千々山村自然教室

唐鞠 作
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「チホちゃん! ちょーっとあっちでお話いいかしら!?」
「むぐぅ?」

 焼きそばをほおばったままのチホちゃんを強引に連れ出し、二人きりになってもらいました。

「な、なんなん? ルミちゃん、びっくりさせんなよぉ」
「チホちゃん、今……ムネが透けてるのに、気付いてます?」
 ひとさし指でトップを示しながら指摘します。

 Iカップがキツいという彼女のバストは、手のひらに到底収まらない大きさ。その先端では、やや赤みの濃い直径4センチほどの乳輪が、白いコットン生地の向こうに透けて見えました。
 乳輪も大きめだなんて……どこまで小学生離れする気ですの?

「おっ、ホントだ。スパイスのせいかなー? もともとアタシ汗かきな方だからな」
 それだけ言うとくるっと振り返り、当然のようにみんなの所へ戻ろうとします。

「ストップ、ストーップ! ……あの、それだけですの?」
「それだけって?」
「いやいや! 隠すでしょ普通?」

 そう。簗漁のときより一回り大きく見えたのは、キツキツのスク水を脱いだから。押し込めていた乳房を開放した結果です。
 すなわち彼女は、上半身体操着のみでバーベキューに臨んでいたのです! 信じられますか!? 男子もいるというのに!

「なんで当然のごとくノーブラなんですのっ!?」
「なぜって? 理由は一つしかねーだろ」
(え……?)

 まさかチホちゃん、透け乳首で男子の視線を集めるのが好きな、変態さんだったんですの!?
 見た目はギャルでも、ビッチ系ではないと思っていたのに! 小6にあるまじきインモラルっぷり! けしからんですわっ!

黒ルミD「ナイスブーメラン」
 うるせー!

「今が『食べ放題』だからだよ」
「……はい?」
「だからさ、今はたらふく“食う”ことが最優先なの。あんなキュークツな水着着てたら、本気出せないっしょ?」

 言わんとすることが分かりました。勝手にビッチ疑惑をかけてごめんあそばせ。でも、

「あのスク水、ウエスト周りは余裕あったはずでは?」(第9話参照)
「いやいや、食事ってのは有酸素運動だぜー? 肺が圧迫されてちゃツライっしょ。ノーブラが正装なんだよ」
 食事に関して譲れないこだわりを見せるチホちゃん。そこへ、
「ムダじゃよ。ルミ殿」
 かえでちゃんも現れました。

「体型が変わろうと、チホは大食いじゃからの。食うことにかけては高邁なアスリート精神をもっておる」
「さっすがカエデ、親友のことよくわかってんじゃーん☆」
 あ、今の怒らないんだ。

「ゆえに、乳首の透けなんぞ気にせんのよ。とことん『色気より食い気』じゃからな」
「ん? なーんか日本語おかしくねーかー?」
 あ、そこは怒るんだ。

「とはいえ、村の外から来たルミ殿が気になさるのもやむなき事。そこで、ワシが便利なアイテムをやろう」
 そう言うと、かえでちゃんはある物を取り出しました。白く雄大なチホバスト山脈の双頂に、それをペタリペタリと貼り付けます。
「ンッ♥」
 ソフトタッチに、わずかな色っぽい声を漏らすチホちゃん。

「いかがかな? これで透けても見えまいて」
「おっ! なーるほど。さすが頭がキレるなーカエデは」

「ちょまーーーッ(ちょっと待って)!! それ、ただの文房具じゃありませんの!?」
「いかにも。付箋じゃよ」
「やだなールミちゃん。ウチの村が田舎でも、これくらい売ってるってー」
※(村唯一の書店『ブックス松田』は、文房具も扱っている)

「いや……でもこんなの、かえってイヤらしく見えません?」
 ピンクのハート型って! 完全にニプレスシールじゃない!

 うう〜、今日はどうなってるんですの? 「乳首を隠す」という当然の行為を説得するのは、まさかの2度目ですわよ?

「アッハハ。ルミちゃん心配しすぎ〜。こーいうのは真正面から行きゃいいんだって」
 わたくしの心配を一笑に付したチホちゃんは、ズンズンと男子たちの方へ向かって行きます。

 そして少しも恥じらわず、こう呼びかけたのです。
「おーい男子ー、今アタシ、本気で食うためノーブラだからー。乳首透けても見んなよー☆」

「「「見ねーよ」」」「「「見ませんよ」」」

(見ろよォおおお!!!)
 ハッ! なんでわたくしがキレてるの?
 あーもう! ワケわかんないっ! 男子に向かって堂々とノーブラ宣言するなんて、豪胆にも程がありますわ!

「「…………」」
 ほらぁー、あまねちゃんや青梅さん、顔真っ赤にしてるじゃない。あれが乙女として正常なデリカシーですわよ?
「ほほう?」
 と、興味深そうに目を光らせるナッちゃんは置いといて。

「チホちゃんたらしょうがないなー。食後はちゃんと着けるんだよ? キツかったら調整してあげるから」
 下着の重要性を誰より理解する竹上さんも、この程度の叱責にとどまります。
「オッケーオッケー。わかってますってー」
 そして再び食欲のままに、鉄板上の料理を皿に盛るチホちゃん。

「やれやれ。桑畑さんは相変わらず健啖家ですね」
「よっしゃ、焼きそば追加作っとくか」
 いや、食欲の方にリアクションはいいから! おっぱい! 今重要なのおっぱいだから!

「タケシ先輩も料理するんすか?」
「たりめーよ。ヨースケほどの技術はねえが、オレだってそば屋のせがれだぜ?」
「蕎麦と焼きそばは全然違うような……」
「ガハハ! 細けーこと気にすんな。さっきの肉の余り、具に使わせてもらうぜ」

 ああ、もう話題がそれてますわ。おっぱいトピックが何事もなくフェードアウトしようとしている……
(そんな草食でどうすんの男子ィ! さっきまでお肉もりもり食べてたじゃないですの。少しはアッチの方も肉食になってもらいたいですわね!)

 ハッ! いけませんわ。またしてもお嬢様にあるまじき下品なモノローグを。
 と、とにかくっ……素敵な千々山村を、これ以上過疎らせたら承知しませんわよ!

「それにしてもチホさん、よく食べますねー。やっぱムネが大っきいだけに、たくさん栄養が必要なんですね」
 ナッちゃんの失礼な発言を叱ろうと思った矢先、わたくしの脳内にある考えが閃きました。

(これ……正しいのでは?)
 冗談でなく、チホちゃんの巨乳は食欲に由来するのでは?

 動物の身体は当然、食物から得た栄養で作られています。この自然教室で食べたものを思い返してみましょう。
 大豆に始まり、鶏肉、キャベツ……って! ものの見事に、バストアップ効果のある食品ばかりじゃないですの!
 チホちゃんに限ったことではありません。これだけ栄養豊富な食べ物を日常的に摂取してるなら、村人の発育が良いのも頷けます。

(こうしちゃいられませんわ!)
 わたくしも負けじと、おかわりをいただきました。
 ハーブソルトで味付けされた焼きそばをゆっくり噛みしめながら、己の肉体に念じます。
 チホちゃんの言う通り、大切なのは“呼吸”。リラックスした精神で、内なる小宇宙へ働きかけるのです。

(“川”をイメージするのですわ……
 食物の栄養を余さず吸収し、全身の血管を巡り、血肉となって胸に蓄えられていく様を……
 新陳代謝を活性化!
 炭水化物よ……タンパク質よ……そして脂肪よ、今こそ集えっ!
 目指すは左右の乳房! 大胸筋に、乳腺に、脂肪組織に、全軍結集ですわぁーーーッ!)

(る、ルミさん……えらい真剣なカオで食べとるなあ)

 いつきちゃんを軽くひかせてしまったようですが、構うもんですか! 今わたくしは、地域格差の是正に一身を投じているのです!

 しかし……頭の片隅では冷静に、こうも思います。
(単純な栄養だけで、ここまでの差が生じるかしら?)

 身体をビルに例えるなら、三大栄養素は「建材」に過ぎません。どれほど大量に摂取しても、「建築業者」のキャパを超えては意味がない。
 ……やはり、納得できませんわ。
 成長を左右する建築業者とは、すなわちホルモン。ホルモンの分泌を促す成分こそがカギです。村民との差は、そこにあるのではないでしょうか?

 ならば、次に疑うべきは“特殊”な成分。すなわち、「他の地域ではまず入手できず、かつ千々山村で日常的に消費されている食品」とは何か……?

 わたくしが考えていると、あまねちゃんたちの会話が聞こえてきました。

「かえでちゃんも陽介くんも、ユニークな自由研究で本当にすごいね。私の学校、自由研究ないんだよ」
「へえー、宮方さんトコはそうなんだ」
「うん。夏休みの宿題は問題集ばかりどっさり! 本当につまんないの」
「ふーむ、やはり東京の学校は受験科目を第一に考えるんですね」
 医者を志す真慧くん、何を思うでしょうか。

「私もやってみたいなー。小学生がハーブの研究なんて、素敵じゃない」
 あまねちゃんからの称賛がくすぐったそうに、照れ笑いする陽介くん。
「いやあ、それなりに苦労したんすよ? ここらの山にしか生えない野草もあってさ。ネットにも図鑑にもろくに載ってねーんだ。トミサク先生の書いた本にしか……」

 それかあああああ!!?


〜〜〜〜〜〜〜〜


「いやぁ、うまかった!」
 越出馬さんは満足気にそばを平らげる。
 江戸っ子はほとんど噛まずに啜るのが粋、と聞いたことがあるけど、彼は違ったな。あまり音を立てず、もぐもぐ噛んで食べていた。東京の人じゃないのかな?

「田舎そばと言うくらいだから、てっきり山で採れた自然薯をつなぎに使ってると思いましたが……違う。これは別の何かですね?」
「おっ旦那、わかってくれるたあ嬉しいねえ。お察しの通り、うちのソバはヤマゴボウっていう山菜をつなぎに打ってんのよ」
 すかさず答えたのは、またしても店主の伊上さんだ。地獄耳だなあこの人。

「そいつにゃ風味がほとんど無ぇからな。混じりっ気なしにソバの香りを堪能できるっつーワケよ」
「なるほど! 山菜にそんな使い方が。勉強になります」
 少年のように目を輝かせる越出馬さんを見て、俺は思う。
(土地特有の魅力を発見した時、こんなにも嬉しそうな目をするのか……この人は)

 と、そこで横から会話に加わる者が。
「この村で、山野草はとても重要な存在です。薬効のあるものを日常的に摂取することで、健康維持につながっているんですよ」
 さっきももかちゃんを褒めた、初老の男性だった。(現在、他に客はいない)

「おかげで、生活習慣病になる村人はとても少ないのです」
「ワッハッハ、確かにな。そうでなきゃ夏目先生、忙しくてぶっ倒れてるかもな」
「あはは。何を言うんですか、大将」

「あのう、お話から察するに、貴方はお医者様ですか?」
 朗らかに笑う男性に、越出馬さんが尋ねる。
「ええ、いかにも。内科の往診医をしています」
 人の良さそうな顔で、彼はぺこりと会釈した。

(あ、この人が夏目先生かー)
 俺も顔は知らなかったので、名前を聞いて思い出せた。

 往診医とは、診療所を構えず直接患者のもとへ向かう、言わば「出前」のお医者さんだ。
 村唯一の医療機関は『卯野医院』だが、さすがに一軒だけでは村全体をカバーしきれない。病床数は少ないし、通うのが困難なお年寄りもいる。
 そうした在宅療養者の助けとなるのが彼だ。カバンひとつ携え家々を巡回し、温かい言葉で励ましながら診療していく。
 まさに弱き者の味方。人格者にしか務まらない仕事である。

 卯野医院の補佐に甘んじているように見えるかもしれないが、決してそんな事はない。
 なにしろ、ほとんどの旅館・ホテルは彼を嘱託医として契約している。宿泊客が具合悪くなったときも彼の出番。電話一本で駆けつけるのだ。
(この村の旅行客には、興奮のあまり倒れる男性がときどき現れるからな)

 往診医の夏目先生は、村の医療を支える“三本柱”の一角として、尊敬を集めている。
 そして残る柱は、卯野医院と……

「『六草苑』?」
「はい。明治から続く老舗の薬草店です」
「いわゆるケミカルドラッグを調剤する薬局とは違いましてね。扱うのは専ら自然の生薬です。山野草やキノコなど、個人の体質に合わせて処方してくれるんですよ」
 俺に続いて夏目先生が詳しく説明してくれた。

 共に村民の健康を守る立場として、夏目先生は六草苑に好印象を抱いているようだ。商売敵と思わないあたりが、根っからの善人だよなあ。

「ふうむ。いわゆる『漢方薬局』でしょうか? 山の恵みを活かす薬草師とは、興味を引かれますね」
 越出馬さんも話に食いついてくる。

「村人からの信頼は厚いですよ。なんせ郷土の偉人、米岸富右衛門が始めた店ですから」
「あ、それ。僕も小学校で習いました」
 懐かしい。お寺の隣の郷土資料館へ見学に行ったなあ。

「六草苑が昔から人々の健康を助けてきたことは、村の誰もが知る事実です」
「立地はちょっと山奥ですが、今も多くの人が利用してます。食材や茶葉としての山野草も、いろいろ売ってますからね」
「なるほど。この地にはまさに、医食同源の教えが根付いているようですね」


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 ここまでの話を聞けば、越出馬勝矢が娘と同じ仮説にたどり着くのも当然だった。すなわち、
(千々山女性の胸が大きいのは、食習慣が原因か?)

 この地に生える固有種の野草に、きわめて強力な豊胸成分が含まれているのではないか?
――【仮説A 薬効説】

 だが勝矢は、ルミよりもさらに一歩踏み込んで考える。
(その野草……村人に摂取を促してきた者がいるとしたら? たとえばそれが、明治時代から信頼を築いてきた薬草師の一族だとしたら?)

 千々山の豊乳は、彼らによって人為的に「育てられた」ことになる。

(まさかな! いかんいかん。おそろしいことを考えてしまった)
 一瞬脳裏をよぎった想像を、勝矢は振り払う。


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「ところで、現在の店主はどのような人物ですか?」
「植物学博士の米岸富作先生です。何冊か本も出してる、薬草のエキスパートですよ」
「あれっ? ニイちゃん、知らねーのかい?」
 俺の答えに、伊上さんが疑問の声をはさむ。

「トミサク先生、半年前に店を継がせたんだぜ」
「えっ? 初めて聞きました」
 俺が村を離れている間にそんなことが。

「それで、先生は引退なさったんですか?」
「今は林業事務所に顧問として勤めていますよ。あの方ほど山野草に詳しい人物はいませんからね」
 答えてくれたのは夏目先生だ。

「傘寿(80歳)を迎えて勤め人たぁ、大した働き者だよなー。もっとも、勤務中も自由気ままに植物採集してるらしいけどよ」
「ふうむ。お話を聞くに、かなり壮健なご老人のようですね」
 越出馬さん、どんな姿を想像してるんだろう?
 まあ実際、トミサク先生はお達者な爺さんだけどな。夏はだいたいアロハシャツ・麦わら帽・サングラスがトレードマークだ。

「それで新しい店主は?」
「驚いたことに、まだハタチの娘さんでさ。先生の孫っていうけど、本当かねぇ? 横文字の名前だったじゃねーか。ミス・ナントカ」

「『ミス・アルジーヌ』だよ、お父さん」
 答えてくれたのは、食器を下げに来たももかちゃんだ。
「わたし、あのお姉さん好きー♥ 魔法使いみたいでかっこいいもん!」

「そうそう。そのアルジーヌさんが村に来たのは、2年近く前だけどよ。こんなに早く看板を継ぐたぁ、誰も思わなかったよなあ」
「どうあれ、米岸先生が実力を認めたのでしょう。でなければ店主を任せませんよ」
「そうさな。しかし、どこも世代交代なのかねえ。卯野さんとこも、若先生が院長継いだばかり……あ!」
 伊上さんは、何かに気付いたように言葉を詰まらせる。

「す、すまねえ。夏目先生の前でこんな話」
「はは、気にしないでください。私は十分幸せですよ。息子は東京で夢を叶えていますからね。欲深い母親とも縁を切って」
「あー、先生の元奥さん。ひでぇ女だよなあ。実の息子を金儲けの道具にするなんてよ」
「いいえ……あいつも最初は、全力で息子の夢を応援してたんですよ。都会に出たのもそのため……なのに、金の魔力に取りつかれてしまった」

 えっ、なんだなんだ? 重い話になってきたぞ?

「先生の息子さん、この春、年上の嫁さん見つけたんでしょ? で、先生にも『3人一緒に暮らそう』って誘ってくれてんでしょ? 東京で医者やる開業資金まで用意してくれて」
「…………」
「本当に行かないんですかい? 村のことより、家族との幸せを追っかけりゃいいじゃないですか」
「いやあ。連れ戻すことを諦めてしまった息子に、今さらどんな顔をすればいいかわかりません」
「先生……」
「それに、この村で往診医をやるのは私の生きがいですからね。足腰立たなくなるまで、やらせてもらいますよ」

 ああ、シリアスな会話の流れからなんとなく察した。夏目先生、後継ぎがいないんだ。
 そこで俺は、今もどこかをフィールドワーク中であろう、彼女のことを思い出す。
(志木沢さん、2年後には医学部を卒業するんだよな……。この村を気に入ってくれたら、医者として住んでくれないだろうか)

「ああ、悪かったですね。重い話にしちゃって」
「いえいえ」
 って、俺がそんなこと考えている間に、越出馬さんはももかちゃんと話していた。

「……すると、アルジーヌさんが継いでから、お店の雰囲気が変わったんだね?」
「はい。和風で昔っぽかったんですが、西洋風に模様替えされたんです。あと、ちょっと暗い感じになったかなぁ」
「暗い?」
「と言っても、良い意味です。なんかこう、ミステリアスでかっこいいんですよー。学校では『魔女の店』なんて呼ばれてますが、ほめ言葉です」
「なるほど、ありがとう。よい話を聞かせてもらったよ」

 うわあ、越出馬さん、小4女子からも容赦なく情報収集するんだなあ。
 ももかちゃんはリニューアル後の六草苑を推してるみたいだ。どんな風に変わったんだろう? 俺もちょっと興味が出てきた。

「おーいモモカ、よそ様の宣伝もいいが、こっちの仕事も頼むぜ」
「はーい」
 店主に呼ばれたももかちゃんが、洗い場へ引っ込む。

「……ミス・アルジーヌ、か……」
 おや? 越出馬さん何やら考え込んでるぞ。そんなに気になるのかな? 六草苑の新しい店主が。


********


 初めて聞いたとき違和感があった。「アルジーヌ」とはいかにもフランス風の名前。しかし「ミス」は英語だ。フランス語で言うなら「マドモアゼル・アルジーヌ」が正しい。

 単純に長いからか? と思ったが、少女から聞いた話で、その理由も推察できた。

 フランスでは現在、公文書でマドモアゼルの使用を廃止している。通常「お嬢さん」という意味で使われるこの敬称には、「女性が父親の管理下にある」という男尊女卑的ニュアンスを含むからだ。
※(代わりに、未婚非婚を問わず「マダム」が使われている)

 すなわち、あえてマドモアゼルを避けたのは、“自由”の意志表示。
 代々の老舗をさっそく自分流に改装したことからも、その姿勢がうかがえる。彼女は経営者として、伝統にとらわれない独立不羈の精神を掲げているのかもしれない。

 さて、敬称のことはそれくらいにして、考察すべきは名前の方だ。

 日本に帰化しながら、日本風に改名していない。あるいはそれを表に出していない。「アルジーヌ」が本名かは不明だが、愛着があるのは確かだろう。もし自分で付けた名なら、なおさらのこと。

 そして……全くの邪推だが。
 もしも、さっきの想像が真実だとすれば?
 すなわち「村人の胸を育てる」という意志が、米岸一族に代々伝わっているとしたら?

 その“意志”、末裔である彼女の名に込められているかもしれない。

 スペルは“Argine”か?……「アージン」「アルギン」とも読めるな……。
 ん?……よく似た響きを、つい最近耳にしたような……

“Arginine”!?

 そうだ。娘から聞いたのだ。
 つい先週ぐらいか。自宅のリビングで、ルミはちょっと大人向けなファッション誌を読みながら、家政婦のヨシミさんとこんな会話をしていた。


〜〜〜〜〜〜〜〜


「ねえヨシミさん、『アルギニン』って何かご存知?」
「アミノ酸という栄養素の一種ですね。大豆や鶏肉に多く含まれます。体内でも合成されるため、非必須アミノ酸に分類されますが、成人後は次第に量が減っていくため、積極的な摂取が勧められています」

 私は少し離れたテーブルで新聞を読んでいたのだが、即答するヨシミさんの声を聞いて感心した。さすがだ。ルミの家庭教師を任せているだけのことはある。

「うふふ。もしやお嬢様、バストアップサプリの広告などご覧になっているのでは?」
 そして彼女、非常によく気が付く。

「ど、どうしてそれを?」
 バサッと雑誌を落とした。図星だったのか? ルミよ。

「アルギニンには疲労回復、免疫力向上、お肌の保湿などマルチな効果がありますが、とりわけ有名なのが『成長ホルモンの促進』です。豊胸成分としては有名なのですよ。自然界にある物質なので、副作用の心配もありません。
 ……もしやお嬢様、購入をお考えで?」

「ま、まっさかあ! わたくしはサプリなど無くとも、食事と運動で豊かなバストを育んでみせますわ!」
「立派なお心がけです。さすが小学生日本一を自負されるだけありますね」
「フフン、こういう特殊成分に頼った育乳なんて邪道ですもの。わたくしのプライドが許しませんわよ!」


〜〜〜〜〜〜〜〜


※(現在)
 うぉおおお! 邪道上等ッ! 特殊成分ウェルカムですわぁあ!

「おおー、ルミさん、お嬢様なのに豪快な食べっぷり」
「むしゃ……ごくん……
 ええ、そりゃもう! なんせわたくし、見ての通りやせっぽちですからねぇ! しっかり食べて、少しはふくよかな魅力をつけたいものですわ!」

 はぁ、プライドぉ? そんなものでおムネが膨れますの? 今はとにかく、超絶豊胸効果のある薬草料理に食らいつくことですわッ!

「アッハッハ。ルミちゃんもアタシに負けじと大食いじゃーん☆」
「こりゃーチホにライバル現る、かもしれんの」

 ええライバルですとも!
 ただし胃袋じゃなく、バストで競い合いたいですわね! チホちゃん!


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「ごちそうさまでした」
 俺たちは会計を済ませ外へ出ていた。のれんをくぐるとき、午後の日差しが照りつける。

「それでは、私もこれで失礼します。どうぞ、よいご旅行を」
 軽くお辞儀をして、夏目先生とも別れた。これから午後の往診に向かうのだろう。

 ところで『日々喜』で会計してから、越出馬さんは何だかバツの悪そうな顔をしている。バス停に着いたところで、その理由を話してくれた。

「いやあ、お恥ずかしい。昼食代を払ったらバス代が足りなくなってしまうとは……もっと現金を用意しておくんだったよ」
「この村は、カード払い未対応の店がほとんどですからね。ATMもないし」
「まいったな……宿に戻ればあるんだが」
「やっぱりさっきのお蕎麦の代金、僕も出しますよ。千円でいいですか?」
「本当かい? 助かるよ。じゃあ代わりにこれを」

 越出馬さんは懐からメモ帳のようなものを取り出し、走り書きした紙片を一枚切り取って差し出す。

「ええっ? 僕、小切手なんてもらうの初めてですよ」
「郵貯ならどこでも換金できるよ。ガイドしてくれたお礼も含めて、受け取ってくれないか」
 普段から小切手帳を持ち歩いてるなんて。さては相当のリッチマンか? と思いきや、

(3千円か。う〜ん……安すぎず高すぎず、断るにしても微妙な金額。豪奢なのか庶民的なのか、わからない人だな)
 しかし4千だったら、さすがに遠慮していただろう。もしかしたら俺の良心を値踏みして、あえて断りづらい金額を提示したのか? だとしたら、すごい商談センスの持ち主かもしれない。
 村に伝わる、「お金に汚い者は針山に落ちる」ってしつけ話が脳裏をよぎったけど、厚意を無下にするのも失礼だよな。これくらい頂戴してもバチは当たるまい。

「それじゃ、ありがたく頂戴します」
「こちらこそ。恩に着るよ!」

 こうして、俺は千円札と引き換えに3千円の小切手を受け取る。
 無償のつもりだったガイドに、思いがけず2千円の値が付いたってわけだ。昼食代を自腹とみなせば、結局3千円だな。
(そういえば加藤も、志木沢さんからガイド料3万もらうんだっけ。ならいいよな。その1/10くらい)

「じゃあね、本当に楽しかったよ。ありがとう」
「こちらこそ。楽しんでもらえて嬉しかったです。自分の中に、ふるさとへの愛情を再確認できました」
 それはきっと村役場に就職したら一番必要なもの。だから、感謝したいのは俺の方だった。

 改めて握手を交わし、俺は越出馬さんと別れる。

 見送る時、気のせいかもしれないけど……彼の中に「心の空白」と言うか、さびしそうな部分を感じたんだ。
「普通の人が当たり前に持っているものを、自分は持っていない。そしてそれは、決してお金では手に入らない」
 ……そんな哀愁を。

 ま、俺の勘だけどさ。もしそうなら、旅行を楽しむことで少しでも空白を満たしてもらえるといいな。


********


 結局、中山昇一はその小切手を換金せず、郷土愛のしるしとして、いつまでも大切に持っていた。
 ……なんてことはなく、帰省から戻った直後に即、換金した。そのへんはドライな男である。

 そんな中山だが、翌年めでたく村職員として採用され、地域振興課に配属される。

 さらにその翌年、越出馬勝矢とのやりとりを思い出した中山は、誘致したITベンチャー企業にキャッシュレス決済の普及を依頼する。
 その社長、豊臣昌史はプログラマーとして大変有能であり、機械に疎い村人にもわかりやすいシステムを開発。スムーズに導入させていった。
 結果、食事・買物の利便性は向上し、多くの旅行客に喜ばれた。村の商業を大きく前進させた一手と言えよう。

 しかし、ある30代男性が“本人の意志によらず”クレジットカードで豪遊。土産物やブラジャーなど大量の買物をしてしまうのだが……
 それはまた別の話。今から3年も後のエピソードである。

つづく