第2話 前編
「はぁ……」
私は今、自室の片づけをしている。
掃除のためではない。
部屋を出て行くためだ。
執事の仕事はもうやっていけない。
お嬢様にあんな失態をさせてしまっては、もう無理だ。
自分でそう判断したからこそ、自ら引くべきだと決心したのである。
「はぁ……」
また深いため息がでる。
ダンボールに少ない荷物を詰め込みながら、私は今までの回想をする。
女性なのに、男性用の執事服を手にしたとき、私は静かに涙を流していた。
沙織お嬢様の様子が変だ、と気づくまでにはそう時間はかからなかった。
前々から予兆はあったのだ。
一歩引いて、一緒に歩いていても上の空。
気づけばため息。
思い悩んでいる、という典型な状態だろう。
美しい顔が憂いを秘めて神秘的、ではあるがいまはそんなことを言っている場合ではない。
なにに思い悩んでいるかは私には分からなかったが、そんな状態のお嬢様をみるのは執事としてなにかお手伝いできることはないか、とこっちまで思い悩んでしまいそうだった。
心なしか、その巨大な胸も元気がない。
いつもは歩調に合わせて盛大にゆれるのだが、今は元気がない、という言葉がぴったり当てはまるように控えめにゆれていた。
「お嬢様、なにか悩んでらっしゃるんですか?」
私は意を決して言った。
主の悩みは執事の悩み、手助けしたい一心で見た。
しかし、お嬢様は私をちらりと見て穏やかに微笑んだ後、また視線をそらしていった。
「歩に言うほどの悩みじゃないわよ」
「はぁ……」
そうは見えないから声を掛けたんだけどなぁ。
そういうふうに言われては、これ以上触れてはいけないのだろう、と判断して口をつぐんだ。
二人しかいない廊下は、とても静かだった。
「そうだ、歩」
お嬢様は自室に入る前に、振り返って言った。
「わっ」
当然、その規格外な大きさの胸が勢いよく私に向かってくる。
私はすんでのところで交わして、事なきを得た。
以前も同じようなことがあって、私には若干トラウマとなっている。
ああ思い出したくもない。
「あら、ごめんなさい」
お嬢様が謝罪する。
「いえ、かまいません。何でしょうか?」
「そうそう。あなた、今なにか足りないものある?」
「は?」
質問の意図がよく見えない。
「だから、なにか欲しいものはあるの?」
ああ、そういうコトですか。
「いえ、今のところ満足しています」
今までの生と死の狭間のような生活から見てみれば、ここは天国。
女神のように美しい神様の箱庭。
文句をつけたら地獄にいってもおかしくない。
「そういう返答が一番こまるんだけどなぁ」
お嬢様は困ったわ、という表情をした。
ああ、そんなお顔も素敵。って言っている場合じゃない。
つまりそれはお嬢様が望んでいる答えではないわけで。
お期待に添えないのは、執事の名折れ。
私は心底、さっきの返答を後悔した。
「あの……」
「いえ、ないならいいわ。でも何か必要になったら言って頂戴」
「……はい」
結局、私はわびることも出来ずにお嬢様の部屋を後にした。
思えばそれがきっかけであって、また原因だったんだと思う。
私は自室に戻ってベッドの上に寝転がり、一人さっきのことを思い浮かべる。
お嬢様はなんという答えを期待していたのであろう。
必要な物?
今の生活に十分満足しているから、本当に何もいらないのに。
じゃあなんだろう。
お嬢様?
お嬢様がいれば、苦労も感じない。
一緒にいて楽しいのだ。
それにあの美しいお顔、巨大な胸、彫刻のような完璧な肢体。
それらを間近で見られるのならば、心も満たされるものだ。
おまけに、それらを自由にしていいときもあるのだ。
何が不満なのだろう。
「ぷっ」
私は噴き出してしまった。
どうやら、私のお嬢様バカは日をまして進行しているらしい。
お医者様に見てもらったら多分、『病名はお嬢様症候群ですね。かなり重度です。入院の必要があります』なんていわれるかもしれない。
「あはは」
なんかそんなことを考えていたら、笑えてしょうがない。
事実、お嬢様バカなのだから。
ならば。
「よいしょっと」
私はベッドから腰を上げると、準備をした。
「お嬢様バカならバカらしく、徹底してみますか」
私は工作道具を取り出した。
「……ゆみ、歩!」
誰かが、私をゆすっている。
私としてはもう少し眠っていたい。
昨日深夜まで作業していたのだ。
疲れて当然。
というわけで、もう少しだけ。
「……あと、十分だけ……」
「何を寝ぼけているの?」
その声で、私は目が覚めた。
「はっ!?」
目の前にはすこーし怒っているお嬢様。
時計を見ると8時を過ぎている。
「………」
これはもしかしなくても。
「も、申し訳ありません!!」
どう考えても寝坊だった。
「ホントよ。いつもの時間になっても部屋に来ないんだもの。心配にもなるわよ」
「本当に申し訳ありません!」
ああ、もう何たる失態。
主よりも早く起きてしかるべき執事なのに、その主に起こされるなんてもう執事失格。
もう泣きたい。
「……いいから、さっさと着替えて。それからいつものようにお願い。今日は時間が押しているんだから」
「はいっ」
お嬢様はそういって私の部屋を出て行かれた。
何たる失態。
穴があったら入りたい。
さらに石を入り口に置いてふさいで、今後十年は出られなくなるようにしてほしい。
いけない。そんなことを考えているヒマはない。
「……なにやってるんだろ。私」
その日は一日ブルーだった。
お昼。
なんとかお嬢様を送り出してからが大変だった。
まず、執事長からのきつーいきつーいお叱り。
「いいですか。執事が主に起こされるなんて前代未聞ですぞ!」
「申し訳ありません……」
お説教は小一時間続いた。
「過ぎたことを悔やんでも仕方がないか」
私は気持ちを切り替えて、仕事に取り掛かった。
そして、その合間をぬって昨晩の作業の続きをこなした。
「で、これはなに?」
お嬢様が不思議そうに、首をかしげた。
お嬢様がお帰りになられてから、しばらくたった後。
完成したそれをお嬢様に披露した。
しかし、それがなんなのかは伝わってないらしい。
「簡単に言うと、台車、ですね」
「台車?」
それでもまだ掴みきれていないらしい。
仕方ないので実演することにした。
「お嬢様、失礼します」
断りを入れて、私はお嬢様の巨大な胸の片方を持ち上げた。
「あん」
お嬢様が、小さい嬌声を上げる。
「すこしこちらへよってください」
「え?ええ」
お嬢様は言われるがままに、私のほうへよってきた。
私から見れば、巨大な胸がせまってくるので迫力がある。
人、3人は簡単に包み込めそうなほどの大きさなのだ。
「よっと」
私は、その持ち上げたお嬢様の胸の下に、例の台車を入れた。
重いものが乗っかった台車はすこし悲鳴を上げながらもお嬢様の胸を支えている。
「……ああ、そういうことね」
「ええ」
ようやく理解いただけたようである。
そう、コレはその巨大なおっぱいを乗せるための台車である。
お嬢様が普段から、その巨大さゆえに移動に多大な労力を費やしていることを重々理解していた。
そこでそれらを軽減できないか、と思って作り上げたのである。
まさしく、お嬢様バカの結晶。
我ながらいい出来だと思う。
若干、突貫で作ったため強度が不安だが。
「これ、なかなかいいわ。かなり楽よ」
お嬢様も気に入ってくれたようである。
「そうですか、よかったです」
私は安堵する。
「でも、わざわざ私のために作ってくれたの?」
「ええ、当然ですよ。普段から大変そうだったのでなにかできないかと」
お嬢様は笑顔を花咲かせた。
私は、いま確かに幸せである。
「ありがとう。大事に使わせてもらうわ」
「はい」
お嬢様が私のほうに近づこうとした瞬間。
それは起きた。
みし、っといういやーな音が部屋に響いた。
私はそれが何であるか気づく前に、それは一気に崩壊した。
「きゃあっ」
「お嬢様!?」
台車が予想以上の重量にくわえて、移動するときの力についに耐え切れなくなってしまった。
私の目の前でお嬢様は、突然の崩壊に受身を取ることも出来ずに前のめりに倒れてしまった。
一瞬の静寂。
「お、お嬢様!大丈夫ですか!?」
私はあわててお嬢様を抱き起こす。
「いたた……。ええ、なんとか大丈夫よ」
お嬢様は、私に微笑み返した。
「よかった」
私はほっと安堵した。
私の作ったもので、お嬢様が怪我でもされたら私はもうどうしたらいいか分からない。
死んでもわびきれないだろう。
「お嬢様、申し訳ありません……。あんなものを作ってしまったばかりに」
私は心から謝罪した。
「いえ、かまわないわ。それよりも、あなたがせっかく作ってくれたのに、壊してしまって、私のほうこそ謝らなければならないわ。ごめんなさい」
お嬢様は、申し訳なさそうに謝った。
「そんな、悪いのは私です」
私はいたたまれない気持ちになって目をそらした。
あんな中途半端のものを作ってしまった私が悪いのに。
調子に乗っていた私が悪いのに。
私は泣きそうになった
その時。
「何の騒ぎですかな?」
運悪く執事長が部屋に入ってきた。
「し、執事長!これは、その」
「なんでもないわ」
わたしが答える前に、お嬢様が答えた。
「しかし、先ほどものすごい音が聞こえました。お嬢様に何か起こったのではないか、と心配にもなります」
執事長はにらむように私を見た。
「なんでもないわ。ほらこのとおりに……いたっ」
お嬢様は立ち上がろうとして、突然またこけた。
どうやら、足をくじいてしまったようだ。
私はお嬢様を受け止めた。
「やはり。御神君。君がついていながらお嬢様を危険にさらすとは、なんたることですか!」
「も、申し訳ありません」
私はいたたまれなくなって、目元が熱くなるのを感じた。
「歩は悪くないって言っているでしょう!これは事故です!」
お嬢様は私をかばってくれている。
今はそれが逆に辛くて、かばわれるだけ哀しくなって、私はついに涙を流してしまった。
「いえ、これはさすがに見逃すわけにはいきません!御神君。君は今朝の失態、及び今回の件を見た上で言わせていただきます。」
執事長の口から、想像していた無情の一言が出た。
「御神君。君はクビです。今夜中に荷物をまとめておきなさい」
目の前が真っ暗になった。
そして現在。
私は自室にこもり、荷物をまとめている。
涙を流しながら。
ここの生活は、本当に天国のようだった。
楽しい毎日だった。
夢を見ているようだった。
ならば、夢から覚めるときがきたんだろう。
楽しいひと時はすぐに過ぎ去る。
私は無言で荷物をまとめた。