化学のチカラ その2

せい 作
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「・・・ん、んぅ・・・・・」

一度徹夜を経験すると、脳が変に興奮しているのかなかなか寝付けなくなってしまうのは別に何もおかしい事では無かった。
あの後、何とかベッドに入ったはいいものの、眠りが浅く何度も起きてしまい、今ではなかなか眠ることすらかなわなくなってしまった。

「はぁ・・・喉乾いた・・・」

チラと枕元の小さな台を見ても、お茶はおろか水すら切らしていた。

「あぁっ、もう・・・」

イライラしながらも、私は水を求めて寝室を出る。
先程横目で見た時計は昼過ぎを示していた。もう少ししたら沙紀と由利の二人も来るだろう。


「はぁ・・・・・あら?」

再度溜め息をついて扉を開けると

「んぇ?あっ・・・」

一日ぶりに見た少年が、研究室の中の器具で遊んでいた。
今までその気配は見て来たのだが、実際に現行犯の現場を見るのは初めてで、私だけでは無く少年も動きをピタリと止めていた。

「あ、う・・・あ・・・」

どうしたらいいか分からず混乱しているのだろう。少年は両手に彼の体の大きさにはまるで似合わないフラスコを持って、俯いてしまう。
怒られると思ったのだろうか・・・いや、まぁ怒りはするだろうけど、流石にそこまで激しくは・・・出しっぱなしにしていた私も悪いし・・・


「・・・ん?ああっ!!」

だが、彼の手にあるフラスコをよく見た途端、そうも言えない事態になった。

「優太っ!!あなたそれ、全部飲んじゃったの!?」

「ひぅっ!!ご、ごめんなさいごめんなさいっ!!朱音さんっ!!」

彼の手にあった物、それは中身がすっかり空になった大きなフラスコ。
しかも両手。少なくとも2本は飲んでしまっている。

「なんてこと・・・どれっ!どれを飲んだの!?」

優太の謝罪など聞く耳持たず、机の上の状況を確認した。


寝る前には机の上に4本のフラスコが置いてあった。
それはどれも色が違うもので、まあ確かにジュースのような色をしている物もあった。沙紀に頼まれた薬なんかはピンク色だったし。
中でも一際大きいフラスコには、例の『母性が湧いてくる』だとかの薬を入れていたはず。

「・・・あ、あった・・・・・」

それは流石に飲みきれないと思ったのか、はたまた色が緑色で美味しそうでは無かったからか、彼のイタズラの被害にはあっていない様子で、机の上に置かれていた。


だが、その隣には一つの空のフラスコ。
彼の両手にあるフラスコと合わせて三つ。


(と、いうことは・・・!!)


彼が飲んだであろう薬品の中には人間に対して効果が強すぎるものが多い・・・というかほとんどがそうだ。
それを全て飲んでしまったとなると、どんな効果が出るか分かったものではない。

私は怒りや焦りなどがない交ぜになった心境で、彼の元へと近寄った。


「いつ!?いつ飲んだの!?」

飲んでからそう経っていないのなら、今すぐ吐かせてやれば効果がさほど定着しない可能性がある。
せいぜい5分くらいの猶予ではあったが、今はそれに縋るしかなかった。


「あうぅ・・・ごめんな、さい・・・」

「いいから答えてっ!!いつ飲んだの!?」

かなり怒られると思ったのだろう。優太はクリクリした可愛らしい瞳を潤ませ始める。
だが、それすらも気にしていられない。事は一刻を争うことで・・・


「う、っく・・・ひっぐ・・・・・丁度12の所ぐらい・・・」

12の所・・・時計の事を言っているのだろう。
丁度正午になる時ぐらいに飲んだということなのだとしたら

(・・・もはや完全に薬が体に定着してもおかしくないわね・・・・・)

手遅れだった。もはやどうしようもない。

つまり今彼の体には『成長を止める薬』と『母乳のみで生きていけるようになる薬』と・・・


「・・・ねぇ、朱音さん。」

「なによ、今・・・いそが・・・し・・・・・」

考えている最中に話しかけられ、反射的に『彼の方を向いた』。


その瞬間


――――・・・ドクンッ!


いきなり心臓が掴まれたかのような感覚に陥る。
その時、自分がしてしまった行為を今更ながらに思い出した。


(あっ・・・し、しまった!!!)


彼はあの『惚れ薬』を飲んでいるのである。しかもあれだけ濃いのを全部。
そして、その効果の発動条件は『目が合うこと』。

私は彼の目を見つめながら、その事を順に思い出していた。



「・・・?どうしたの?朱音さん。」

「あ、う・・・・・うぁっ・・・」

――――ドクンッ、ドクンッ!

心臓が跳ねる。それと同時に体中の血液がものすごいスピードで循環しているのか、段々と火照ってくる。
そして、『それ』は決して抑えられるものでは無く、むしろ自分の行動を縛りつけるように膨らんでいく。


(こんなのって・・・ダメ、ダメよ!!優太は私が拾った子で・・・)


頭では必死に否定するも、心はある感情で埋め尽くされていく。



『好き。』



一度火がついたら、もう何をされようとも消えることのない炎。
脳髄が焼け焦げそうな感覚に、酩酊感すら覚える。


(ダメ、ダメダメダメッ!!私が作った薬に私がかかってどうするの!!)


何度も何度も理性が警鐘を鳴らす。


だが、皮肉なことに

小山 朱音は化学において天才だった。




(ダメ、ダメ・・・ダメ・・・・・なの?どうして?私、優太のこと・・・好き?)

彼女が作った薬は、まるで彼女の才能を証明するかのように、彼女自身の心を蝕んでいく。
理性を押し流すほど膨大な量の感情が、頭に、脳に、心に流れ込んでくる。

(好き・・・なのかな。嫌いじゃないでしょ?あ、あれ・・・なんで今まで気づかなかったの?)


「朱音さん?どうしたの、ねぇ?」

心配して覗きこんできた少年の顔。
本来ならそこで正気を取り戻して普段のように戻るのが定石だが、今となってはその『心配してくれる』ということすら愛おしく感じてきて、さらに心が燃え上がる。

(優太、心配してくれてる・・・優しい。かわいい・・・優しくてかわいい優太・・・)


一度理性が押され、心の鎧にヒビが入ると、あとはもう一瞬の出来事だった。


(なん、で・・・優太、好き。あぁ・・・好き。好き好き好き!好きぃ!!大好きぃぃぃ!!!!)



処理しきれないほど膨大な量の感情が脳に押し寄せ、正常な判断が鈍っていく。
そのせいでさらに『好き』という感情が押し寄せ・・・負の連鎖、いや、正の連鎖かもしれないものが始まっていく。


(もうダメ、我慢できない・・・この子は、優太は私の・・・私だけの・・・)

ハァ、ハァ・・・とまるで正気とは思えない息遣いに、真っ赤になった頬。
瞳は虚ろで、目の前の少年しか捉えていない。


それを何と勘違いしたのか、今度は少年の方が行動に出た。


「朱音さん・・・どこか痛いの?どうしよう・・・・・そ、そうだ!」

優太は両手のフラスコを机に置くと、少し移動して


「・・・っしょ!これ、飲んで落ち着いて?たくさんあるから・・・全部飲んだらきっと落ち着くよ。」

机の上の最後のフラスコに手を伸ばす。
華奢な彼の腕では上手く持ちあげられないらしく、なんとかズラす程度しか動いていない。


だが、そんなことはどうでもいい。今はただ、優太の話を聞いて、優太を安心させてやって・・・



「そ、れ・・・飲むの?全部・・・?」

頭がぼーっとする。もう何が何だか分からない。
ただ、優太がそう言うから正しいのだろう。

「うん。全部。きっと落ち着くから。」

「・・・わか・・・・・た。」


頭の隅に何か違和感がある。
それは残った理性なのだろうか・・・私を止めて・・・母性?濃度?分からない・・・
目の前にある大量の液体が、もはやどんなものなのか・・・思い出せないし、思い出す必要も無い。


「・・・んっ」

両手でしっかりとフラスコを掴む。
優太に勧められたそれは緑色で、普通は飲みたくないが、彼に言われると最高の甘露のようにも思える。
匂いはかなりきつい。何かの薬品だろうか?・・・まぁ、どうでもいい。


私は、優太に言われるままそのフラスコに口を近づけ



「・・・ゴクッ・・・・・ゴクッ・・・・・ゴクッ・・・・・・・」

一気に飲み干していく。
一口飲むごとに、体が・・・胸の奥がポカポカと温かくなるようで、なんとも心地良い。
ただ、これを全て飲み終わる頃に、私がどうなっているかは分からない。


「ゴクッ・・・ゴクッ・・・ゴクッ、ゴクッ、ゴクッゴクッゴクッゴクゴクゴク・・・」

盛大に音を鳴らしながら、次々嚥下していく。
飲むたびに揺さぶられる心。それはまるで私の価値観であるとか・・・とにかく全てをごっそり変えるような気がして


「ゴク、ゴクッゴ、ク・・・ック・・・・・っぷぁ。」

全てを飲み干し、笑顔の少年を見つめた瞬間




「ふぁ・・・あ、ああっ・・・・・あはぁぁぁぁぁ〜」





私を取り巻く『世界』は変わった。












「・・・あ、あの〜・・・・・」

「ん?なぁに?優くん。」


ここは私の寝室『だった』。
今は『私と優くんの愛の巣』のようなものだ。うん、今決めた。


「えっと・・・いつまでこうしてるつもりですか?」

ベッドの端に座った私の膝の上に乗った優くんが首だけを後ろに向けて、私の顔を見つめてくる。

「ん〜? いつまでも、だよ?」

そう答えると、また優くんが困った顔に。どうしてかしら?誰が優くんを困らせてるの?誰?誰誰?他の女?
他の女・・・許さない。もしそうなら・・・私のかわいいかわいい優くんを困らせる女がいるなら絶対に許さない。
男でも許さない。優くんは私だけの優くんで、私は優くんだけの私。


「いつまでもって・・・朱音さん?」

その言葉に、ちょっとムッとする。

「もぉ・・・だから、ちゃんと『ママ』って呼んで?じゃないと、拗ねちゃうからね?」

『朱音さん』だなんて嫌だ。私は優くんの『お母さん』なんですもの。
母親は一人だけ。私だけ。優くんのお母さんは私だけ。
なのに、なんで昨日まで私はそれに気づかなかったんだろう。なんでわざわざ『朱音さん』だなんて呼ばせて・・・本当にバカ。


「い・・・言わなきゃダメですか?」

「うん。ダメ。それに、そんな他人行儀にしないで?私はあなたの『お母さん』なんだから。ね?」

さぁ、言って!私のこと、早く『ママ』って呼んで!


「・・・・・ま、ママ・・・」

「ふぁ・・・はふぁぁぁ・・・ なぁに?優くぅん♪」

あぁっ・・・コレ、すごい・・・『ママ』って呼ばれるの、すごいぃ・・・
もっと呼んで欲しい・・・私に、もっともっと甘えて欲しい・・・


「ねぇ、優くん?これからは、困ったことがあったら何でもママに言ってね?ぜーーーーんぶっ!ママが何とかしてあげるからね?」

「あ、う、うん・・・」


・・・なんでだろ。また優くん困ってる。
なんで困ってるの?教えてほしい・・・問題があるんだったら、全部消してあげよう。全部。全部。


「・・・ねぇ、本当に・・・本当に甘えて良いの?」

優くんが話しかけてくる。
言葉の意味が良く分からないけど、首を横に振る選択肢は無い。

「ええ、いいわよ。ずっと一緒だから・・・これからは、寂しくないよ?ずっと、ずぅ〜っと!ママが一緒。」

「ほ、本当に?」

「もちろん!」

「本当に、本当?」

「本当に本当。だから、いっぱい甘えなさい?抱きしめてあげるから。」


・・・あ、優くんが震えてる。
寒いのかしら。もしかして、風邪!?
大変・・・温めてあげないと!!

「優くん、寒くない?大丈夫?」

「・・・っぐす・・・・・う、うん・・・」

よかった・・・大丈夫みたい。


あぁ・・・お母さんっていいなぁ・・・心がぽかぽかして。
なんだか胸もドクドクいって・・・何かが溜まって・・・

「・・・ん?」

「どうしたの?」

「ん〜・・・なんだか、おっぱいが変なのよね・・・」

「おっぱいって・・・ママの?」

「うん・・・優くん、ちょっとママのベッドで良い子にしててくれる?」

なんだろう、この感じ。
優くんの事を思うだけでおっぱいが張ってくる感じ・・・



「・・・っしょ。」

姿見に映った私。いつもと変わりない。
上半身裸になっても変わりな・・・あれ?

(・・・おっぱい、大きくなった?)

よく見ると、おっぱいが大きくなった気がする。
というか、なんだか胸が張って・・・これって、母乳が溜まってる?

(母性に目覚めたから・・・かしら。)

あの噂は本当だったということだろうか。
もしそうだとしたら、とってもありがたい事だし

(・・・まぁ、優くん以外にはあげないけど。)



と、その時



――――コンコンコンッ

「・・・朱音〜?居ないの〜?」

「朱音ちゃん、お薬を受け取りに来ました。」

家の玄関の方からよく知った声が聞こえる。
沙紀と由利。私の幼馴染みで親友。

「あ、はいはい!ちょっと待ってて!」

私は服を着ると、優くんの元へと近づいた。


「ねぇ、優くん。ママね?お客さんの相手をしないといけないの。すぐ戻ってくるから、この部屋を絶対に、絶対に!!出ないでね?」

「えっ?あ、う、ん?」

何かが腑に落ちないのだろう。別に変なことを言ったつもりはないけど・・・

「・・・僕も行っちゃダメなの?」

「ダメよ。優くんは可愛すぎるから、他の女に見せたりなんかしたらすぐイタズラされちゃうわ。」

そんなのは絶対に許せない。許さない。
優くんは私にだけ甘えていればいいのだから、他の女が入ってくる必要が無い。

「イタズラ・・・されるかなぁ」

「されるわ。絶対。まず優くんの姿が見られることが私と優くんの仲に茶々を入れることだもの。」

「う、う〜ん・・・」




「ねぇ〜!朱音〜?居ないの〜?」

「朱音ちゃ〜ん・・・返事はあったんだけど・・・」

うるさい・・・私は今優くんと話してるのに・・・!!


「・・・ねぇ、ママ。」

「えっ?ああ・・・なぁに?」

「やっぱり・・・僕も行く。ママのお友達って、ママのお話に出てくる人でしょ?」

・・・優くんの頭の中に他の女が。
ちょっと・・・いや、かなりムカつく。

「ねっ?いいでしょ?僕大人しくしてるから。お願い。」

「むぅ・・・お願い?優くんのお願いなの?」

「うん。お願い。」

お願いかぁ・・・お願い・・・優くんの。
じゃあ、仕方無いか。

「それじゃあ・・・ママが声をかける時以外は目と耳を塞いでおいて。それならいいわ。」









「朱音っ・・・って、居た居た。やっと来た。」

「朱音ちゃん、急にごめんね?お薬、出来上がったなら受け取りに来たんだけど・・・」

部屋の奥から足音が聞える。
前にこの家を訪れた時、あそこが研究室だと言っていたし、おそらくそこから出てくるのだろう。

「聞こえてるわよ・・・沙紀、由利。いらっしゃい。」

予想通り朱音は研究室の扉を開けて、玄関前の廊下へとやって来た。


「・・・ねぇ、朱音。その子は一体・・・」

腕に小さな子どもを抱いて。
かなり小柄な子ども。朱音の背が高いからそう見えるのかも知れないが、それにしても小さい。
2歳か3歳ぐらいだろうか?小さく丸まってこちらに背を向けている。

「朱音ちゃん、子守りでも頼まれたの?」

朱音が妊娠したという話は聞いたことが無い。
というか、ほぼ毎日と言っていいぐらい顔を合わせているのだ。妊娠して分からないはずが無いが・・・


「子守り?違うわ。この子は私のかわいいかわいい息子・・・優太よ。」

「はぁぁ!?」

「む、息子っ!?え、なに!?どういうこと!?」

まるで意味が分からない。
妊娠はしていない。これは確実だ。
だが、今朱音は『息子』と言った。考えられるのは・・・


「・・・養子?」

「なに言ってるの。息子よ息子。私の、私だけの息子。ねー、優くん♪」

彼女の腕に抱かれる少年が、ゆっくりと頭を動かす。
どうやら本当の話らしい。

「あなた・・・妊娠してたの?」

手っ取り早く話の核心をつく。
もしかしたら私達の知らない間に妊娠していて、という可能性があるかも知れない・・・



「まあいいじゃない、そういう話は。とにかく、この子は私の息子。それだけのことよ。」

「なに言ってるの!?いいわけないじゃ・・・」

由利が心配したのか、少し大きな声を出す。
その瞬間

「・・・うるさい。」

冷徹に発せられる朱音の声。
二人は厳しい言葉に怒るよりも、驚きの方を大きく感じていた。



「朱音ちゃん、あなた・・・・・まあいいわ。じゃあせめて、優太君・・・だっけ?紹介して貰える?」

由利が努めて優しく言葉に出すも、なぜか朱音はムッとした顔になる。
それの意味することが分からないが、渋々ながらも了承してくれたのか

「・・・優くん、自己紹介してあげて?」

一転、柔らかい笑顔で腕の中の『私の息子』と言い張る少年に声をかけた。


「・・・お、小山 優太です。初めまして。」

恥ずかしいのか、二人の方を首だけ振り向いて見つめ、自己紹介が終わるとサッと背を向ける。
それを「よく出来たね〜♪」と迎え入れ、頭を撫でる朱音。

この子もそうだが、このぐらいの少年は誰もが可愛らしいもので、二人も優太の仕草を見て「かわいい」と心の中で呟いていた。

「は〜い。初めまして〜。」

「優太君ね。えっと、優太君はいくつかな?」

朱音はこの少年の出生を聞かれたくないみたいだったし、何より可愛いものを愛でたいと思う気持ちが勝っていた。
二人は中腰になって目線を合わせ、少年の反応を待つ。

「ほら、優くん。おいくつですか?って。」


「・・・4歳。」

親指だけを折り曲げた左手が、恐る恐る伸びてくる。
その指はどれも短く、手の平も小さいもので、触るとプニプニしていそうな肉感をしていた。

「あら、意外と。」

「ねぇ。4歳にしては、ちょっと可愛らしいかな。」

なにより母親と慕う朱音にしがみついて離れようとしない様子が良い。
そういう姿を見ていると、自然と・・・


「・・・ねぇ、朱音。私達にも優太君を抱っこさせてくれない?」

「そうね。優太君が嫌なら仕方無いけど・・・」



「ダメ。絶対に。絶対にダメよ。」

またも冷徹な言葉が朱音の口から出てくる。
それは今までの朱音を知っている二人にとってはあまりにもギャップがありすぎて、驚きが隠せない。

「朱音ちゃん・・・どうしたの?怖いよ?」

「そうよ。ちょっとだけ・・・」




「触るなっ!!!!」

突然の怒号。
一瞬、それがどこから発せられたものなのか、判断がつかなかった。
肩がビクッと震えると共に、背中に嫌な汗が流れる。
それが朱音の口から発せられたと気がついた時、二人はただ事ではないと考えるようになった。
朱音は少年の頭をきつく抱きしめており、彼に自分の怒鳴り声を聞かせないように配慮している。
つまりそれはまだ警戒をしているということで、二人の目は一気に真面目になる。


「・・・優太君・・・『優くん』は」

「『優くん』って呼んでいいのは私だけよっ!!!やめなさいっ!!!」

由利が鎌をかけると、見事に朱音が反応を示す。
二人の考えは確信に変わり、その原因を探る必要があると判断した。

「あ〜・・・そうだ。朱音、もうその子には触れないから、家の中に入っても良い?」

今度は沙紀が機転を利かす。
優太の話題を避け、なおかつ家の中へと探りを入れた。

「え、いいけど・・・お茶でいい?」

「ええ。」

「じゃああの客間で待ってて。すぐ準備するから。」

先程とは打って変わってあっさりとした反応。
少年を抱きしめていた腕も緩められ、警戒を解いたことが見受けられる。
声音はいつもの朱音のもので、拍子抜けすると共に、『そこ』に探るべき原因は無いということが分かる。


「あっ、いや・・・その前に、頼んでいたお薬を受け取りたいんだけど?」

由利が探りを入れる番。
だが、それでもなお朱音の表情は先程のように険しくはならない。

「う〜ん・・・その話は謝らないといけないことがあって・・・まぁ、それも含めて向こうの部屋で」

「いや、お薬を受け取ってからでいいわ。朱音ちゃん、悪いけど研究室に入っても良い?」


朱音の眉がピクッと動く。
二人は心の中で声を合わせて「当たりだ」と呟いた。


「・・・いいわ。上がって。」

少し声のトーンを落とした朱音が背中を見せる。
二人は一度お互いの目を合わせると同時に一つ頷いて、彼女の背中を追った。








「・・・ごめんなさい。この通り、薬をひっくり返してしまったの。謝りたいっていうのはそのことで・・・」

部屋に入るなり、朱音が説明を始める。
初めて入る彼女の研究室。ゴチャゴチャした机の上には奇妙な形をした容器が並び、棚の中にはこれまた奇抜な色をした薬品が立ち並ぶ。

この部屋における不思議な点と言えば、やはり机の上の薬品が入っていたらしい容器だろう。
容器の底には微かに赤っぽい色やらオレンジっぽい色やらの液体が見える。一際大きい容器の底は・・・緑色か。


「なるほどね・・・それで、頼まれてたことが果たせなくなったと。」

「ええ。ごめんなさい。」

「いいのよ朱音ちゃん。私の方から言っておくわ。失敗は誰だってあるから。」

朱音の話は二の次にして、二人は部屋の隅々まで他に不審な点は無いか探しまわる。
由利は物事の状況を一つ一つ考えながら、沙紀はとにかく動き回って部屋の中をよく観察した。


「ちょっと、沙紀。危ない薬品もあるから、あまり動き回らないで。」

「ああ、ごめんごめ〜ん。」

「由利も。ほら、客間に行きましょう?話はそこで・・・」


「・・・ちょっと待って、朱音ちゃん。」

と、由利が一つ腑に落ちない点を見つけた。

「朱音ちゃん、さっき『薬をひっくり返した』って言ったわよね?」

「え、ええ・・・」

「・・・いつ?」

「さっきよ。あなた達が来るほんの少し前。」

なにをつまらないことを聞くのかと、怪訝な顔をする朱音。
だが、由利の追及は止まらない。

「そう、私達が来るほんの少し前・・・」

由利は再び何かを考える仕草をする。
朱音も沙紀もなにが言いたいのか分からず、眉を寄せる。


「・・・じゃあ、そのひっくり返した薬はどうしたの?見たところ、液体みたいだけど。」

「もちろん雑巾で拭いたわ。」

「なるほどね。」


そこまで言うと、由利もスッと眉を寄せて朱音と向き合う。



「・・・じゃあ、その雑巾はどこにあるの?これだけの量だったら、1枚や2枚じゃ済まないわよね?」

「えっ・・・あっ!!」

沙紀は未だに気づかない。
しかし、朱音は由利の言いたい事を理解したのか、しまったという顔で返答を考え始めた。


「す、捨てたわ。」

「全部?」

「ええ、全部。」

確かに部屋の中に雑巾は無い。
だが薬は無くなっている。となれば、きちんと拭いた後、その雑巾を処理したと考えるのが一番妥当である。


しかし、この時点で朱音は一つ重大なミスを犯していた。


「そう、全部捨てたのね。それは・・・どこにかしら?」

「・・・家の中のゴミ捨て場よ。薬品を扱う人は、大体そういう場所を作ってるものなのよ。」

「そうなの。ゴミ捨て場に・・・」

そこまで言って、由利は一つ息を吐く。

そして


「でも・・・今あなた、『私達が来るほんの少し前に薬をひっくり返した』って言ったわよ?そんな時間あるの?」

朱音の話の矛盾を突きとめた。


「そ、それは・・・とっても急いだのよ。ほら、拭いてる途中にあなた達の声が聞こえて・・・」

「そう。で、その雑巾をゴミ捨て場に捨てたと。」

「・・・・・あっ」


朱音もついに気がついたのか。悔しそうに歯噛みした。



「そうよねぇ。おかしいわよね?だって、私達『あなたが玄関まで来るの見てた』んですもの。一体いつ雑巾を捨てに行ったの?」

沙紀もその言葉でやっと納得がいったのか、今度は紛れもない疑いの目で朱音の方を向いた。
朱音はまた少年をきつく抱きしめる。少年の方は一体何が起こっているのか分からない様子でしばらくモゾモゾ動いていたが、やがて諦めたように静かになった。

「・・・何が言いたいの。」

朱音の目が鋭くなる。
ここに来て初めて敵意を丸出しにした視線に、二人はただ事ではないと理解すると共に、何とかして助ける必要があると決心した。

「朱音ちゃん。嘘は良くないわ。ここであった事は私達の秘密にしておくから、正直に話してちょうだい?」

「そうよ!私達、親友でしょ?相談ならなんでも・・・」


「あなた達には関係ないわ。さ、もういいでしょ?この話はおしまい。」

強引に話を切る朱音。
だが、ここで引き下がるわけにもいかない。今の彼女は明らかにどこかおかしく、あまりに排他的過ぎる。


「そういうわけには・・・って、朱音ちゃん。そこの扉は?」

と、由利が朱音の後ろにある扉に気がついた。
質素な白い扉は固く閉じられ、その前を通せんぼするように朱音が立ち塞がっている。

「ここは・・・なんでもないわ。ほら、早くこの部屋から出て。」

明らかに朱音が反応を示す。
由利が沙紀に目配せをすると、沙紀もその意味を察したのか、扉のドアノブに手をかけようと





「やめろおおおぉぉぉぉ!!!!!」

「「っ!!!」」

これまでで一番の怒声に、二人は思わず怯んでしまう。
沙紀の動きが止まったや否や、朱音はツカツカと歩いて来て

「・・・沙紀。離れてちょうだい。この部屋に入ることが許されるのは私とこの子だけなの。」

「で、でも・・・おかしいよっ、朱音!!どうしちゃったの!?」

「いいから離れて。私は・・・まだあなた達のことを一応友達だと思ってるから。」

それ以降、朱音はその扉の前を頑として動こうとせず、二人の呼びかけにもまるで応じようとはしなかった。