頼りたい背中

ジグラット 作
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 梅雨に入った。
 連日はっきりしない天気が続く。空はすぐにぐずついてその度にしとしとと雨を落としていく。この前みたいなとんでもない豪雨こそないものの、普段から傘を手放すことができなくなった。
 こんな時倉本さんは大変だ。かわいらしい折りたたみ傘でも使いたい所だろうが、そんなもんじゃとてもじゃないがその胸を片方だって隠すことができない。だから大きな長傘を最近いつも持ち歩いている。それもこんなのどこで見つけてきたんだって驚くほどの代物で、やたらごつくて頑丈、広げるとばさっと大人2人ぐらい余裕で入れそうな空間が広がる。それでも倉本さんには足りないのだ。そんなたいそうなものを、手を前の方に突き出してなんとか胸の先まで覆おうとするが、そうすると今度は背中がはみ出してしまいそうになる。それを避けるために、まるで雨の動きを読むように巧みに傘を前後して雨を払っている。それはもう堂に入ったもので、この傘、かなり重いだろうに動きによどみがない。その剣捌きならぬ傘捌きに見入っていると、「別に…必要なのでやってるものですから」とテンションが低い。まぁ、とても女子高生好みのオシャレでカワイイとはほど遠いけど、結局そんなことより機能性第一で考えるしかないみたいだった。
 だから今日のように雨が降ってない日でも、倉本さんの手にはそのごつい大傘がにぎられていた。衣替えしたときに着始めたあのブラウスは、今もまだ現役で頑張ってはいる。しかしどんどん中身が増えていく胸に圧迫され、今にもはちきれんばかりにパンパンになってしまっていた。なまじっか強度が高いだけに容赦なく負荷をかけられてしまっている。ある程度伸縮性のある素材で作られているのか、彼女が息を吸う度にぷくーっとさらに膨れ上がっていき、まるでそこに何か別の生き物が潜んでいるかのように脈動を繰り返す。その繰り返しで、呼吸の度に限界に達しているのが伝わってくる。頑丈さにも限度がある。今度こそ耐えきれず破裂するんじゃないかと、横から見ててもヒヤヒヤしてしまう。
 ――と思った瞬間、ブチブチッ、と立て続けにいやな音がした。「あ」倉本さんの口から小さく声が漏れる。あわてて手を胸の先に伸ばそうとする――がそう簡単には届きそうもない。ちらりとこちらの方を見る。何が起こったか察しはついたが、悪いかなと思って、僕は気づかないふりをした。
「あ、冴木くん、ちょっと先に行っててくれますか」何気ないような風を装い倉本さんが立ち止まる。「はい」とそのまま速度を緩めて歩きながらうしろを伺うと、倉本さんは道端にうずくまり靴紐を結び直すような体で、実際は両手をいっぱいに伸ばして自分の胸を抱え上げ、どうにかたぐり寄せるよう胸のボタンの位置まで手を伸ばしていた。あの調子では普段自分でボタンを留めるのにも苦労してるんだろうな。(ほんとに大きくなったよな) 倉本さんと知り合ってまだ3ヶ月も経っていない。元から大きかったけど、この間だけでいったいどれぐらい成長したんだろう。(月に10センチとして…30センチ? いやまさかまさか…)と自分でツッコんでおいてなんだが、見ていると少なくともそれぐらいは余裕で大きくなっているような気がするから恐ろしい。思わず立ち止まりその胸を二度見してしまった。今ではもう自分でも抱えきれないほどになってしまっている。しばらく苦戦してたがどうやらはずれかかったボタンが回収できたらしい。立ち上がると早足で僕の横まで戻ってきた。
 「お待たせしました」こっちが気づいているのか気にしているようだが、僕はそのまま気づいてないふりをし続けた。しかしなんか胸の自由度がさっきより明らかに増していて、駆け寄った時にもぼよんぼよん大きく弾んでいるのが分かる。見た感じ、1つ2つボタンが飛んでもがっちりホールドされているのはさすがだが、それでも少し強度が落ちているようだ。「はぁ…」倉本さんが小さくため息をつく。それからは歩くのもこころなし慎重になったように見えた。

 電車の中も空気がしっとりして、人が密集するに従いむせかえるような湿気がまとわりつく。背中越しに感じる倉本さんの胸も、ブラウスが湿ったようにじっとりと貼りついてしまう。限界に達しているのはブラウスだけじゃない、僕の背中もだ。だって今やもう明らかに背中から胸があふれ出そうとしているんだから。ふと脇を覗くと肩越しにブラウスがはみ出しているのが分かる。子供の頃からコンプレックスだったこの背中だが、こうなってみると(なんでもっと大きくないんだろう)と悔しさがにじみ出てくる。胸を覆い隠せないだけでなく、逆に胸に飲み込まれそうになるのも時間の問題に思えた。なんとか倉本さんを支えたい、とほとんど休むことなく励んでいる筋トレのおかげで、どうにか体全体に筋肉がついてきた気はする。トレーナーからは「1日おきぐらいに休み休みやった方がいい」とは言われているのだが、とてもじゃないが気がせいてそんな悠長なことは言ってられなかった。なにせ今だって日々強力化するその胸に対抗できているとは言いがたかったのだ。何かの拍子にぐいぐい押しつけられる圧力にさらされ、ほんと一瞬でも気が抜けなかった。
(このまんまじゃ、そのうち倉本さんに見捨てられるんじゃないだろうな…)

 ただ、朝の電車でその胸を毎日背中に感じているうちに、なんとなくだけど気がついたことがある。その感触というか張り具合というか、毎日微妙に違うのだ。ある時はとろけるように柔らかく背中を包み込むようなこともあれば、つんと寄せ付けないように張り詰めていることもある。もちろん柔らかいといっても気を抜くとぐんと反発して突き飛ばされそうになることは変わらない。むしろ柔らかい方が弾性が高まってるような気すらする。電車の中で身動きできずただその感触を味わ――いやいや受け止めているうちに、今日は妙に固く張り詰めてるけどどうしたんだろう、とかついつい考えてしまう。というのもそれがどうやら倉本さんのその日の体調や気分を反映していることがだんだん分かってきたからだ。固く張り詰めている時はなにか嫌なこと、心配ごとがあった時で、逆にリラックスしていると柔らかくなるみたいなのだ。
 降りた後の会話でも、その日の胸の張り具合によって様子を見ながら自然と話題を振るようにだんだんになってきた。すると倉本さんの受け答えもなんだかなめらかになってくれるように思える。
 ――そうか、以前倉本さんが僕を「聞き上手」って言っていたのは、そういうことが影響しているのかもしれない。
 で、今日の胸は――何やら妙に気落ちしているような感じがした。ここんところの天気で気分が乗らないと言うことは多々あったが、今朝のはそれともまた違う落ち込みようだ。ブラウスが遂に限界に達したことがそんなにショックだったんだろうか。それとも他に何か…?

 結局朝のうちはそれに触れることができず、そのまま放課後を迎えた。いつものようにLINEで示し合わせて人気のない裏門で待つ。少し経ったところで倉本さんが門をくぐって歩いてきた。
「お待たせしました」
 倉本さんと僕は、今では帰りもたいがい一緒の電車に乗るようになっていた。
「いつも悪いですね、先に待たせてしまって」
「あ、いや、構いません」
 いつものように駅に向かって歩き出す。しかし倉本さんの口はいつになく重く、会話は弾まない。どうにも気になってしまい、とうとうこっちから訊いてしまった。
「あの…すいません、なんかあったんですか?」
 え?と一旦こちらを見上げた後、何も言わず俯いた。再び訪れる沈黙。でも倉本さんはしばらく考えた後、やっと重い口を開いた。
「実はきのう――先生から呼び出されて言われたんです。体育の水泳もすべて見学するように、って…」
 え…。思わず固まってしまった。その胸のせいで水泳部に入る道を断たれ、学校の授業でようやく泳げると楽しみにしていたのに――。それすらも駄目だというのか?
「それでもちゃんと成績は評価するからって、最後はもう懇願される感じで…」
 今や学校で倉本さんは誰ひとり知らぬ者のない有名人だった。でも本人は目立たなく普通にしているのにまわりが勝手に盛り上がっている感じで、両者の間にかなりギャップがある。倉本さん自身に何か問題があるわけではない。成績優秀、品行方正、むしろいわゆる優等生という部類に属していて、日々おとなしくいたって普通に学園生活を送ろうとしていているだけだ。なのに――どうも学校側は倉本さんの存在自体に及び腰というか、腫れ物に触るようにしている気配がある。それほどまでに倉本さんの容姿は突出していた。特に彼女の圧倒的な胸が、その存在そのものが騒動を巻き起こしかねないと危惧しているみたいなのだ。倉本さんにとっては理不尽としかいいようがない。それに本人はどうしてこんな目に遭うのか、いまいちピンときてないところがある。
「ところで例の話ですけど――」倉本さんがかすかに期待を込めた目でこちらを見る。今度は僕の方が目を逸らす。この前、倉本さんを泳ぎに連れて行く!と大見得切ってしまったものの、別に何か考えがあったわけではない。その場の勢いで言ってしまい、後で青くなったのはこっちの方だ。倉本さんが他人の目を気にせず安心して泳げるような場所――と言ったって、海で言えばそれこそプライヴェートビーチを手に入れるような夢物語になってしまうし、どこかプールを貸し切るとか言っても、調べてみると日程が非常に厳しい上、到底高校生に払えるような金額ではなかった。
 他に何か方法は――と考えてもいいアイディアが簡単に浮かぶ訳もなく、実際完全に手詰まりになっていた。
「そうですよね…」倉本さんはふーっと長い息を吐き出す。「わたしの方でも少し調べてみたんですが、わたし達が手に出せるような所はどこにも見つかりませんでした」やっぱり倉本さんも期待していたんだ。
「せっかく授業で泳げるから、水着の準備をしたところだったのに…」
 倉本さんの水着…当然特注だよな。去年の水着なんか絶対入りそうにないもの。
「ただやっぱり作るタイミングが難しくって――。わたしの場合、出来上がったその日から胸がどんどんきつくなり始めるものですから…」
 そう、倉本さんの着るものにはすべてタイムリミットがある。作ってしばらくほっとこうものならたちまち胸が入らなくなってしまうのだ。このままではせっかく用意した水着が一回も着ないまま無駄になりかねない。倉本さんが僕に一縷の希望を抱いているのは分かる。でもお互い行き詰まってしまい、かける言葉もなくなってしまった。

「あゆみちゃん!」沈黙を破るように、いきなり後ろから声をかけられる。
 後ろを向くと、ショートカットの女の子が駆け寄ってきた。あゆみちゃん? あ、倉本さんの事か。
「歩友美ちゃん、やっと見つけたぁ」息せき切ってゼイゼイ言っている。かなり思い切り走ってきたらしい。
「仁美ちゃん…どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ」なんとか息を整えながら話し出す。「歩友美ちゃん、放課後になると、ほんといつの間にかいなくなってるんだもん。そんななりなのに、気配消すのがうまいんだから」
「え…別に。わたし、影薄いから」
「またまたまたぁ。なんでいつもそんなへりくだんの?」
 いきなりの闖入にこちらがとまどっていると、倉本さんが気づいて紹介した。
「あ、わたしのクラスの佐伯さん」
「冴木…くん、だよね、隣のクラスの。はじめまして。わたし、佐伯 仁美です。字は違うけど同じサエキだね、よろしく」ぺこりと頭を下げた。
「あ、よろしく…」
「それにしてもいつも消えてるからなんでだろって思っていたけど、そういうことかぁ」と僕をまじまじと見つめる。「まさか一緒に帰ってる男の子がいたとはねぇ」え? そ、そいういう風に見えてるのかな、僕たち。
「いいなぁ、仲よさそうで。ね、ね、なんか今、一緒に泳ぎに行く相談してなかった? 水着がどうとかって。いいなぁ、わたしも歩友美ちゃんの水着姿見たーい。さぞかし大迫力!なんだろうなぁ」とまた今度はまじまじと倉本さんの胸を見つめている。本来の性格なのか、なんか距離の詰め方が半端ない子だな。そのあからさまな視線に倉本さんも戸惑いを隠せない。
「またまたぁ、恥ずかしがんないでよ」ちょっといたずらそうな顔をして今度は僕に向かった。
「冴木くんさぁ、実は最近うちのクラスの女子の間でもちょっと話題になってるんだよね。一見細身だけど脱いだらすごいって」え?「たくましくて頼りがいがありそうって何人かの子が気になっているみたい」そ、そんなの初耳だ。
「ね、さわっていい?」こちらが応える余地を与えず掌をどんどん僕の体に当ててくる。「わ、なにこれ、堅い」もうぺたぺたと体のあちこちをさわられてしまった。「細マッチョの噂はほんとうだったんだ」
「仁美」倉本さんがちょっと声を低めて呼び捨てにする。
「あ、気に障った? 悪い悪い。ごめんねぇ、彼氏の体勝手に触っちゃって」
「いや別に冴木くんは彼氏って訳じゃ…」
「またまたぁ。そんなこそこそ一緒に帰って泳ぎに行く相談までしといて、そんなんじゃないもないでしょ。彼氏じゃないなら何? 2人の関係は」
「いやだから、冴木くんはた…」なんて言おうとした? でもそこで口ごもって言い直す。「友達だから」
「友達ぃ? そんなのが通じると思う?」もう2人の間に割って入ってぐいぐい迫ってくる。
「それにわたし、彼氏とか作る気ないから」
 体中から力がすっと抜けていくのが自分でも分かった。その時の倉本さんの様子…顔色ひとつ変えず、口調も、さも当たり前のようにあっさりとしていて、却ってその本気度が伝わってくる。
「ふうん」佐伯さんが僕の表情を見て何かに気づいたらしい。
 いきなり訪れた沈黙に、佐伯さんも思わず(まずったかな?)と言わんばかりに後じさりをする。
「ま、あんまり邪魔しちゃ悪いから今日はこれで退散します。じゃ、歩友美ちゃん、またね」
 それだけ言うと、来た時と同じようにぱっと走り去っていった。
 残された2人、ただ気まずさだけが漂う。
「なんか、台風みたいな子ですねぇ」これぐらいしか言うことが見つからなかった。
「ええ、こんなわたしにも気軽に話しかけてくれる、大切な友だち…」倉本さんは変わらず沈着だった。
(――わたし、彼氏とか作る気ないから) 先ほどの言葉が僕の中に杭を打ち込まれたようにひっかかる。結局この日はそのまま、家に着くまで会話は始終途切れがちだった。


「ちょっとちょっと」
 次の日の放課後、帰ろうと鞄を持ち上げたところで後ろから呼びかけられた。振り向くと教室の扉から頭だけさし入れてこっちを見ている顔がある。きのうの佐伯さんだ。
「なんですか?」きのうの今日だが、こう人前では無視するわけにも行かない。おそるおそる近寄っていった。
「もう、そんな警戒しないでよぉ、同じサエキ同士、仲良くやろ」
 そのまんま引きずられるように場所を移動する。連れて行かれたのは倉本さんと最初に入ったファミレスだった。ここって隣のクラスの女子の定番のたまり場なんだろうか。
「ごめんねぇ、ほんとなら歩友美ちゃんと一緒に帰りたいところだろうに」
「あ、いや、倉本さん、今日は用があって先に帰るって言ってたから」
「へぇ〜、ちゃんとそんなことまで把握してるんだぁ」にまにまと興味深そうにこちらを見つめている。
「で、ほんとのところどうなの、歩友美ちゃんとは」
「いや、別に…」ほんとのところ――倉本さんと僕の関係って、なんと説明したらいいんだろう。確かに行き帰りたいがい一緒になっている。でも、それ以上のことはほんとうにない。
「でも好きなんでしょ、歩友美ちゃんのこと」
 ぎくっ! いきなり見透かされて思わずわ顔が固まってしまう。「あの、倉本さんとは、そういうんじゃ…」
「だって、きのうの歩友美ちゃんの彼氏いらない宣言の時の顔ったら。もうあからさまにがっくりきてたじゃない。今はそう言う関係じゃないのかもしれないけどさ、いずれは…って期待してたんでしょ、実は」
 図星だった。
「ま、別に珍しいことじゃないし。というかうちのクラスの男ども、誰も彼も歩友美ちゃんに興味津々だからね。つーかみんな歩友美ちゃん狙いで他の女子全部ひっくるめて眼中なしかよって」ちょっと不満げに吐き出した。
「でもほんとのところきのうのあれはどういう意味なんだろうね。歩友美ちゃん、ちょっとつかめないところあるから。あんなに美人でかわいいしとてつもないプロポーションしてるのに、なんであんな自分に自信なさげなんだろ」そこはほんとうに不思議そうだった。
「それでいて彼氏の一人も作ろうとしないしさ。ありゃ無意識のうちに男を破滅に追いやるタイプかもね」
「え…そんなことは――」
「あ、それとも冴木くん、破滅されたい方?」
「いやそんな…僕は、だったら、倉本さんを護りたいっていうか…」
 佐伯さんはきょとんとした顔をした。「冴木くんって…なんか珍しいタイプだね」

「でもさぁ、なんかさっきからサエキサエキって自分に話しかけてるみたいで変なんだけど」いきなり話を切り替えてきた。「ね、下の名前なんてったっけ?」
「あ、弘和ですけど」
「じゃ弘和くん、私のことは仁美って呼んで」
「え…え…?」あいかわらずぐいぐいくる。そんな、きのう初めて会った女の子を名前で呼ぶだなんて…。
「それとも、これは歩友美ちゃんに呼ばれたい?」
「あ、いや…別に…」
「あっは。まあ無理しなくていいけど、でさ、弘和くん」
 そこから佐伯さんの追及は僕自身から倉本さんの事に移っていった。僕が彼女のことをどれほど知ってるのか、情報を引き出そうとしているらしい。けど…悔しいけど知っていることはほんと少ない…。むしろ佐伯さんからクラスでの倉本さんの様子を聞けたほうが嬉しかった。
「物静かで休み時間はたいがい自分の席で本読んでるし。――あ、そういえば歩友美ちゃんが読んでる本、毎日違うんだよね。けっこう分厚くて文字ばっかびっしり書かれてる小難しい本を、たいがい1日で読み切っちゃうんだって。これ歩友美ちゃん伝説。あとクラシック音楽にめちゃくちゃ詳しいとか」
「あ、それは知っている」
「ほう…おぬしやるな。なかなかそこまで踏み込んで話できる奴いないのに」この前の雨の日のことが役に立つ。でもそれで話せる相手だと認められたのか、さらにどんどん攻め込んできた。
「そんなだからクラスでも孤高っていうか、男子もなんか話しかけづらい感じで特に仲いい男の子とか見当たらなかったんだよね。それこそ誰も手が出せずに遠巻きにされてるっていうか。孤立しているわけじゃないけどみんな牽制しあってちょっと距離置かれてるようなところがあるの。なによりあのおっぱい! ほんといったい中に何入ってるんだろうって不思議なぐらいでっかいよね。なんていうか、大きさはもちろんだけど、質そのものがなんか別格って感じでさ。もし仮にわたしの胸があのぐらい大きかったとしても、歩友美ちゃんみたいにはならない気がする。なによりその形がさぁ、もう中身がパンパンに張り詰めてて、とにかくかっこいいんだよね」話題はやっぱりなんだかんだいって胸の話になっていく。「歩友美ちゃん自身は胸のことどう思ってんのかな」
「別に自分の胸は気に入っているけど、あまりにどんどん大きくなるからやっぱりとまどいがあるみたいだね」
 佐伯さんは目を見開いてこちらを見る。「へぇ…。そうなんだ…」佐伯さんもその事は知らなかったらしい。
「でもやっぱりそう思う? 歩友美ちゃんの胸、大きいだけじゃなくて今まさにすごい勢いで成長してるでしょ。まさしく高度成長期まっただ中って感じ。なんかもう日に日に大きくなってく感じしない?」やはり誰の目から見てもそう見えるのか。
「だからさぁ、クラスの男子も歩友美ちゃんの胸が気になってしょうがないくせに、なんというか歩友美ちゃん、四方八方に絶え間なく"さわんなオーラ"放ちまくってるみたいなところあってさ、近づいたらあの胸に誰彼なくはじき飛ばされそうな気がするのよ」いや、実際初対面でいきなりはじき飛ばされた実例がここに…と思ったけども倉本さんの名誉のために黙っておくことにした。こんなこと、お互い絶対知られたくないし。
「でさ、あの時冴木くんが歩友美ちゃんの彼氏だと思ったのってさ」そして意味深な顔をした。「冴木くんあんなに歩友美ちゃんのそばにいたのに、歩友美ちゃんの"さわんなオーラ"が消えてたんだよね、跡形もなく。だからこれは歩友美ちゃんの"特別な人"なんじゃないかって。それでわたしはつい色めき立っちゃったのよ!」え? そうなのか…。やっぱり倉本さん、少しは僕のことを気安く思ってくれているのかな…? ほんのちょっとしたことで一喜一憂している自分がいた。

「でさ、弘和くん。歩友美ちゃんの胸何センチあるか知ってる?」
 いきなりの質問に思わずせき込んでしまった。ほんといきなり何言い出すか分からないな、この子は。
「うーん、弘和くんも知らないかぁ。本人にいくら訊いても絶対言わないし。なんかトップシークレットなんだよね。とにかくどんどん大きくなってるのは間違いないんだけど。ね、どれぐらいあると思う?」
「いや、あの、そんなこと言われても…見当つかない…」
「またまたぁ、知りたくてしょうがないって顔に出ているよ。クラスの男子なんか、しょっちゅう何センチかって噂してるんだから。みんな勝手な数字言ってるし」
 いったいどれぐらいって言ってるんだろう。頭の中でいろんな3桁の数字が飛び交ってしまう。
「で、どう? 弘和くんの見立ては…」
「その――」なんだか言わざるを得ないような空気になってきた「100…何10センチか…は、あると思うけど…」
「えーっ、そんなもんじゃないでしょ。わたしの想像なんだけどさ、あれってもう2メートルの大台いってんじゃないかな」
「2メ…そ、そんなに」
 ふと、唐突に(トリオンフィには記録あるんだよな、特注してるんだし)と思い浮かぶ。
「ん? なに? なんか知ってんの?」くっそう、さっきから顔色読まれ通しだ。
「あ、いや、別に…」だからってこちらに教えてくれるわけがない。正直に答えるしかなかった。
「だよねー」案外あっさり納得してくれた。「歩友美ちゃん、男子はもちろん女子にだって胸のことアンタッチャブルだからねぇ。絶対さわらせてくれないの。体育の着替えの時とか、みんな手ぐすね引いてるんだけどね。だって、ほんーーーーーーーーーーーーーーとすごいんだから。でも今まで誰ひとりさわったことに成功した人いないの」
 それを聞いてふと不思議になった。どういうことなんだろう。そりゃ確かに最初ははじき飛ばされたけども、その後は…結局毎朝背中に胸が当たっている。それじゃ倉本さん、僕にだけは許容してくれているのか…。
「え? なににまにましてるのよ」え?また顔に出てた?
「ひょっとして、まさか…もうさわっちゃった? 歩友美ちゃんの胸」
 うっと本音が出そうになったけど、ぐっとこらえた「いやいやいやいや…」
「ほんとかなぁ」なんか面白がって離してくれそうにない。

「で、ほんとうのとこどうなのよ、歩友美ちゃんとの関係は」
 やっぱり答えられず黙ってしまう。ほんとのところ、倉本さんは僕のことどう思ってんだろう。ある程度は親しくなっているとは思う。ただ、それ以上は――どうしてもつかめなかった。
「わかったわかった。その態度でなんとなく伝わったから」
 いたずらっぽく頬笑みかける。くやしいけどさっきから手玉に取られ通しだ。
「まぁ他に特定の男子はいないみたいだから、それは安心していいよ。でもどうなのかな、きのうとっさにカマかけたのに、特に反応なかったし」ありゃカマかけだったのかい!「あ、冴木くんがクラスでちょっと噂になってるってのはほんとうだよ」で興味深そうに僕の体に目を向ける。「だから、もう一回さわらせてもらえると嬉しい」言うが早いか手を伸ばして僕の胴体をぺたぺた触りだした。「わ、やっぱ固い」「いーなーこれ」とか勝手に声に出している。こいつのために鍛えたわけじゃねーぞ、と思わず突っぱねてしまいそうになってしまった。
「でも歩友美ちゃん、なんであんなこと言ったのかな。別に"腐"がついてるようにも見えないけど」
 いきなり、ふと、という感じで佐伯さんがつぶやいた。
「"腐"って?」
「わかんない? カップリング厨。それと百合の気配もないしね。ひょっとしてなんかトラウマがあんのかな、男に対して」

「で、なんなの? 歩友美ちゃんと仲良くなったきっかけって」
 もういきなり話が変わるのにも慣れてきた。え、と…。けどまさか倉本さんの胸に吹っ飛ばされたとは言えないよな。
「あの、朝、電車の中でぶつかっちゃったのが最初かな」嘘は…ついてない。
「ふーん、おっぱいに?」
 思わずむせてしまう。「あ、いや、別に…そういうわけじゃ…」
「そっかぁ、やっぱさわっちゃったんだぁ」もう否定しても信じてくれそうにない。
「さわってな…。あたった、そう、当たっただけ…」必死に否定するが相手は面白そうにこっちの様子を伺っていた。
「だってさぁ、歩友美ちゃんの体で体積が一番大きいのって、間違いなくおっぱいじゃん。あんなに大きく突き出してちゃ、ぶつからない方が不思議だわ。で、いつ泳ぎにいくの?」また話題が変わる。いきなり話を元に戻された。しかし――僕はこれまでの経緯を話し、見通しが立ってないことを正直に白状した。
「ふ〜ん、そうなんだ」しかしなんか思いついたようにしゃべり出した。「でもそれなら、おそらくなんとかなると思う」
 いたずらっぽくにんまりした。


 その日の夜、明日のことについて倉本さんにLINEを入れると、すぐさまスマホが鳴った。え?と見ると倉本さん!あわててつないだ。音声通話をかけてくるのは初めてだ。
「いきなりすいません、今、お時間よろしいですか?」電話越しの倉本さんの声。なんか声だけでもすごいきれいだな、といきなり気づいてしまった。
「今日はひとりで帰りましたけど、なんでもその後仁美ちゃんと会ってたんですって?」
 え、なんでそれを、と思ったら、佐伯さんの方から電話があったらしい。
「それで仁美ちゃんから冴木くんのことを訊かれて…。それで、やっぱり冴木くんに言っておかなければならないと思ったものですから…」
 いったい何だろう。もしかして愛の告白――ではないよな。期待してしまう自分が悲しい。それに倉本さんの口調がいつにも増して冷ややかだった。
 でもそう言ったまましばらく間が空く。なにやら口を開く気配は感じるのだが、どう言っていいのか珍しく考え込んでいるようだった。

「今さら隠してもしょうがないですけど、わたしの胸は今、ものすごい勢いで成長し続けています」ようやく言い出したのはほんと思いもかけないことだった。いったい何の話なんだ?
「この前、自分の胸が気に入っているっていいましたし、それは嘘ではないんですが…やっぱりこの調子でどこまで大きくなるのかって、不安は…あります」
 そこでまた沈黙が流れる。倉本さん、ほんと一言一言、どう伝えるべきかを考えあぐねている感じなのだ。
「一応言っておきますと、わたし…今まで他の人に自分の胸を触られたことはありません」
 思わず息を呑む。倉本さん、ほんと今日は何を言い出すんだ?
「あの…よく言われるじゃないですか、胸は揉まれると大きくなるって…。でもわたし、触られたこともないのにどんどん胸が大きくなっていって止まらないんです」僕はうなずくしかない。というか(そっか、誰もさわった人はいないんだ)とどこかほっとしている自分がいる。
「このままどこまで大きくなるのか見当もつきません。もちろんこれって迷信だとか根拠ないとか言われてますけども、それでも不安要素は少しでもとり除いておきたいんです。だから…これだけは決めているんです。少なくとも、この胸の成長が落ち着くまでは、彼氏は絶対つくらない、って」
 倉本さんは静かに、しかし確固たる口調で言った。
「冴木くん」ここにきてようやく僕に呼びかけてきた。
「あの…冴木くんにはほんとお世話になっていて、いくら感謝しても足りません。でも…」何か言いにくそうだ。「わたしがこんなことを言うのはおこがましいというか、何か勘違いさせてるかもしれないんですが――」ほんとうにもどかしそうな言い回しをする。なんだかすごく言いにくそうだ。
「もしもそういうことを期待させているんだとしたら――申し訳ありません。それにお応えする訳には…」言葉が途切れる。これ以上はとても言えない、察してほしいと言わんばかりに。
 これって…倉本さんとつきあうとか、そういうことはありえないっていうことだよな。自分でも血の気が引くのがわかった。振られたわけではないけど、最後通牒を突きつけられた気分だ。
「だから、もしそのことが不服なのでしたら、朝のことも、今日を最後におしまいにしてもらって一向に構いません。ほんとうに今までありがとうございました」
 倉本さんは話を終わらせようとしている。そんな…いま電話を切られたら本当にここで終わりになってしまいそうだ。いやだ、そんなの。たとえどんな形であれ、倉本さんとの今の関係を終わらせたくはなかった。
「わかりました」どうにか話を続けなければ。僕はもう後先考えずにしゃべっていた。
「それじゃあ倉本さんの胸の成長が止まるその日まで、僕は朝のガードを続けさせてもらいます」
「あ、いえ、その…」この反応には倉本さんも全くの想定外だったらしい。口調に戸惑いの色が混じる。
「でも止まった暁には――僕を、倉本さんの彼氏第1候補に加えてください」
 言っちまった。つい勢いで。これって、告白してんのと同じようなもんだよな。倉本さん、もうびっくりしすぎて息を呑んだ音が聞こえる。
「え、そんな…申し訳、ないです」しゃべり方もたどたどしい。思考が乱れてどう反応したものか考えあぐねているようだ。「だって――ひょっとすると、一生止まらないかもしれないんですよ、胸の成長…」
 んなことあるかい、と思ったけども、倉本さんは真剣だった。ほんとうにそこまで心配しているのかもしれない。
「いいですよ。でもそれまでの間、他の誰にも倉本さんの胸に指一本触れさせやしません。それは約束します」
 倉本さんは愕きを通り越してちょっとあきれたらしい。ちょっとの間を置いて、終いにはプッと吹きだした。
「冴木くん」なんか口調がちょっとだけやわらかくなる。「それ、"他の誰にも"ではないですよ」そして突きつけるように言った。「あなたもです」
「あなたに許したのは…背中だけです」それだけ言い残すと、もう耐えられないかのようにいきなり電話が切れた。

 部屋の中に沈黙が広がる。今、ほんとうに倉本さんと話していたんだろうか。なんか現実味がなかった。
 電話が切れてからも、長い時間そのままの姿勢でじっと考え続けていた。倉本さんが言ったように、僕は倉本さんの"楯"だ。それ以上でも以下でもない。楯がこんな感情を持ってはいけないのだろう。でも倉本さんを護りたい、その気持ちはほんとうだ――ほんとうか? いや、特定の人がいないのをいいことに、"護り役"として行き帰りに倉本さんのそばに常にいることで、ある意味自分は倉本さんにとってある意味"特別な存在"なんだ――と思いたがっていたのではないと言い切れるか? しかし今日、それが単なる思い違いだときっぱり言われてしまった。思い上がりも甚だしい――。恥ずかしさと申し訳なさ、そしてなにより悔しさで頭に血が上ってガンガン耳鳴りが止まらなかった。


「冴木くんより大きくてたくましい背中を見つけました」倉本さんの横にやたらガタイのいい筋肉ムキムキのボディービルダーみたいな奴が立っていて、倉本さんがその背中に熱い視線を送っている。「だから冴木くん、あなたはもう必要ありません。今までありがとうございました」そう言うとすっと後ろを向いてそいつと歩いて立ち去ろうとする。誰だよそいつは! 背中が大きけりゃ誰でもいいのかよー。
 ――僕はバカッと布団を跳ね上げ起きあがった。夢…か。
 窓の外はまだ真っ暗だったが、結局そのままどうしても眠れずに朝を迎えた。夜明けとともにしかたなく起き出すと、いつもよりかなり早い時間に家を出た。ほとんど習慣的に足は倉本さんの家に向かう。着いてしまった。何を期待しているんだろう――。今さらLINEする訳にもいかないし…。しかし所在なく立ちすくんでいるといきなり玄関が開き、中から倉本さんが出てきた。僕の姿を認めて大きな目が一層見開く。
 そのまま目を合わせずに倉本さんは道に出て、駅に向かって歩き出す。僕も何も言わずに並んで歩き出した。お互いなにもしゃべらない。
「もう来ないと思ってました」沈黙に耐えられないかのように、ようやく倉本さんが口を開く。
「僕は学校に行こうとしただけです。たまたまルートがこの道だっただけで」
 それきりまた会話が途切れる。今度は僕の方が沈黙に耐えきれなかった。
「今日はいつもより時間が早いんですね」
「別に…。今日からひとりですから、なるべく電車が空いている時間に行こうと思っただけです。そちらこそずいぶん早いですね」
「別に。たまたま目が早く覚めちゃっただけです」

 電車に乗ってからも何も言わず、僕は倉本さんの前に背中を向けて立った。一見、いつもと同じように見える風景だった。
(あなたに許したのは…背中だけです) きのうの最後の言葉を思い出す。今も僕の背中を頼りに思ってくれてるんだったら、それでも結構です。僕は――あなたのそばにいたい…。
 今日がほんとうに最後かもしれない。一言も言葉を交わすことなくとも、全力で倉本さんの胸を背中で受け止めた。最初のうち、倉本さんは自分で踏ん張ってなんとか僕の背中に胸をくっつけないようにしていた。けどそれで逆に、これまで倉本さんがどんなに僕の背中に安心して胸を委ねてきたのかを改めて実感する。しかし電車を早くした甲斐なく次第に混み具合は最高潮に達し、倉本さんは根負けしたように胸を僕の背中につけた。その瞬間、倉本さんがびくっと反応したのが分かる。最初のうちはその胸も緊張しているかのように固かった。しかし密集度が増してくるのに従いどうしようもなく胸を預けてきて、そのうちにリラックスしてきたのか、安心したかのように胸が柔らかくなっていくのが伝わってくる――。
 電車を降りてもお互いしばらく一言も言葉を交わさない。次第に学校が近づいてきた。
「申し訳ありません…」倉本さんが、終いに根負けしたように言葉をかけた。「わたし、きのう冴木くんにひどいことを言ってしまいました。その…」1回息を吸い直すと、意を決したように続けた。「冴木くんに、これからも一緒に電車に乗ってほしいです」まるでお詫びかのように、背中に胸をくっつけてきた。これまでで一番柔らかく感じた。

 ――それからも、僕は変わらず倉本さんと毎日一緒に電車に乗り続けている。いつしかあの時の電話はなんとなく「なかったこと」になっていた。倉本さんが胸のことを理由に僕を突き放しそうになったこと、僕が倉本さんに告白めいたことを言ったこと。お互い気恥ずかしくて触れられないうちにだんだんそういうことになっていったのだ。
 とはいえ忘れたわけではない。触れないだけで、2人の中にはその事がどこかに残っていて、ふとした時に出てきそうになる。その度に気持ちに蓋をして、なんとか現状を保ち続けていったのだ。それが2人の無言の合意だった。
「ところで例のプールの件ですけど」
 頃合いを見て、僕は佐伯さんから聞いた作戦を持ち出した。


「学校のプールって、意外な盲点でしたね」
 放課後、倉本さんと僕は先生からプールの鍵を借りて更衣室に向かっていた。
(「先生に頼めば学校のプール借してくれるかもしれないよ」)あの日佐伯さんが発した一言がそれまでのトンネルを抜け出させてくれた。倉本さんと仲直りした後、僕は職員室に駆け込み根気強く交渉を始めたのだ。
「うん、頼み込んだら貸してくれた」戦利品たる鍵をこの時ばかりは得意げに高く掲げてみせた。
「でもよく許可が下りましたね」
「最初はなに言ってんだこいつ、って感じでしたけどね。理由を訊かれたから『倉本さんが泳ぐためです』っていったらしばらく考え込んで――。最後は渋々ながらも認めてくれたんです。やっぱりなんだかんだ言って悪いと思ってたみたいですよ、先生も」
 そう言いながら借りた鍵を差し込んでガチャリと回す。きしみを立ててドアが開いた。
「でも、これなら貸し切りだよ。お金もかからないし」言ってしまってから我ながらせこいな、と思い、ちらりと倉本さんを見た。
「それ、重要です」しかし倉本さんは思い切りうなずいた。
「知ってるでしょ、わたしの胸、とにかく金食い虫ですから」そう言いつつ両手で胸を覆うようにかざす。「うちは一般的なサラリーマン家庭ですし、着るものにばっかりお金を使っていられません。だから」そっと小声になる。「ありがたいです」
「じゃ、倉本さん、ごゆっくり」
 プールの前に誘導しようとすると、倉本さんは、え?という顔をした。
「冴木くんは?」
「あ、いや、いいですよ、僕は」
「だめです」倉本さんは喰い気味に言葉を遮った。「せっかく冴木くんがそこまでしてくれたのに、わたしだけ泳ぐわけには…。水着、持ってきてますよね」
 ニコッと笑う。その笑顔には逆らえないじゃないか。そりゃ一応念のため、ひょっとして、ダメ元で、持ってきてはいるけどさぁ。
「一緒に泳ぎましょ」

 自分からそう言っときながら、倉本さんは更衣室からなかなか出てこない。とっくに着替え終わった僕はプールサイドで待ちながらついついその水着姿を想像していた。
「お待たせしました」ようやく出てきた倉本さんの姿をひと目見て、僕は衝撃で脳みそが沸騰しそうになる。どんなに想像をたくましくしてても実物にはとてもかなわない。競泳水着がぴったりと体に貼り付いて、その体のラインがほとんど浮き彫りになっている。特にその胸! みっちりとまるで膨らみすぎた風船のように張り詰めて、ちょっとつついただけでパチンとはじけ飛んでしまいそうだ。
「なんとかギリギリ入りました。無駄にならなくてよかったです」
 あ、やっぱり胸を収めるのに苦労してたらしい。それで時間がかかってたんだな。こんなぴっちりで恥ずかしがるかと思いきや、けっこう堂々と、むしろちょっと得意げに胸を揺らしている。
(――あ、そういうことか)倉本さん、自分のプロポーション自体はけっこう気に入っていて、服とか水着とか着ている分にはそれが出てもけっこう平気ならしい。
「なんでパーカーなんて着てるんですか?」いつになくテンション高く、不満げにこちらに突っかかってくる。いや、こんな水着姿を目の当たりにして、その…ある部分が反応してしまうのがばれたらどうしようと気になっての予防策だったが、そんなこと許してくれそうな雰囲気じゃない。僕は倉本さんの方を見ないようにしながら何度も深呼吸をしなんとか気持ちを鎮めた上で、おもむろにパーカーを脱いだ。
「ふうん」倉本さんがまじまじと海パン一丁になった僕を見つめている。おい、やめてくれよ。むしろこっちの方が恥ずかしい。
「これが、仁美ちゃんが言ってた"細マッチョ"って奴ですか」
 冗談めかして言う。あれ、なんか倉本さんノリがいつもと違う。やっぱり久々のプールで浮かれているんだろうか。思わず自分の体を見下ろす。まぁ、おかげで身体全体が引き締まっているとは思う。筋肉が浮き出ているというほどではないが。
 でも一通り見ただけで納得したのか、それ以上追及することなく身体はプールに向かう。
「さ、泳ぎましょ」
 言うが早いか、ろくすっぽ準備運動もせずに一目散にプールに駆けていきそのまま飛び込んだ。よっぽど待ちかねてたんだろう。ほんとうにガチで泳ぎたかったらしい。そのまんま、途中ターンの度に泳ぎ方を何度も変えながらノンストップで何往復も泳ぎ続ける。いったい何キロ泳ぐ気だ? ほんとあきれるほど泳ぎ続けたところで、やっとひと区切りつけてプールサイドに上がってきた。かなり息が荒い。呼吸に乗って胸がぐぐぐっと激しく揺れる。
「きっつい…。やっぱりブランク感じますね」こんなに泳いでおいてブランクもなにもないもんだと思うが。というか、ブランクよりも胸が大きくなった影響の方が絶対大きいだろう。
「でも楽しい…来て良かったです」
 ニコッとわらうとまたすぐさまプールに入る。すると今度は水中でくるっと体を回転させて上を向く。途端に巨大な山脈が水中から浮かび上がり、動きに合わせてゆらゆらと揺れている。背泳ぎだ。あ、そりゃ確かにこれが一番水の抵抗を受けないだろうけども――見ている方は目の毒だ。
 そのまままたひたすら何往復もする。いったいこの無限のスタミナはどこからくるんだろう。ようやく上がった時も今度はさっきほど息を切らしていない。
「うん、今のわたしにはこれが一番向いてるかも」その顔は晴れやかだ。「バタフライは胸が全然水面に出ないから推進力がないし、クロールはどうしても腕が胸に当たっちゃう。平泳ぎは体が重く感じるし…。今まであまりやってこなかったけども、これからは背泳ぎ中心にしようかな」突破口を見つけてよっぽど嬉しかったのだろう、子供のようにはしゃいでいた。
「ほら、冴木くんもそんなところにいないで、一緒に泳ぎましょう」 いや、倉本さんが水泳にガチなのはよくわかったから、とてもじゃないがついて行けそうにない。ちょっと期待したプールデートなんて雰囲気は微塵もなかった。
 しかし、こうして変わらず楽しそうに僕と接してくれる倉本さんの姿を見て、一度はあきらめかけた気持ちが心の奥底からぐっとこみあげてきた。
(まだ…希望を捨てなくて、いいのかな)

 それから1時間ほど、2人はプールを楽しんだ。といっても倉本さんはほとんど休みなく泳いでばっかりで、しかも後になるほどエンジンがかかったのかますます調子が上がってきたようだ。僕はといえば情けないことにそのスピードに全然ついていけない。結局プールサイドに腰掛けて倉本さんが楽しそうに泳いでいる様を黙って見ているしかなかった。
(倉本さんって、ほんとパワフルだよな) そこには普段の清楚な美少女の面影はない。躍動感にあふれ、エネルギッシュで――ほんと…魅力的だった。
「あーっ、またそんなとこでぇ」
 倉本さんが座っている僕に気づいてプールから上がって近寄ってくる。歩く度に大きく揺れる胸の先からぽたぽたと水滴が跳ね落ちる。間近に迫るその膨大な重量感に圧倒されてしまった。
「あ、別にサボってる訳じゃなくって…」立ち上がって相対するが、しかしとてもついて行けない、とは認めたくなかった。
「ほら」倉本さんが僕の手を引く。その力が思いの外強かったので、僕は足が出ずにバランスを崩した。
(あ…) 2人の体が急接近する。裸の体に倉本さんの水着越しの胸がまともに当たる。まさに布1枚、今までにない感触で思い切り上半身全体に胸の感触が広がった。最高にリラックスした倉本さんの胸は極上の柔らかさで僕の体を包み込むように拡がり、顔と顔が今にも接触せんばかりに近づいた。
(やばい!) 頭のどこかで激しい危険信号が発せられる。次の瞬間、思い切りたわんだおっぱいが元の形に戻ろうと激しく反発し、最大級の弾力で僕の体を押し返した。
 倉本さんの顔に切なそうな表情が走る。なんとか捕まえようと手を伸ばすがあまりのスピードに追いつけず空をつかむ。僕はなすすべもなく、胸に乗って体が持ってかれるのを感じる――。何メートル吹っ飛ばされたんだろう、気がついた時にはプールに背中から飛び落ちていた。
「冴木くん! 冴木くん!」激しく僕を呼ぶ声がプールの水越しにゆがんで響く。倉本さんが僕を追ってプールに飛び込み一目散に駆け寄って来るのがかろうじて視界に入った。「ごめんなさい! わたし、また…」
 しかしこの一撃は、初めて会ったあの時の衝撃よりはるかに強烈だった。
(倉本さんの胸、威力が倍増してるよ、絶対…)