目の前のドアが音を立てて開く。中に入ろうと足を前に踏み出した途端、まわりの人の視線が一斉にわたしに注がれた。
かつて日本は、気がつくと長寿世界一となって驚かれたことがあったけども、今度はまた、いつの間にか超乳世界一となっていて、欧米諸国から驚異の目で見られていた。食生活の変化だ欧米化だなんだと言われるのを尻目に、日本人女性の胸は10年あまり前からぐんぐんと増加の一途をたどっていって、今や成人女性のバストの平均は1メートルをはるかに上回っていた。その平均サイズは今もなお年々急上昇のカーブを描いている。下着メーカー各社も次々大きなサイズのブラジャーを作ることに力を入れていて、Kカップ以上が主流になって久しい。しかも売れ筋カップサイズは年々大きい方へと移行し続けていた。
かといっていいことばかりともいえない。その最たるものが性犯罪件数の激増だった。特に電車等での痴漢行為の多さはここ数年目を覆わんばかりだ。警察もその対応には頭を痛め、遂にその対策として、JR・私鉄各線でこの春から「超乳専用車両」をラッシュ時の1車両に儲けることに決めた。
もちろんその決定はすんなり通った訳ではない。特に、いったいどこからを「超乳」にするのか、という基準をめぐって長いこと論争が絶えなかった。結局施行直前になって「トップ―アンダー」差が50センチ以上、ブラのカップにしてQカップ以上の人が超乳ということに決められたのだが、まだ議論が出尽くした訳ではない。第一この基準でも今や20代女性の15%が超乳に該当してしまうのだ。しかも年々このパーセンテージは上がっていっている。もともとスペースをとってしまうこの体型、この基準でも1両だけでは対象者が多すぎて混雑は必至だった。
わたしが乗り込もうとした時も、車内はもう既にかなり混みあっていた。もちろん他の車両に比べると人と人との間にはまだすき間があったけども、当たり前の話だが誰もが皆胸から大きなふくらみを2つ突き出させていて、今にもぶつかりそうになっている。もうちょっと混んできたらおっぱい同士がひしめき合ってしまうだろう。そんな所にわたしが乗り込んできたのだ。乗客の目がわたしに――正確にはわたしの胸に集まってしまうのは、致し方ないことなのだろう。
――そう、わたしの胸は、こうした超乳化が進む日本の中にあっても並はずれて大きかった。小学校の終わり頃からふくらみ始めた胸は、23になった今でもまだ止まらずに毎月数センチのペースでなおも大きくなり続けている。いかに大きいサイズが主流になったブラジャーといえども、既製品ではZカップまでしか作られてないから、わたしは高校時代からずっと特注品のブラジャーをつけ続けなければならなかった。別にぜいたくしているつもりはないのに、暮らしはいつまでたっても余裕がなかった。給料の大半は服飾費に消える。――もちろん別にブランド物を買いあさっている訳ではない。数ヶ月に一度、大きなサイズに新調し直さなければならないブラジャーと洋服代で手一杯なのだ。
「ごめんなさい…」
車両の中に足を踏み入れながら、わたしはまわりに声をかけずにはいられなかった。まだ体はドアの外にあるのに、バストの先は早くも中の人の体に押し付けられ始めていた。その感触にちょっとひるんだけども、この電車に乗らないわけにはいかないのだ。心を鬼にして、ぎゅ、ぎゅ、と胸を押し込むように中に入り込んでいく…。
この駅で超乳専用車両に乗り込んだのはわたしだけだった。なのに、なんだかわたし一人が加わっただけで車内の人口密度は格段に上がったような気がする。乗る前はそれなりに余裕があったように見えたのに、今や車両全体がぎゅうぎゅう詰めで体がほとんど動かせないほどだった。
(やっぱりこれ――わたしのせい? ああ、やっぱり無理言っても時間ずらせばよかったかなぁ…)
――――――――――――
超乳専用車両が施行されたのは1月あまり前のこと。しかしわたしがこれを利用するのは今日が初めてだった。今までは――去年社会人になって以来、わざと通勤時間をずらして、誰よりも早く出社するようにしていた。毎朝6時には家を出なければならないのはつらくないと言えば嘘になるけど、それぐらいの時間でないと、都心に向かう電車はわたしが乗れるほど空いてくれないのだ。それがわかっているから、去年の春に入社して以来、一日も欠かさずに早起きを続けてきたのだ。
それが――2年目を迎えどこか気が緩んでいたのだろうか、今日に限って寝過ごしてしまったのだ。目が覚めて時計を見てびっくりした。今からすぐ家を出ても会社に着くのはギリギリなぐらいだ。おそらく今、電車の中はただでさえ殺人的に込み合っている。そのような中にわたしが乗り込もうとしたら…。正直、さぼろうかな、という考えが頭をかすめた。もうどうせ間に合いっこないし…となるべく時間を引き延ばすようにのろのろと支度をした。ラッシュアワーをやりすごし、電車が空く頃を見計らってのんびり午後出社しようか…なんてことを考えながら、始業時間5分前にやっと会社に電話をかけた。
「あの、穴吹ですけども…」
「あ、利緒? どうしたの今日は」
幸い、電話に出たのは仲よくしている女の先輩だった。いつもなら一番に出社している自分がギリギリになっても来ないので心配してくれてたのだろう。
この人なら事情も分かってるし話しやすい、と昼から出る事を伝えようとしたが、最後まで話させてもくれなかった。
「昼から…? うーん、無理よ。今日はそれどころじゃ――」
「え? 何かあったの?」
「うん、朝イチで○○興産からクレームが入っちゃったの」そこはわたしも担当している会社だった。
「完全にこっちのミスでね。下手すると損害賠償までいっちゃうかもしれない。だからこれから緊急で対応会議が始まるの。あなたも――できる限り早く来て」
わたしは絶句した。確かに今すぐにでも会社に行かなければならない事態なのは分かった。しかし今電車に乗ろうものなら…。
こちらが黙っているのにじれてきたのか、先輩の声も上ずってきた。
「ねえ…。――まあだいたい事情は察しつくけどさ、非常事態なの。すぐ来て。ほら、ちょうど超乳専用車両ってのもできたじゃない。あれに乗っちゃえばさ。お願い!」
ダメ押しだった。超乳専用車両…なまじっかあんなものがあるから押し切られてしまう。けれどもそれに文句を言うのは筋違いだった。結局同意して電話を切った。
――――――――――――
数十人の超乳を詰め込んでぎしぎしと車体をきしませながら、電車は重そうに震えている。あたりを見回すと、一面に乳、乳、乳があふれかえり、ぶつかりあってうめき声が聞こえてきそうだった。その中にあっても――わたしの胸の前に広がるおっぱいが、他の人の倍ほどものスペースを占領しているのは明らかだった。いつもはあまり気にしないようにしているけども――こうして見るとわたしの胸の大きさが、この超乳日本の中にあってもずば抜けていることを思い知らされてしまう。しかも、ぱんぱんに張りつめたわたしのおっぱいに圧されて、そのまわりの10人近くもの人の胸や顔がひしゃげてしまっているのだ。誰も何も言わないけども、おそらくわたしの胸、迷惑がられてるんだろうなぁ、と思うと本当に申し訳なくなってくる。わたしの胸、人一倍大きいだけでなく張り具合も人より強いらしく、まわりの人をすべてその胸ではじき飛ばしてしまいそうだった。
列車が徐々にスピードを落とす。ずいぶんと長い時間のように思ったけど、ようやく次の駅に着いたのだった。ドアが開く。すると降りようとする人たちが一斉にわたしの胸に構わず押し寄せてきた。わたしもよろけそうになるのを押さえてやりすごそうとするけども――大きく前に突き出した胸が出る人のじゃまになって、結局一旦外に出ない訳にいかなかった。出終わってからまた電車に乗ろうとして――まわりを見て愕然となった。今降りた人の分を差し引いても、どう見ても先ほどより多くの女性がドアのまわりにひしめいていた。誰もが胸が大きい。この車両に乗ろうとしているのは明らかだった。一瞬このまま降りて次の電車に乗ろうかとも考えたけど、なんか次の電車はもっと混んでいそうな気がしてあわててドアから乗り込んでいった。
先ほどと違って、乗ったすぐそばから背中におっぱいの感触が次々押し寄せてきて、わたしの体を車両の中へ中へと押し込まれていく。
わたしはおっぱいの先の方が他人の胸と胸に挟まれてぎゅーっと引き絞られていくのを感じた。せっかく苦労して留めたスーツのボタンが引き千切られてしまうのではと心配になってくる。とはいえ人に囲まれてわたしは自分のおっぱいの先が見えない。車内の密度がぐんぐんと上がっていくのを感じる。もう無理だよ、と思うのにさらに後ろから人が乗ってくるようだった。どうやらもう入らないほどぎっしりなのに、まだ乗ろうとする人がいるので駅員さんがさらに押し込もうとしているらしい。
「どうして今日はこんなに混むのぉ?」
どこかで引き絞るような声が聞こえる。今日はいつもより特別に混んでいるんだろうか、悪い時に乗っちゃったんだな、と思った瞬間、わたしはいきなり何人もの視線を感じた。
「!?」
わたしのまわりで、わたしのおっぱいに押されている女性がみんな、一斉にわたしの方を見たのだ。それも、さもうらみがましそうな視線で…。それは一瞬のことだったが、わたしは暑いのに背筋がひやっとした気がした。
(わたしの――わたしのおっぱいのせいなの? この混みようは…)
それからのわたしは針のむしろだった。申し訳なさで体が小さくなるような思いだったけど、実際にはおっぱいが小さくなるなんてことはまったくなく、むしろ圧された反発でさらに激しくまわりを圧迫し続けている。けどとにかく精一杯体だけでも縮こまらせて、ほとんど無の状態で電車に乗り続けていた。
いったいいくつ駅を乗り過ごしただろう。その度に車内の密度はなおも少しづつ上がっていく。わたしのおっぱいも無数の人たちにぎゅうぎゅうに詰め寄られて、今にもパチンとはじけ飛んでしまいそうだった。しかし今のわたしは、いっそのこと一気にこの胸がはじけ飛んでなくなってしまえばいいのに、と半ば本気に考えていた。
何度目かの駅に着いた。なにげなく駅のアナウンスを一旦聞き流し、それからハッとなった。降りる駅だ。大変、乗り過ごしちゃう!とわたしはそれまでの申し訳なさも忘れて、人ごみから抜け出すように力づくで体を揺り動かした。
その途端、まわりの人ごみがまるでウェイヴのように波打った気がした。
(え?)
でも気にしてなどいられない、ぐずぐずしてたら降りれなくなっちゃう、と構うことなく体をドアに向けて反転させた。
不意に後ろの方からいくつか叫び声が聞こえてくる。不思議に思ったけどもとにかく前に進む。
「すいません、降りま〜す」
前方にもまだまだたくさんの超乳が詰まっている。けれどもなりふりかまっていられない。自分の胸をドリルを突き刺すように突進していった。まるで超乳の壁を突き崩すようにしてなんとかドアから外に出ると、長いトンネルを出たかのようにすがすがしい外の空気に包まれた。
「はぁっ、やっと出られたぁ」
出た途端、すぐ後ろでドアが閉まる。何気なく振り向いて今までいた車内を窓から覗きこむと――愕然とした。
車内では何人もの人が将棋倒しのようになって倒れていた。怪我はないらしく、皆よろよろと次々立ち上がっていたけども――わたしが降りる時、無理に動いたせいでこのおっぱいにはじき飛ばされたに違いなかった。
それより一番驚いたのは――この駅で降りたのはわたしの他数人にすぎなかったのに――今までのぎゅうぎゅうぶりが信じられないほど、人と人との間にすき間ができてスカスカだったのだ。
(これだけの空間、全部わたしが占領してたっていうの…?)
わたしは思わず目を伏せた。なんだか車内の女性全員が自分の事を見つめているような気がしてしょうがなかったのだ。
電車が通り過ぎていく音を耳にしながら、わたしはうつむいたままじっと考えていた。もう絶対寝過ごしたりしまい、超乳専用車両なんてもうたくさん。この車両は――わたしにはあまりに小さすぎる。
(ああ、トップ―アンダー差1メートル以上の、超々乳専用車両ってできないかなぁ…)
まさかね、と一人つぶやきながら、わたしはあきらめたように会社への道を歩き始めた。
P.S.
それからわずか2年後、新聞には利緒の要望どおり、超々乳専用車両の設置が義務付けられたというニュースが一斉に載っていた。この2年間、日本の超乳化は歯止めがかかるどころかますます勢いづいて進んでいき、超乳専用車両だけでは他の車両以上の混雑が絶えず、さらに1段上のランクを求める声が多くなっていたのだ。鉄道各社もその声を無視しきれなくなり、遂にはラッシュ時の2両目の車両を用いて…。
遂に念願かなった利緒はさぞ喜んで――と思いきや、その記事を読む利緒の顔は晴れるどころかますます暗くなっていった。
(もう…遅すぎるわ。こんなもんじゃ――今のわたしにはあまりに小さすぎる…。ああ、トップ―アンダー差2メートル以上の、超々々乳専用車両ってできないかなぁ…)
利緒は、この2年の間にさらに格段の成長を遂げた胸を見つめながら、深いため息をついた。