけたような気がしたが――当の久美子を見ると、なんてことはなさそうにケロッとしてる。なんかくやしかった。

 それでも高梨は、これで今朝の失態をいくぶんは取り戻せたような気がして教室を後にした。体はぐったりしていたが、心地よい疲れ方だった。
「あの…」
 職員室に向かおうと歩き始めた所で、後ろから声をかけられた。この声は…とあわてて振り返ると、やはり、堀江久美子が立っていた。
「すいません、質問があるんですけども…」
 彼女を見てると、疲れが吹き飛ぶような高揚感を感じた。質問は今日授業で取り上げたメソポタミア文明についてで、特にジグラット(もしくはジッグラト)と呼ばれる古代の建造物に興味を持っているようだった。質問というよりも、もっと詳しい事が知りたいという好奇心からいろいろ訊いてくるような感じだったが、その知識量が半端でない。様々な文献の名前をそらですらすらと読み上げながら、専門であるはずのこちらがたじたじとなるような情報量でせまってきた。
 しまいにはこちらも答えに詰まり、次までに調べてくると約束してようやく開放された。
「それにしても――よく知ってるね。歴史好きなの?」
「ええ、まあ」にっこりと笑って見せた。「というか、いろいろ調べて考えるのが好きなんです」
 なんとなくあの好成績が納得できた。しかも驚くべきことに、いわゆるガリ勉的なところが微塵もなかった。
「ずいぶんと専門的な本も読んでいるようだね。僕も読んでないのもあったよ」
「え?」久美子は不思議そうな顔をした。「だって、今挙げた本はぜんぶ学校の図書館にありますよ」
 今度はこっちがびっくりする番だった。「おいおい、まさか図書館の本、全部読んだなんてこと――」
「ええ」久美子は事もなげに即答した。「興味ある本は、1年生の時にあらかた読んで頭に入れちゃいましたけど」
 高梨はもう言葉がなかった。しかし仮にも"先生"としてこのまま引き下がるのはくやしい。せめて同レヴェルまではいかなければ、と口を開いた。
「そうか。実は僕、この学校に来たばかりだから図書室にはまだ行ってないんだ。その本、ちょっと教えてくれないか?」それからふと思いついてこう付け加えた。「なんだったら昼休みにでも、一緒に行ってくれるとありがたいんだけど」後半、自分の願望がひょいと首をもたげてきた。
「ええ、いいですよ」久美子はあっさりと承諾した。
「それじゃあ昼休みに。呼び止めてしまってすいませんでした」
 久美子はぺこりと頭を下げる。その途端、頭よりもはるかに大きく胸がぶんとしなった。
「あ、いや…こちらこそ」
 また歩き始めようとしたしたところで、また声がした。
「あ…」
「なんだい?」
「あ、いや…たいしたことではないんですけど…」
 そんな事を言われると気になる。振り返って先を待った。
「先生、すごい熱心ですね」
 え? その言葉に意表を突かれた。
「いや、こう言ってはなんですが、あんまり授業に力が入ってない先生ってのもけっこういるもんですから。さっきの先生の授業、すごく熱がこもった、いい授業だったと思います。わたし、先生の授業、好きです」
 久美子の口から「好き」という言葉が出た時、高梨の心からとてつもない勢いで歓喜が噴き出してきた。もちろん、その言葉に裏はない。それは分かっている、分かっているんだけども――それでもどうしようもないほどうれしかった。
「ありがとう」
 高梨はめちゃくちゃ顔を崩しながら、今度こそ職員室に向かった。

 そして昼休み、昼食をとるのももどかしく、高梨は学校の図書室に駆けつけた。考えてみれば細かい指定をしていなかったのだが、まあなんとかなるさ、彼女が来れば、絶対目立つしな、と高をくくった。
 しかし――来て不安になった。この学校の図書室はけっこう広い。蔵書数も相当なものがあった。
 ずらりと並んだ書棚を見渡して、高校の規模を超えるその量に高梨は圧倒されていた。
(これを、あの子は全部読んだっていうのか――?)
 しかも、読んだだけでなく「頭に入れてしまった」と言っていた。そんなことが可能なのだろうか…。
 ついつい専門である歴史書のコーナーに足を伸ばしていた。充実したものだった。ヘロドトスの「歴史」や「ローマ帝国衰亡史」といった古典の翻訳ものから最近の研究書まで、質の高いものがずらりと並んでいる。高梨自身、目を通したことあるのは半分ぐらいにすぎなかった。
 眺めているうちに、目の片隅に、棚の向こうから、思いっきり突き出した制服の胸だけが飛び込んできた。ハッとして視線をそちらに集中すると、その胸にしばし遅れて、その本体がついてきた。
「あ、ここにいらっしゃったんですね」
 久美子はまず高梨に遅れたことを詫びた。いや、正確に場所と時間を決めなかったこっちが悪いと高梨が謝ると、久美子は「すいません」と小さな声で言った。
「それにしても思った以上に充実してるね、ここは。――ところで、これを全部読んだって…本当かい?」
 久美子は高梨の表情を読むように見つめると、ちょっと恥ずかしそうに頬笑んだ。
「あ、あれ…。まあ全部というと語弊があるんですけど…。ちらっと見て、面白そうと思ったものは確かに読みましたけど、ちょっとなぁ、って思ったのは棚に返してそれっきりですから――。正直に言うと全体の8割ぐらいですね、本当は」
 8割…! それにしても信じがたい数だ。
 その時、久美子がふと何かを見つけて1冊の本に手を伸ばした。
「あ、これ新しく入った本だ」
 久美子が手に取った本のタイトルを見て、高梨はハッとした。彼もこの前読んだばかりのとある大学教授の新刊だった。ただこの教授、発想は面白いのだが論理にかなり飛躍があり、トンデモ教授として一部で妙な評判を呼んでいるのだ。この本も、インパクトの割には中身は薄い、というのが高梨の評価だった。
 久美子は自分の胸の上に両手を置くようにして本を開くと、途端に目の前の本に集中しだした。そして最初からおそろしい勢いでページをめくっていく。本当に読んでいるのかと訝しくなったが、彼女の様子が真剣そのものだったので口を出せなかった。
 3分とかからず、最後のページに到達して本を閉じた。中身を反芻するようにまだ本の背表紙を見つめている。
「どうだった?」本当に読んだのか、という好奇心から訊いてみた。
「面白い――と最初は思ったんだけどな」久美子の口調はどこか不満げだった。「視点は面白いけど、話の進め方が強引で無理があるんです。結論を急ぎすぎて、材料をむりやりそれに当てはめようとしているって感じで…」
 久美子の言葉にはよどみがなかった。今考えた事をそのまま口に出しているからだろう。
「そうだろうね」高梨もその意見に同感だった。
「先生、この本読んだんですか?」
「ああ、自分で買ってね。この作者、論理の強引さで有名なんだよ。それでしばしば結論が突飛になりやすい。けどそれが面白いっていうんでけっこうファンもいるんだよ」
「先生も…?」久美子の目にちょっと不安の色が走った。
「あ、いや…」高梨はちょっとあわてた。「そういう訳じゃないけどね、ただ、ここまでやるんなら、思い切って歴史SFでも書けば面白いんじゃないかと思うよ」
「歴史SF!? あ、それ面白いかも」久美子の顔がきらっと輝いた。
「だろ」
 久美子は楽しそうに目を輝かせた。「そうねぇ。この本の題材でSFを作るなら…」それからしばらく、久美子は今読んだ本の内容をサカナにさらに突飛なアイディアを次々と重ねあげ、荒唐無稽かつ波乱万丈のストーリーを即興で語ってみせた。高梨はその内容の豊かさに舌を巻いた。(こりゃ、元の本より何倍も面白いや) とてつもないアイディアが惜しげもなくぽんぽんと投入されていったが、おそらく彼女の頭の中では今、そうしたものがすごい勢いで次々と湧いて出てるに違いない。思いついたものをすべて喋りつくそうと自然と早口になってきたのだが、それでも口が追いつかないようだった。
 高梨はといえば、それを聞きながら腹をかかえて笑っている。図書室という場所がら、なんとか声を殺そうとしているのだけど、どうにもこらえきれず笑い声が後から後から漏れていた。まわりに人気がなかったからまだよかったとはいえ、かなり迷惑だったに違いない。
「――という風な話はどう?」最後にちゃんと見事なオチまでつけて、久美子はやっと長い物語を語り終えた。高梨はといえば、笑いすぎてほとんど声も出なかった。
「いやぁ、ケッサクだ。元の本より今君がしゃべった話のほうがずっと面白い。紙に残してないのが残念だよ」そしてふと訊いた。「その本、本当に今 初めて読んだのかい?」
「ええ、そうですよ」久美子はまた、なんでそんなことを訊くのか分からないといった顔をした。少なくとも彼女があの3分たらずの間に、あの本を読み、中身をすっかり頭に叩き込んでしまったことは間違いなさそうだった。でなければ、あのように細部まで踏み込んでパロディーを作ることなんてできっこない。

 その時、昼休み終了を終えるチャイムが聞こえてきた。
「あ、いっけない。こんなことに時間をとってるんじゃなかった」
「あ、そうそう。さっきの本について教えてくれるんだったよね」
「えっと、あの本は確かそこら辺に…、あ、あった!」
 久美子は高梨の斜め前にある本棚に突進した。動きにあわせて大きな胸が無防備に揺れる。2人の間にはまだけっこう距離があったにもかかわらず、久美子の胸がその拍子に高梨の顔に向かってきた。
「うわっ」高梨は反射的によけようとしたが、間に合わず、目の前に一瞬まるくて巨大なものがいっぱいに広がり、次の瞬間、思いっきり激突した。
 顔全体にとてつもなくやわらかい感触が広がり、あっという間に高梨の顔をすき間なく覆いつくす。衝撃はなかった。しかし次の瞬間、大きくはじき飛ばされるような力を感じ、高梨は大きくよろけた。
「あ…」
 久美子の方もこれにはびっくりしたようだ。
「だ、大丈夫ですか…すいません。その…この胸、どんどん大きくなるもんだから、時々――なんていうか…車幅感覚が狂っちゃうんです。だから、まさか大丈夫だろうって距離をとっているのに胸がぶつかっちゃって…すいませんでした!」
 あわてて言わなくてもいいような言い訳をしてしまっていた。

 それから1時間後、高梨が5時間目の他のクラスの授業を終えて職員室に帰ろうとした時、また呼び止められる声がした。
「先生」
 今日1日ですっかり耳にこびりついてしまったその声は――振り返ると、まず顔より先に胸が飛び込んできた――堀江久美子だった。
「先生、さっきはすみませんでした」
 高梨の方こそ思い出してどぎまぎする。できればもう一度やってほしい…なんて本音を言う訳にはいかない。
「いや、どうってことないから、気にしないで」
 高梨の苦笑いからどうやら怒ってない事を察した久美子は、一瞬ほっとした表情を見せ、それからニコッと笑った。
「これ、おわびといってはなんですが…」と何か黒いものを差し出した。見ると1枚のフロッピーディスクだった。
「これは…?」
「さっき、先生すごい面白がってくれたから…」久美子は楽しくってしょうがない、って風に笑った。「ヴァージョンアップしてみました。会心の作です」
「あれを…。いつ――」って、5時間目の授業時間しかなかったはずだが、いつの間に…。
「だって、5時間目の先生、すごいつまんない授業するんだもん。高梨先生とえらい違い。だからめいっぱい内職してやりました。その方が有意義に時間使えるんだもん」いたずらっぽく笑った。
 高梨は唖然とした。そして先ほどの授業風景を思い出していた。そう、あのノートパソコン。あれを授業中、ノートをとるふりをしてずっとこれを打ち込んでいたのだろう。
 そして高梨は次の瞬間、冷水を浴びせかけられるような悪寒を感じた。(もし俺がつまんない授業をしたら…やっぱりこんな風に内職されちゃうんだろうな――) そこには、自分でも思いも寄らないほど強烈な喪失感があった。
「面白いですよ。書いてるうちについつい吹きだしそうになっちゃって…。もうちょっとでバレちゃうところでした。この中にテキストファイルで入ってますから。じゃ、感想聞かせてくださいね」久美子はそれだけ言うとすたすた歩き出した。背筋をピンと伸ばし、すらりとした足がしなやかに動く。そしてその胴体からはみ出さんばかりに大きく張り出した胸が、足を踏み出すたびにたゆんたゆんと静かに揺れる――。
 高梨は見えなくなるまで、彼女の後姿から目を離すことができなかった。(おーい、俺だって先生なんだぞ)

 家に帰ってから、高梨はパソコンに電源を入れ、そのフロッピーの中身をエディターで開いた。
 昼休みに聞いたあの話が、さらにふくらまされ、格段のスケールで語られていた。分量的にもあの時の倍ほどになってただろうか。あの本の題材も一層細密に使われパロディ化され、高梨は何度となくディスプレイの前でひとり大笑いした。あれだけの短い時間に、これだけのものを作り上げてしまうとは…。単に記憶力だけではない、頭の回転の速さ、発想力、独創性、どれひとつとっても尋常でないほどずば抜けている事は間違いなかった。そして結末のところまで来て愕然とした。そこだけは昼に話した時とは違い、むしろこのテーマに対する新たな学説といったところまで昇華されていた。こんな形ではなく、この線できちんと論文としてまとめたら、高い評価を受けるかもしれない。それほどオリジナルとは比べ物にならないほど説得力を持ったものに変貌していた。

 読み終わった高梨は、なんだかやるせなくなってパソコンの電源を落とした。真っ暗になったディスプレイに自分の顔がおぼろげに写し出される。高梨はそれを見るともなく見つめながら、今日一日の事をひとつひとつ思い起こしていた。
「堀江…久美子、か――」
 完敗だ――。彼女には何から何までかなわない…。ふと福田の言っていた言葉を思い出していた。「気をつけろよ、彼女にかかっちゃ先生だって簡単に立場を奪われかねない」
 今ならその言葉の真意が、痛いほどに分かった…。その一方、今日図書館で彼女から顔全体に喰らった胸の感触が唐突に蘇ってきて、止めようもなく顔に血がのぼっていくのを感じていた。

 高梨幸一 26歳。この学校の初日は、10歳も年下の生徒にいいように振り回されて終わった。