頼りたい背中

ジグラット 作
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「おはよう――」
 玄関から姿を見せた倉本さんは、一瞬、晴れやかに挨拶をしかけたように見えた。けど――僕の顔を見た途端、いきなり申し訳なさそうに目を伏せる。「――ございます」
「あ…おはよう」その表情の変わり様に、僕は面食らうしかなかった。

 どうしたんだろう。駅に向けて歩きだしてからも、倉本さんは俯きかげんなまま何もしゃべらない。ほとんど消え入るかのように気配も消し、すぐ横にいるはずなのにそこにいるのか心配になってくるぐらいだ。だからつい視線を向けてしまう。すると、顔よりも先にどうしてもその胸が目に入ってくる。
(この胸に…きのうはじき飛ばされたんだよな)
 この胸の中に秘められた、計り知れない膨大なエネルギーを改めて目の当たりにして、ちょっと空恐ろしくなってしまった。このエネルギーって、人間が持ってて大丈夫なんだろうか、いや、はたして人間に耐えられるものなのだろうか…。ふと、妙な考えが浮かんだ。
 ――いやいや、なに考えてるんだ。倉本さん平気な顔してるじゃないか。でも、なんか不思議な感覚が拭いきれなかった。
 あの時…ほんの一瞬だったけど、2人の顔と顔とが今までで一番接近したと思う。それこそもう後ちょっとで触れあわんばかりに…。しかし次の瞬間――ものすごいスピードで体が吹っ飛んでいた。拒絶された――訳ではないのは分かっている。しかしあの時浮かんだ、倉本さんの驚いたような切なそうな表情が焼き付いて離れない。あれはなんだったんだろう…。
「きのうはすいませんでした」倉本さんの顔は申し訳なさそうに沈んでいる。違うんだ、そんな顔が見たいんじゃない。
「わたしは…わたしの胸は――誰彼構わず近づくものをすべてはじき飛ばしてしまうんでしょうか…これからもずっと…」それだけ言うと唇に力を込めてぐっと噛みしめていた。
「きのう初めて…自分の胸がちょっとだけ憎らしくなりました」

 落ち込んでいる――。おそらくほとんどの人は倉本さんの事を、誰もが思わず振り返るようなとてつもない美少女で、頭も運動神経も群を抜き、なによりそのとてつもないプロポーションで完璧無比な存在だと思っているのだろう。なのに本人はいつもどこか自信なげだ。ひょっとしてどれもこれもあまりに突出しているために他人との距離感がつかめないでいて、それが一種の疎外感となっているのではないだろうか。心やすく話せる友達もあまりいないみたいだし――。でも実際に接してみると、決してそんな人じゃない。けっこう隙もあるし、抜けてるところだってちらほら。ちょっとした失敗を繰り返してその度に戸惑ったり思い悩んだり、自分と同じように人間らしい一面がたくさんある。完璧なんかじゃない、僕たちと同じ人間なんだとちょっと親しみが湧いて嬉しくなるぐらいだ。僕は、少なくとも、どんな時でも倉本さんにとって身近な存在でいたい、いつづけたい、心からそう思った。

「今日は暑いですね」
 沈黙に耐えられなくなったのか、倉本さんはようやく口を開き、目の上に手で庇を作って空を仰ぎ見る。こないだようやく梅雨が明けて、とりあえず傘の心配はなくなったものの今度は夏の色が日に日に濃くなり、陽射しは暴力的に強くなってきた。そう――僕は気になっていた。夏休みが刻一刻と近づいているのだ。この時期、去年までだったら楽しみでしょうがなかったろう。しかし今年は――このままではその間中、倉本さんに会えなくなってしまう…。ゴールデンウィークのあの悶々とした日々を思い出す。ほんの1週間足らずであの体たらくだったのに、1ヶ月以上も倉本さんと会えないと想像するだけで、もうほとんど絶望的な気持ちに陥っていた。

「あの…冴木くんって、誕生日いつですか?」倉本さんがふと思いついたように口をつく。え? どういうことだ?
「6月16日だけど」どぎまぎしながらもそのまま返す。すると倉本さんはなぜかちょっと残念そうに息を漏らした。
「そう…もう過ぎてしまってるんですね…」
 ん?
「冴木くんには毎日ご迷惑をおかけしてるし、なにかの機会にお礼ができたらと思ってたんですが」
「え、いや、そんな…。こちらこそ」迷惑どころか、どう考えても役得だよな。その、倉本さんと毎日会えて、この――胸を背中に押し当てられるなんて。
「なにかありませんか? わたしにできることだったら…」そんな真剣な眼で見つめられると却ってなにも思い浮かばなくなってしまう。
「いや…そんな、気にしないでください」
「でも…」
「じゃあ、なにか思いついたらその時伝えるんで…」そんなこと言われて、うっかり自分の気持ちをさらけ出してしまったら思い切りドン引きされてしまうのではと却って怖くなる。
「ええ、その時は遠慮なくおっしゃってください」
「ところで倉本さんは、誕生日って…」考えてみればそんなことすら知らない。倉本さんの個人情報、流れでつい訊いてしまった。
「3月30日です。だからまだだいぶ先」倉本さんは顔色ひとつ変えずに答える。その表情からはなにも読み取れなかった。


 そして――夏休みは何してるんですか? たったその一言を言い出せないまま1学期も最後の日を迎えてしまった。終業式が終わり帰りの電車の中、いつものように倉本さんと向かい合ったまま僕はじりじりと焦っていた。とうとうこの日まで、僕は手をこまねいて夏休みの予定を確かめられずにいた。学校の行き帰りはいつも会って話しているんだ。チャンスはいくらでもあったはずなのに――もし、訊いてみて倉本さんの顔にかすかでも拒絶の色が見えたら…と想像するだけで情けないことに口が言うことをきいてくれない。もうすぐ降りる駅に着いてしまう。まだ夏休みをどうするかまったく決まっていないのに。このまま家の前で別れてしまったら――地獄の40日間が始まってしまうのだ。日一日と張り詰めて迫力を増しているようにすら見える倉本さんの胸、夏休み明けにはどれほど大きくなっているだろうと思うと、とてもじゃないがその間を見ないことは堪えられそうになかった。
 空は陽射しがジリジリと照りつけている。冷房が効いた社内にいても汗が噴き出してきそうだ。しかし今の僕から噴き出すのは冷や汗かも知れない。
「冴木くん」外の様子を見つめながら、倉本さんがふと思いついたように口を開いた。「今日このまま、海に行っちゃいませんか?」
「え?」
「だって、こんないい天気なんですもの。まだ時間も早いし、このまま帰るのがなんかもったいなくって。この電車、先の方で海岸近くまで行きますよね」
「でも…水着持ってないし」
「もちろん、海で泳ぐ訳じゃありません。それにわたし、この前の水着もう入りませんし」ふふっとちょっと自嘲ぎみに笑った。「けどこんな日、波打ち際で海を眺めるだけでも気持ちいいと思いません?」
 倉本さんは今まで見たことないほど屈託のない笑顔を浮かべる。僕の中で何かがはじけた。
「倉本さん」僕は自分の声が上ずるのを抑えるのに必死だった。「この間のお礼の件ですけど、今、決めました」
「はい…」突然のことに倉本さんの顔に戸惑いが走る。
「その、僕と…」つきあってください、と勢いに任せて言ってしまいそうになる。しかし倉本さんの顔に浮かぶ不安げな様子を見て思い切り心のブレーキを踏む。
「僕と、この夏休み中も時々会ってくれませんか?」言った。今はまだ、これで充分だ。夏休みの間も倉本さんと会える確約、それがなによりも自分が熱望していることだった。
「あ、はい」倉本さんはちょっと拍子抜けしたように答える。「そんなことでいいんですか? あの、言われなくても冴木くんには出かける時ちょくちょく付き添いをお願いしようと思ってたんですけども」緊張が一気に解け、体中から力が抜けそうになってきた。
「あの…やっぱり電車に乗るときとか、冴木くんがいてくれると安心できるというか、心強いです。その…こんな風にいろいろ話せる友達って今までいなかったものですから」
 友達――そのさりげない言葉がちくりと心に突き刺さるが今は気にしまい。少なくとも倉本さんに友達とは認識されているんじゃないか。今、それ以上何を望む。
「だから…わたしからどう言い出そうかと思ってた所ですので――」倉本さんはまっすぐこちらを見つめた。「ありがたいです」

 いつも降りている駅を過ぎても、僕たちはそのまま車内に残り続けた。もちろんこの先に行ったことは何度もあるけど、倉本さんとふたり、というだけで強烈な特別感がある。
 電車が進むにつれ、窓の外の風景はのんびり落ち着いたものに変わっていく。車内の客もひとり、またひとりと減っていき、いつしかまばらになっていった。僕たちがいる車両も気づくとほとんど人がいない状態になり、いつもならみっちりと詰まっているシートも座り放題だった。
「せっかくだし、座りましょ」倉本さんが我先にと近くに腰掛ける。こんな時でも、両足をきれいに揃えて背筋を伸ばし、どこかきっちりとした感じの座り方だった。僕もその横に座――ろうと思ったけども、縦横無尽に成長を続ける倉本さんの胸は、もはや肩を越えて大きくはみ出しており、隣に座ろうものならば思い切り触れてしまいそうだ。なので当たらないよう注意深く、あえて少し間隔を空けて座った。
 しかし倉本さんは意外そうにこちらを見る。「そんな、なんで離れて…」勢いよく体をこちらに向ける。それだけで、体に一瞬遅れて、大きく突き出した胸がぶぉんとうなりを上げてこちらに向かってくる。その重量感に圧されて僕は一瞬体をひるませた。その様子を見た途端、倉本さんははっとして目許を落とす。
「そう…ですよね。危険ですものね、わたしの胸…」それまでの快活さは一瞬にして吹き飛び、浮かれていた気分がどんどん沈んでいくのが伝わってくる。
「あ、いや。そんな…」急速に落ち着きを取り戻していく胸に注意しながら、僕はそれに触れるか触れないかギリギリの所まで近づいて腰掛けた。ほんの数ミリ先に倉本さんが、いや正確には倉本さんの胸が迫っている。ちょっと電車が揺れただけで胸が僕に当たってしまいそうだ。向かい合っている時、いつも胸越しに倉本さんの顔を見ていたけども、横にいても胸越しに顔がある感覚なのに驚いた。いや、横に座った方がその圧倒的迫力を間近に感じる。近づいてくるあらゆるものをなぎ払ってしまうようなその力強さを改めて思い知らされた。
(すごい…) 例の特注ブラウスは、もう中身がどこもかしこも隅々までぎっちりと詰めこまれて満杯になっている。前一列に並んだボタンもこの前「強化した」と言ってたけども、見えない部分にさらに隠しボタンを増やしたらしい。しかしそれでもなお、ボタンの部分がギチギチに引っ張られて猛烈な負荷がかかっているのが分かる。静かにしていても、息を吸う度にミチ…ミチ…ときしむ音が聞こえてきそうだ。もし今耐えきれずに中身があふれ出したら――そんな妄想が湧いてきてうっかりまじまじと見つめてしまう。いかん、僕は視線を力一杯胸から引き剥がし、正面を向いてなんとか心を落ち着かせようとした。
「わたし…普段はあまり気にしてないんです。この胸のこと」しばらくして、ぽつりと心が漏れ出すように倉本さんの口から言葉がこぼれ落ちる。「自分の体のことですし。ほら、冴木くんも普段自分の手や足がどのように動いているかなんて特に意識してないですよね。それとおんなじです」
 そんな…手や足とは話が違うんじゃないか。こんな――これだけ大きければいやでも眼の片隅に入らざるを得ないし、第一すごい重いんじゃないか――? けどそういえばこの前のプールでも、こんな胸を抱えながらまったく当たり前のように疲れを知らずに泳ぎ続け、その後の帰り道でも、僕をはじき飛ばして気分は落ち込んではいたけども、体力的にはけろっとしていたっけ。ひょっとすると倉本さん、その華奢な体から想像できないけども、むちゃくちゃスタミナがあるのかもな、とふとそんなことを考えていた。
「だけど、これだけ大きいとちょっと動いただけで何かに当たってしまうことも多くて、そうなって初めて『あ、そうか』って気がついたり…。そんなことの繰り返しです。だから時々、人知れずまわりの人に迷惑かけているんじゃないかって、急に気になってしまって…」
 この前のプールの時以来、倉本さんは気分の浮き沈みが激しい。根は快活で明るい性格のようだけど、やっぱり胸のことで思い悩む事が多いのだろうか。気にすることはない、と声を大にして言いたい。けども、安直な言葉では却って逆効果な気がして、なかなか言い出せなかった。
「でも…」しばらく間を置いて、ようやく倉本さんが口を開く。「冴木くんには、この胸、嫌ってほしくない…」
 僕は、その顔をじっと見つめ返すことしかできなかった。


 それから30分ほどして、僕たちは人気のない浜辺にたどり着いた。行ってみると意外なほど近い。それに終業式当日のせいかまだ泳ぎに行く人も見当たらず、以前あれほど思い悩んでいた「誰もいない海岸」があっさり現出してしまったことになんだか拍子抜けしてしまった。もちろん、夏休みに入れば明日にでもぎっしりと海水浴客でごった返すのかもしれないが。けど、水着姿ではないにしろ僕は今、海で倉本さんを独り占めしているんだ、と思い切り叫びたくなった。
 陽射しはじりじりとさらに強烈さを増し、砂浜を焼き尽くす。倉本さんは靴と靴下を脱いで素足を砂浜に踏み入れた。
「あっつい…」念願の海にテンションが上がったのか、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように、たまらず波打ち際に駆け寄っていく。そのたびに大きな胸がどゆんどゆんと揺れまくるが一向に気にする様子はない。波先に足が届き、小ぶりなつま先に波の突端が浸かった瞬間、立ち止まってその感触をじんわりと味わっていた。
「きもちいい…」
 目を閉じて顔を心持ち上に上げると、容赦ない陽の光がその肌を照らす。降り注ぐ陽光を一身に受けて身体全体がまるで輝いてるように見えた。よかった。先ほどの憂鬱はどこかに吹き飛んだみたいだ。
「ほら、冴木くんも」と小さく手を振ってこちらを呼ぶ。僕も慌てて靴下まで脱ぐと、波打ち際に歩み寄った。
「ほら、こっち」近づいたところで倉本さんが手を伸ばして僕の手を何気なく取った。え?とどぎまぎする間もなくぐいっと引っ張られ、僕は思わずバランスを崩しかける。
 ぱしゃん。思わず足の裏で波を押しつぶし、海水が辺りに弾け散る。意外と高く跳ね上がり、倉本さんの膝を濡らした。
「「あ、ごめん――」」ピッタリ、同じタイミングで僕と倉本さんの声が重なる。期せずして発生したそのシンクロぶりにお互いどちらともなく笑いがこみ上げてくる。
 それがきっかけだった。2人の間にあったわだかまりがほどけていき、しばらくの間、なんということもなく浜辺で2人はしゃいでいた。倉本さんも無邪気な笑顔を浮かべながら、小さな子供のように辺りを際限なく駆け回っている。僕はもうぜんぜんついていけなかった。
 ――倉本さんと心を共有している。そんな気持ちがして、本当に夢のような時間…。僕はいつしか時を忘れていた。
 しかし、その間にも夏の陽射しが容赦なく2人に降り注いでいることに、僕はまったく気づいていなかった。


「あれ…? なんか…わたし…」どれぐらい時間が経っただろう、倉本さんの体がいきなりふらっと揺れる。そのまま体中の力が抜けたみたいにこちらへしなだれかかってきた。
 あぶない!反射的に駆け寄ってその体を受け止めるが、予想外のずしりとした重さが腕にかかり、あわてて体を間に挟んで全力で受け止めた。
「倉本さん…?」何やら朦朧としているようで反応がはっきりしない。息が荒く、異様に汗をかいている。なにより驚いたのは体がものすごく熱っぽかったことだ。もしや熱中症?
 受け止めたはずみに右手が彼女の胸に触れる。途端に手を放した。申し訳ないからじゃない、その胸が、思わず手を引っ込めるほど熱かったからだ。
(胸が――熱持っている!?) 悪いと思いつつ、恐る恐る何カ所か胸に触れてみた。服の上からでも、恐ろしいほどの熱気が伝わってくる。この巨大な胸全体が、はかりしれぬほど大量の熱を溜め込んでいるのは明らかだった。
(これが――熱中症の原因)
 胸を冷やさなければ――咄嗟にそう考える。しかしこんな炎天下でどこか陽のあたらない場所なんて――必死で辺りを見回すと、海岸の隅に建物が見えた。「倉本さん、こっちに!」足許がおぼつかなくなっている倉本さんに肩を貸して、ほとんど引きずるようにその体を運びこむ。近づくと、そこは海の家のようだったが中にひと気はなく、今はもう使われていないみたいだった。それでもとりあえず日陰に、と部屋の中に運び入れた。
 その時はもうぐったりして反応がどんどん薄くなっていく。どうにか床の上に仰向けに寝かしつけたけども、ここでは体を冷やそうにもエアコンも氷もない。倉本さんは朦朧としながらも、胸の辺りをかきむしるように手を動かす。服を脱いで少しでも熱を逃がしたがっているのだ。
(衣服を――ゆるめなきゃ――) 頭の中をひっかきまわして熱中症の対応策を探し出す。
(服を… ここで!? 僕が、倉本さんの胸を――)
 少しづつ倉本さんの動きが緩慢になっている。もう意識を失いかけているのかもしれない。(緊急事態だ。倉本さん、ごめん!)
 僕は寝ている倉本さんの上に馬乗りになると、上から順にブラウスのボタンを外し始めた。やってみると、向かい合ってボタンを取るのがけっこうやっかいな上、外から見えているボタンの他に、さらに内側に隠れるようにもう一段、いやさらにもう一段と隙間なくびっしり並んでいて、隠れているボタンの方がはるかに多い。おそらく隙間対策と強度向上の両方の意味があるんだろうけど、そのために今はより一層熱を密閉してしまっていた。
 それに、ぱっつんぱっつんになっているから思い切り左右に引っ張られていて外すのにえらい力が要る。指先に痛くなるほど力を込めるが、そうするとどうしたってその下の、その…ブラジャーに触れてしまう。さらにその奥にあるおっぱいの感触が否応なくむちむちと伝わってくる。あの、僕を何度も吹っ飛ばした弾力に抗いながら、ひとつ、またひとつとボタンを外していった。どうにかボタンが外れる度に内側からの圧力でブラウスが左右に押し広げられて、熱気がむゎっと中から立ち上ってくるようだ。徐々に現れる隙間から少しづつ純白のブラジャーが垣間見えてきて――目のやり場に困るが、そんなことを言っている場合ではない。しかし闇雲に外していくにつれ、残ったボタンにより多くの負荷が集中することにまで気がまわらなかった。苦労して何十個もボタンを外していき、ようやく胸の頂点にさしかかろうというその瞬間――残されたボタンが遂に増大する負荷に耐えられなくなり、指を伸ばそうとしたボタンがいきなりポンと飛んだ。それが引き金となったのか、次のボタンがポン、その次も――とポンポン立て続けに宙を舞う。思わず手が止まって見つめるうちに、みるみると突端付近のボタンがすべて吹き飛んでしまった。(!) あまりのことにしばらく唖然としてしまったが、手を止めている暇はない。残った胸の麓付近のボタンを外し終わると一気に胸をはだけた。それまで垣間見えていたブラジャーの全貌がばっと露わになる。
(これが…倉本さんのブラジャー!?)
 それは普段イメージするブラジャーとはまったくかけ離れていた。ブラという概念からするとあまりに大きすぎて実感が湧かない。ブラだけ見れば体長数メートルの巨人のものみたいだ。あ、いや…。実際に女の子のブラジャーをじかに見た事ってのもないのだけど…。でもとにかくこんなものではないことだけはわかる。倉本さんのまさしく山のように膨大な質量の胸を完全に包み込み、生地はどこもかしこもごついまでにごわつき、それがもうおへその辺りまで、ほとんど胴体全体を覆ってしまっている。肩紐の幅も広くて7〜8センチはあるだろうか。気がつくと興奮で息を荒げている自分がいる。いや、ブラウスを脱がせたぐらいじゃだめだ。胸を覆って熱を蓄積させている元凶は、ブラウスよりもこのブラジャーなのは明らかだった。それほど隙間なくみっちりと覆っていて、しかも耐久性のせいか生地自体が極厚だ。この巨大ブラの中にこそほとんどの熱が蓄積されてしまってるんだ。
(これを外さなければ――) しかしその途端呆然となった。ブラを脱がす? この僕が…? そんなこと許されるんだろうか…。しかし倉本さんはうつろな様子ながらなおも両手を胸に伸ばしてもがくように動かしている。熱くて引き剥がそうとしているんだ。
 覚悟を決めた。これも倉本さんのためだ。僕は頭の方に回ると手を彼女の背中に差し入れ、ぐっと力を込めてその上半身を抱き起こそうとした。女性に対してこんなことを言いたくないけど、その華奢な体からは想像を絶する、今にも腕が折れそうなほど重い。いや、体じゃない、ほとんどはこの胸の重さだ。普段ならとても持ち上げられそうにない。けど火事場の馬鹿力というやつだろう、なんとか体をその隙間に差し入れるようにして腰を入れ、上体を起こし上げた。そのままの体勢でブラウスの袖を引き抜く。これで倉本さんの上半身を覆っているのはブラだけになった。
 しかし――その背中が視界に入った途端思わずその眼を疑った。ブラの背中側は首のすぐ下から腰の近くまで達しており、背中全体がほぼ完全にブラで覆われている。その中央に――いったいいくつあるんだ?と驚くほどのホックが背骨に沿って狭い間隔でびっしりと並んでいる。
(これを…全部外すのか?) 膝を立ててその背中を支えたまま、とりあえず一番上のホックに手を伸ばす。しかし体を支えながらの無理な体勢の上、もうよほどきつくなってるのかひとつひとつが隙間なくがっちりとかみ合っていて、指先にどんなに力を込めてもびくともしない。まるで万力で締め上げられてるかのようだ。倉本さん、本当にこれを自分でつけてるんだろうか? と信じられないほど堅牢だった。
 心の中に敗北感が漂う。それはまるで外すことを断固拒否しているかのように自分に迫ってくる。とてもじゃないがこのブラ、僕の力ではどうにも外せそうにない。それにしてもどうしてここまで頑丈にする必要があるんだろう、と不可解でちょっとぞっとするほどだ。なんだかこれ、ブラじゃない。これじゃまるで…その中に強大な力を秘めた何かを無理矢理封じ込めてるみたいだ。
 何度となく挑戦すれどそのホックひとつ微動だにできず、遂にはブラを外すことは諦めざるを得なかった。僕は体を引き抜きつつもう一度倉本さんをそっと床に寝かしつける。なんとか脱がさずに胸を冷やす方法は…。しかたない。僕は持っていたペットボトルの中のお茶を一気に飲み干すと、唯一部屋にあった蛇口をひねって中を水で満たし、ブラの上からそのまま注ぎ落とした。
 巨大な山脈に川が流れるように水が麓まで落ちていく。1回ではとても足りない。僕は2回、3回とブラが完全に水に浸るまで繰り返し水を注ぎ続け、ようやく全体が濡れたところで鞄から下敷きを出して胸を煽ぎ続けた。こうすれば気化熱で胸の熱が少しは逃げていくはずだ。なんだかかすかに胸から湯気が立ち上っていくような気すらする。あらかたブラが乾いたところでもう1回、そしてさらにもう1回と、倉本さんが気づくまで何度も何度も繰り返し続けた。水を注ぐ際、どうしたって倉本さんの胸を見下ろしてしまう。無防備に横たわるその体から、信じられないほど高い所までその胸はそびえ立っている。ブラジャーに包まれていることもあるのかもしれないが、その形は理想的な山脈みを形作り、まるですぐ目の前に迫って来るようなとてつもない迫力があった。見つめちゃ悪い、心ではそう思っていてもその奥底からものすごい勢いで本能が押しのけてきて、抗うことができない。その大半をブラジャーで覆われているとはいえ襟ぐりの部分は覆いきれないようにV時に切れ目が入りそこから生のおっぱいが垣間見えている。倉本さんのおっぱい、ほんの一部とはいえ、直に見るのは初めてだ。膨れ上がった乳肉が左右からひしめき合ってピッチリ合わり、そこに深い谷間ができている。そのわずかにはみ出した谷間だけでさえ思わず吸い込まれそうなほど深淵だった。気がつくとペットボトルから手を離しそこに指を突っ込もうとしている自分がいる。いけない! あわてて手を引っ込めるが眼はそこを凝視したままだ。(今なら、少しぐらいさわったって気づかないさ) どこからか囁く声が聞こえるような気がする。抗い続ける手がぷるぷると震える。下手にさわったらまたはじき飛ばされるかもしれない。いいさ、男たるものこんなおっぱいを前にして挑戦しないでどうする――。
 だめだ! 僕は持っていたペットボトルを自分に向けて中の水を思いっきり頭にぶっかけた。倉本さんの事を本当に大切に思ってんだろ。だったらあくまでも誠実に向き合え。一時の欲望のままに突き動かされたらとりかえしのつかないことになるぞ。

 ――どれぐらい時間が経ったろう。夏の長い日がようやく傾きだした頃、さすがに疲れて壁際にぐたっと腰を下ろし、いつしかうとうととしてたらしい。ふと「ん…」とうめき声が聞こえてきて目が覚めた。倉本さん、気がついた?
「あれ? わたし…」駆け寄ると、倉本さんが目をパチパチさせて状況がわからないようだった。しかし目線を下げて自分がブラジャーひとつの姿なのに気づくといきなりガバッと腰から起き上がった。
「い、いったい何を…!」届かないまでも手を目いっぱい広げて胸を覆おうとしながら、感情をあらわに僕をにらみつける。あまりに昂ぶって言葉すらまともに出ない感じだ。しかしまだいきなり起き上がっては…。また頭がくらっとしたらしく力なく倒れ込みかけた。
 危ない! あわてて僕は背中に回るとその肩を支えた。それから脇に脱ぎ捨ててあったブラウスを手に取ると、広げて倉本さんの胸の上に被せた。
「すいません、緊急事態だったもんで…」僕の声の必死さが伝わったのか、倉本さんも一旦矛を収めたようだ。
「わたし…どうしてたの…?」
「おそらく熱中症だと思います。その…胸が、ものすごく熱くなってて――」
「熱中症…?」
「ほら。もう少し寝ててください」
「冴木くん――」どうやら自分の状況を認識したらしい。「お願い、見ないで…」
「はい?」
「出てって!」口調は激しいが声は弱々しい。「ここから出てって…悪いけど…見ないで…お願い」最後は消え入りそうだった。
「でも…」
「大丈夫だから…、もう、ひとりでできるから…お願い」なんとか声を絞り出すように哀願されて、僕は従うしかなかった。

 ほとんどたたき出されるような勢いで僕はあわてて部屋の外に出た。初めて見る取り乱した倉本さんの姿。それがどうにも気にかかって、ドアの前でじっと中の様子を伺う。ドアの向こうから衣ずれの音が聞こえる。
「もう…いいです」中に入ると、ボタンがほとんど飛んでしまったブラウスの代わりにだろう、体操着を上半身に着込んでいる。下もジャージに履き替えていた。
「それは…」
「ちょうど今日持って帰ろうと鞄に入れていたものです。でも、最近使ってなかったから…」確かにひと目見ただけでサイズが合ってないのが明らかだった。それに無理矢理胸を押し込んだものだから、丈からして胸に布を取られて下まで届かずにおへそがはみ出してるし、かろうじて覆えた部分も内側からの圧力で生地そのものが中からどこもかしこも引っ張られて見るからに薄くなっている。なにより――濡らしてまだ乾ききってないブラの上に無理矢理着込んだからだろう、内側から水気がしみ出してきて今まさに体操着の胸の部分が湿っていき、内側のブラの形が次第に浮き出してきている。
「取り乱してしまってすいません」先ほどとは一転、申し訳なさそうに軽く頭を伏せる。「危ないところを助けてもらったのに――」
 自分では気がついてないんだろうか。かろうじてブラを隠せて、大分落ち着きを取り戻したように見えた。
「ボタン…だいぶ飛んでしまったんですね」部屋のあちこちに散乱しているボタンに目をやりながら倉本さんがつぶやく。
「すいません、あわてていたもんで…」ブラジャーはますますくっきり透けて形があらわになってきた。倉本さんをまともに見ることができない。
「あの、ブラジャーが、なんだか少し湿ってたんですけど、これは…」
「あ、そ、その…最初ははずそうと思ったんですけどうまくいかなくて、ブラジャーの上から水をかけて、扇いで熱を逃がしたんです。それで…」
「ああ…」納得したようにうなずく。「このブラ、確かにいきなりは外しにくいでしょうね。でもよかった」ほんとうに心底ほっとしたようだった。「もし外されてたら、恥ずかしさで死んでしまったかも…」
 そんな大げさな、とも思うが、でも、本当にそうなったかも、というぐらい声が真剣だった。これで今もまだブラが透けていることをもし知ったら…。
 やっぱり気がついていないらしい。今や胸全体がじんわりと濡れてしまい、どうにも直視できずさっきから目を逸らし続けているものだから、倉本さんもなにか様子がおかしいと気づきだしたらしい。
「冴木くん、どうしました?――あ」最後にほんと小さな叫び声を上げる。途端にくるっと後ろを向き、背中をこちらに見せる。
「どうしよう。もう…他に着替えるものが…」


 帰りの電車に乗った時にはもうほとんど暗くなりかけていた。あれから小一時間そのまま部屋の中にいて、体操着が乾いていくにつれ徐々にブラジャーの透けも薄くなってきたが、完全に乾くまではまだ時間がかかりそうだった。けどぼやぼやしてると完全に陽が暮れてしまう。「うん、もうわかんない」不安そうな倉本さんを励ましながら、2人で帰途についた。「あんまり…こっち見ないでください」と倉本さんに釘を刺され、電車の中でも僕のすぐ後ろに隠れるように立ってそこから動こうとしなかった。要はいつもの通学電車と同じ体勢ということだ。
 背中の方で倉本さんが携帯で話しているのが聞こえる。「家に電話しました。もう母が仕事から帰っていて、わたしがいないんで心配してました」
「すいません、こんな時間まで」家に着く頃にはすっかり陽が落ちているだろう。
「そんな…わたしのせいで遅くなってしまって、こちらこそ申し訳ないです。それに、一応、特に心配するようなことはないと伝えておきましたので」
 もし今日あったことを親御さんに知られたら、どんな風に言われるか分かったものではない。どうやら倉本さんも事を荒立てる気はないらしいので、ちょっと安心した。
 ラッシュとは反対方向とはいえ、電車の中は帰りを急ぐ人で徐々に混み合ってくる。倉本さんはなるべく僕の背中にその身を隠すように自分の身を縮こませているようだが、胸が縮む訳ではないのであまり意味はない。でもこの胸を無防備に晒すわけにはいかないと、僕はその前を塞ぐよういつも以上に肩肘張って仁王立ちしていた。2人の間は最初少し間が空いていたのだが、まだそこまで混んできたわけでもないのに次第に接近していき、いつしか背中にピッタリ胸を押し当てていた。(!) そのいつにないこわばった感触に僕も肝を冷やす。ちょっと今まで記憶にないほど、まるで僕を拒絶するかのように堅く張り詰めていたのだ。(よっぽどショックだったんだな) 僕に下着姿を見られたことが、か…。胸の感触から倉本さんの気持ちを察せられることが、この時ほど恨めしく思ったことはない。
「でも、ほんとうによかったです。こんな時に、冴木くんの、その――背中があってくれて…」しゃべっているうちに倉本さんの口調から徐々に固さが取れ、だんだんおだやかさを取り戻していく。
「なんだか落ち着くんです。こうして冴木くんの背中に胸を預けていると」倉本さんがいつになくぽそりとつぶやく。まるで普段隠している本心がふとあふれたかのように。あれ…さっきまであんなに凝り固まっていた胸の感触が、今、徐々にやわらかく、ふっくら包み込むように変わっていく。今日の倉本さん、なんかいつも以上に自分の心の内が素直に漏れ出しているような気がする。夏休みを前にした開放感なのか、それとも…。
(でもやっぱり背中だけなのか…) ふと、今くるっと体を回転させたら倉本さんどんな顔をするだろう、と無性に覗き込みたくなった。けどその胸をいつになく自分から預けるようにしっかり押し当ててきているので、それを実行に移すことはどうしてもできなかった。


 電車を降りた時には夏の長い日もとっぷり暮れていた。街灯以外に明かりはなく、他に人通りのない暗がり道を2人で歩いているうちに、ひと目を気にしなくてよくなったせいか倉本さんは徐々に元気を取り戻してきた。
「ほんとうに今日はすいませんでした。わたしの勝手なわがままにつきあってもらった上に、ご迷惑までおかけして…」そこでなぜかくすっと笑った。
「でも、なんだか楽しかったです」
 しかし僕の方は、並んで歩いていると白い体操服の胸が暗がりにぼやっと見えてきて、いつも以上に巨大に浮かび上がってくるようでなんか気が気じゃなかった。

「それじゃここで」
 倉本さんの家の明かりが見える。どうやら無事に家の前まで送り届けられた。横を見ると倉本さんの方もどこかほっとしたようだ。
「じゃ、また連絡しますので」
 なんということない口調で倉本さんが言う。え?と言う顔をすると、倉本さんはちょっと意外そうな顔をした。
「夏休み中、会う約束をしたじゃないですか。そのことですけど」
 僕はぱっと明るくなった。今日いろいろあってそのまんまうやむやになるのではと気がかりだったけど、倉本さん、忘れないでいてくれたんだ。
「それに宿題だってたくさん出ましたし」
「そうそう、この学校、こんなに宿題漬けになるだなんて思っていなかったよ。遊ぶ時間なくなりそう――」
「だめですよ。ちゃんとやらないと」そこでふと、いいことを思いついたかのようににっこり頬笑んだ。「そのことなんですけど、あの…一緒にやりません? 宿題」
「え…」僕は絶句した。「いいんですか?」
「ええ」倉本さんはうなずいた。「それに…ちょっと夢だったんです。友達と一緒に宿題やるっていうのが」
 訊くと日常系のマンガでよくある、夏休みの終わりに焦って一緒に宿題持ち寄って片付けるっていうのにちょっと憧れていたみたいなのだ。
「もちろん、自分で考えるんですよ。写させませんから」きっぱりと言った。「でも…協力は、できると思います」
 それだけを言うと倉本さんは玄関の方に向きを変えた。感無量。夏休みも倉本さんに会える、それだけでも重い肩の荷を下ろしたと思ったけど、あとひとつ、どうしても言っておきたいことが残っていた。
「あの、宿題とは別に、また海に行きませんか? 一緒に…」
 いきなりだったかな。倉本さんは今一度振り返ると「ん?」と一瞬考え込むような顔をしたが、すぐ朗らかに笑顔を浮かべた。
「はい…。よろしくお願いします。今度は今日みたいな事がないよう気をつけますので」
 それだけ言い残して玄関の奥に姿を消した。
 僕は倉本さんが入っていった玄関をしばらくそのまま見つめながら、思わず「よし!」と小さくガッツポーズをとった。

 こうして、僕たち2人の夏休みが始まった。