頼りたい背中

ジグラット 作
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 それから何事もないまま10日間が過ぎた。

 倉本さん不在のまま、学校生活は粛々と進んでいた。不思議だったのは、あの時桑原先生は追って正式な発表が行われると言ってたのに、学校側は今もまだなにも言ってこないことだ。
 1週間もしないうちに、倉本さんが退学になったという噂がまことしやかに流れ始めた。その他にも失踪説から死亡説まで、数え切れないほどの噂が次々と現れては消えていったが、それらがすべて根も葉もないものであることは、誰一人としてほんとうの事を言わなかったことからも分かる。そう、倉本さんは"卒業"したのだ。
 もちろん1年生が、しかも秋に卒業だなんて考える方がおかしい。それほどの異常事態だった。
 誰も表だって口にしないが、倉本さんを"喪失"して学校中が異様な空気に覆われていることは疑いようがなかった。うっかり倉本さんの名前を出そうものなら、一触即発、一斉に群がられてどうなるか分からない。どうやら真実を知っている生徒は僕と佐伯さんだけのようだし、もし不用意に口に出したら今度はこっちがどうなるか見当がつかない。結局何も言えないままいたずらに時が過ぎていった。

 そしてなにより、誰よりも倉本さん成分が不足してあえいでいるのは、僕自身だった。あれから何度LINEを送っても既読すら付かない。もう二度と会えないのでは、との不安が日に日に募っていく。終いにはこの前、もしかして顔を見れるのではないか、と淡い期待を抱いて、家の前で時間を忘れて待ち続けてしまった。待っている間、ドアを蹴破ってでも中に入ってひと目でも会いたい、という衝動を何度押し殺しただろう。心の中にどうしようもなくどす黒い感情が湧きあがって止めどない。自分の中にこれほどはっきりとストーカーの資質があったことに驚いていたが、それでもやけになって最後の一線を越えることだけはなんとか踏みとどまっていた。

 LINEに今日も反応はない。ひょっとしてブロックされているのでは、と考えるだけで息が苦しくなる。なんとかその気持ちを突き破ろうと無理矢理深く息を吸い込み、最後に、ブックマークをクリックしてあるページを表示させた。
(あ、今日…更新されている)
 それはAYUMIさんという人がやっている読書感想系ブログだった。このページを知ったのは夏休みの終わり近く、そう、倉本さんが初めて僕の家にやって来て宿題を見てもらったあのすぐ後のことだ。あの日も見てもらうと言いつつ直接教えることは絶対せず、説明やらヒントやらを次々と提示するだけだったが、不思議とそれが的確でなんだかいきなり自分が頭が良くなった気がしてするすると宿題が進んでいって驚いたものだ。倉本さん、けっこう教師にも向いているかもしれない。
 ところが土壇場になって、僕が読書感想文の宿題を存在からしてすっぽり抜けていたことが明らかになった。「今さら?」倉本さんは半ばあきれながらも、ある本を紹介してくれた。「これなら長くないし冴木くんに向いていると思います」と言って、その場で図書館まで一緒に行ってその本を探し出してくれただけでなく、さらに内容のポイントまでいくつか挙げてくれた。おかげで最後の難関だった読書感想文もどうにか間に合ったのだが――。
 書いている途中、ちょっとずるして…もとい参考に他の人がどんな感想を持っているか知りたくて、こっそりネットでこの本のことを検索かけてみたのだ。そうしたら真っ先に出てきたのがこのブログだった。それを読んでみて――(あれ?)思いっきり既視感がある。かなり長文ながら内容が良くまとまっていて読みやすかったのだが、そこで挙げられているポイントが――倉本さんが示してくれたものと驚くほどそっくりだったのだ。しかもアカウント名がAYUMIって…。
(これって――偶然?) 気になってブログの他の記事も読んでみた。ほとんどが読んだ本の感想だけど、ジャンル的には文芸書やエッセイはもちろん、歴史書や科学解説書、教科書でタイトルしか聞いたことがないような古典まで多岐にわたっている。たまにマンガの感想まで混じってるのが嬉しい。今時珍しく文章のみで構成されていて、本人に関する情報は皆無と言ってよかった。更新頻度はほとんど毎日のようで、いずれもけっこうな長文。しかし内容は平易で良く整理されてて僕なんかでもとっつきやすい。この人が並外れた読書家であることが伝わってきた。
 そういや倉本さんも…。
(――そういえば歩友美ちゃんが読んでる本、毎日違うんだよね。けっこう分厚くて文字ばっかびっしり書かれてる小難しい本を、たいがい1日で読み切っちゃうんだって。これ歩友美ちゃん伝説)以前佐伯さんが言っていた言葉を思い出す。学校の休み時間中にものすごい集中して読書している姿は僕も垣間見た。このことに気づいてからはむさぼるようにこのブログを頻繁にチェックするようになっていた。AYUMIさんが倉本さんだという証拠はない。でも…このブログを読んでいるうちに、なんだか文章の端々に倉本さんの口調が透けて見えるような気がしてしょうがなかった。
 しかしここ数日――そう、最後に登校したあの日を境にぱったり更新が途絶えていたのだ。それが今日、久しぶりに新たな記事がupされていた。ただしいつもの感想文ではなく、「私事都合によりしばらく投稿を休止させていただきます」ただそれだけ。でもその短文の中に、倉本さんの叫ぶ声が聞こえてくるような気がした――。
「倉本さん、冴木です。連絡ください」
 気がつくと、夢中になってこのAYUMIというアカウントにメッセージを送っていた。
 送信ボタンを押した途端虚脱感が襲う。なにやってるんだ。なんの確証もないのに。自分が単なる怪しい奴のような気がしてきた。
 しかしその日のうちに反応があった。LINEを見ると――。今まで僕が出していたメッセージが全て既読になっている! そして最後にひと言。
「あのメッセージ、ほんとうに冴木くんですか?」
 僕はむしゃぶりつくように返事を書いていた。


 今、あの倉本さんが僕の部屋にいる――。あまりの急展開に脳が追いつかない。なにより入ってきたその姿をひと目見た途端固まってしまった。タンクトップとホットパンツ、ただそれだけ。前に倉本さんの部屋に突然通された時と同じような格好だけど、あれは夏休みの猛暑の話。今はもう秋も深まってかなり涼しくなっているというのに。
「あの…寒くないですか?」
「あ、いえ…これでも暑いぐらいです」変ですか?と言わんばかりの顔で言い放ったがどこか強がっているようにも聞こえた。「それに…気がついたらこれくらいしか着られるものがないし…」あ、こっちが本音かも。半月近く引きこもっている間にもう他の服がすべて入らなくなっちゃったんじゃないか? いや、このタンクトップだって――明らかにキャパオーバーだ。ぱんぱんに中身を詰め込んだ巨大タンクが2つ、狭苦しい中にどっさりと押し込められてひしめき合い、双丘がみっちり隙間なく押しくらまんじゅうをしている。この間に腕を突っ込んだら確かに暖かそうだな、とちょっと思ったけど、うっかりすると身体ごと挟み込まれてしまいそうだ。少し動く度に内側から引き裂かんばかりに、みち…みち…と苦しげな音が聞こえてきて、今にもはち切れるんじゃないか、と見ているだけではらはらしてくる。夏の頃と比べても見間違えようがないほど大きくなっている。大きすぎて、顔の下はおっぱいだらけでその向こうが見えない。
「申し訳ありません。約束を…守れなくなってしまって…」部屋に入るとまず、本気ですまなさそうに頭を下げる。あ、あ、そんな姿勢をしたら――。胸のずっしりとした重みが服にまともに加わり、U字形に深くくり抜かれた襟ぐりがぐぃーっと左右に引き延ばされていく。それで元の形以上にぱっくりと開き、そこから胸の谷間――というか生のおっぱいそのものが思い切りあふれてきてぽこんと境目に山ができてしまう――。
 連絡が取れてすぐ、これから会いに行ってもいいか?と電話があったのには驚いたが、その口調に有無を言わさない決意のようなものを感じてうなずかざるを得なかった。それからわずか10分後、いきなり倉本さんは僕の前に現れた。ほんとうに一目散に家を出たのだろう。そう、おそらく服装もそのままに――。タンクトップの下は、またノーブラじゃないのか。
「今度はちゃんとブラジャーしてますから。スポーツブラですけど」え、そんなに見つめてた? 倉本さんがちょっと斜に構えて少し恥ずかしそうに俯いた。

 改めてよく見ると、確かに純白のタンクトップの裏にうっすらと青っぽい色が浮き出ている。かといってその心許なさに変わりはない。それにしても――この格好で本当に外を歩いてきたというのか? にわかには信じられない。あの夏の日と同じ服、という訳ではないだろうが、明らかにあの時よりもヴォリュームがいや増している。この前が268センチだとしたら、今はもう何センチになってるんだろう。白い無地のタンクトップが胸の谷間の延長線上に思い切り引き延ばされて、もうほとんど裸同然じゃないかと思えるぐらいくっきりとおっぱいの形が浮かび上がっている。ほんと、危険水域を完全に越えてるよ。どこもかしこもみっちりと身が詰まって力強く押し出されていて、顔を上げた途端反り返るようにぐんとホップしてきて、思わず身をのけぞらせた。
 普段の服装だって、胸をぶち破らんばかりにぱんぱんに膨らんでいるのに、生の迫力は――変わらず、いや、それ以上にはちきれんばかりに張りつめているのが分かる。ボタンがない分空気を詰め込みすぎた風船のように全体がぷくっと膨れ上がり、ちょっとつついただけでパーンとはじけ飛んでしまいそうだ。

「もう、冴木くんに合わせる顔がなくって――LINEを見るのも怖くて、携帯をずっと放置していました」その胸の勢いとは裏腹に、倉本さんはひたすら申し訳なさそうに身体を縮こませている。立っている姿を見たらそれだけで目がくらくらしてきて、とりあえず椅子を勧めて腰掛けてもらう。「そうしたら今日、いきなりブログの方にメッセージが来て…。信じられませんでした。あれがわたしのブログだって誰にも言ったことないのに…」
 どうしてわかったんですか?と不思議そうに僕の顔を見つめる。しかし――僕はとてもその姿を正視できなかった。久しぶりのその姿、あまりに刺激が強すぎる。いや、このブランクの間だけでもさらに胸がスケールアップしてないか? もはや視界いっぱい、どこもかしこもあふれんばかりのおっぱいが迫ってきて目のやり場がない。
「でもやっぱり一度ちゃんと話をしなければと思いまして…」顔を上げて僕の顔を見つめ直す。そうだ、今は真面目な話をしてるんだ。こっちだって目を逸らすわけにはいかない。なるべく胸を見ないように、その顔をじっと見つめた。引き締まった顔、やっぱりきれいだ。
「で――、本当に卒業…しちゃうのか?」
「ええ、そう…みたいです」まるで他人事のように話す。本人もまだ自分のこととして受け入れられてないのかもしれない。「正式な卒業としてはやっぱり来年3月になりますが、もうこれ以上登校に能わず、と言われました」
「それじゃあもう…学校に、来るな、と…」学校のあからさまな仕打ちに改めて腹が立ってきた。
「ええ、その代わり、希望すればもう今から清潤女学院の方で講義を聴講することができる…そうなんですけども…」倉本さんは思わず唇を噛んだ。「今までとは、方角が真逆なんですよね――」
 そうなのだ。清潤女学院はうちからだと最寄り駅で乗る所からして電車が完全に逆方向になる。だから――もう、一緒の電車で登校することはできない。
「それに、四月からは敷地内にある学生寮に入れるよう手配してくれるそうです。だからもう、満員電車に悩まされる必要もない、と――」
 ちくしょう、なんて用意周到なんだ。あの手この手を使って倉本さんを学校から引き離しにかかっている。
「それじゃあ…」
「ええ、もう一緒に登校することはありません。あんなに約束したのに――ごめんなさい…」声が消え入りそうに弱まる。結局、倉本さんはそれがなにより申し訳なく、それで連絡すら取れなくなっていたのだ。
「倉本さんは――倉本さんはそれでいいのかい?」
「だって…しかたないんですよね。清潤女学院は女子大ですから、今までのようなことにはならない。なぜなら――わたしの体は、男の人にとっては、"毒"…なんですか――」
「そんなことはない!」思わず大きな声をかぶせて最後まで言わせなかった。それは倉本さんの体があまりに素晴らしすぎるからだ。それを――こんな卑屈になるようなこと、あってはならない。でも今まで聞いたことのないような大声に、倉本さんはあっけにとられていた。
「あ…ありがとう、ございます。励ましてくださるんですね」伝わったかどうか分からない。
「でも、もういいんです。もちろん悩みましたけど、飛び級の話はわたしの能力を買ってくださったからで、だからひとつのチャンスだと思って進学を受け入れる気持ちになってきたんですから」その口調は運命を受け入れたように淡々としていた。
「それに――このままではブログも更新できませんし…」
 え? 一瞬話がどう飛んだのか把握できなかった。。
「だから今、授業も受けられないし、学校の図書館にも行けないから読む本を借りることもできなくて――正直時間が余ってしょうがないんです」
 え…。あ、じゃあいつも学校で読んでいたあの本って…。
「もともと本は大好きで、図書館で片っ端から借りて読みふけっていたんですが、それができなくなってしまって…」
「じゃあ、図書館だったら近所にもあるんじゃないか」
「あの図書館は、めぼしい本は中学のうちにあらかた読み終わってしまいました。高校の図書館は蔵書の傾向がけっこう違っていてありがたかったんですけど――でも正直、もうそろそろ読む本がなくなってきましたし…」唖然とした。あれだけ並んだ図書館の本を、もうあらかた、って…。今さらながら、その読書量のすさまじさを思い知らされた。

「あのブログ、始めてから2年近くになります。もともと単に自分が本を読んで考えたことを書き残しておきたいとそれだけだったんですが、いつの間にか閲覧数がすごいことになっていて――その、けっこういいお小遣いになっていたんです。ブログのおかげで、バイトすることもなく、その、トリオンフィにかかる費用も捻出できてたんですが――。だから更新が滞るとこれから困ったことになりそうで…」
 ちょっと気恥ずかしそうに言う。そっか、近頃胸の成長がますます急激になっり、ブラだけでなくブラウスやら水着やら、おそらくトリオンフィにかかる費用はうなぎ登りになっているはずだ。――それをブログ収入でまかなっていたとは…。
「だから、名門清潤女学院の図書館となれば、なんでも蔵書の量がものすごいみたいですし、学生になればそれが自由に閲覧できるんだと思うと、そこは少し楽しみでもあって…」だんだん目に力が戻ってきた。
 そうか…。この期間、もちろん気落ちしたり悩んだりもしてたのだろうが、それ以上に――退屈でもあったんだ。貪欲な知識欲が次第に鎌首をもたげてきてるのを感じる。

「でもすごいよ。飛び級って、マンガとかだけの話だと思ってた。それが現実に起きるなんて。ほんと頭いいんだね」
「そんな――。わたし、そんな賢いだなんて実感は全然ありません。確かに昔から成績はよかったですけど、だからって――。別に根詰めて勉強してる訳でもないですし――本を読むのは小さい頃から好きでしたけど、興味を持ったことって自然と頭に入っちゃいません? 特別なことはなにもしていないのに――」
 あ、これは本当に頭のいい人の口ぶりだ。努力を努力とも思わず、ただ普通に過ごしているだけでいつの間にかものすごい高みに達してしまうような――。まるで興味の趣くまま知識の方が倉本さんにどんどん吸い寄せられていってるみたいだ。あたかも息を吸うように思うがままに吸収し、気がつけばとてつもない博覧強記になっている、そんな風なのかもしれない。
 だから自分が特別な存在だという意識は薄い。けど顔も胸も頭も計り知れないほどの高スペックで、そのギャップが、しばしば他の人と距離を感じることになってしまうのだろう。

 紆余曲折はあったが倉本さんは今改めて前に進もうとしている。僕は――このままここに置いてけぼりにされてしまうのだろうか――。けど倉本さんは顔を上げて改めて僕の顔をじっと見た。
「でも――やっぱりどうにも心残りで――冴木くんに。それだけがどうしても引っかかって心が晴れないんです」そう言うと改めて向かい合った。
「あの…ちょっと後ろを向いてくれませんか?」
 え? こう? 言われるままに立ち上がって壁の方を向くと、倉本さんはじっと僕の背中を見つめていた。
「ああ…やっぱりなんか落ち着く。もう、この背中を見ながら電車に乗ることもないのかしら…」
 ちらりと後ろを覗き込むと、その大きな目をじっと見開いている。なんだかその目の中に吸い込まれてしまいそうだ。
「失礼します」
 すっと腰を上げ、僕のすぐ後ろに体を寄せるように立つ。背中のすぐ近くに胸の暖かさみたいなのを感じた。え?何を? と思うと、まるで電車の中にいるようにちょん、と胸をなすりつけてきた。
 おそらく本人は軽く小突いたぐらいなのだろう。しかしそれだけで胸の波動がぐゎん、ととてつもない力で背中に襲いかかり、まるで津波が押し寄せたように軽く体がふわっと持っていかれそうになった。
「え、あ、ちょっと…」しかしもう聞こえてないのだろうか、今度は背中をぴたっと押しつけてきた。容赦なく強大な圧力が背中いっぱいに広がる。
 それにその感触。そう、考えてみれば今までいつもあの頑丈きわまりないブラに強固なブラウスといった何重もの装甲越しに接していたようなものだ。しかし今、2人の間には頼りなげなタンクトップとスポーツブラしかない。もうほとんど素の感触がダイレクトに伝わってきて僕の背中をしびれさせた。弾力も比べものにならないほど生々しい。
 それに――「暑いくらい」先ほどの倉本さんの言葉をふと思い出す。いつの間にか、おっぱいがまるで燃えるような熱を持っている。なんだかそこだけ発熱しているみたいだ。
 この感じ、前にもあったような――そうだ、一緒に花火に行った夜、あの、僕の目の前でまるで急激に成長するかのように浴衣がはだけかけた…。あの時もすぐそこで燃えるように胸が熱かった。まさかまた…。
 最初はそれでも静かに胸を押しつけているだけだった。しかしじわじわと熱が蓄積されて背中全体が汗ばむほどになってくる。次第に、背中越しにぎゅうぎゅうに詰まったおっぱいがさらに活性化して蠢き出すように感じる。始まる…。この状態の胸に触れているのは初めてのことだが、今まさに、胸の奥から新たなおっぱいがみるみる生み出されていくようだった。どくん、どくん…。まるでおっぱい全体が鳴動するように暴れだし、それとともにみちっ、みちっと容量と重量感を増し、胸がもちもちと弾けんばかりに膨張していくのを感じる。それによりますます圧力が強まっていくのだ。やばい、今あんなことになったら…。
「ま、待った…」
 しかし倉本さんに聞こえた様子はない。徐々に彼女自身なにかに突き動かされるように身体を揺り動かし始める。胸はちょっとした動きを反映して勝手気ままに動きまくり、ますますグラインドするように背中に擦り込んできた。大きな波がうねりを上げて次々と押し寄せて僕の背中を襲う。ここは僕の部屋だ。電車の揺れも、他の乗客からの押し込みもここにはない。ただ、倉本さんただひとりから――ひたすらその圧力が生み出されているのだ。
(あ…)思い出した。夏休み明け初日、電車の中で胸の圧力になすすべもなく翻弄されたあの時の感触を。次の日からは、倉本さん本人が必死で踏ん張ってその圧力を抑え込んだからこそこちらも耐えられたことを。要は――実際の所、倉本さん自身の圧力だけで、もうとっくに僕の背中では到底抑えきれない領域に達していたのだ。
 こんな風に倉本さんが自分から動きかけたことは今までない。しかし――倉本さん一人だけで、満員電車の圧力をはるかに飛び越えていた。止まらない。ちらと後ろを見る。しかし――その時、倉本さんの目が、ただひたすら無心にこちらに向かって何かを訴えかけているのに気づいた。顔は上気し、息を荒げ、明らかにいつもの様子ではない。
 やばい。本気で制御不能に陥っている。でも声を出す暇もない。いつの間にか寄り切られて、目の前に部屋の壁が迫っていた。そのまま壁と胸の間にぎゅむ、と押しつけられる。
 それでも倉本さんの勢いは留まるところを知らない。むちっ、むちっ…。おっぱいが際限なく増殖していく。「冴木、くん…」とろけるような声だった。何かにとりつかれたようになって他のことに全く気づいていない。まるで体が胸にすりつぶされるかと思った。また肺が押しつぶされるように息が漏れる。

 たった今生まれたばかりのおっぱいがますます容積を増してタンクトップをいっぱいいっぱいに押し広げていく。最初から中身が満タンに詰まっていたタンクトップは、今や極限まで引き延ばされて今この瞬間どこが引きちぎれてもおかしくない。このままじゃ、服が大変なことに…。しかし、倉本さんは何かを際限なく追い求めるように僕の背中の上で胸をこね回し、チラリと見るとまるでとろけそうな顔をしている。こんな倉本さん、見たことない。
(ひょっとして…興奮してるのか)

 ぴりっ。後ろからいやな音がした。やばい。タンクトップが本気で限界を超えている。どこかが裂け始めたんだ。これがもしずたずたになったら――。そんな目に遭わせるわけに行かない。
「倉本さん!」なんとか声が出た。ほとんど火事場の馬鹿力という奴だった。
 名前を呼ばれても、え? とまだぼーっとして分からない様子だが、もう一度名前を呼ぶと、そのただならぬ声にはっとしたのだろう、急に我に返ったように、体の動きが止まった。
 そろそろと、やっと胸が背中から離れ、僕はようやく振り返ることができた。
「倉本さん、大丈夫ですか? しっかりしてください!」
 見ると、大きくくり抜かれた襟ぐりが左右に無理矢理押し広げられて、その真ん中が耐えきれずに裂けかかっている。引き裂かれて糸を引くように数本の線がかろうじて間に引っかかっていた。そこから胸の肉がますますあふれ出してもう今にでも飛び出してきそうだ。他にもあちこちにほころびが見え、そこからスポーツブラが垣間見える。もう崩壊寸前だった。
 そしてなんともいえず――エロかった。相変わらず清楚この上ない倉本さんが、そのo大きな胸にだけ膨大なエロを詰め込めるだけ詰め込んで――いや、おっぱいだけでは収まりきらず、体中ににじみ出てきたように見えた。なんだか急速に大人びたような妖艶さが漂っている。
 徐々に表情がクリアになってくる。ようやく自分を取り戻してきたようだ。そして自分が何をしていたか思い出した途端、今度は恥ずかしさで耐えられないという感じで下を向き、そのままままわななくように震えだした。
「わたし…今…何を…?」
 みるみる真っ赤になっていく顔を、両の手で覆った。
「違うんです、こんなの、わたしじゃない!」
 その取り乱しように思わず手を伸ばすと、間髪入れずピシリと払われた。
「ご、ごめんなさい。失礼します」
 いたたまれないかのように、来た時と同じく、いきなり風のように家の外に出ていった。

(なんだったんだ、今のは――)
 なんだか今見たものが信じられない。しばらく茫然自失で動けないでいたが、次第に落ち着きを取り戻すにつれ、事態の切迫性に気づかずにいられなかった。
 倉本さん、あの格好で帰った? もうすっかり陽が落ちて暗くなっている。しかも今さらに体積を増したおっぱいが、今にもタンクトップを引き千切って中身があふれ出さんばかりになっているんだぞ。あんな姿で外に出て…今の格好、あれはもはや完全に誘惑兵器じゃないか。本人がそれをちっとも認識してないから余計たちが悪い。無事だったらいいが…あんな巨大なエロ爆弾と化した破壊力の塊のようなおっぱいをさらけ出して、あれを間の当たりにして正気を保てる男がいるとは思えない――。
(倉本さんが…あぶない)
 考えてみれば、今までそういったことがなかったのが不思議なくらいだ。それだけ行動範囲が地味で慎重だったということか。でも…今の倉本さんは普通じゃない。なんだかわからないがとてつもない衝動に突き動かされて我を忘れている。
 いったい出て行ってから何分経った? もちろん何事もないかもしれない。それならいい。しかしもし…。そういった考えが頭の中でぐるぐる攪拌して止まらない。いても立ってもいられなかった。どうか無事でいてくれ…。しかしいやな予感しかしない。
(倉本さんは――僕が護るんだ)


 うちから倉本さんの家まで早足で10分ほど。しかしここら辺けっこう道が入り組んでいて、道順は素直ではない。夜は人気がなく死角になっている場所も多い。普段何度も行き来している道を駆け回りながら辺りを探す。気がせいてしょうがない。
「きゃっ、何をするんですか!」
 夜道に鋭い声が響く。やはり――。この声は間違えようがない。どこだ。ひっくり返りそうな心臓をなんとか押しとどめながら、僕は声の方へがむしゃらに走り続けた。でもなかなか場所が特定できない。
「やめて!」
「おらっ、おとなしくしやがれ!」
 不意にすぐ横で声がする。ここか! 見ると、街灯の明かりがようやくうっすら届くぐらいの建物の奥に複数の人影が見えた。その一人が倉本さんであることは――シルエットだけでくっきりと分かった。
「倉本さん!」思わず叫ぶ。その時雲が切れて意外なほど強い月明かりが射し、相手を確認できた。倉本さんが先ほどの格好のまま、誰かに後ろ手に捕まれて身動きできないぐらい極められている。さらにその正面に、倉本さんに今にも飛びかからんばかりの男がいる。
「やめろ、倉本さんを離せ!」後先考えずに声が出る。一方頭の片隅で、この後どうするか、叫んでから途方に暮れた。
「誰だおめえ、邪魔すんな」前にいる男が叫ぶ。この光量でははっきりしないが、いずれも気性が荒そうで、それに、見るからに興奮して、見境がなくなっている。到底話が通じる相手には思えない。
(倉本さんに――魅入られているのか)
 僕も憶えがある。ビキニ姿に思わずぶっ倒れてしまったこともあったっけ。
「冴木くん!」倉本さんが叫ぶ。助けが来て、ほっとしたような声だ。けど、状況は最悪だ。
 いきなり僕の後ろから手が伸び、あっという間に両腕を捕まれて羽交い締めにされていた。しまった、もうひとりいたのか! いくらジムで鍛えてたって格闘技はやったことがない。その経験の差が完全に出ていた。完全に腕を封じ込められてる。どんなに力を入れてもびくともしない。
「おう、押さえとけ。邪魔させんなよ」
 倉本さんの顔に絶望が浮かぶ。こんな顔をさせるなんて。情けないけども、どうにも動けなかった。
「おいおいねえちゃん、カワイイ顔して、見ろよこのエロでっかいオッパイ。たまんねぇ」もう声がゼイゼイするほど息が荒い。興奮の極に達しているのは明らかだった。
「すんげぇ、後ろから見てもおっぱい盛り上がりまくって、服の中でうなりをあげてるぜ」倉本さんを後方で押さえつけている男も言う。同じように興奮で息も途絶えがちだった。
「こんなの見たことねぇ。今にもあふれ出しそうだぜ」
「あんたが悪いんだぜ、こんなもん見せびらかして、襲ってくれと言ってるようなもんだろうが」
 2人して舌なめずりをせんばかりに、倉本さんに聞くに堪えないような卑猥な言葉を次々と投げかける。「おれ、もう我慢できねぇ。そのオッパイ、たっぷり味わわせてもらうぜ」

 それでも倉本さんは気丈にも毅然とした態度をとった。
「やめなさい。少しでもさわろうとしたら、痛い目に遭いますよ」
「たまんねぇな、その強気な態度。そそるねぇ…」
 そうは言いつつ男はなかなか手を出さない。いや、顔はさっきから今にも飛びかからんばかりに前のめりになっている。ただその視界からあふれんばかりに絶えずぶるぶるとたわみ続けているそのとてつもないご馳走の、明らかに両手でも抱えきれそうもないあまりの巨大さにどこから手を出していいか決めかねているようだった。
 僕の後ろの男も食い入るように倉本さんを見つめている。この男もあの胸で頭がいっぱいなのだろう。時間がない。――ふと、僕を押さえつけていた腕の力が少し弱まっているのに気づく。倉本さんに気を取られすぎか。今だ。思い切り体を預けて固められていた肘を突くと、たまたまそいつの腹に食い込んだ。腕を押さえていた力が抜ける。僕はその隙をついて腕を抜くと、一目散に倉本さんの方に駆け寄った。
「あ、待て、このやろ」すぐにそいつもすぐ体勢を立て直して追いかけてくる。その差はほとんどない。
「あ、ばかやろ」前の奴の注意がこっちに向く。僕はまっすぐ倉本さんとの間に割って入ろうとしたが、その時倉本さんの目が何かを訴えかけた。
(え?)
 別に心を読んだわけではない。しかし倉本さんに何か考えがあることは感じた。僕はすぐ近くまでいったところでいきなり方向転換、すぐ脇によけた。
 すると僕の後ろの奴が咄嗟に対応できずそのまままっすぐ突進していく。次の瞬間――。
 倉本さんができる限りの力で体をそちらに揺さぶった。男は勢いづいて倉本さんの胸に突っ込んでいく。渾身のおっぱいカウンターパンチ。次の瞬間そいつは文字通り宙を舞った。あのおっぱいを真っ正面からまともに食らい、放物線を描いて何メートルも吹っ飛ばされ、もんどり打って倒れたまま動かなくなった。
 2人の男はいきなり何が起こったか分からず呆然としている。僕が何度もはじき飛ばされたあのおっぱいの弾力。あれをまともに食らったら僕だってひとたまりもなかったろう。
 ただ、計算外だったのは残り2人が案外ひるまなかったことだ。むしろ逆上してますます猛り狂った。
「こんのあま〜っ」
 ためらいをかなぐり捨てて倉本さんに襲いかかる。僕はすぐさまその間に入ろうとするが、あまりに不用意だった。
「邪魔すんな!」いきなり顔面にパンチが飛んでくる。
 今度はこちらがもんどり打って転がる番だった。とはいえ一瞬早く体をよけて直撃だけはなんとか避けられた。受け身を取ったので特にダメージはない。すぐさま体勢を立て直して、が――え、なんだ…腰が、立たない――。
 そういえばさっき、うまく避けられたと思ったけどけど、こぶしが顎にちょっとかすったような感触が――。そうか、思い出した。顎の先に衝撃を受けると、一見なんともないようでいて脳が激しく揺さぶられて足腰がしばらく立たなくなることがある、と。
 そんな…。意識ははっきりしている。ほんの数メートル先で倉本さんが危機に陥っているのだ。なのに――そこに近づくこともできない。
 男はそんな僕の様子をあざ笑うように侮蔑の言葉を投げかける。
「動けねぇのか、ざまぁねぇな、ナイト気取りさんよ。まぁそこでこれからたっぷり楽しむのを指ぃくわえて見てるんだな」
 倉本さんは覚悟を決めたようにキッとにらむと、今度は身体を揺さぶって胸を力いっぱい振り回し始めた。「お、おい、やめろ、おとなしくしろ」後ろの奴が止めにかかるがお構いなしだ。とてつもない重量がぶるんぶるんと左右に揺れまくり、うかつに近づけばまた跡形もなく吹き飛ばされそうだ。前の男もさすがに危険を察して手を出しかねている。しかしこの状態ではタンクトップが――ダメージを受け続けて崩壊寸前の布地が、ぴし、ぴし、とあちこちでほつれていく音がここからでも聞こえてくる。このままじゃもたない。しかし倉本さんは必死だった。服がどうなろうと止める気配がない。
 しかし遂にびりっ、びりっ、と立て続けに鋭い音が響き渡り、遂に限界を越えた。びりりりりりっ! 連続的に布を裂く音が耳を覆うばかりにつんざく。さすがにおっぱいの動きが止まった。見るとタンクトップはあわれストラップがかろうじて残っただけの残骸に変わり果て、胸の部分は引き裂かれてあちこちに飛び散っていた。その下から、今まで隠れていたスポーツブラがむにゅっと姿を現す。けれどこれだってどこもかしこも引き攣りまくって隙間なく満々に張りつめている。脇から収まりきらない生のおっぱいがあふれて顔を出していた。「きゃっ!!」倉本さんの口から小さな叫び声が上がる。とてもじゃないがこんなブラじゃもたない。もう今にもパンと弾けて胸がまろび出てしまいそうだ。そうなったらもう胸を遮るものはなにもない。倉本さんの動きが固まった
「いい加減にしやがれ、往生際の悪い!」後ろの男がその機を逃がさず、固められていた手を一層締め上げる。倉本さんの顔が苦痛に歪む。
「強気なのもけっこうだが、限度ってものがあるぜ。せいぜいいい加減俺のものになりな」まだしばらくは胸はぶるぶる振れているが急速に落ち着きを取り戻していく。男達はさっきから目の前にこんなご馳走を見せびらかされておきながら、実はまだ指一本触れられてないのだ。目は血走って息がぜいぜいとあえいでいる。興奮しすぎたのか指先がわなわなと震えていた。
 もう逃げられない。倉本さんの顔におびえが浮かぶ。
「やめろ!」僕は思わず叫んでいた。「倉本さんのおっぱいは、僕のものだ!」
 え、僕、今何を…? 言葉を発した途端、激しい後悔が走る。とんでもないことを言ってしまった――。
 倉本さんが信じられない、という顔でこちらを見ている。前の男も一瞬毒気を抜かれたようにこちらに振り向いた。
「そんなに死にてぇかぁ!」体をこっちに向けると、殺気だった目で思い切りこぶしを振り上げる。勢い余って引いた肘が倉本さんの左胸に差し込んだ。
「はうっ」突然倉本さんが苦しげにきれいな顔を歪ませた。え…?。一瞬そいつの腕全体がおっぱいの中にのめり込んで見えなくなる。次の瞬間それ以上のスピードで吐き出され、あまりの勢いにそいつがよろける。何が起こったのか分からず倉本さんの方を凝視した。
 ――しかしそのわずかな間に、状況が一変していた。
 男は先ほどの姿勢のまま、体の動きを封じ込められたように固まっている。「な…なんだ…」
 それだけではない、さっきから倉本さんをずっと後ろ手に押さえ続けていた男も、苦しそうにうめきだした。力が抜けて今まで押さえていた腕がほどかれていく。
「や、やめろぉ…、やめてくれぇ…」男は倉本さんに顔を向けて必死に訴えかけるが、言うそばからその声がどんどんしぼんでいく。ただならぬ様子に何が起こったか分からない。しまいには2人とも腰からぐずぐずと崩れていき、ばったり倒れこんで動かなくなった。

 拘束から解放された倉本さんは腕をだらんとしたままその場にうずくまる。「倉本さん!」僕もなんとか足の感覚を取り戻して立ち上がると、倉本さんに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
 しかし倉本さんはおびえきってまだ言うこと聞かない腕を前に伸ばし胸を抱え込もうとするばかりだった。
「知らない…。わたし、何もしてない…」
 2人とも倒れたままぴくりとも動かない。逆に心配になってひとりひとり様子を見てみた。
(よかった。息はしている) とりあえず命に別状はなさそうだ。しかし――どちらもまるで精も根も尽き果てたかのようになって気を失っているのが妙だった。
(いったい、何が起こったんだろう…)
 その時、どう考えても場違いな臭いが僕の鼻をついた。


「立てますか? とりあえずここから動きましょう」僕は着ていたジャケットを倉本さんの肩にかけた。とはいえそれだけではあの大きな胸を隠しようがない。どうにかかろうじて形態を保っているスポーツブラは見るからに支えるギリギリの強度しか残っていない。今にもおっぱいがこぼれ落ちそうだ。まだ震えが止まらない倉本さんの肩を抱え、なんとか体を起こす。とてつもない重みが両肩にずしりとのしかかった。
「でも…」倉本さんは倒れたままの男たちを見つめた。
「ほっときましょう。大丈夫ですよ。そのうち気がつきますから。それよりも今のうちに」僕はその場から倉本さんを引き剥がすように立ち上がった。倉本さんの胸が容赦なく僕の体に押しつけられる。ブラジャーひとつの姿をなんとかして少しでも隠しそうとしてるのだろう。身体の震えが胸にも伝わってぶるぶると絶え間なく震動している。その感触は先ほどとはまるで違った。(怖かったんだろう…) そのとてつもない容量と重量に、こちらも動くのがやっとだが、ガチガチになって僕に体を押しつけてくる倉本さんに対し、そっと腕を添えた。
 倉本さんの家までの距離は決して長くはないが、僕にはなんだか永遠にたどり着かないのではないかと思うぐらい長く感じた。こんな近所で、今まで経験したことのない恐怖心にとらわれている倉本さんに、これがトラウマになってはいけない、と思いつくまま必死に話しかけていた。
「あの人達、大丈夫でしょうか」
「あいつらが悪いんです。気にかけることないですよ」
 倉本さんは妙にその3人を気にしていた。襲われたとは言え、結果的には自分が加害者になってしまったように思っているらしい。ひとりはおっぱいカウンターで吹っ飛ばされたけど単に気絶しているだけだろう。いきなり倒れたあとの2人は――よくは分からないが何が起こったのか思い当たることはあった。そばに寄ったに鼻に入ってきたあの臭い、おそらく倉本さんは知らないだろうけど、僕にはまぁ馴染みのあるあれだった。それで――。
(倉本さんに悩殺されちゃったんだな、きっと) 海での情けない思い出が頭をよぎる。倉本さんのおっぱいに至近距離で接して、あの2人もおそらく――。だから――詳しいことはすっ飛ばして、「気にすることないですよ」と何度も繰り返し説得した。

 ようやく家の前に着く。そのまま一緒に門をくぐると、玄関前まで来たところで一旦立ち止まる。このまま家の中まで運び込んだ方がいいだろうか…。しかし、自分の家まできて安心したのか、「大丈夫です」と離れて一人立ち上がった。
「ほんとうに、今日は、ありがとうございました」
 ジャケットは胸に直接引っかけられている。それでも覆いきれてはいなかったけど、かろうじて隠されてはいる感じになっていた。「あの、これは…もう少し借りてていいですか?」おずおずと訊く。僕がうなづくとほっとして落ち着きを取り戻したようだった。結局未遂に終わって無事だったのも大きかったろう。わりあいしっかりとした足取りで玄関に向かっていく。しかし中に入ろうとしたところで、あ、そうだとばかりに振り返った。
「わたしのおっぱいはわたしのものです。他の誰のでもありません」
「あ…」やっぱり聞かれてたか。「そりゃもう、もちろん――。あの、動転して思わず本音を――じゃない、心にもないことを口走って、その――忘れてください」
 僕の慌てぶりに、倉本さんはクスッと笑った。
「いいえ、絶対忘れません」そしてなぜか、不思議なほほえみを浮かべているような気がした。
「ありがと」最後にそう言い残して、玄関の向こうに消えていった。その口調は、腑に落ちないのだが、どこか嬉しそうにすら思えた。

 どういうことなんだろう。僕は玄関の中に消えた後もドアをしばらく見つめ続けていた。
 今日はとにかくいろんな事がいきなり起こりすぎた。消化しきれず頭の中がぐちゃぐちゃで整理が付かないけども、なんだか、胸の急成長とともに、倉本さん自身も今、急激に変わっていっているような、そんな気がしてならなかった。