おとぎストーリー天使のしっぽ ルミの守護日記

美咲 作
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「ったく…本気でツイて無いな…」
 牧葉マモル(21才)。…実家は農家だとはいえ専業ではとてもやっては行けず、少しでも良い会社に就職しないといけない…と言うこともあり多少無理してでも都会の大学に通うことにした大学生。現在一人暮し、彼女イナイ暦21年…さらに記録更新中、バイトは…
つい1週間前にバイト先が倒産し、案の定給料は支払われなかった…
 そしてつい先ほど電車の中で財布を掏られた…なにしろ定期券は財布の中に入っていたのだ、電車に乗るときまでは確実にあった…というか電車をおりるとなぜかゴミ箱の上に自分の財布がおいてあった…定期券などの名前の入ったモノは足がつくのを嫌ってか残ってはいたがお金は全て消えていた。もしもあの時、急行電車に乗り換えようとした時に転んで乗り損ねなければ犯人がここに自分の財布を捨てていく現場を押さえることが出来たかもしれないのに…。
結局、警察に届けはしたものの取られたモノは現金だけ、不特定多数の人間に触られた可能性もあるために仮に財布に犯人の指紋がついていても証拠とするのは困難だろう…。
 結局警察に寄っている分遅くなり、いつもよりも暗くなった道を歩いて帰る。途中パン屋の店頭に『御自由にお持ち帰りください』と書かれた札の下がったかごからパンの耳が入った袋の最後の一つを手にして帰る…公園で鳩を餌付けするためのエサなどではなく自分が次の仕送りまでしのぐための貴重な栄養源と言うのがかなり悲しいものがあるのだが…

 部屋に帰ると、最小限だけ明かりをつけ…幸い仕送りの届く日は家賃や水道・電気・ガス代の引き落とし日寸前になるようにしてもらっているので料金未払いで止まることだけはなんとか回避出来ている…夕食を摂ろうとした時、誰かが玄関先でカチカチとチャイム(電池切れ)を押したが反応は無いので仕方なくドアをノックする。
『すみませ〜ん、マキバさんのお宅でしょうか?お届け物です〜』
 ノックの主は声からすると女性の様だった、俺はのぞき窓から配達員の姿を確認するとドアを開ける。
そこにはどこの宅配業者かは解らないが、ごく普通のつなぎ風の制服を着た長い黒髪の女性が小さな箱を手に立っていた。彼女は帽子を目深に被っていて荷物の上の伝票を確認していたためにはっきり顔は解らないが結構美人の部類に入りそうな女性だった。ただし俺の名前を読み間違えたのがマイナス点だ。
「マキバマモルさんですね?ここに判子をお願いいたします」
そう言って顔をあげた女性配達員をみて俺ははっと息を飲む、長く綺麗な黒髪、吸いこまれそうな金色の瞳、白く透き通るような肌、肌の色とは対称的な朱を帯び強い意思を感じさせるキュッと引き結んだ唇…野暮ったい配達員の制服に包まれていてなお凛としたオーラを感じさせる女性だった。
「わたくしの顔に何かついていますか?」
女性配達員さんの微笑ながらの一言に俺は一瞬で我に返る。判子を押そうと伝票を確認すると
なるほど受取人のところにふりがなが打っていない。これでは読み間違うのも無理は無いがここで名前が違うと文句を言ってもせっかく届いた荷物を確認のために会社にもう一度持って帰るなんて事になったら配達員さんにも迷惑だろうと考え、文句をいうのは思いとどめる。
「ハイ、それでは確かにお渡しいたしました」
配達員さんは伝票に押された判子を確認すると満面の笑みを浮かべて去って行った。

「えっと…荷物の中身はなんだろ?」
早速、『エンジェル便』という聞いたこともないサービス名の書かれた運送会社の伝票を見ると牛乳会社から発送されたことになっている。実家からの現金の仕送りとは別に物が送られてくることもあるが家族がメーカーに注文して直接届けさせたのかも…と思って包み紙を破ると予想通り中からギフト用の包装をされた箱が出てくる。
 箱を開けると中から出てきたのは…透明なプラスチックケースに入った人形だった。プラスチック製の『フイギュア』とか言う奴じゃなくゲームセンターにあるクレーンゲームの景品のぬいぐるみのようなタイプで、牛のきぐるみを着た女の子を模った人形だった…
…俺はそういうモノに興味が無いので何のキャラクターかよく解らないが、もしかするとその牛乳会社のマスコットキャラなのも知れない。ただぬいぐるみ自体は素人目に見てもただごとでは無い出来のよさだった…いや、バイト代も入らず財布を掏られてしまった後なので牛乳会社から荷物が届くのなら乳製品詰め合わせみたいな保存の利く食べ物だと凄くありがたかったんですが…俺は失望しながら伝票を再確認する。
伝票を見ると家族がメーカー直送でこちらに送ってくれたものではなく、どうやら懸賞の賞品…しかもダブルチャンス賞の賞品だったらしい…。
非売品ということなら欲しがる人はいるだろう…これをネットオークションに出品しようと考え夕食を摂った後とりあえず携帯のカメラで写真を何枚も撮影しておいた。

俺は大学内のパソコンから(貧乏学生の俺は自分のパソコンを持っていない)牛乳会社のHPも調べたがこちらで応募した懸賞のことは掲載されてはいたもののあの『ダブルチャンス賞』のことは何処にも載っていない…さらにいくつものネットオークションサイトにアクセスし思いつく限りのキーワードで検索してもあの正体不明のぬいぐるみは誰も出品していなかったので結局相場どころか正式名も解らないままだった。
「…結局、正体不明…か…」
俺はバイト先が潰れた事をうっかり失念したまま途中の駅で電車を降りてしまい、次の電車に揺られながら一人ごちた。さっきの電車を間違って降りなければそのまま座っていられたのに…と言う状況が徒労感を更に増幅する。
まぁ…ああ言う懸賞は『発表は賞品の発送をもって代えさせて頂きます』というのがセオリーだから、大半の人は自分が当選してないと言うことが判明するまではネットオークションで買おうとは思わない筈。そういう意味ではもう暫く待った方が良いのかもしれない…そんなことを考えながらいつも通りの車窓の風景を眺めていた…。

「あれ?俺…こいつを片付け忘れていたっけ?」
途中で買い物を済ませてアパートの自分の部屋に帰り、荷物を下ろそうとしているとなぜかテーブルの上に例のぬいぐるみが転がっていた。
ネットオークションで売ろうと考えている以上、なるべく傷つけない様に机の引出しに入れたと思っていたのだが…もしかすると写真撮影のあと片付け忘れていたのかもしれないと思い直し、ぬいぐるみを押し入れにしまってから夕飯の準備をすることにした。
いま買って来たばかりの食材から今夜の分以外を冷蔵庫にしまい、入れ替わりに買い置きの食材を取り出して料理を始めた。コンビニあたりで出来合いの弁当や惣菜を買った方が手間が掛からなくて良いのだがなにぶん財布を掏られた後なのであんまり金も無いし仕方ないことだ。
だが、料理をはじめていくらもしないうちに俺の背後で意味不明な…あえて言うと子犬の鳴き声のような女の子の短い悲鳴とドタッと言う何かが落ちるような音がほぼ同時に上がる。しかも音源は近い、ベランダやアパートの裏庭なんてものじゃない…ヘタすると俺の部屋の中だった様にすら聞こえた。俺が慌てて振り向くと俺の部屋の押入れの前に予期しないものが『落ちて』いた。
それは中学生ぐらいの女の子だった。何処かをぶつけたのか押し殺したようなうめき声を上げながら床にうずくまっていた。だが次の瞬間、俺の視線に気が付いたらしい少女はぱっと飛び起きなぜかそのまま床に正座する。

「御挨拶が遅れまして申し訳ありませんでした…わたくしメガミ様の命により貴方の身の回りのお世話をさせていただくことになった守護天使のルミと申します、以後お見知り置きを…」
少女はキチンと正座をしたままそう言って頭を下げた。
「……」
 奇妙な沈黙がこの場を包む。彼女は今、自分のことを『テンシ』って言ってなかったか?それに『メガミサマの命により』って…いやこうして床に座って頭を下げたために少女の背中が見えているけど、肩からずり落ちそうなだぶだぶの緑色のタンクトップに普通のジーンズを着た自称『天使』?なんだそりゃ??。あんまりといえばあんまりな少女の発言に俺は軽い頭痛を覚えてこめかみを押さえる…。
…俺が部屋に戻った時、鍵はちゃんと閉まっていたし窓も開いていない、もちろん誰かがあらかじめ侵入し中から鍵をかければ『密室』は簡単に出来あがるとは言え俺の部屋にはあらかじめ隠れておくような場所なんてトイレと風呂場、押し入れぐらいしかない。俺が少女を発見した状態はまさに『押入れの上段から転げ落ちた』としか思えないが、押し入れはさっき例のぬいぐるみを仕舞った時に開けているから少女が俺に気が付かれることなくそこに隠れていることは困難だったはずだ。まして押し入れの戸は閉まったまま…あえて解釈するなら少女が音も無く押入れを開閉しその後、何も無いところで盛大に転んだということになる。
たしかに普通では考えられない状態だがだからと言って少女の言葉を鵜呑みにすることは無理だ。
「『天使』って…」
「はい、わたくしは『めいどの世界』から派遣されてきた守護天使です」
そう言って顔を上げた少女は身長は140センチの半ばぐらい、美少女といえば美少女の部類に入るのだろうが今時の中学生にしては珍しくまったく染めたりはしていない長い黒髪を後ろでおさげにしている。だが一番目を引いたのはタンクトップの胸元から覗く豊かな双丘だった。先ほど少女の服を『ずり落ちそうな』と表現したがこれだけあれば肩紐がなくても充分に引っ掛かるだろう。俺は思わず生唾を飲み込んだ。昨日の配達員のお姉さんも配達員の制服ごしにもわかるほどの存在感を誇っていたが、あきらかにそれ以上。Eカップは確実に…もしかするとGぐらいあるのかも知れない。グラビアアイドルにはもっと凄いサイズの娘もいるが見た目中学生ぐらいの小柄な女の子にこのサイズのものが備わっていて、実物が目の前にいるとなればそのインパクトはかなりのものだ。
…ってそれどころじゃないだろ俺!!
「とはいえ、この格好では信じてもらえないのも仕方ないですよね…わたくしはやっと5級守護天使に昇格したばかりで特に術は使えませんし…」
そう言って少女は自分の身なりを確認して見せる。……つまりアレか…おそらくこの少女は家出娘かなんかなんだろう…戸締りの甘い家に侵入して金品を失敬して居たのかもしれないが運悪く見つかってしまったので適当な事を言って煙に巻くつもりなのだろう。流石にここまで無茶苦茶なウソをつくからには多少のことでは本当のことを話すつもりはないに違いない…。
「地上界の人間は天使の背中には翼があると信じられているそうですが…わたくし達守護天使は守護し仕えるべき人の周りに居る方々に怪しまれない様に普通の人間と同じ姿で生まれてくるんです…」

俺はこの状況を頭の中でなんとか整理しとりあえず一番現実的と思える解釈をした。俺は部屋に戻ったあとドアの鍵をかけ忘れた、電灯をあまりつけていなかったから少女は留守宅と勘違いして侵入し、俺がいるのに気がついて驚き押入れの前で転倒した…うん、そうに違いない。
昨日はスリに財布を掏られて今日は空巣未遂か…マジで不幸のオンパレードだな…俺は警察を呼ぼうか呼ぶまいか真剣に悩んだ。
そして出た結論が『少女を取り押さえるか自分が逃げるかして身の安全を確保してから通報する』だ、迂闊に少女の前で携帯電話を取り出したら通報されまいとして猛然と攻撃してくる可能性もある。携帯電話を隠して警察につなぎやり取りを聞かせ、それとなく場所を知らせる方法も有るが場所がここだと伝わるかどうか確実では無いし失敗すれば携帯電話ではここを逆探知してもらうまで時間が掛かる。それにこっちがしゃべらなくても警察の人からの応答が少女に聞こえれば携帯電話を隠していること自体無意味になる可能性があるのだからこれもあまりよろしく無い。だからと言って固定電話のところに行けば通報する前に気が付かれる確率は高い。
 問題はどうやってこちらの安全を確保するかだが…暫く少女の話しに付き合うフリをして隙をうかがうことにした。

「…と言うわけなんですよ…」
少女は俺が素直に話を聞くフリをすると意外なまでにおとなしく身の上話をはじめた。俺はその話の間、お茶を淹れると少女にそれとなく奨め続ける。それこそ無防備にトイレにでも行ってくれれば、あとは話は簡単だ、トイレのドアが開かない様にして閉じ込め、その間に警察を呼べば良い。最悪こっちがそれとなくトイレに篭れば、逃げられる可能性は出るが襲いかかられる心配無く通報できる。
しかし今思いついたでまかせにしては少女の話はよく出来ていた。少女の話を要約すると『守護天使』とは特定の人間を守護するために天界から派遣される天使で見た目には人間と全く変わらない肉体を持ち、守護対象となる人間に対して身の回りの世話なども含めてサポートする存在なのだと言う。そして少女はずっと昔から希望している派遣先があり天界の一部である『めいどの世界』と呼ばれるところで修行を続け、今回、ようやく地上界に派遣される事になったのだと言う。
少女の話しによると守護天使そのものの数は人間よりも遥かに少なく、さらに守護対象となる資格を持った人間は更に少ない。中には上級天使になりながらも一度も地上に行くことなく消滅してしまうものけして少なく無いらしい。
逆に守護天使が配属を希望している派遣先の人間が資格有りと認められた場合、守護天使の側の階級が低くとも地上行きを命じられるケースも有るのだそうだが、やっと5級に進級したばかりの彼女は幸運にも配属希望先の人間が守護天使を派遣される資格を持っていたために、まず1度別の人間のところで修行を兼ねての任務に就くことになったのだそうだ。運転免許における路上講習みたいなモノなんだろう。
「つまり、その『別の人間のところ』っていうのが俺な訳?」
「そうです、4年ほど前にわずか7才の下級天使が希望の派遣先に直接配属された…なんて言う例もありましたが彼女達は特例中の特例ですね」
少女は俺に奨められるままヤカンで淹れたストレートの紅茶を再び飲み干す。少し飲んだのを見計らってはそれとなく注ぎ足しているから少女は気がついていないかも知れないが既に1リットル以上飲んでいるはずだ。

この天使を自称するルミと言う少女は、俺が少女の話しを信じてなどいないことなど全く気が付いてないかのように振るまい、逃げたり、襲いかかってくるそぶりを全然見せなかった。もっともあれだけ無茶なホラ話を信じる超お人よしはそうそういるモノでも無いから、おそらくこっちの隙をそれとなく伺っているはずなので俺の方は気が抜けなかったのは確かだが。
気が付くと夜もかなり更けていた。俺は夕飯を作る準備をしていて、その途中に少女が乱入したわけだから当然なにも食べてはいない。ヤカンでまとめて淹れた紅茶も俺が飲んだのは最初の1杯だけだ。当然『俺の身の回りの世話』も任務だと言い張る少女は自分で夕飯を料理すると言いだしたが、俺はそれとなく少女を制する。
というか俺は少女のことを当然信用していない。フライパンや包丁なんかを持たせたらそれこそそれを凶器がわりに襲い掛かってくるかもしれないのだから。
だがついにこちらが待ち構えていた瞬間がやってきた。少女はもじもじしながらトイレを貸して欲しいと言いだしたのだ。このアパートのトイレの窓は小さく、全開してもとても人間が通りぬけることは出来ない。少女がトイレに入ればあとはドアの前にでも座りこんでドアを開かない様にして悠々と警察に通報し、引き渡すことができる。
いまのままだと窃盗未遂と不法侵入の現行犯程度で大して重い罪とはならないが好き好んで彼女に重い罰を与えたい訳では無い、迂闊に少女を刺激して危険な目に巻き込まれたくないだけだ。それこそ少女におとなしく家に帰るように説得しても逆ギレして刃物でも振りまわし出したらとんだ薮蛇だ。少女は俺の目論見に全く気が付かないのかノコノコと俺のあとをついてくる。
だが俺の計画はとんだ偶然で狂ってしまった。まず一発の雷鳴が鳴り響いた。しかも近い。少女は悲鳴を上げるヒマなく耳を押さえて怖がる…そして雨粒の音。雷とセットの夕立のような激しい雨だ…いや、霰まで混じっているかもしれない。安普請とまではいかないがそれでもベランダやらのプラスチックの波板なんかは霰混じりの雨の前にはとてつもなく派手な音をたてる。少女は脱兎のごとき勢いでベランダ側のガラス戸に向かって行き、ガラス戸を開けようとしてパニックに陥っている。
「こ…コレどうやって開けるんですか〜!!」
普通のサッシなのになぜか少女は鍵に気が付かないらしく必死になってガラス戸を開けようとしていた…まさか『今日はじめて地上に降りてきた天使なのでガラス戸の開け方も解らない』と言う設定でも演じているんだろうか?。俺は思わずかぶりを振る。
「君…なにやっているんだ?」
「こんなに激しい雨ですよ!?洪水が来たら溺れちゃいます!!」
「は?」
少女の口から出た意外な言葉に俺は目が点になる。ここら一帯には水が溢れるような川なんて近くには無いし、そもそもこのアパートはやや高台に建っている…いま降りはじめたような程度の雨で避難する必要なんて全く無い。パニックを起したフリをして窓から逃げるつもりだったのかもしれないがここは2階だ、飛び降りて飛び降りれない事も無いがこの雨の中を裸足で逃げるのは辛いはずだ。
だがベランダの柵を乗り越えるつもりなら取り押さえる隙は出来る。とっさにそこまで判断すると俺は無言のままガラス戸を開けた。
「……」
ベランダに飛び出した少女は目を見開いて硬直し、呆然と口を開く。
「ここ…2階だったんですね…しかもこんなに高いところ…」
少女の言葉に俺は内心拍手すらしそうになった。少女の言う『メガミサマ』とやらが自分を俺の部屋の中に出現させたからここがどんな場所かも知らなかった…という設定を演じているんだろう。
「こんな場所なら水なんて来ませんよね…あんまり雨の音が激しかったんで取り乱しちゃって…」
少女はほっと胸をなでおろすと再び俺の部屋に入ってきた。いくらちょっとした屋根のついたベランダとは言え雷を伴う激しい雨、手すりから身を乗り出さんばかりにしていた少女は吹きこんだ雨だけでもあちこちが濡れていた。
次の瞬間また稲妻が光る、その光と雨をバックにこちらを向く少女を見たときなぜか俺は妙な既視感を覚えた。彼女とは昔に何処かで会った…いや、頻繁に会っていたような気もしなくも無いのだがどうにも思い出すことが出来ない。だがそれも一瞬のこと、俺はその感覚を気のせいだと思うことにした。

俺はタオルを取り出し少女に渡すと、すっかり冷たくなってしまった紅茶のお代わりを淹れ始めた…もっともヤカン1つにさっきに使ったティーバッグ2つと新しいパック1つだけいれての貧乏くさいシロモノだが。
結局俺はあのあと何を動転していたのか少女をベランダやトイレに閉じ込めてその間に警察に連絡する…と言う計画のことをすっかり失念していたことに気が付いた。
少女の唐突の行動に奇妙なリアリティを感じてしまったことも原因だったのかもしれない。もちろん『シュゴテンシ』とやらの任務がどうのといった話しは全くのウソにせよ、雨の音に対する怖がり方はとても演技とは思えなかったのだ。俺だって出来れば大事にはしたくない、何か言いたくない事情が有ったにせよ、暫く話を聞いてやれば少女もおとなしく家に帰ってくれるのではないかと思えたからだ…いくらこっちが巻きこまれた側だとは言え2日続けて警察で事情聴取…しかも今回は盗られたものも無いのに…なんて言うのはまっぴらゴメン…と言う部分が本音だが。
 少女の話しを要約するとこうだ。昔に家の中から逃げる間もなく洪水に遭い危うく死にかけたことがあり、今の強い雨が屋根に当たる音でその時のことを思い出してしまった…のだと言う。もちろん彼女が今まで生きてきた間に強い雨が降ったことなんて何度もあったわけだが、トタンや波板の薄い屋根と霰混じりの激しい雨…と言う組み合わせが彼女の奥底の記憶を呼び起こしてしまったんだろうと思う。

 洪水なら俺も一応は人事ではなかった。俺が昔に住んでいた地域で14年前の夏に実際に洪水が起こり避難したことがあった…その時外の嵐に怯えて家から出ようとしなかった自分を近所に住む高校生のお姉さんが連れ出そうとした…その時のお姉さんは俺が高校になるかなら無いかの頃にお嫁に行ってしまったわけだが…。
「もしもあの時ミチルさんとマモルの二人が家の扉を開けておいてくれていなければ、わたし・・きっとそのまま溺れ死んでたと思います…」
「…みちる…さんとマモル…?」
 不意に少女の口から出た名前に俺はつい怪訝な表情になった。たしか…近所のお姉さんの名前は…
「ええ…マモルさんって…もしかしてマキハ…マモルさん!?」
「ああ、確かに俺はマキハマモルだ」
「…マキバって呼ばれると怒るマモル?」
そう…俺の姓はマキハと読むのだがたいていの人がマキバと読んでしまう…昨日の配達員さんのように…。
次の瞬間、少女は何を感極まったのか大粒の涙を流しはじめる。
「まさか…貴方だったなんて…14年間ずっとこの日が来るのを待っていたんです!!わたしはルミです!!」
「いや、キミの名前がルミだってのはさっきに聞いているけど…」
「14年前に貴方に助けて貰った牛のルミです!!」
俺は少女の言葉を一瞬理解できず呆然となる…
「馬鹿なことを言うな!!ルミはあのあと…」
「ええ、洪水で溺れ死ぬことは免れましたが、あの時に風邪をひいてしまって…皆さんも一生懸命看病してくださいましたが結局は…」
確かに14年前の洪水の時、みちる姉さんに引っ張られ彼女の家でやっている牛舎から鶏や犬たち、そして牛を避難させる手伝いをした、確かにいつ水が川から溢れてくるかもしれないと言う恐怖は有ったが、自分よりも遥かに小さく、自力では逃げられるはずも無い鶏や兎たちを助けるのは彼らよりも強いはずの自分の役目だと心に決めていたからだ。
だけどどうしても1頭分、牛をトラックに積むスペースが足りなかった…大人達は仕方なく牛舎の中で一番年かさで乳の出も悪くなっていた1頭をそのままにして行く事を選んだのだ。いくらおとなしい年老いた牛とは言え水に驚いて近所を走り回ったりすれば大変なことになる…可哀想なこととは解っていてもその1頭はしっかりと柵に繋がれたままにされたのだ。
「馬鹿にするな!!…いったいなんの目的があって僕に家に来たのかは知らないし、どこでそんな事まで調べたのかは知らないけど…ルミのことを馬鹿にするようなことはやめろ!」
「でも…」
「でももヘチマも無い!ルミは僕らのことを恨みこそすれ『助けて貰った』なんて言うはずはない…」
 そう、ルミを置き去りにしたのは…結果的に死因となったのは風邪だったとは言え…殺したのは他ならぬ俺たちなのだ。
「当時は皆さんのことを恨みもしました…でも今では仕方ないことだとは解っています…少なくともあの頃のわたしが水に動転して暴れたりすれば周りの人達にどれだけの迷惑が掛かるのか…マモルさんが大人の人達に黙ってロープを緩めたり裏口を開けておいて頂けなければわたしはその時に死んでいたはずです」
「……」
この少女が、俺が14年前に助けた乳牛のルミだとと言う話しには驚くのを通り越して呆れるしか無かった。確かに俺の住んでいた地域で14年前に洪水があったことは調べられるし、そのときに俺が近所の牛舎の避難を手伝っていたこととそこに飼われていた牛が1頭だけ死んでしまったことなんかも元従業員あたりを根気よく聞きこみをすれば調べられなくも無い。
なぜそこまでして調べるのか…と言う目的自体が意味不明だが調べた事柄をいろいろと脚色すればここまでのホラ話は作って作れないことも無いはずだ。

自分が牛だと称する少女は不意に俺に近づき胸に頬を寄せる…少女の年齢に不釣合いなたわわな双丘が俺の体に押し付けられ、それの圧力に耐え兼ねた様に頭に血が上る。
「逆に…なっちゃいましたね…いまはマモルさんのほうがわたしよりずっと大きくなってて…わたしの方からマモルさんのところに行くことになっちゃいましたけど…」
少女の腕が俺の腰に回されその圧力が一層に増す。
「私が死んで14年も経ったのに…あの頃の夢をまだ諦めてなかったんですね…」
『あの頃の夢』?…少女の意味不明な言葉に限界寸前だった精神に一筋の醒めた部分が蘇る。
「あの頃のマモルさん『日本一のパン屋さんになる』って時々わたしの前で言ってましたよね…さっきお茶を取り出したの流し台の下の中身…たくさんの小麦粉と机の上に置かれたラップのかかったボールの中の生地…アレ、作りかけのパンですよね?」
「…」
俺は少女の…いやルミの表情を無言のまま見つめる。ルミの黒目がちな清んだ瞳はそのまままっすぐ俺を見つめ返している。
…俺の家は農家だ、しかもコメ作り専門の…当然そこの一人息子である俺が完璧な商売敵とも言うべき『パン屋になりたい』なんて言う筈はどう考えても無い。少なくともどこをどう調べてもそんな事を言っていた証拠なんて残って無いはずだ。
だが俺は確かに、ルミの前でだけそれを何度か言ったことがある。パンには牛乳が付き物だ、美味しいパンがたくさん売れれば当然牛乳もたくさん売れる。そうすればみちる姉さんやここの牛たちも…そんな事を小さい頃の短絡思考で口にしたことがあったんだ。
もちろんいままでそのことを覚えていたわけではない、あの流しの下の小麦粉も発酵中の生地も単にパンを買うお金を少しでも節約しようとしての行動だ。
俺にはこの少女が14年前に近所で飼われていた牛だと言うとんでもない話しを事実として受け入れることを観念せざるを得なかった。
「ルミ…キミは本当にルミさんだったんだ…」
「だからそうだって言ってるじゃないですか!」
ルミは頬をぷっと膨らませながらそっぽを向く、俺に押し当てられたルミの乳房はたったそれだけの動きにも対応して心地よい弾力を伝えてくる。ルミの顔をよく見ようとすれば当然そのすぐそばの心地よい感触の源となる二つのものが容赦無く視界に飛びこんでしまう。
「…そう言われてもいまのキミの姿からあの頃のルミさんを想像するなんて不可能だよ…」
このままの状態が続けば目の前の少女を欲望のままに押し倒しかねない気がして俺は思わずルミから視線をはずし、天井を仰ぐ。
「…わたしも、あの頃のマモルからいまのマモルさんを想像することなんて出来ませんでしたからおあいこです…折角メガミ様が守護天使として仕えるべき『ご主人様』をわたしの希望通りマモルさんにして頂いていたのにそれに気が付かなくて…」
その時、俺の腹の虫が盛大に鳴いた…なにしろ昼食のあとは、スーパーでの買い物の途中で試食品をつまんだぐらいで、あとはミルクも砂糖も入れて無いストレートの紅茶1杯きりしか口にしていなかったのだから無理も無い話では有ったんだが…。

改めて俺たちは夕飯の準備をはじめた。当然ルミは『ご主人様の日頃の食事の支度は守護天使の任務の一つ』だと主張するが、ルミがさっきガラス戸の開け方を知らなかったのを見ている以上、先ほどとは別の意味で目が離せないと考えた俺は、ベランダに飛び出して濡れてしまったルミに、とりあえず先にシャワーを浴びる様に言って、一人で下準備を先にはじめることにした。
もちろん、シャワーの使いかたはざっとだが説明したし、シャワーの水音を確認してからルミの服を乾燥機に入れるのも忘れない。幸いにも濡れてしまった服はジーンズとタンクトップと靴下程度、脱いで籠にいれてしまえば男物とさほど見た目に違いは無いから大して気にせずに乾燥機に入れることが出来た。
だが料理をするルミの手つきはこっちの予想以上に見事だった。ルミ自身の言葉を借りれば当然の話しらしい…守護天使は、最初は魂だけのまま長い長い夢を見せられそこで人間と同じ生活を体験し、動物としての記憶はその間何年もかけて徐々に取り戻し天使の心と一つになるのだと言う、それを終えると天使としての肉体を与えられ、今度は他の天使たちとともにいつかに地上に派遣される日を信じて修行を積むのだそうだ。
ご主人様の身の回り世話が大事な任務の一つである以上、ある程度の家事能力かないと地上界に派遣されることは基本的に無いらしい。だから俺は彼女の分担している作業に必要な器具や材料がどこにあるのか指示したりする程度で充分だったのだ。

かなり遅くなってしまった夕食を終え洗い物を片付けたあと、ルミはいそいそと布団を敷き始めた。ここで俺はとんでもないことに気が付く、貧乏学生の俺は布団を一組しかもっていない。もちろん冬用の掛け布団や毛布は押入れにしまわれているが、肝心の敷き布団は1つきり、もちろんそれらを総動員すれば二人がとりあえず眠ることは出来るだろう、問題は俺の理性が持つかどうか…。
俺の様子にルミも状況をそれとなく察してくれた…確かに昔のルミを俺は家族の様にすら感じていたが、今のルミは13才の少女。子供と言えば子供なのだがその肢体は充分以上に『女』を感じさせるところまで育ってしまっている。ましてルミは意識していなかったとは言え先ほどその豊かな乳房を俺に何度も俺に押しつけてきていたのだから、正直このまま一緒に寝たりしたらどうなるか火を見るより明らかだろう。
「それではご主人様、わたしは台所の方で休ませていただきますので、お気になさらずお休みください…」
ルミは毛布と枕代わりの座布団を手に台所の方へ向かおうとする。だけどその後姿を見たとき俺はそのままルミが消えてしまうようなどうしようも無い不安を感じた。
「行くな…ルミ」
「え?」
「そのまま行ったらキミがまたどこかに行ってしまうような気がしてしまうんだ…」
「ご主人様…」
ルミは俺をそっとその胸に抱き寄せる。ルミの豊かな乳房に俺は幼子の様に顔を埋める。懐かしく甘い香りが漂ったような気がした。
「大丈夫です…ご主人様…わたしは…ずっとご主人様のそばにいます…ずっと…」

「憑きましたわね…と言ったところですわね」
牧葉 護の住むアパートのそばの物影に立つ一人の人影…深夜にもかかわらず普通のつなぎ風の運送会社のものらしき制服を着た長い黒髪の女性が立っていた。目深に被っていた帽子を脱ぎ捨てると吸いこまれそうな金色の瞳、白く透き通るような肌、肌の色とは対称的な朱を帯び強い意思を感じさせるキュッと引き結んだ唇が印象的な美女がその姿をあらわす。帽子は風に溶けるように消え、その手の中で水晶球を抱いた一振りの杖となった。
「ルミ…これからも頑張ってくださいね…」
黒髪の美女がマモルたちの部屋を微笑みながら一瞥すると、いつのまにか美女は配達員の制服から白い和服のような装束に変化していた…その背中に浮かぶ二つの赤い宝珠から光り輝く翼を広げ、宙に舞うとその姿はかすかな輝きを残しかき消す様に消えた。

<第1話 了>