新生活 第1週

瑠奈 作
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 春。世間一般的に新生活が始まる季節。

「……と言っても社会人4年目にとっては関係なし、と」

 一人ごちながら、自宅である大石と表札の下がったアパートを後にして会社へ向かう。
 そういえば、とアパートのお隣さんに目をやる。ドアの脇には真新しいポストが掛けられている。
 ……隣に人が入ってから一週間経つが、まだ一度も顔を会わせていないなぁ。
 まあ仕事で夜遅くから朝までしか家にいないし、タイミングもあるんだろうと階段を降りていった。
 徒歩で通える会社へ、始業時間15分前に出勤しデスクのPCを起動。少し待てばメールソフトに新着の表記がポップアップする。

『朝礼資料の送付』
『社用車の使用連絡』
『新入社員の連絡』

「……お? 新入社員いるのか」

 先週までは特に連絡もなかったが、外回りしている間に面接でもしていたのだろうか。
 メールをダブルクリックし、本文を開く。

『4月1日付で、以下の方が本社へ正社員として入社されます。

 山梨 望

 朝礼にて正式に紹介しますので、よろしくお願い致します。』

「……のぞむ? のぞみ?」

 ふり仮名がなく性別も判断できないが、まあ紹介の時に分かるだろう。

「おはよう、大石」

 そう言って俺の肩を叩いてきたのは、直接の上司である課長だ。

「おはようございます、課長」
「おう。新入社員のメール見たか?」
「はい。いつの間にか面接とかしてたんですね」
「あー、外回り中でいなかったか?」

 課長はまあいいや、と肩を竦めながら話を続ける。

「それでだな、新入社員の研修なんだが……お前面倒見てくれないか?」
「え、自分ですか? まあ今日明日だけ忙しいですけど、それ以降なら」
「まあ最初の数日は書類やら新入社員向けの資料読んでもらうのが主だから、多分平気だろう。じゃあ任せたぞ」

 そういって課長は自分のデスクに戻ると、全体へ招集をかける。

「おはよう。メールでも連絡したが、今年の新入社員を紹介する。山梨さん、どうぞ」

「――はい」

 聞こえてきたのは女性の声。

 ……ああ、じゃあ読みはのぞみが正解……か?

 答え合わせをしていた思考が、目の前の光景に凍結した。
 女性――山梨さんの身長は自分より頭1つ分下、……160cm程度だろうか。
 黒縁の眼鏡をかけて、少したれ目なのが柔和そうな印象を与える。
 肩までストレートに伸びた黒髪と相まって、どこか日本人形のような雰囲気だ。
 しかし、それらを吹き飛ばすようなインパクトを持っているのが巨大な胸だ。
 横幅は身体のそれより広く、奥行きも彼女のリーチより深いのではないだろうか。
 上着も大きめのサイズを選んでいるのだろう。が、留めているボタンもホールが変形するくらいギリギリだ。
 左胸のポケットも斜め前方を向いており、胸で張りつめたそれはおそらく名刺1枚も入らないだろう。
 そのような体型に自分含め、周囲一同が硬直していると課長が口を開いた。

「最初の3ヶ月、君の研修のとりまとめを担当するのはそこの大石くんだ。大石、頼んだぞ」
「――え、あ、はい」

 こちらが返事をすると、山梨さんはこちらへ向き直りながらゆっくりとお辞儀をした。
 それだけで胸がワンテンポ遅れて揺れ、ボタンホールに余計な負荷がかかっているようだ。

「大石さん、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく……」

 その後はと言うと、ほとんど仕事にならなかった。
 何せ机に座れば胸が載り、PCの画面が見えないのはもちろん物を置くこともできない程にスペースを占有してしまう。
 大石さんは胸を机の下に入れようとしていたが、袖に付いている引出しが邪魔で入りきらない上に、無理矢理詰め込んだものだからちょっと動いた拍子に机が持ち上がってしまう。
 結局、袖のない机を倉庫から引っ張り出したり、他にも色々と準備をしている間に半日が過ぎてしまった結果、

「課長、今日俺遅いんで、戸締りしていきますよ」
「お、そうか。じゃあ頼んだぞ」

 そんなやり取りしつつ、俺以外で唯一残業していた課長が帰り支度を始める。
 課長は上着と鞄を手に俺の横まで来て、

「大石、山梨さんのことだがな……」
「はい? あの子がどうしました?」

 ディスプレイを見たまま、データを打ち込みながら話を促す。

「……襲うなよ?」
「……俺そんなに危なそうに見えます?」

 さすがに入力の手を止めて、課長に向き直る。
 課長は胸の前あたりを手で虚空をかきながら、

「馬っ鹿お前、あれだぞ? バイーン! バイーン!」
「はっはっは、深夜だからってテンション上がってますね課長。そういう課長はどうなんですか」
「俺ぁ女は妻で間に合ってる……!」

 さいですか、とディスプレイに視線を戻して作業再開。
 課長は課長で本気というわけでもないのか、お疲れ様と一言残してオフィスを後にした。

「……まあ、確かにすごいわなぁ」

 誰もいないオフィスで呟き、日中の光景を思い出す。
 それから1時間ほどして、ようやくキリの良いところになったので作業を切り上げ、家路につく。

「……日付変わる前には寝れるかな」

 腕時計を見ながら街灯しか明りのない道を歩いていると、やがて家が見えてくる。
 2階に上がり、4部屋ある内から奥から2番目のドアを開ける。奥の新しい入居者はもう寝ているのか、明かりはない。

「ただいまー、おかえりー……と一人二役」

 言いながら玄関口で靴を脱いでいると、突然視界が暗くなった。
 今、自室は当然真っ暗で、光源は廊下側の電灯のみだ。つまり、

 ……後ろに何か「ただいまー!」

 振り返ると同時、やたらに元気な女性の声と共に何かやわらかい物が顔面にぶつかった。
 な、と言う間もなくそのまま仰向けに倒れ、派手に物を落としたような重い音と、それに相応しい重量が身体を襲う。
 顔から胸あたりまでが柔らかい物に包まれ、隙間なく密着して温もりをこちらへ伝えてくる。

「うえっへっへっへ、ねえ聞いてよ〜。今日新人歓迎会やってもらってさ〜」

 だらしない笑い声がくぐもって聞こえるが、鼻や口をふさがれているこちらはそれどころではない。
 呼吸を確保するために腕でもがこうとするが、肘までが何かにのしかかられているために身動きも取れない。
 酸欠で徐々に意識が薄れ始めたところで、別の声が玄関から飛び込んできた。

「ちょっとカナエ! 何やっているのよ!」

 怒気と焦りを含んだ声と共に、自分の上にのしかかっていた人物が横に転がるようにどいた。
 酸素と再会できた喜びに浸るように、は、と大きく息を吸う。目の前はチカチカと瞬いて、頭は血液が全力疾走して鈍痛を引き起こしている。

「すいません、大丈夫ですか……って、え!?」
「はあ、まあ大丈夫です……が?」

 徐々に回復した視界の中、こちらを覗き込むように身を乗り出しているのは、

「……山梨さん?」

 言葉通りの人物――山梨さんが自分の横で座りこみ、胸は床に接地していた。
 服装は薄桃色の……ネグリジェ? に薄手のカーディガンを羽織っている。
 ボタンは留めていないが、仮に留めようとしても生地が足りないように見える。

「すいません、妹が迷惑をかけまして……」
「……妹さん?」

 こちらが首をかしげると山梨さんは視線を上げ、上半身を起こした自分の肩越しを見ていた。
 振り返るとそこには、

「……うおぉ」

 思わず感嘆が漏れるほどに、すさまじい体格の女性が横たわっていた。
 身長は横になっているのではっきりとはわからないが、明らかに自分より頭一つ分上……2m以上はあるだろう。
 口を大きく開けた顔は朱に染まっているが、どことなく山梨さんに雰囲気が似ている。
 そして山梨さんに負けないほどの大きさを誇る胸が、仰向けになっているにも関わらず真上を向いてその存在を主張している。

「……妹さん?」
「はい。私より大きいですが、一応」

 自分のまんまな問いに、少し苦笑を含んだ声色で山梨さんが応える。

「そういえば、……どうして山梨さんがここに?」

 ようやく意識がはっきりしてきて、最初に浮かんだ疑問を率直に向けた。
 山梨さんは一瞬きょとん、と目を丸くすると口の端を上げ、

「――ご挨拶が遅れました。この春より隣に住むことになりました、山梨望といいます。よろしくお願いします」
「お、お隣さん?」

 ……どうやら、社会人4年目にして新生活が始まるらしい。