頼りたい背中

ジグラット 作
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 電車がホームに入ってきた振動が伝わってくる。
(やべ、遅刻する!) まだ駅の階段は半ばすぎ。僕は一層足に力を込めた。
 高校の入学式から1週間、そろそろ慣れて気が緩んできたのか、今朝は思い切り寝過ごしてしまった。あわてて家を出たけども、この電車を逃すと始業前の学校に間にあわない。最後のチャンスと一気に階段を駆け上がるが、ホームに足がかかった時にはもうドアが全開になっていた。迷ってる暇はない。構うもんかとそのまま足を止めず一気に車中へと駆け込んだ。
 その時だった。なにかとてつもなく大きくてやわらかいものに胴体ごとぶち当たり、次の瞬間、体ごとはじき飛ばされていた。
(うゎっ!)
 一瞬のことで何が起こったかも分からない。気がつくと僕の体は電車の外で仰向けに転がっていた。なんだか意識が遠くなっていく――。

「――なさい! 大丈夫ですか? しっかりしてください!」
 すぐ近くで必死に呼びかける声がする。徐々に意識が戻ってきて、朦朧とした頭の中、目の前で電車のドアが閉まって動き出すのを漠然と見つめていた。ほんの数秒、意識が飛んでいたらしい。
 遅刻確定。そんな言葉をなんとなく思い浮かべるうちにだんだん頭がはっきりしてきた。ちょうどその時駆け寄ってきた駅員に「君、大丈夫? なにがあったの?」と声をかけられる。「あ、大丈夫です」そう言って立ち上がろうとしたがくらっときてまた腰から落ちた。
「わたしのせいなんです。ごめんなさい!」その時になってそれまで自分に声をかけ続けていた声の存在にようやく注意がいく。その声の主の顔を認識した途端ぎくりとした。
「倉本…さん――?」
 呼ばれた女性は一瞬表情をこわばらせる。考えればむりもない。見知らぬ男性からいきなり自分の名前を呼ばれたのだから。「あ、僕、隣のクラスの冴木です。ほら」と制服の襟につけた校章を指し示すと、相手はようやく腑に落ちたのか顔の緊張をゆるめた。

「立てますか?」まだふらつく僕に倉本さんは肩を貸して立ち上がるのを促す。補助されてようやく腰を上げた僕に対し、「少しここで休みましょう」と彼女は駅のベンチに誘導して座らせてくれた。(嘘だろ、あの倉本さんが、僕に肩を…)そう、その間中、その華奢な肩に僕の腕が触れていたのだ。しかしその一見もろそうな肩で意外と力強く僕の体を引き上げ、すんなりと座らせてくれた。なにが起こったかは分からないけど、すごい貴重な体験をした気がする。
「ほんとに大丈夫ですか? 頭打ったみたいですけども」倉本さんは僕のすぐ横に座ると心配そうにこちらを覗き込んだ。すぐ間近に倉本さんの顔がある、それだけで緊張して体がこわばるのを感じる。
「そ、それよりも倉本さん、急がないと。遅刻しちゃいますよ」
「そ、そんな…」彼女はいかにも心外そうな顔をした。「わたしのせいなんですから。少し様子をみさせてください」一歩も引かないような強い口調だった。わたしのせい――さっきもそう言ったけどもいったい何がどうなって、彼女とどうかかわりがあるのか今もまだよくわかってない。「それにさっきの電車逃したら、どうせ遅刻ですから。もう仕方ないです」倉本さんも腹をくくったのか自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「それにしても――違うクラスなのに、よく分かりましたね、わたしのこと」彼女はふと今気がついたかのように口をついたが、それにはこちらの方がびっくりした。そりゃ彼女が僕のような目立たない存在を知らないのは当然のことだけども、彼女のことは――。入学してまだ1週間、そのわずかな時間だけでも1年生で彼女のことを知らない人はまずいないだろう。いや、もう既に2・3年生の間にも噂は広まり続けており、全校生徒に知れ渡るのはもう時間の問題だった。
 倉本歩友美――入学式当日からその存在は際立っていた。大きく見開いたつぶらな瞳、抜けるようなきめの細かい白い肌、高くはないがよく通った鼻筋、小ぶりで形のいい唇、肩を覆うほどに伸びたさらさらの黒髪、まだあどけなさの残る愛くるしい表情――全新入生が一堂に会した体育館の中でも、彼女のいるところだけなんだか浮き上がって輝いているように見えた。噂では勉強もよくできるらしい。さらにその落ち着いた物腰と静かな佇まいで、誰の目から見ても究極の"清楚な美少女"という感じなのだ。そう、ただ一点を覗いては――。
 そんな倉本さんが、僕のすぐ横に座り心配そうに話しかけてくれ…いやいや、もったいなくもくださっているのだ。緊張しないわけがない。ついしどろもどろになってしまいそうになるが、今そんなそぶりを見せれば彼女はもっと心配そうにこちらを見つめてくる。そんなことをさせるわけにはいかない、と注意してなんとか落ち着いてしっかりと受け答えした。
「ほんとにもう大丈夫ですから。気を失ったのも一瞬のことだったし」そして、さっきから気になっていることをようやく尋ねた。「それに、さっき倉本さん『わたしのせい』って言ってましたが――実はどうして転がったのかよく分かってないんですよ。僕、どうしちゃったんですか?」
 そう口にした途端、倉本さんはハッとしたように目を見開き、すぐにうつむいて口を閉じた。しばらく続く沈黙。さも恥ずかしそうに徐々に頬に赤みがさしていく。
 そんなそぶりをされるとさらに気になるけども、彼女も何度か口を開こうとしては濁らせる、そんなことを繰り返す。言おうとはしているんだ。けどそんなに言いにくいことなんだろうか? 腑に落ちないまでも辛抱強くじっと待っていた。
「その…」彼女はようやく勇気を振り絞るように口を開く。「わたしが悪いんです。他のことに気を取られてまわりを注意してなくて、気がついた時には目の前に冴木くんが飛び込んできて――次の瞬間、冴木くんをはじき飛ばしてたんです」そして耳まで真っ赤にしながら、両腕を目一杯広げて抱え込むように自分の胸を覆った。「この――胸で…」
「あ…」その瞬間、僕の頭の中をあの時のことがフラッシュバックのように駆け巡る。あの時感じたとてつもなく大きくてやわらかい感触、次の瞬間そのやわらかいものが一気に反発して自分を体ごと持っていってしまったそのとてつもない弾力――あれは倉本さんの…胸、だったのか! 一瞬にしてすべての事が繋がった。
 そう、先ほど言いかけた、彼女の"清楚な美少女"らしからぬただ1点、それは…首のすぐ下からすさまじい角度で隆起していく、その…巨大なバストだった。ずぼっとした制服のブレザーを今も恐ろしい勢いで盛り上げ、まるで2つの砲弾のように力強く前に突き出ているその胸は、芸術的なまでに見事な曲線を描いていた。このブレザーもおそらくは特注なのだろうが、それでもしっかりと留められた胸のボタンが今にもはじけ飛ぶのではないかと心配になるほどパツンパツンに張り詰めている。もちろんこれも彼女の存在感を際立たせる特徴のひとつではあるが、その華奢な体に不釣り合いなほどの胸のふくらみも、その大きさに関わらず形よく突き出した力強さで、彼女の品を失わせない不思議なバランスを保っていた。
 あの時のあれは――彼女のおっぱいだったのか…。途端にその感触がまざまざと思い起こされて、今さらながらこっちも一気に気が昂ぶってくる。彼女は現在学校で、そのあまりに際立った存在故に誰もが一歩距離を置いた、不可蝕の偶像――文字通りの"アイドル"的な立ち位置にあった。そこに僕のようなモブが、不可抗力とはいえ彼女のパーソナルスペースに踏み入り、あろうことかそのおっぱいに触れてしまったのだ…。
「も、申し訳ありません」思わずひれ伏すように謝ってしまったが、それには彼女の方が驚いていた。「ど、どうして謝るんです? 悪いのはわたしなのに」 いや、ぶつかってきたのはこっちで、どう考えても倉本さんの方が正当防衛でしょう、という論理は彼女にはないらしい。なんかイメージ通りの素直ないい子なのでこっちはよけい恐縮してしまう。
 僕はいたたまれず、ベンチから立ち上がった。「大丈夫なんですか?」倉本さんは驚いたように口を開くが、これ以上学校のアイドルと一緒の時を過ごす勇気は僕にはなかった。「はい。もうすっかり」ちょっとまだ頭がクラクラするけども、精一杯虚勢を張って両手を振り、元気さををアピールした。「ですから倉本さんももう、学校に行ってください。今からだと2時間目からになるでしょうが、これ以上お気遣いは無用です」
「じゃあ、一緒に行きましょう」こともなげに言うと彼女も立ち上がった。その勢いだけでブレザーに押し込まれた胸が大きくたわむ。「え、それは…」口ごもる僕に「時間が経ってから具合が悪くなることもありますから。学校までお供します」頑とした様子で言い放った。

 結局僕は倉本さんと、次に来た電車に一緒に乗り込んだ。時間が遅れた分、車内はいつもより大分空いている。車中お互い特に何を話すでもなく、倉本さんは何を思ったか僕の後ろに回ると、じっと僕の方を見て様子をうかがっていた。僕のすぐ後ろに倉本さんがいる、それだけでけっこう緊張が走るけども、ちらりと後ろを覗き込むと彼女は何事かを必死で考えているかのように口を結んだまままじまじとこちらを見つめていた。
 学校の最寄り駅に到着して一緒に降りる。目的地が同じなのだから仕方がないけど、もし倉本さんと一緒に登校しているのを誰かに見られたら何を言われるか分からない、そんなことを気にしながら静かに廊下を歩いていった。幸いまだ1時間目の授業中で皆教室に座っていて誰に見られることもなかったが。
 自分の教室の前で足を止めると、倉本さんはそのままひとつ先の教室に向かいかけ、距離が空いたのでようやくほっとした。「あの」しかし僕が立ち止まったのに気づいて倉本さんは振り返り、手にスマホを持ってこちらに話しかけてきた。「後になって何かあったら心配なんで、連絡先教えてくださいませんか」こちらも鞄からスマホを取り出し、その場でLINEを交換する。「それじゃ冴木くん、少しでもおかしなことがあったら、遠慮なく言ってください」と彼女はぺこりと頭を下げ、「今日は本当に申し訳ありませんでした」と改めて言い残し、頭を上げてようやく自分の教室の方に歩き出した。
 しかし僕はこのことにまた呆然としてしまった。(倉本さんと…連絡先交換してしまった…) 僕は今とんでもないことをしてしまったのではないかと、それからずっとそわそわ落ち着かなかった。

 おかげで今日は1日中授業に全然身が入らなかったけど、なんとか終って荷物を片付け始めた。(今日は――いろんなことがあったなぁ) とにかく帰って気持ちを整理しよう、と考えた矢先、スマホが短く振動した。
「大丈夫ですか?」
 思わず目を見開く。倉本さんからだ。交換したもののおそらくそれっきりになるんではと勝手に思っていたので、まさかその日のうちに、倉本さんの方から送信してくるなんて予想していなかった。
「あ、特にその後なんともないです」あわてて返信するその手が震える。
「もうお帰りですか?」間髪入れず返信が来た。
「ちょうど今帰るところです」
 少し間が空き、これで終わりかと思ったところで再び反応があった。「あの、これからお時間ありますか?」どういうことだ? あまりの急展開になにか良くないことが起こるのではと疑心暗鬼になるが、そのタイミングで友達から「冴木、帰ろうぜ」と声をかけられて咄嗟に「あ、ごめん、今日これから用があるんだ」と口をついて出ていた。
そして倉本さんにはこう返事をする。「いいですよ」

 それから30分後、学校から少し離れたファミレスに僕は座っていた。そして向かいには倉本さんが…。「わざわざ来ていただいてありがとうございます。ここはわたし持ちますから」とかいがいしく動いている。申し訳なくドリンクバーだけ頼んだ僕に、遠慮してると思ったのか、自分でポテトを頼んで僕の前に差し出した。
 いったいどうして倉本さんはこう僕によくしてくれるのだろう。朝のことだって駆け込み乗車しようとしたこっちが絶対悪いのに…。
「お加減の方は、本当に大丈夫ですか?」言葉遣いだけだとなんか他人行儀のように聞こえるが、元々こういうしゃべり方をする人なのだろうとだんだん分かってきた。本当に僕のことを気遣っていることが口調から伝わってくる。僕が何度も「なんともない」としつこいぐらいに強調して、ようやく「よかった…」と心底安心したように、その大きな胸に手を当ててなで下ろした。
 それからもしばらく、ぽつぽつと何気ない話を続ける。元々僕の方は倉本さんみたいな人と接し慣れてないからどう話をしていいかなんてさっぱりわからなかったけど、倉本さんの方から「あのあたりに住んでるのか」とかさりげない話題を振ってきてくれて、盛り上がるわけではないが切れ目なく会話が続いていく。家族以外の女性とろくすっぽ話をしたことのない僕にとって、これはほんと驚くことだった。
 しかし話すうち、倉本さんは、なんだか本当に言いたいことが別にあるのではないか、という感じがだんだん伝わってきた。けどなかなかそれを言い出せないで口ごもっているような――。それがなんか気になって、遂に僕の方から切り出した。
「あの…違ったらすいません。なんか僕に言いたいことがあるんじゃないですか?」倉本さんはうっと息を詰まらせて少し間を置いた後、意を決したかのように姿勢を正した。その途端、砲弾のような2つの胸がさらに僕の前に迫ってくる。
「えっと…ですね。わたし、毎朝○○駅から乗っているんですけど…」僕が乗るひとつ前の駅だ。けっこう近所に住んでいるらしい。「今日の今日でこんなこと言うのはほんとぶしつけだと思うんですが、ひとつ、冴木くんにお願いがありまして…」そこでまたしばらく沈黙が続いたが、やがて意を決したように口を開いた。「明日から毎朝、わたしと一緒の電車に乗ってもらえませんか?」
「はい?」思いもよらぬ申し出に、僕の方が素っ頓狂な声を上げた。

 不可解な反応をした僕に倉本さんはますます申し訳なさそうに体を縮め、そうしたら大きな胸が一層存在感を主張して際立ってしまった。「あ、別にいやって訳じゃなくってですね…」とこちらの方が恐縮してしまう。というか倉本さんと毎朝一緒に通学できるなんて、幸運すぎて今晩雷に打たれて死ぬんじゃないかと心配になるぐらいだ。でもそんなことを今日知り合ったばかりの僕に頼むなんて、いったいどういうことなんだろう。どうにも解せなかった。
 とまどっている僕の様子を察したのだろう。「すいません、唐突でしたよね。今、順を追って話します」そう言うと、自分のオレンジジュースを手に取りストローで半分ほど一気に飲み干した。
「あの…。今日のことで痛感したんです。その…、わたしの胸って、"危険"、ですよね」一つ一つの単語を慎重に選びながら、噛みしめるように言葉を発する。危険、って…。確かに男からすれば心を惑わさずにいられない危険極まりないものに違いないけども。
「だって…わたしより体の大きな冴木くんを、あんな簡単にはじき飛ばしてしまうんですから」
 あ、そっち…。思い切り物理的だった。まぁ確かにあのカウンターパンチの衝撃たるや、その大きさだけじゃない、測り知れない弾力を秘めていることを身をもって痛感してしまったが…。スケベ心出してうかつに手を伸ばしたら、たちまちぶっ飛ばされてしまいそうだ。
「最近、心配にはなってたんです。朝の電車ってすごい混んでるし、そんな中でこの胸が暴力的に暴れ回ったら、いつか今朝みたいな事になるんじゃないかって…。ほんと申し訳ありません!」また思い出したのか謝られてしまう。もういいから、と言いつつも、それなりに打ち解けてきた彼女の口調に気が楽になってきて僕の方からもそれまでのことをいろいろ聞き出し始めた。
 倉本さんは中学時代は自転車通学をしていたそうだ。高校入学を機に電車で通学するようになったのだが、朝のラッシュのすさまじさを初めて体験して恐怖を覚えていたらしい。
「でも、それまでだって普通に電車乗っていたんでしょ。混雑している時もあっただろうし、その時は大丈夫だったの?」
「それは…1年ぐらい前から急に大きくなり始めたので、それ以前は…」
 思わず息を呑む。こんな大きくなるのに1年しか経ってないなんて! ということは、まだまだこれからも大きくなり続けるんじゃないのか!? びっくりして顔の表情が固まってしまった僕をよそに、倉本さんはうつむいたまま耳まで真っ赤になっていた。
「ごめんなさい…こんなこと、家族以外誰にも話したことなかったもんで…」
 あ…。立ち入ったことに踏み込んでしまったらしい。申し訳なさが走るが、倉本さんは恥ずかしさを振り払うように大きな目を見開き毅然とこちらを向いた。
「それでですね、こんなことをお願いするのはほんとご迷惑かと思うんですが、できましたら、一緒に電車に乗ってもらいたいんです」最後の方は、もう思い切ったように早口で一気にまくしたてる。そのまま目をつぶってしばらくじっとして、それから静かに目を開いておずおずと上目遣いにこちらを見た。
 どうでしょう、と言わんばかりの顔に何も言えなくなったが、それにしてもなんで僕なんだ、との疑問が湧いていた。
「それはその…」彼女はまたおずおずと言葉を継ぐ。「今日、一緒に電車に乗ってて思ったんです。冴木くん、背中がとても広いじゃないですか」ぎくっ。その言葉は僕のトラウマをピンポイントで貫いた。
 そう、僕は小さな頃から体に比べて肩幅が妙に広かった。もっとがっちりとした体型だったらそれも格好がつくんだろうが、肩幅だけ広いのに胸板が薄いもんだから、妙に薄っぺらな印象を与えてしまう。おかげで小学生の頃からぬりかべだのジャミラ(こちらは知らなくてググった)だのあだ名を付けられて、けっこういやな思いをしてきたのだ。今になってまたそれを指摘されるとは…。
「あ、いや」僕の嫌そうな顔を察したのか、倉本さんがフォローに走る。「変な意味じゃなくって。冴木くんの背中、ほんと広くて大きくて、頼りがいがあるっていうか、その、わたしの胸でも覆い隠してくれそうに思えて…」
 確かに自分の胴体からもあふれ出さんばかりに盛り上がっている胸だ。並の男だったらとてもはみ出して隠しきれそうにない。僕の背中なら、どうにか隠れるのかな?自信はないが。
「そこで!」倉本さんが意を決したようにぐいと体を前に突き出す。すると胸の下にあったテーブルでブレザーの生地がぐいっと押しやられ、その途端大きな胸がさらに10センチ以上せり出してきた。いままでもっさりとしたブレザーで隠れていた胸の段差が、一気にその全貌をあらわしたのだ。トップとアンダーの差がはっきり見て取れて、彼女の体自体はとてつもなくスレンダーなことがくっきり伝わってくる。
(すげ…)ただでさえものすごい大きさだと思っていた彼女の胸が、それまで半分ぐらいしか見えてなかったのだと分かって愕然とした。「朝の通学の時、電車で私の前に立ってもらい、その背中で…その…わたしの楯になってもらいたいんです」
 なんとなく倉本さんが言いたいことが分かってきた。今朝電車の中でじっと僕の背中を見つめていたのも合点がいく。別に朝から楽しく一緒におしゃべりしたい訳じゃない。ただ僕を彼女の胸の壁にしようというのだ。にしても楯?って…。そうか、さっきは自分の胸が"危険"だとか言ってるけども、本心は自分が大勢の人混みの中で揉みくちゃにされる事に恐怖感を抱いていたんだだろう。危険は危険でも自分の"身の危険"の方だ。
 でもそれも納得。こんな魅力的な倉本さんをそんなラッシュの中に放置したら、それこそ痴漢とかいろんな危険にさらされるのは目に見えている。おそらくこの1週間でその危うさをいやというほど思い知らされたのだろう。言わば僕は彼女の胸を守るナイトに任ぜられたのだ。そう考えれば――悪い気はしない。
「わかった。僕でよければ喜んで引き受けるよ」
 倉本さんの顔がぱーっとほころんたのが分かる。「ほんとに!?」断られることを覚悟していたのだろう、心底ほっとしたようだ。もともときれいだった彼女の顔が、それだけで何倍もかわいらしく見える。その顔を見れただけでも、僕は了解してよかったと思った。


 次の日の朝、なんだかいつもより早く目が覚めてしまった。起き抜けのぼーっとした頭の中、きのうのことはほんとうに現実だったのだろうかとなんとなく考えてしまう。だって、あの倉本さんとお近づきになれただなんて――。ハッと我に返り、スマホを手に取ってLINEを開く。そこにはきのう交換した倉本さんのIDがちゃんとあり、しかも少し前に「今日からよろしくお願いします」とのメッセージと共に乗る電車の時間が記されていた。やっぱりあれは夢じゃなかったんだ、と急に頭がしゃっきりする。
 こうなったらなにがなんでも遅刻するわけにはいかない。余裕を持って家を出て最寄り駅のホームで電車を待つ。短く携帯が鳴り、倉本さんからメッセージが届く。「今乗りました。きのうと同じドアの所にいます」程なく電車がホームに滑り込み、開いたドアをくぐるとそこには倉本さんが立っていた。目が合うとお互い何も言わず軽く会釈を交わし、そのまま倉本さんの前に背中を向けて立った。「よろしくお願いします」後ろから小さな声が聞こえる。僕はそのままの姿勢で親指を突き立てた。
(まかしとけ)
 そこに虚勢がなかったと言えば嘘になる。僕のすぐ後ろにあの倉本さんがいるのだ。ちらりと後ろを確認すると、大きく突き出した胸が今にも触れそうなほどの至近距離に迫っている。顔を合わせないから大丈夫と高をくくっていたのだが、すぐそこにあのおっぱいが…と思うと正直平常心ではいられない。
(間違っても当たっちゃやばいよな)
 この時間の電車、僕が乗る駅まではいつもさして混まない。しかしその後の駅からはどんどん人が乗り込んできて、人口密度が急激に上がっていくのだ。(僕は壁だ、倉本さんの前に立ちはだかる壁だ)そんなことを心の中でつぶやきながら足を踏ん張ってなんとかその場を動かないようにするが、その時、後ろの方からぐんと柔らかいものがぶつかってきた。
「ごめんなさい」倉本さんの囁くような声が耳に届く。い、今のはやっぱり――。きのうは一瞬でよく分からなかったけど、ちょっと突いただけでもその張り詰めた弾力はこの上もなく伝わってくる。一瞬血が上ってきそうになるのを抑えてあわてて気を引き締めた。
 その後も駅が進むごとにどんどん人が乗り込んでくる。社内の密集度が上がってくるにつれ、最初はちょっと当たるぐらいだった倉本さんの胸も、次第に周りから押し込められてぐいぐいと無防備なまでに背中に密着してくる。最初のうちはその都度声をかけていた倉本さんももう何も言わず、後ろを伺うと目を閉じてじっと耐えているようだった。
 それにしても――混むといってもいつもはここまでじゃなかったような…。それに辺りを見渡すと妙に男性比率が高く、女性はほとんど見えない。まるで、倉本さんに惹き寄せられて男どもがこの車両に密集してきたみたいな…いやまさか――。
 しかしだんだんそれが思い込みじゃないような気がしてきた。ここの乗客みんながみんな、一見さりげない風を装いながら、絶えずちらちらと倉本さんに視線を送っているのが見て取れる。さすがにあからさまに手を出すような輩はいなさそうだが、皆気になってしょうがない、ついつい見てしまうような集団心理が車両中に充満しているみたいなのだ。倉本さんはと見ると、その視線が気にならないかのように必死に装いながらもじっと耐えている。しかしその顔は明らかに緊張で硬直していた。
 電車のドアが開き、さらに人が乗ってくる。僕と倉本さんの間は一層密着し、その胸の緊張はますます引き絞られたようになる。もはやその感触にとらわれてる余裕はない。きのう吹っ飛ばされたその弾力はさらに激しさを増し、ちょっとでも気を抜けば自分の体が持って行かれそうにるのだ。足を踏ん張って、と身構えた次の瞬間、電車が動いてガタンと揺れた。ちょうど体を動かし始めたタイミングを掬われてはたまらない。僕はちょっとバランスを崩し、その途端解放された胸の圧力をまともにくらった。
「うわっ」きのうはじき飛ばされた時の記憶がよみがえる。そうなってなるものか。倉本さんの前から一瞬離れそうになったのを、一歩足を踏み出して体勢を整え直し、なんとか踏みとどまった。また倉本さんの前をキープする。
「チッ」その時だった、近くで舌打ちがなるのを確かに聞いた。その瞬間、悪意が僕の方に向けられたのを感じる。一気に血の気が下がった。そう、僕は倉本さんの前で背中にその胸を押し当てられている、いわば特等席にいるのだ。あわよくば僕に代わってそこに居座ろうとする輩が近くにいる。あてが外れたといわんばかりだった。
「ごめんなさい…」倉本さんが後ろから、薄目を開けてさきほどよりもっとか細い声で、震え気味に声をかけてきた。
 僕は倉本さんがなんできのうあんなに必死だったのか分かった気がした。そう、満員電車の中、毎朝こんなプレッシャーに長い時間さらされていたのだ。たとえ直接的でなくとも不特定多数の集団的無意識に至近距離で取り囲まれ、なすすべもなくただひたすら耐え続けるしかなかったのか…。そして今やそのプレッシャーは、彼女の胸を言わば独占している僕にも同じように降りかかっていた。いや、同性故にその妬みのような感情はさらに直接的に突き刺さる。ふと、何もかも投げ捨ててこの場を立ち去りたくなった。しかしその時――「あっ」倉本さんの口から小さな声が漏れる。ちらりと後ろを見ると倉本さんがじっと哀願するような目でこちらを見つめているのだ。まるで僕の気持ちを察したかのように…。それでハッとした。僕は倉本さんにあれだけ頼りにされているんだ。言わばこの中で唯一、彼女の味方というべき人間なんだ。どんなに圧力をかけられようが、この胸を全力で受け止めなければ。「大丈夫です」僕は小声で返した。

「△△駅〜」
 永遠に続くかと思った(実際には30分も経ってない)時間が過ぎ、高校の最寄り駅を知らせるアナウンスとともに電車のドアが開く。僕は後ろを伺いながら倉本さんと呼吸を合わせ、一緒のタイミングで歩き出した。倉本さんは僕の後ろにぴったりとついている。人混みが徐々にほどけて空間に余裕が出てくるに従い、倉本さんは少しづつ僕の後ろから離れて横に歩み出した。ちょうど横並びになったところでようやくほっと息をつき、僕の方を向いてニコッと笑いかけた。
「助かりましたぁ〜」今まで見たことのない朗らかな顔で、倉本さんは僕にお礼の言葉を述べる。お互い協力し終えた達成感で、なんだか空気がなごんでいくのを感じた。
 学校への道のり、なんとなくつかず離れずの距離で会話が続く。倉本さんは重荷をすっかり下ろしたかのように、気軽に話しかけてくるのだ。
「こんなんでよかったのかな?」
「ええ、すごく心強かったです。あの中で、わたしを必死で守ってくれている人がいる、ていうのが伝わってきて――本当にありがとうございます」
 自分ではよく分からないけど、そのように思ってくれたのならやった甲斐があったのだろう。
「ほんとうにうれしい――これで、明日からも通えそうです」
「え?」そのなにげない言葉の内に秘めた張り詰めた気持ちを感じとり、僕はハッとした。
「ずっと悩んでたんです。もう学校辞めるしかないのかと」
 あっさりととんでもないことを言う。え…そんなに思い詰めてたのか。いや、でもあの強烈なプレッシャーを一緒に体感した今となっては、その気持ちも分からないでもなかった。
「よくみんな普通に電車乗れるな、って思いませんか?」そんな思いをするのは倉本さんだけだって、言いたくなったけどやめておいた。自分の容姿がどれほど図抜けているか、そういう所の自覚があまりないらしい。
「でも、冴木くんがずっと背中で支えてくれたので…ほんと心強かったです」
 そう言ってもらえると…あの空間で必死に耐えていたのも無駄ではなかったと、救われる思いがした。
「あの、これからも…頼っていいですか、この背中に」
 背中だけかよ! とツッコみたかったが、倉本さんがなにやら眩しそうに僕の背中を見ているのに気づきなんにもいえなくなった。たとえ背中だけでも、この倉本さんに頼られているんだ。そう考えるのはなんだか誇らしい。

「それじゃあ、また明日」
 学校はこれからだというのに、彼女はそう言って自分の教室に向かっていった。(こりゃあ明日からも大変そうだ) そうは言いつつ、今になって背中にさっきの感触がありありと思い起こされてきて、明日の朝が今から楽しみになってきた。
「筋トレしよ」あのおっぱいの圧力に耐えられる体にならなくては。唐突にそんなことを決意していた。