頼りたい背中

ジグラット 作
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「今、乗り込みました」
 倉本さんからLINEが入る。ホームに電車が入ってくるのを眺めながら心がざわつくのを抑えられなかった。開いたドアから足を踏み入れると、いつもの場所に倉本さんがこちらを向いて立っている。僕を見つけた途端、かすかに頬笑むように見えたのは僕の希望的観測だろうか。お互い目で挨拶を交わし、そのままごく自然に倉本さんの前に背中を向けて足を踏みしめた。
 この毎朝のルーティンも始まってかれこれ2週間になる。初日、倉本さんの胸の圧迫力に屈しそうになった僕は、その日のうちに近所のジムに入会し、毎日のように足腰と体幹を中心にトレーニングを始めていた。まぁ半月程度で目に見えて筋肉が付くはずもないけども、自分ではなんとなく重心がどっしりと落ち着いてきた――ような気はしている。
 駅を追うごとに車内が混み合ってくる。最初のうちは余裕があった2人の距離もたちまち狭まっていき密着度が高まっていった。ちょっとした揺れを受けて、その大きく突き出た胸の先がつんと背中を突き上げる。(うっ…)触れた瞬間、毎度のように背中に電流が走るけども、それを味わっている余裕はない。みるみる圧力は急速に強まり、2人の体は否が応でも密着してくる。背を向けてて見えてないはずなのに、その感触だけで彼女の姿がにわかに思い浮かび、すぐ後ろで胸がどうなっているかいやでも想像してしまう。あの巨大なドーム状に盛り上がった倉本さんの胸が今、圧力を受けて大きくひしゃげ、僕の背中いっぱいに覆い尽くすように拡がっていくのがありありと見えるようだ。そして僕の体がおっぱいに包み込まれていく…。
「う…ん」倉本さんの苦しげな息づかいがすぐ間近に聞こえる。しかし次の瞬間! ぶりゅん。限界を超えた胸は元の形に戻ろうと急激に背中を押し戻してきた。(くぁwせdrftgyふじこlp)頭の中で言葉にならない叫び声が上がる。その極上の感触で、体からすべての力が抜けていきそうになってしまう。
 電車に乗っている間、そのような事態が何度も何度も繰り返され、胸そのものの弾力は電車の振動を増幅してぐいぐい波状攻撃をしかけてくる。はじめの頃だったら最初の一撃であっさり吹っ飛ばされていただろう。けど今は違う。なんのために筋トレしてきたと思ってんだ。そうはさせじと背筋を伸ばし、足をこれでもかと踏ん張る。この安定感、この2週間でけっこうついてきた、と自分では思っていた。
 しかし倉本さんの胸は常にこちらの予想を上回る。周りからの密集はどんどん強まっていき、いきなり今までに倍するほどの反動で背中をぐいっと突き返してきた。(うゎっ!) 腰から上だけ持って行かれそうになるのをなんとか踏みとどまり、体の安定を取り戻す。必死だった。僕がはじき飛ばされたら、倉本さんはまわりの有象無象の男どもの餌食になってしまうかも知れない。僕はその楯となって倉本さんを守るんだ! 訳のわからない使命感に燃えてその場に仁王立ちする。僕だって本当のことを言えばこの感触に身を委ねたい。そこに天国があると分かっているのに…。しかし委ねた瞬間、たちまちその天国からはじき飛ばされてしまうのだ。まさしく葛藤の連続だった。しかしそんな僕の心をよそに、倉本さんの胸の反発力は押せば押すほどぐんぐん高まっていき、質量が日ごと増しているようにすら思える。今はなんとか耐えられたけど、次はどうなるか――。
(なんだか…日に日に大きくなっていないか? 倉本さんの胸…)

「今日もありがとうございます」
 電車を一緒に降りて学校に向かう道すがら、倉本さんは軽く頭を下げた。2人一緒に歩いているのをあんまり他の人に見られたくない、との配慮から、わざと一般の通学路を外れて遠回りするルートを選ぶようになっていた。その方が一緒にいられる時間が長い、というのは僕だけの秘密だったが。電車の中では口を利かない、それも毎日続けていくうちに自然と定着したルールだった。言葉を交わさなくとも当たった胸から気持ちがなんとなく伝わってくる感じがする、というのは僕の思い込みだろうか。その代わり、降りて一緒に歩くうちにこのようにお礼がてら少しの間言葉を交わす、これもいつしか習慣になっていた。別に大した話をする訳ではない。落ち着いた様子でいつも他愛ない事ばかりだ。もともと倉本さんはそれほど口数が多い方ではないし、それは僕も大差ない。けど電車内では毎日のこととはいえ気の休まることのないプレッシャーの連続。そこから解放されてほっと息をつくリラックスした時間、おのずと言葉が湧いて出る。学校に着くまでの短い間だが、僕はいつしかこの時間を楽しみにしていた。
 あの倉本さんが僕の横で気軽に話しかけてくれる。これがどんなすごいことか他人にはなかなか伝わりにくい。最初の頃よりも少しは打ち解けてくれただろうか? というぐらい口調にほとんど変化はないけども。そして横を歩く倉本さんの胸に目を向けると、そのブレザーは今もかろうじてボタンを留めてその中に巨大なおっぱいをどうにか封じ込めてはいるが、足を踏み出すごとにだっぷんだっぷんと中でうなりを上げているのが分かる。今にも封印を突き破らんと暴れているかのようだ。(このおっぱいが、さっきまで僕の背中に当たってたのか) そう考えた途端血が上ってきてぼおっとしてしまう。
「冴木くん、どうかしました?」 倉本さんが声をかける。目にちょっと心配そうな色が浮かぶ。やばい! 僕がこんなやましい思いを抱いていることを倉本さんが知ったらどんな顔をされる? それほどまでに、まぶしいまでに誠実に問いかけるその姿は汚れを知らぬ清純そのもので、それを僕が汚してしまうのではないか、と危惧してしまうのだ。あわてて何事もないような顔をする。「いや別に。しかし今日もすごい混んでましたよね」
(しかし…) いかに取り繕うとしてもどうしても胸に目が行ってしまう。かろうじてボタンをがっちりと留めて確保しているが、そのボタンホールも2週間前に比べても明らかに引き延ばされ、今まさに限界が近づいている。次の瞬間このボタンが吹っ飛んでしまっても何もおかしくなかった。
(やっぱり…絶対、前よりも大きくなっているよな)
「それにしても、冴木くんの背中、前よりも少しがっしりしてきたみたい。もしかして何か鍛えてます?」僕の思考に呼応するような倉本さんの問いかけに、僕はあわてて目線を胸からはずした。
「あ、実は、高校生になったのを機に、ジムに通い始めたんです」嘘はついてない、よな。
「へぇ、すごいですね」
「いやぁ、前々からやろうとは思っていたんですが、まぁいいきっかけかなって…」
 倉本さんは一旦視線を上げて何か考えた後、僕に顔を向けた。
「ひょっとして…わたしのため?」
「あ、いや、あの、そういうわけでは…」いきなり図星を指されてあたふたしてしまう。隠し通せたろうか。けれども倉本さんは僕の表情をしばらく伺った後、かすかに頬笑んだ。「ふうん…」
 いきなり倉本さんは体を僕の方に向け、横から間合いを詰めてきた。大きく突き出た胸が僕の腕に触れる。(やばい!) 突然すぎて身構える余裕もない。しかし意に反して胸はポンと柔らかく包み込むように当たっただけで、服の上から温かい体温が伝わってくる。そして僕の耳許に口を寄せて「ありがと」と一言。それだけでまたぱっと体を離し、「それじゃあまた明日」と言い残し走り出していった。
 (なに、今…) 一瞬垣間見せた親しげな口調が耳に残る。そして僕の腕には温かい感触がまだ消えずにいて、思わずそのそのぬくもりを噛みしめてしまった。


(どうしてこうなった…)
 次の日。倉本さんと僕はぎゅうぎゅう詰めのラッシュの中、お互い向かい合って顔を突き合わせていた。もちろん最初はいつものように背中を向けていたのだ。しかし混雑が最高潮に達したその時、走っていた電車が不意にガタンと揺れた。(うわっ) 倉本さんが前につんのめり僕の背中にその胸がバウンドする。急速に胸の圧力が今までにない力で高まっていく。(やばい!) 次に来る最大の反発に構えることもできず、その弾力をまともに喰らってしまった。このまんまではまた体ごと吹っ飛ばされてしまう。でも今は反射的に体が反応した。まともに受けた反動をなんとか受け流そうと片足に力を込める。しかしその時ちょうど揺れの加減でギチギチに思えた人混みのどこかに隙間ができていたのだろう、踏み込んだ足に向けて体がくるんと回転した。どうなったのか再現しろと言われても見当がつかないうちに、気がつくと僕はまっすぐ倉本さんの方を向いていたのだ。そしてそのままがっちり周りから固定されてしまい、戻りようがなくなってしまった。
 突然のことに、倉本さんもしばしあっけにとられたように僕の顔を見つめていたが、面と見つめ合って数秒、次第に気恥ずかしげに目をそらす。僕もなんか直視できずに視線を下げたが、そうすると倉本さんの胸がいやでも目に飛び込んでくる。2人の距離はこの人口密度にかかわらず数10センチも空いていたのだが、それもそのはず、その隙間には倉本さんの巨大な胸がみっちりと詰め込まれているのだ。
(こんなに…大きかったのか…) いつも感触からつい想像しちゃっているが、実物は軽く想像を超えて眼前に迫ってくる。普段視界に入らない2人の間に広がるおっぱいを至近距離で目の当たりにして、僕は改めてその広大さに圧倒された。
(うぉっ…) 思わず声を上げそうになる。いつも背中で感じている極上の感触が今度は胸に直接当たってくるのだ。背中より胸の方が敏感なんだな、とこの時初めて思い知る。(やばい…やばいよ) 感覚が研ぎ澄まされてどんどん昂ぶっていくのを抑えようがない。
 電車の揺れに合わせて乳肉が絶えずうねるように波打っている。それまでなんとかその胸を収め込んでいたブレザーも、まるで嵐の中の大海の小舟のようになすすべもなくうねりまくっている。まるで眼前で何かのイリュージョンが行われているかのように目が離せなかった。そしてとうとう――倉本さんの胸がポンとはじけた――ように見えた。それまで必死にの圧力に抗ってきたブレザーのボタンがひとつ、遂に耐えきれずにはじけ飛んだのだ。
「あっ」 倉本さんの口から思わず小さな叫び声が漏れる。重要な支えを失い、ブレザーは力なく胸元を押し広げられ、下から純白のブラウスが露わになる。しかしその生地は薄く、防衛力は比べものにならなかった。中の乳肉がさらに勝手気ままに暴れまくるのを抑えようがない。非力ながらなんとか必死に抑えているブラウスのボタンも1列丸ごと大きく歪み、とても長くもちそうにない。さらなる大惨事が起こるのではないか、危うくて気が気じゃなかった。
 けども僕自身それどころではない事態になってきた。倉本さんのその強大な圧力がさらにどんどん押し寄せてきて、肺を直接圧迫するのだ。息ができない。酸素を求めてなんとか息を吸い込もうとすると、鼻腔になんともいえない香りが押し寄せてきた。倉本さん、なんかいい匂いがする…。
 押し寄せる感触と酸素不足、それにこの上ない芳香…様々な要因が重なって、頭がぼぉっとなってくる――。あれ、俺、どうしてたっけ…。
「冴木くん!」倉本さんがいきなり小声で呼び、力なくぶら下がった僕の手をつかむ。え?と我に返り辺りを確認すると、高校の最寄り駅に着いてドアが開くところだった。

 なんとか2人して猛ラッシュの電車から引き釣り出て、僕はまず深く息を吸い込んだ。肺の中に新鮮な空気が存分に入り込む。なんとか人心地がついた。あのままあと1分いたら、異世界に転生しちゃったんじゃないだろうか。「助かりました」倉本さんに声をかけると、倉本さんはまだ僕の手をにぎったままだった。「あ…」倉本さんも気づいてあわてて手を放す。「ごめんなさい」放した手をもう一方の手で押さえながらそのまましばらく動けなかった。頬に赤みがさしている。
 倉本さんを護るつもりが逆に助けられてしまった。いつものように並んで歩き出しても気まずい沈黙が2人を覆っている。なんとか口火を切りたい、と思っても、何を話していいかまったく思い浮かばないのだ。
(あれ? なんだこれ)ふと僕は自分の胸ポケットに何か入っているのに気づいた。そういえば朦朧とした中、何かが襟元に飛び込んできたような憶えが…。手を入れてまさぐってみるとそこにはボタンがひとつ。(あっ…)さっき倉本さんのブレザーから吹っ飛んだ、胸のボタンだった。
 一瞬そのまま持ち帰りたい衝動に駆られる。でももしばれたら間違いなくいやな顔されるだろうし…それは絶対避けたい――。数秒間の激しい葛藤の上、僕は持っていた手を広げて倉本さんの前に差しだした。
「倉本さん、ほら…」え?と言う顔をして倉本さんが覗き込む。それが何か気づいた途端、ぱっと手を出して目にも留まらず早業でつかみ取った。そのまま手を後ろに隠す。
「あ、ありがとう…ございます」その顔は耳まで真っ赤だった。
 お互い言葉を交わさないうちに学校が近づいてくる。もう余り時間がない。毎日楽しみしているこの時間、このまま終わらせるのが惜しかった。
「そういえば明日からゴールデンウィークだけど、倉本さんはどこか行くの?」この時期、あたりさわりのない話題のはずだった。でも実は少し前から気になっていた。毎朝一緒の電車に乗る、それはもう完全にルーティンになっていたけど、週末、学校が休みだというだけでなんともいえない喪失感を味わうようになっていた。今日は倉本さんどうしているのかな、とふと考えている自分がいる。ましてゴールデンウィーク、何日間も会えないんだ、と思うとそれだけでたまらなくなる。考えてみれば僕は倉本さんのこと、朝のこの時間以外は何も知らない。家族構成や趣味とか、あと、ど、どんなタイプが好きなのかとか…。実は連休中に仲のいい男子と出かける予定があるんじゃないかって、気になりだすとどうにも止まらなくなってしまう。勝手に想像した仮想の相手にもやもやする。だから気になって思わず探りを入れてしまったのだ。
「別に…」倉本さんは言いかけて、そこでハッと何かを思い出したようにちらりと僕の方を見た。どういうことだろう。この意外な反応の意図が読めないでいた。
 それから学校に着くまでの数分、倉本さんは何度か口ごもり、何かを言いたげな顔をしたが結局言葉は出てこなかった。そして最後、「それじゃあまた」とだけ言って自分の教室に去って行く。
 しかしその意図は今日の昼休み、別の形で知ることになる。
 スマホが短く震える。見ると、倉本さんからLINEが入っていた。
「あの…あした、お時間ありますか?」


 開けてGW初日、僕は隣駅――倉本さんの最寄り駅――の改札で待ち合わせをしていた。きのうの夜、改めてLINEで詳しく話を聞いたところ、新宿に行く用事があるので一緒に電車に乗ってほしいとのことだった。休日だからそこまで混まないとは思ったけど、休みの日でも新宿近辺だとけっこう混雑するかもしれないからと、倉本さんが妙に強く言い張るのだ。それに、きのうのようなもやもやを抱えている身としては、改めて倉本さんに頼られている、それに…休みの日にも倉本さんと会える!とそれだけで舞い上がってしまい、時間に余裕があるからとわざわざ隣駅まで歩いて行って倉本さんの家の方で待ち合わせの約束までしてしまった。「悪いです。わたしの方が頼んでるのに」予想通り倉本さんは遠慮していたが、それを遮ってむりやり説き伏せてしまった。
(もっとちゃんとした服を買うべきだった) けど勇んで約束した後になってから、明日なに着たらいいんだと途方に暮れた。そういえば倉本さんとは制服でしか会ったことがない。女性との待ち合わせなんて経験なくて、どんな格好をしていいのか見当がつかないのだ。かといってこれから買いに行く時間もないし、さんざん悩んだ上、"ザ 無難"といった感じの服装で行くしかなかった。(けど、倉本さんも私服だよな、今日)
 待ち合わせ時間は10時。でも朝から落ち着かず、結局20分も前に着いてしまった。もちろん倉本さんはまだ来ていない。なのに5分と経たないうちに(はたして本当に来るのかな)と悪い考えがよぎる。いや、声かけたのは向こうからだよな、ときのうのLINEのやりとりを見返して自分に言い聞かせた。
「え? わたし、時間間違えてます?」ふと声のした方を振り向くと、倉本さんが小走りに駆け寄ってくる。その格好をひと目見て僕の目は釘付けになった。涼やかなロングスカートに、そして上半身は――淡い色のカーディガンを羽織ったその下は、シンプルなボーダーシャツだった。もちろん相当大きなサイズに間違いないが、それでも胸だけはまるで爆弾を2つ仕込んだみたいに膨れ上がり、ギリギリまで引き延ばされている。それが駆け寄る度に中からどゆんどゆんと激しく暴れまくって今にも引きちぎれそうだ。やばい。いつも以上に胸のラインがストレートにさらけ出されていて、その破壊力たるや制服の比ではない。(これは…混んでなくても危険だ)
「いや、僕が早く着いちゃっただけだから」どうにか平静をよそおいながら、極力なにげなく言葉を返す。そう言いつつ、僕はどうにも直視できず目が泳いでしまう。
「どうしました?」目を逸らした僕に倉本さんが解せなさそうに尋ねる。倉本さん、自分がどんなに危険極まりない体をしているか、本当のところよく分かってないんじゃないだろうか。そうでなくてはこの格好で外に出るなんて、できるもんじゃない。
「あぁ」倉本さんは自分の服装を見下ろしてつぶやく。「簡単な格好でごめんなさい。こんなのしか持っていなくって…」しかたないんです、とあきらめ気味にささやいた。「どうせすぐ着れなくなってしまうものですから」
 それって…やっぱりすぐ胸がきつくて入らなくなっちゃうから? ひょっとして倉本さんの部屋には、これまで着た服がことごとく胸が引き千切られた残骸となって死屍累々と積み上げられているのではないだろうか…ちょっと怖い想像をしてしまった。
「じゃ、ちょっと早いけど行こうか」今日はこの僕が、なんとしても倉本さんを護らなくては、といつもの使命感がまた鎌首をもたげていた。

 気を取り直して2人で電車に乗り込む。連休初日の電車は席こそ埋まっているものの立っている人はほとんどいず、混んでるのではという心配は杞憂に終わった。しかし倉本さんが乗り込んだ途端、社内にいる人が皆、ざわ、と空気が変わってこちらに注意を向けたのが分かった。それからも気になってしかたないという風にちらちらとその胸に視線を送っているのが痛いほど伝わってくる。
「休みの日にすいません。でも…やっぱりひとりで電車に乗るのはちょっと怖くって」その視線に気づいているのかいないのか、倉本さんはいつもと同じ調子で話しかけてくる。羽織ったカーディガンはボタンを留めることははなっから放棄して袖を通しているだけで、唯一胸を覆い隠しているのはシャツ1枚。それも胸の部分だけ思い切り押し広げられてボーダーがえらい幅広になってしまっていた。いつもなら背を向けているが、今日は普通にお互い向き合って立っているのでそれが丸わかりだ。
「せっかくだから、今日は向かい合っていましょう」はにかむように言葉を続ける。「ほら…きのうみたいなことがまたあるかもしれないですから…」慣れておかないと、と少し気まずそうな顔をした。向かい合っている2人の間はけっこう距離をおいたはずだが、実際には僕の体のすぐそばまで倉本さんの胸の先が触れんばかりに迫っている。今またここでガタンと揺れたらすぐにもまた…。いかんと思いつつついつい期待してしまう。
 そんな僕の思いを知ってか知らずか、気がつくと倉本さんはじっと僕の顔を見つめていた。
「な、なんですか」思いすかされたのでは、とドギマギする。
「だから、きのうみたいな事態に備えて、冴木くんの顔に慣れておこうと思って」
 なんですかそれは、とツッコみたくなる。(やっぱりちょっとつかめないところがあるよな、倉本さんって) この半月の間のやりとりを思い返してみると、ひょっとしてちょっと天然なところがあるんじゃないだろうか。
 でも見られてばかりなのもくやしい。それなら、と僕も倉本さんの顔を見つめ返した。じーっと真っ正面からその大きく見開かれている目を見つめる。なんかその奥は深淵で、心が取り込まれそうになる。(やっぱり倉本さん、すごい、きれいだな…)
 いつまでも見つめていたい、そう思った。けどそれは長くは続かない。倉本さんの口が突然ぷっと吹きだして、そのままくっくっくっと笑いがこみ上げてきた。
「だめ、もう。見つめ返すの禁止」なおも涙を浮かべるほど笑いながら、僕の顔に人差し指を突き立てる。(倉本さんって、こんな風に笑うんだ) 初めて見るその屈託のない表情に、僕も心がなごむ。けど…笑って体が上下するたびに、胸がその動きを増幅して暴れまくるのは心臓に悪かったけど。
「ああ、もう。何やってんだろ」ようやく笑いが収まって倉本さんは指で涙を拭っている。「休みの日に2人して出かけて見つめ合って、これじゃまるでデ――」そこではっと何か思いついたように指で口を押さえる。え、倉本さん、今、なんて言おうとした? まさか…。
「あ、なんでもない。気にしないで」はしゃぎすぎたと気がついたのか、すっとテンションが下がっていつもの物静かな倉本さんに戻った気がした。

「それで今日はなにしに新宿に?」会話が途切れたのに耐えられず、僕の方から話しかけてみる。まだ肝心の要件についてなにも聞いていないのだ。
 けど倉本さんは少し言いにくそうに口ごもる。「ほんと、わたしの個人的な用事に付き合わせてしまって申し訳ありません。どうしても定期的に通わなければならない所があるものですから…。やっぱり冴木くんに一緒にいてもらうと心強いので…」
「病院?」実はどこか悪いところがあるのだろうか。
「あ、いえ。健康には問題ないので」そしてまた会話が途切れてしまう。
 要領を得ないけど、少なくとも誰かとデートする雰囲気ではなさそうだ。こんな形でも倉本さんと一緒にお出かけできるのは正直嬉しかった。

「こっちです」新宿駅を降りると、倉本さんは繁華街ともオフィス街とも違う方向に勝手知ったる様子ですたすたと歩いて行く。新宿には今まで何度か来ているけども、こっちの方には行ったことがない。駅周辺はさすがに人通りも多く注意がいったけども、歩いていくうちに新宿にもこんな所があるんだと驚くほど閑散としてきてちょっと心細くなってきた。
「ここです」突然、倉本さんはあるひとつのビルの前で立ち止まった。
 ここ、って…。ざっかけない小さなビルで、言われなければ絶対気づかず通り過ぎてたろう。少なくとも女の子向けのオシャレ関係の店とは到底思えなかった。いったい中に何があるのか…手がかりとなりそうなのはかろうじてひとつ見えてる看板だけだ。(トリ…なんだろう?) 書かれているのは横文字の単語がひとつ。それも見たこともないもので、なんとなく英語ではないような気がした。
「あの…申し訳ありませんが、この辺りで時間をつぶしていてもらえませんか?」倉本さんがいきなり声をかける。え? という顔をした僕に向け、さらに申し訳なさそうに続けた。
「この中は男子禁制ですので」
「倉本さん、この中っていったいなんなんですか? 男は入れないって…」
「その」言いにくそうだが、ここまで来た以上言わないわけにはいかない、と逡巡しているようだった。「大きいサイズ専門の…ブラジャー専門店です」
「あ…」思わず声が出てしまう。でもすべて繋がった気がした。確かに倉本さんには必要不可欠なものだ。
「ほんとうに申し訳ありません。でも定期的に大きなサイズに買い換えなければならないものですから…。お詫びにお昼おごりますので」
「わ、わかりました! ごゆっくり!」
「1時間ほどで終わります。終わったらLINEしますので」それだけ言い残すと顔を上げることなくビルの中に駆け込んでいった。

 倉本さんから連絡が来たのはそれから2時間近く経った頃だった。結局落ち着かずその近辺をうろうろしていた僕は、すぐさまビルの前に駆けつけて倉本さんを待つ。ビルから出てきた倉本さんは両手に大きな紙袋を2つづつ提げていたが、その顔つきはなんだか先ほどより晴れやかだった。なんでだろう、と思ったけどもその胸を見た途端わが目を疑った。
 さっきより、明らかに胸の迫力が増している!
 こんな短時間で大きくなった? まさか! けど何度見直してもそうとしか思えない。あんまり見つめては悪いと分かっているけど、ついつい目で追って確かめてしまった。
「ん?」倉本さんはそんな僕の様子に気づいたみたいだが、鼻歌でも歌いかねない様子で、どう?いいでしょう、とばかりに胸を揺すっていた。
「あ、ひとつ持ちましょうか」重そうに持っている紙袋に手を伸ばしかけるが、倉本さんはあわてて手を後ろに回した。「いえ、大丈夫ですから。お気遣いなく」
 こちらもハッと気づいた。ブラジャー専門店から荷物持って出てきたんだ。ということはあの中身は…ブラ!? うそ、あんなに大きいの?
(倉本さんのサイズだと、あんなになっちゃうのかなぁ) 何から何まで、信じられない思いだった。

 昼の時間には少し遅くなったけど、その足で近くのファミレスに入る。2人でファミレスに入るのは倉本さんと知り合ったあの日以来だな。向かい合って席に着くが、その上機嫌っぷりは腰を落ち着かせた後も続いていた。
「ああ、ほっとしたぁ。冴木くん、ありがとう」口調もまたくだけてきて、ストレートに気持ちが口から出ているようだった。
「ずっと我慢してたんです。前のブラ、ほんともうきつくて苦しくてしょうがなかったから、一気に胸元が楽になって」ということは…今までギチギチのブラジャーの中に無理矢理押し込んでいただけで、今の胸が本当の大きさだってことなのか――。
「あの店、あんな外観ですけど、品揃えは間違いなく日本一なんです。オーダーメイドにも的確に対処してくれるますし」
「倉本さんは、その、サイズあるんですか? あそこなら」
 首を横に振る。「今はもう無理。成長を見越してオーダーしていたんですけど、試着してみたら思いの外きつくって…その場で調整してもらってたんです。それで思ったより時間がかかってしまって。ごめんなさい」それって、予想を上回るほど大きくなってたってことだよね。やっぱりすごい勢いで膨らみ続けているんじゃ…。
「それにしてもほっとしたらお腹が空いちゃった。冴木くんも何でも頼んでいいからね」と言いつつ注文端末を手に「何食べようかなぁ…。あ、これも。それからこっちもいいなぁ…」と次々とタッチパネルを押し続ける。
 え? なんかとんでもない量注文していないか?と思ったのもつかの間、倉本さんの前に次々と料理が並べ始められた。それを倉本さん、置かれたそばからおいしそうにたいらげていく。そういえば一緒に食事するのは初めてだけど、その細身の体つきからは想像できない底知れぬ食欲だった。がっついている風ではないのに、まるで吸い込まれるように食べ物が口の中に消えていく。その一種芸術的な食べっぷりに、僕は自分の箸が止まってついつい見惚れていた。
 瞬く間に運ばれた料理をすべて食べ終わり、皿が堆く積み上げられたところで、倉本さんはふと我に返って箸が止まったままの僕に気がついた。今さらながら自分のやったことに気づいて恥ずかしげにうつむく。
「あの…こいつすごい食べるな、って思ってます?」上目遣いにこちらを覗き込む。
「あ、いえ…でも食べ方もきれいだし。健康的でいいと思います」
「ありがと。でも仕方ないんです。食べたものがどんどん胸に吸収されちゃうから…。お腹が空いてしょうがないの」 人差し指を立てて口に当て、これ誰にも言わないで、と釘を刺された。
 その言葉になんか納得してしまう。というかなんだかさっき食べた栄養が今まさにどんどん胸に蓄積されているのでは、という気すらしてきた。
 いったい何人前だったか分からないけど、あれだけ食べてようやく人心地がついたのか、倉本さんは普段の調子に戻っていた。
 ブラジャーを替えて本来の大きさに戻ったその胸により、ボーダーのシャツは先ほどとは比べものにならないほどいっぱいいっぱいに押し広げられてキリキリと断末魔の悲鳴を上げていた。ブラを替えたら替えたで、今度はシャツの方が破裂してしまいそうだ。このシャツももう限界だろう。この超規格外の胸のせいで、ブラといい服といい食費といい、倉本さんもいろいろ大変なんだな。
「大変ですね」ふっと口に出してしまってから(やば!)と手で口を押さえる。うっかり心の声が漏れ出してしまった。倉本さんは(何が?)と怪訝そうにこちらを見つめている。しかたない。その先を続けた。
「いや、その胸を抱えてるのも」
 倉本さんはうつ伏せがちにしばし押し黙って考えこんでから、おもむろに口を開いた。「確かにこの胸のことでいろいろ考えなきゃならないことが多いです。冴木くんにもこうしてご迷惑かけてますし」いや、そんなことはないです、と否定したかったが、なんかそんな空気ではない。「でも、自分ではちゃんと受け入れていますから」その言葉とは裏腹に、どこかちょっとやるせなさそうな口調だった。
「倉本さんは、自分の胸、嫌いなんですか」
 え? と少し意外そうな顔をして、ようやく顔を上げてくれた。「そうでもないです。むしろわりかし好き。確かにいろいろ大変だけど、気に入ってます、わたしの胸」ひとつひとつ、言葉を選んで自分に言い聞かせるような口ぶりだった。
「ただ…ちょっと不思議な気がして」
「え?」
「間違いなく自分の体の一部なのに、こちらの意思と関係なくどんどん大きくなっていくもんですから。毎日自分の胸を見つめる度に…」
「毎日?」
「お風呂入る時に、いやでも目に入るじゃないですか。時々不思議に思うです。この中にいったい何が入っているんだろうって」
「―――」お風呂の中、一糸まとわぬ姿で自分の裸を見つめる倉本さん――大慌てで湧き上がる妄想をかき消した。そういう時じゃない!
「もちろん乳腺組織と脂肪だって、知識では分かっています。でもなんだかそれだけじゃない…別の思いもよらないなにかがめいっぱい詰まっているんじゃないかって、じっと考え込んでしまうことがあるんです」
 倉本さんはここまでしゃべったところでハッとこちらに顔を向けた。にわかに頬に赤みが射す。
「冴木くんって――けっこう聞き上手ですよね」
「そうかな?」そんなこと、初めて言われた。自分では気にしたことなかったけど。
「雰囲気なのかな? 気軽に打ち解けやすい空気感があって…いつもなら絶対話さないようなことを、気がつくと――口にしてる…」
 そのままむすっと黙り込んでしまう。今日はもう一言もしゃべらないと決めたかのようだった。
「ひょっとして――怒ってます?」
 すると倉本さんはふっと顔を上げ、急いで否定した。
「怒ってないです。それはもう絶対――。わたし、けっこう無愛想ならしくって、よく怒っていると誤解されるんです。でも、怒ってないです。ただ…」そこで、自分の心をまさぐるようにこう付け加えた。
「ただ…ちょっと、怖いです――。自分の体ががいつの間にかどんどんとてつもないものに変わっているんじゃないかって気がして」


 帰りの電車に乗ったのはもう日が傾きかけた頃だった。先ほど曇りがちだった倉本さんの表情も、次第に元気を取り戻して朗らかさが戻ってきていた。なんだか今日1日でこの人のことをずいぶん知ることができたような気がする。少しでも一緒に長く過ごしたくって、帰りもまたひと駅乗り過ごした。
「それじゃあ、僕はこっちなんで」2人一緒に改札をくぐって僕は来た線路を戻る方向を指し示すと、「あ、わたしもこっちの方です」と倉本さんも同じ道を歩き始めた。
 いずれ分岐すると思っていたけど、いつまでも分かれることなく歩き続ける。そして突然、倉本さんがすぐ先に建つ家を指し示した。「あ、わたしの家、ここですから」
 そこにはごく普通の一軒家が建っていた。アパート住まいの僕としてはちょっとうらやましかったけど、豪邸とかじゃなくてちょっとほっとした。
 って、ここぉ!
 隣の駅と聞いていたが、僕は駅から先に歩き、倉本さんは駅から戻る方向で、この辺りなら何度も来たことある。ここなら家から歩いても10分ぐらいだろう。
「意外と…近かったんですね」
 この事実に、倉本さんは淡々と言葉を返しただけだった。ひょっとして僕なんかに家を知られて警戒されたのではないか、そんな懸念も湧いてきたが、その表情からは何も読み取ることができなかった。