頼りたい背中

ジグラット 作
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 今年のゴールデンウィークほど、終わるのが待ち遠しかったことはない。

 どこに出かけるでもない、何かをする気も起きず、ただ少しでも時間ができると、ついスマホを手にLINEを眺めてしてしまう。
 いったい日に何度こんなことを繰り返したろう。倉本さんとは連休初日に一緒にトリオンフィ(という店名だと後で聞いた)に行ったものの、それから後は特に会う予定もないしLINEに書き込みもない。当たり前だ。僕と倉本さんの関係は通学時の"楯"、それだけだ。毎日のように会ってるからそんな気になってるが、学校が休みになったら会う理由もない。それは分かっている。でも――そう口にしただけでどうしようもなく胸が苦しくなるのはどうしたことだろう。
(やっぱり――そういうことなのかな)
 初恋なんて小学生の時に済ませた気でいた。中学の時に「好きだ」と告白したことだってある。(いずれも実らなかったが) しかし――こんな息苦しいまでの気持ちに襲われたことは覚えがない。
 とはいえあの日2人して出かけた時、今までになく打ち解けられた瞬間があった気がする。ひょっとして僕の方から誘っても応えてくれるんじゃないか…そんな期待を抱いて、実は何度となくLINEを送ろうとした。しかし文面を書き始めてはすぐ消すの繰り返し。というかなんて書いたらいいのか全然思い浮かばないのだ。今までの書き込みを見返しても業務連絡めいたものばっかり並んでるじゃないか。
 無理だろ、倉本さんが――僕となんて。

 だから連休最終日、明日から学校と言うだけで心がざわめいてしょうがない。待ちかねて倉本さんにLINEを打った。
「家が近いって分かったんで、明日は直接倉本さんの家に迎えに行きます」
 あまりに我慢してたので勢いで書いちゃったけど、送信ボタンを押した瞬間その場でのたうち回った。なんだよこれ、家が割れたから直接行くって、キモがられるにきまってんじゃん。ストーカーかよ。
 取り消したかったけどもう既読がついてる。けどしばらく反応がない。ほらーっ。
 10分ぐらいしてようやく返事が来たけど、見るのが怖かった。
 恐る恐る画面を覗く。案の定、驚いていた。けど「悪いです」というくらいで特に嫌がっている様子ではない。そこで、たとえ1駅だけでも倉本さんが1人で乗っている事を取り上げ、なら最初から一緒に乗った方がいい、だったらちょうど通り道なんで僕が倉本さんの家で合流した方が効率がいい、と考えつく限りの言葉でアピールした。必死だった。強引だとは思うけど、こうなったらもう後には引けない。すると最後にはこう返ってきた。
「わかりました。よろしくお願いします」

 次の日の朝、時間を示し合わせて倉本さんの家に向かう。はたして出てきてくれるのだろうか…不安がよぎる。けど着いたことをLINEすると「今行きます」と即返があって、ガチャンとドアが開いた。
「行ってきます」家の中に声をかけながら倉本さんが出てくる。家の前に僕がいることを認めると、まっすぐ駆け寄ってきた。
「よろしくお願いします」ぺこりと倉本さんが頭を下げる。その様子はこちらが拍子抜けするほど以前と変わらない。しかし顔を上げた彼女の胸を見た途端、(え?)と目をしばたたいた。そう、連休前にあれほどみちみちとはちきれそうだったブレザーが、胸の部分だけゆったり余裕ができて、むしろぶかぶかなぐらいなのだ。
 僕の視線を感じ取ったのだろう、「あ」と軽く声が出て、(わかります?) とばかりにいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「あれから制服を作り直したんです」 駅への道を並んで歩きながら、倉本さんが話し出す。「大急ぎで採寸して仕立て直して…きのうギリギリできあがったんですよ。連休中大変でした」
「そうだったんですね」倉本さんの話しっぷりは、連休中のブランクを特に感じさせない、ごく普通のものだった。まぁ僕と会えなくてさみしがってたなんてことはないよな、やっぱり。
「お母さんにもしかられちゃうし。せっかく特注したのに、1ヶ月でまた作り直さなきゃならないなんて、って」ふふっとおかしそうに笑う。「いやまったく、わが胸ながら困ったもんです」
 でもなんだろう。倉本さん、最初に会った頃よりは少し打ち解けてくれたような…。よく笑うようになったし、それに倉本さんにとってはおそらくデリケートな話題である胸の話を、僕には抵抗なくしてくれるようになった…気がする。これって――進展、だよね。ああーっ、倉本さんの一挙手一投足に右往左往している自分が情けなかった。
 それにしても思い切りぶかぶかにしたもんだ。胸の辺りだけ生地が完全に余ってしまって隙間ができている。
「でもこれなら当分は制服も大丈夫そうですね」
(でしょ)とばかりににこりと笑った。

 ――と、思っていた。この時は…。


(まさかこうなるなんて) 倉本さんの苦しそうな様子を横から伺いながら僕まで当惑していた。誰が予想したろう、あれほど余裕があったブレザーが、日に日に満ち満ちていき、わずか1ヶ月足らずでまたもはちきれんばかりに満タンになってしまうだなんて。
「大丈夫?」きつくてまともに息をするのも大変そうだ。吸い込む度にグーッと胸がせり上がってかろうじて留まっているボタンに圧がかかってるのが端からでもよく分かる。だから浅くしか息ができず、慎重に静かに息を吸い込んでいる。
「大丈夫です。とにかく今日1日はもたせますので」そう言うそばから、また胸のボタンが吹っ飛びそうに左右から引き絞られ緊張感が高まっていく。
「なんだったら胸のボタン外した方が」
「いえ、大丈夫ですので」それはまるで自分に言い聞かせているようだった。
 ポリシーでもあるのか、倉本さんの制服の着こなしはいつもきっちりしていた。ボタンを上からすべて留め、ネクタイも指定通り首許にしっかり締められている。それはどこか、他に対する防衛本能の表れのようにも見えた。
 今日で5月も終わり、明日から衣替えで夏服になる。だからブレザーはこれで一旦お役御免なのだ。今日1日のために作り直すわけにはいかないということらしい。
「で、冴木くん、今日は悪いんですけど、放課後も…」
「ええ。学校終わったら直接新宿行くんですよね」
 そう、ブレザーもだが、なによりブラジャーが限界だった。とはいえブラで胸を極限まで締め付けた状態でこれだから、ブラを替えて本来の大きさに戻ったらブレザーがどうにもならない。それが分かっているから、こうしてきつくてしょうがないブラに無理矢理胸を詰め込んでいるのだ。この日の倉本さんは、ほんといつ爆発するかわからない胸を抱えておそるおそる、そろそろと動いている感じだった。

「ふーっ。生き返りましたぁ」晴れ晴れとした顔で倉本さんが思う存分深呼吸する。今日やっと肺に酸素を思うがままに取り込められて驚くほど胸が大きくせり上がった。
 倉本さんの口調がいつもよりくだけてるのは、それだけ我慢から解放されたからだろう。トリオンフィを出たのは、もう6時を回っていた。この季節でなかったらもう暗くなっていただろう。店から出てきた倉本さんと合流した僕は、新宿駅に向けて並んで歩き出していた。例によって倉本さんの両手には抱えきれないほど大きな紙袋がいくつも提げられており、持ちきれないので僕が彼女の鞄を預かっていた。
 ようやく真新しいブラで本来の大きさを取り戻した胸は、なんだかいきなり1割増しになったように見える。制服のブレザーはもはやボタンを締めることを諦めて前が全開だった。代わりにブラウスがかわいそうに断末魔の悲鳴を上げている。
「ギリギリでしたね」
「本当はあんまり締め付けない方がいいんですけどね」
「そうなんですか?」
「なんだか押し込むと反動で余計大きくなってしまう気がするんです」
 そういうもんなんだろうか? なんか倉本さんの胸は一般常識が通用しない気がするのでなんとも言えないが。
「で、明日からですけど夏服は準備できてるんですか?」今にも吹っ飛びそうな胸のボタンに目を奪われながら、ついつい気になって訊いてしまった。
「もちろん。こうなることは春から予想できてましたから、あえて作らずにギリギリまで待って特注したんです。なんとか夏休みまでもたせたいですから」
 しかし――不安だった。今まで厚手のブレザーに押し込んでいたことによってどうにかある程度目立たなくなっていたこの胸が、ブラウス1枚の夏服になったらいったいどうなってしまうんだろう…。


 次の日、期待と不安がない交ぜになりつついつものように倉本さんの家の前で待っていた。出てきた彼女は予想通り半袖ブラウス1枚、標準的な夏服だが、標準的でない胸がブラウスを突き破らんばかりに盛大に盛り上がっている。一瞬、中に巨大爆弾が2つ仕込まれているんじゃないかって気がして、ちょっとひるんでしまった。首からは指定の臙脂のネクタイが、ちょうどボタンラインを覆うように下げられているが、胸の頂点から地面に向けてすとんとぶら下がって胸の標高を一層際立たせている。見るなと言われても目がぐいぐい引きつけられてしまう。
「おはようございます」いつものように挨拶を済ませ、駅に向けて並んで歩き出した。

 一緒に歩きながらも気になってしょうがない。これまでもっさりしたブレザーで胸の大きさがある程度隠されていたのが、ブラウスだけだとその胸の頂はもちろん、麓のウエストの驚くべき細さまであらわになり、計り知れない巨大さの全貌がまる分かりなのだ。その破壊力たるや、今までと比べものにならないほど増幅されている。あまりの迫力に直視することをためらわれるほどだ。
「?」倉本さんが不思議そうにこちらを向く。やばい、挙動不審だったか。
 しかしその反応は予想を超えていた。(どう?)とばかりに得意げな表情を浮かべると、ぴんと背筋を伸ばして胸を張り、むしろ一層胸を揺らさんばかりに歩幅を広めたのだ。いつものおとなしい印象は明らかに違う。1歩踏み出すたびに胸の生地が急速に引き延ばされてぐんとうなりを上げている。しかしそれでもブラウスはその勢いをがっしりと受け止めていて、近くで見ても期待もとい心配したようなブラ透けはない。
(あえて厚手の生地を使ってるんだろうか)
 それにボタンが歩く度に小さくきしみを上げているのに、不思議とネクタイの奥から垣間見えるラインに隙間が開くようなこともない。動く度に引きつってできる皺から、どうやら見えてる以上のボタンが内側に隠されているみたいだった。
(やっぱり、なんらかの対策がなされているんだな)
 倉本さん自身、歩きながら時折、自分の胸を見下ろしては、満足げに頬笑んでいる。そして結果を確信したようにニコッと笑った。
(ひょっとして…浮かれてる?) その顔を見ていると、なんだか鼻歌でも歌い出すんじゃないかと思えるくらいだった。
(――むしろわりかし好き。気に入ってます、わたしの胸) 唐突に、この前聞いた倉本さんの言葉が思い浮かぶ。そうか――新しい制服がいい仕事をしていて、胸のラインが非常にきれいに出ているのでテンションが上がっているんだ。むしろちょっと見せびらかしたいぐらいの気持ちなんじゃないだろうか。いつも姿勢がいいけど、今日はいつも以上に胸をピーンと張って、どうよ、とばかりにこちらを指し示している。
「よく、似合ってるね」
 こんな笑顔を前に、僕はそう言うしかなかった。そうしたら(でしょ)とばかりにこちらに向けて頬笑む。実際このブラウス、すごくよくできている。布1枚で彼女のバストをこれだけしっかり収めきっているんだからとてつもない技術が詰め込まれてるに違いない。ただ――だからといって大丈夫ってわけじゃ…。胸のラインがこれ以上ないほどくっきりと浮き上がり、その…おっぱいの形が丸わかりなのだ。どんなにしっかり包み込まれていてもそのとてつもない重量感・緊迫感はむしろストレートに表出され、引き破りたいのに破れない内に籠められたエネルギーみたいなものがダイレクトに放射されている。
「この制服、とても動きやすいんです」
 なのに本人はそれに全く気づかないのか、それとも信用しきってるのか、いつも以上に軽やかに動きまわるので、胸の暴れっぷりが半端ない。内に装填された超特大爆弾はその細身の体には到底不釣り合いで、ありえない角度で前に大きく突き出しているのだ。そして胸を覆うようにかっちりとすべてのボタンが締められたブラウスは、なんとしてでもその爆弾を踏みとどまらせようと必死で抑え込んではいるが、その封印も歩くたびにぎち…ぎち…と苦しそうな軋みを上げて今にも暴発しかねない危うさでこちらに迫ってくる。
(これは――却って危険だ) もう見ているだけで心配で心臓が痛くなってきた。
 しかし本人がうれしがってるのに、とてもじゃないが何も言えない。
 駅への道だけでこれなのだ。その暴れっぷりは電車に乗ってからさらに本領を発揮する。乗った途端、まわりの視線がいつも以上に痛い。普段通り背中を向けて立ち、視界から胸が消えてちょっと心の平静を取り戻したのもつかの間、混んできた途端むにっと胸が押しつけられてきたのだ。
(○△×◇☆★☆!) 言葉にならない衝撃が背中一面に走る。夏服でこちらもワイシャツ1枚になり、ブラウス越しの胸の感触はこれまでと比べものにならないほど生々しい。まるで素のおっぱいが直に当たったかと錯覚するような鮮烈さだ。それに――ますます大きくなって、もう完全に僕の背中からはみ出してないか? ぐっと抑え込まれた時のその反動の衝撃もはるかに強大で直接的だった。
「うわっ」最初の一撃だけで思わず体が持って行かれそうになる。一緒に乗り始めてもう2ヶ月近くになるのに、筋トレの成果もまるで役に立たない。正直身の危険を感じた。それに夏服は薄着な分、お互いの体温も身近に感じてしまう。僕は倉本さんの胸の"熱さ"を感じ、次第に体中が熱を帯びてきた。なんだか頭がクラクラする――。

「冴木くん」どうにか満員電車を耐えきって駅に降りた後、倉本さんが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「ん?」
「大丈夫ですか? なんか顔が赤いですけど。体も…熱っぽいような…」
 え?
「その…」倉本さんはそっと手を伸ばして掌で胸の頂点を隠すように覆った。「胸の先が…いつもより熱かったものですから」
 体温を感じてたのは僕だけではない、倉本さんもだ。僕の興奮を読み取られてたと分かってよけい頭に血が上る。
 この夏服、確かに対策は万全だった。しかしがっちりと1枚のブラウスで抑え込むことによってその内に秘めた爆発的エネルギーを却って強調させてしまい、今までよりはるかに強大になっている。しかも倉本さんはその事に気づいてもいない。
 この無意識の危険に対し、僕はどう対処すべきか…。
「倉本さん!」僕は思わず顔を向けて叫んでいた。
「はい?」
「今日から帰りも一緒の電車に乗ります!」
 後先考えず宣言してしまった。倉本さんは「え…悪いです」と戸惑っているが、もう後には引けない。押し通すしかないのだ。その時の説得は正直めちゃくちゃだったが、しまいには倉本さんも僕に気圧されたようにうなずいた。
「じゃあ…お願いできますか」

 放課後、LINEで示し合わせて、とりあえず人通りの少ない裏門のそばで待ち合わせた。(校門の前、というのはいかにもな感じで恥ずかしかったのだ) 時間はまだ日もほとんど傾いてない頃で、車内はさほど混んではいない。心配しすぎたかな、と思ったけども、やっぱり倉本さんはまわりの注目を浴びすぎるほど浴びている。ただ不思議なのだが、辺りが密集さえしていなければあまり他人の目を気にしてないみたいなのだ。というか自分がそんな注目されるはずはない、と思い込んでいる節がある。僕は倉本さんの前で背を向けた。
「あの…」すぐに倉本さんが声をかけた。
「このぐらいの混み具合だとやっぱり変な感じなんで、こっちを向いてください」
 言われて倉本さんの方にむき直す。倉本さんのかわいい顔も、なにより大迫力の胸が目の前に迫ってきて目のやり場に困るが、確かにこれぐらいの混み具合ならば、この方が自然だろう。それにひとりで乗るよりも、同乗者がいると分かる方が周りの目も分散されがちだった。
 倉本さんが右手を上げて吊革をつかむ。ただそれだけのことで胸が引っ張られてくいっと上を向きこちらの顎にぶつかるかと危ぶんだ。
 向かい合うと黙っているのも変なんで、何か話さなければ、と話題を探していると、倉本さんの方から先に話しかけてくれた。
「ほんとうに今日は大丈夫だったんですか? 部活とかは…」
「あ、僕帰宅部なんで、時間はどうにでもなるんですよ」そういえば倉本さんはなにかサークル入っているだろうか? 疑問に思って訊いてみた。
「わたしも別に…。どこの部にも入っていません」
 優等生だから、まっすぐ帰ってみっちり勉強でもしてるのかな? けどそんなことを言ったら倉本さんは即座に否定した。
「あ、いえ。そんな…。わたし、そんな真面目じゃありませんよ。ほんとうは水泳部に入るつもりだったんですが、それを言ったら先生に全力で止められてしまって…」
 倉本さんが水泳部…。あの競泳用水着にピッチリ胸を包んで人前に…。み、見たい…。じゃなくて、危険すぎる――。
「水泳、得意なんですか?」頭の中で勝手に倉本さんの水着姿が浮かび上がろうとするのを力づくで抑え込み、極力何気なさそうに訊いてみた。
「というか中学はずっと水泳部でしたから。けっこうタイムも良くて、何度か大会にも出たんですよ」意外だ、と思ったけど、おそらくその頃はまだ胸がこんな大きくなる前だったんだろう。
「だからそれを止められて、今、泳ぎたい、って気持ちがすごい高まっているんです。ああ、早く学校のプールが始まらないかな…」ほんと、我慢できない、という感じで体を震わせた。
 そうだ、もう少しすると体育でもプールが始まる。そうしたら倉本さんも…。いや、さすがにこれは授業男女別だけど、ひと目見ようと野郎が殺到するのは確実だろうな。
「他にやりたい部活とかなかったんですか?」
「実はもうひとつあったんですけど、そっちも無理になってしまって…」ちょっと沈んだように目線を下げた。
 俯いた倉本さんの頭越しに窓が見える。ん? なんか窓の外が、いつの間にか妙に暗くなっているような…。そう、今まさに真っ黒な雲が空一面を覆わんと急速に広がっているところだった。
「どうしました?」いきなり視線を外に向けた僕に気づき、倉本さんもそちらに目を向ける。
「いや、なんか天気がヤバそうだな、って」
「そうですね、さっきまであんなに青空だったのに」
 すぐにも一雨来そうだ。電車を降りるまであと数駅、家に帰り着くまでもってくれればいいが…。
「いやな雲ですね」倉本さんが不安そうに言った。


 駅を降り、2人して家に向かって歩き出す。改札をくぐって空を仰ぐと頭上は既に一面の黒雲に覆い尽くされていた。「急ぎましょう」倉本さんが一足先に歩き出す。背筋を伸ばして姿勢良く、こつこつと速めの靴音が鳴り響くが、その体よりもずいぶん前まで形良く突き出した胸が先陣を切るようにぷるるん、ぷるるんとリズミカルに揺れている。(なんかかっこいいな)その様は大手を振――いや、大胸を振って歩いているようだった。しかしいくらペースを上ようが黒雲はお構いなく濃くなっていく。辺りの空気も妙にひんやりしてきたようだ。(いよいよやばいな) そう思った矢先、いきなり道路のあちこちに大きな点々が次々と現れ始めた。
 もう一刻の猶予もない。僕はとっさに辺りを見回すと、すぐ先に軒が見えた。「あそこに」と倉本さんの手を引き誘導する。
 軒下に駆け込んで数秒、いきなり目の前が滝になった。もちろん本物の滝ではない。あっという間に1メートル先もまともに見えないほどの激しいゲリラ豪雨に襲われたのだ。こんな雨、傘なんてまったく役に立たないだろう。ここの軒はそれほど長くはないが、それでも体を隠すには充分な幅があった。
(まさしく間一髪だな) あそこでとっさにここに飛び込まなけりゃ、今ごろ2人ともずぶ濡れになっていたろう。それにしてもひどい雨だ。風がそれほど吹き込んでこないのが幸いだけども、はたしてどれぐらい降り続くんだろう。やむまで絶対にここから出られそうにないな…。
「冷たい…」横でいきなり倉本さんがぽつりとつぶやくのが聞こえる。
 ん? とそちらに注意を向けた途端、ぎくりとして動けなくなった。
 倉本さんはもうびしょ濡れなのだ。いや、軒は僕と同じようにちゃんとある。ただ――その大きく突き出した胸はそのほとんどが軒先からあふれ出してしまっていて、そこに土砂降りの雨が容赦なくぶち当たっているのだ。倉本さんもなんとか少しでも奥に行こうと背中を壁にぴたりとつけ肩をぐいぐいと押しつけているが、その度に胸がくいっと上を向くだけで一向に効き目はない。そびえ立つ巨大爆弾も雨で湿気て心なししゅんとなってしまったように見えた。例の新品のブラウスは完全に水びだしになって見る影もない。
 濡れたブラウスは、対策むなしくぴったりと胸に張り付き、その下から巨大なブラが透けて丸見えになっている。いけない! 僕は反射的に軒から飛び出して、倉本さんの胸を覆うよう前に立ちはだかった。猛烈な雨が無慈悲に僕の背中を打ちつける。
 倉本さんが目を丸くして信じられないという顔している。「冴木く…いったい何を…」確かに端から見るとこの土砂降りの中に自ら飛び出していった理解不能な行動だろう。しかし僕は倉本さんの胸を護らなくては、という思いに突き動かされて、そのまま仁王立ちして動かなかった。
「やめて、冴木くん。見てられない」倉本さんはいきなり僕の腕をつかむと、ぐいと無理矢理また軒下に引き釣り込んだ。(え?) 倉本さん、時々妙に力強い。
 雨はなおも激しく降り続いて一向にやみそうにない。線状降水帯に入ったんじゃないだろうか、と不安になってきた。
「2人とも、濡れちゃいましたね」倉本さんの体がぶるっと震え、すると胸の先についた水滴がぶるぶるっと勢いよく跳ね飛ばされる。先ほど飛び出したおかげで僕も同様に体中ずぶ濡れだった。体が急速に冷えてくるのを感じる。寒い…。体温を奪われる感覚に体が危険信号を発している。
「いつまでもここにはいられないし…」倉本さんは何かを必死で考えているみたいだった。確かにこれ以上ここにいても風邪を引くだけだ。しかしここら辺は住宅街で他に入れそうな建物はない…。その時、倉本さんがとんでもない事を言い出した。「わたしの家来ます? すぐそこですから」

「おじゃまします」 数分後、僕は倉本さんの家の玄関にいた。ここにたどり着くまでのわずかな時間、がむしゃらに駆け込んでその間だけでさらに2人ともしこたま濡れてしまったが、あのままあそこにいるよりは、屋根の下に入るのはほんと助かる。けど――これが倉本さんの家…。毎朝家の前までは来ているが、中に入るのはもちろん初めてだ。
「気を遣う必要はないです。今、誰もいませんから」倉本さんはそう言って自分の靴と靴下を脱ぐ。どこもかしこもずぶ濡れで、細く伸びた髪からぽたぽたと水滴が絶えず落ち続けている。そして僕にも上がるよう促すが、同じくこんな水滴垂れまくりの状態で他人の家に上がるのは気が引けた。
 その様子を見て、「今、拭くものを持ってきます」と倉本さんはひとり上がってすぐに奥からタオルを手に戻ってきた。「これで…。それで、あの…ごめんなさい、先にシャワー浴びていいですか?」お願い、とばかりに両手を合わせる。見ると小刻みに体が震えている。すっかり体が冷えきってしまったのだろう。「あ、それはもう、お先にどうぞ」と僕はタオルで顔や体を拭きながら即答する。すいません、と言い残してひとり奥の方に消えていった。

 僕はそのまま玄関にしばらく立ちつくしていた。体中から絶えず水滴が落ちて足許の三和土を濡らしている。悪いと思いつつ、きょろきょろと辺りをうかがってしまう。「ここが…倉本さんの家――」 10分ぐらい経ったろうか、タオルで髪を拭きつつ倉本さんがすっきりした顔をして奥から出てきた。しかしその格好は――Tシャツとトレパンだけという軽装だった。そんな、倉本さんがTシャツなんて着たら…生地が胸のラインにピタッと吸い付き、巨大な山脈のようにそびえ立っていて、僕の目を突き破らんばかりだった。どんなにぶかぶかなTシャツでも倉本さんが着ると思いっ切りピタTになってしまう。まぶしすぎる。直視できずつい目を逸らしてしまう。だけど倉本さんは、あの土砂降りの中から自分の家に帰れて緊張から一気に解放されたのか、気楽な様子で「シャワーどうぞ」と小走りに動いていた。
(倉本さん、家だとこんな感じなのかな…)

「こちらです」倉本さんに促され、僕は靴と靴下を脱ぐと、足だけ拭いて靴下を手にそそくさと風呂場に通された。「お父さんので悪いけど」TシャツとGパンを持って脱衣かごに入れる。「じゃあごゆっくり」と扉を閉めた。
 びっしょりと濡れて張り付いた服をなんとか脱ぎ、風呂場に入る。(ここで倉本さんが…) そう、ついさっき、ここで倉本さんは制服を脱ぎ捨てて裸をさらしてたんだ…思わず妄想にとりつかれてしまいそうになる。
 いけない! 頭をぶるぶると振り払ってシャワーを出す。すぐさま暖かいお湯が噴き出してきて、すーっと気持ちがほどけてきた。

 ようやく人心地がついて上がると倉本さんは僕をリビングに招き入れ、カップを僕の前に置いた。中には温めた牛乳が注がれていて口にするとほっとする。「制服、乾燥機にかけました。完全には無理ですがとりあえず着られるぐらいにはなると思います」倉本さんは自分でもカップに口を付け、テーブルに向かい合って腰を下ろした。テーブルの上を占拠するようにどさっとその胸が乗っかる。一見形はほとんど変わらなく突き出しているけども、なんかいつもよりやわらかそう。今もふにふにと絶えず動いている。Tシャツの中身がいつも以上に生々しく感じられる。え、まさか…。僕の驚いた顔に気づいた倉本さんが(何?)という顔をする。けど次の瞬間、ハッと気づいてあわてて立ち上がった。途端にふるんふるんと胸が盛大に揺れ動き回る。
「ちょ、ちょっと待ってて!」そのまんまあわてて部屋にとって返した。なにやら格闘しているような物音がする。数分して降りてきた倉本さんの胸は、形自体はほとんど変わらないけども先ほどより幾分きっちりとして動きが抑制されているように見えた。あ、いつもの胸だ。つまり――ブラジャーをつけ忘れていたらしい。
「あの…、し、失礼しました。自分の家だからって気を抜きすぎました」うつむいて恥ずかしそうに上目づかいでこちらを覗き込む。ひょっとして家ではよくノーブラで過ごしてるんじゃないだろうな…。いつも制服をきっちりと着こなしているからそのイメージはないが、案外家では学校と違ってラフなのかもしれない。このTシャツ姿を見ているとそんな気がしてきた。
 なんか新鮮だった。倉本さんって、家ではこんな風なんだ。いつもよりもなんか雰囲気がやわらかくてとっつきやすい。学校でもこんな風にもっと自然でいたらいいのに。
「な、なんですか?」つい笑みがこぼれた僕に倉本さんが突っかかる。
「いや、倉本さん、家ではこんな感じなんだなって」
「そうですか? 自分ではそんな変わってるつもりはないんですけど」
「いや、いつもより人当たりがやわらかくって…。学校でもそうした方がいいんじゃないかな?」
「そう――でしょうか…」とまどうような表情を浮かべるその様子は、いつもの倉本さんだった。

 それっきり黙ってしまって間が持たない。話題を探すが、こういう時、ほんと普段の倉本さんのこと何も知らないんだな、と痛感する。
「あのさ、倉本さんってどんな音楽聴くの?」もうどうにも思いつかず当たり障りのない事を訊いてみた――つもりだった。
 しかし予想に反して、目をうつむかせて暗い表情を浮かべる。あれ、なんかそれ訊いちゃまずいみたいな――ひょっとしてやっちまったのか、僕。
「あの…わたし、あんまり最近の曲って知らないので…」
「じゃあ、なんか昔の曲とか」 案外ビートルズとか好きだったりして。そういうのもなんか倉本さんの雰囲気ある。
「ええ、クラシック音楽」
 ななめ後ろから来た! やべ、そんなの全然知らない。
「あの、あれだよね、音楽室に絵がずらっと並んでいる、ベートーヴェンとかバッハとか…」ほんと頭の中どんなかっさらってもこれぐらいの事しか出てこない。でもそれを聞いた倉本さんの口許がキッと固く締まる。
「いや、なんかとっつきにくそうだな、って…」
「まともに聴いたことあるの?」いきなりぐいっと顔を近づけてくる。いや、そうすると胸がそれ以上の勢いで目の前に迫ってきて…。「どうせ勝手なイメージ持っているだけでしょ。いい、ベートーヴェンってすごいのよ。1つ1つの作品すべて、理想のイメージを追い求めてギリギリまで自分を追い込んで、身を削るように作曲しているの。バッハなんてもう人間業と思えないわ。あんなたくさんの作品をとてつもない高みに昇りめたまま生涯にわたって創り出し続けるなんて…。そんな昔の人でなくても、例えばソヴィエト=ロシアのショスタコーヴィチ。彼はスターリンの迫害を受けて生命の危機を常に感じながら、そのギリギリに追い込まれた心情を魂の叫びとして作品に昇華させてみせた。まだ現役のライヒのミニマルミュージックは、短いフレーズを少しづつずらして積み重ねることによって、まるで異次元の扉が開くような不思議な世界を目の前に現出させてくれるし…」
 初めて聞く力強い口調で一気にたたみかけた。
「考えてもみて。単純にバッハから数えてみても300年、その間にいったいどれほどの数の作品が生み出されたと思う? この長い間に何度も流行の音楽は生まれているけども、単に流行に乗っただけのものは結局この年月の内に埋もれていってしまう。数え切れないほどの音楽の中で、これだけの長い時間、耐えて生き残ったものがクラシック音楽にはずらりと並んでいるの。すごくないわけないでしょ」
 ここまで一気にまくしたてて、倉本さんは何かに気づいたように口を閉じる。急速に力が抜けて腰を下ろし、手で顔を覆った。いや、その前に顔全体が胸に半分埋まっちゃってるけど…。
「ごめんなさい――やっちゃった…」先ほどとは一転、トーンダウンして小声になる。「これだからだめなのよね、わたしって」
 倉本さんがこんな風に生の感情をさらすのを初めて見た。ただ、ほんとうに好きなものに対するこういう止まらない感じ、ジャンルは違えどなんか見覚えがある。そう、推しをdisられた時のオタクそっくりだ。倉本さんって、クラシックに関してはけっこうオタク!? ならば…その線から話をころがせる。
「でもそんなに音楽好きなら、楽器とかやってたりするの?」
「ええ、小さい頃からピアノ習ってました」倉本さんがピアノ…。あ、すごい似合いそう。「けっこう一所懸命続けてたんですけどね…」
「へえ、聴いてみたいなぁ、是非」
「今はもう無理…」
「へ?」
「だって…ピアノの前に座るだけで、胸が鍵盤に当たっちゃうんです」
「あ…!」絶句した。確かにこの胸なら――ありそうだ。
「去年の後半ぐらいからだんだん弾いてて腕に胸が当たるようになってきて、そのうち胸が直接鍵盤に当たって関係ない音を出すようになり、今ではもう、鍵盤の上に胸が乗っかって完全に塞いじゃうんです。座るだけでとてつもない不協和音が鳴り響いちゃって…。もう…ピアノは、弾けません」」
 言葉が出なかった。倉本さん、この胸のせいで好きな水泳もピアノもあきらめなきゃならなかったのか…。
「でも、ピアノじゃなくても、なんか別の、胸が当たらない楽器があるんじゃないかな?」僕はなけなしの知識を頭の中でフル回転させて、思いつく限りの楽器を思い浮かべた。
「あ、あれはどう? フルート。あれなら口から横に伸びるから胸が当たらないんじゃないかな」
「そう思うでしょう。でも構えてみると分かるんですが、左手を胸の前で畳んでキーを押さえるんで」倉本さんは楽器を持つふりをした。「やっぱり肘が胸に当たってまともに届かないんです。いろいろ探したけど、これだけ胸が大きいと結局ちゃんと楽器を構えることすら難しいんです、どれも」声がどんどん沈んでいった。
「だから、さっき電車の中でちょっと言いかけたのは、水泳部がだめなら吹奏楽部を考えていたんですけども、結局それもあきらめるしかなくって…」

 僕は言葉がなかった。倉本さん、自分の胸自体が気に入ってるのはほんとみたいだけど、そのためにあきらめなくちゃならないことも思った以上に多い。なんとか力になりたい。待てよ――むしろ水泳ならば人目のことさえなければ無理って事はないんじゃないか。もちろん水の抵抗は大きそうだけど。それならせめて…目立たないところならば…。

「泳ぎに行こう」気がつくとやたら力強く宣言していた。
「え?」
「泳ぐこと自体はできるんでしょ。だったら、僕があまり人目につかないところを探して倉本さんを連れて行きます!」
「でも…わたし――」とまどいつつも、その顔にちょっと明るさが戻り、目に精気が宿ってくる。
「うん…行きたい。連れてって」声にも張りが戻ってきた。
(でも、倉本さんの水着姿――耐えられるだろうか…) まず場所探ししなきゃならないのを差し置いて、僕はそっちの方ばっかり気がかりだった。

 気がつくと、あれほど激しく降っていた雨はきれいさっぱり上がっていた。