「それでは一区切りついた様子ですし、情報の摺合せをしましょうか」
アルの母乳噴出が治まったのを見計らってシギィが提案した。
「えーと、アルさんは過去の記憶が殆ど思い出せないとか?」
おずおずとメルファはアルに訊ねた。
「はい。一つだけ覚えているのは妹を探していた事だけなんです。
名前も姿も思い出せませんが、それだけは確かだと思っています」
アルは最初に旦那様と出会った時を回想していた。あの時助けて
貰えなかったら、今此処に自分の姿は存在していなかっただろう。
「そして行き倒れていた所を今の旦那様に助けて頂いたとの事ですね」
「ええ、着の身着のままで身元を示すような物は何もなかったそうです」
荷物どころか財布すら持っていない文字通りの無一文。そんな自分を
助けて貰った旦那様には頭が上がらないアルであった。
「となると、妹がいる神官を当たってみるのが宜しいでしょうか?」
「でしょうね。これ程の才を持つとなれば相応の地位に居ても不自然ではないでしょう」
シギィは母乳を並々と蓄えた大鍋に視線を向けた。
あの母乳から放たれる神聖力の気配は並大抵ではない。現女王のクローデットから
一目置かれる異端審問官シギィ、帝都では聖女とも称される上級司祭のメルファ。
ポーズを取る姿こそ不慣れだったが、アルが自分達と比肩するだけの神聖力を
引き出した。それだけで相応の素養か修練の経験が有るのは疑いようも無い。
「とはいえ原理主義教派で私達以外に名を上げた者が居るとは聞きません。
機会が有りましたら、他の派閥の行方不明者を調べて貰えると助かります」
原理主義に属している者は、聖なるポーズを取る事には慣れている筈だ。
不慣れなアルは他の派閥に属していると見た方が良いだろう。
「分かりました。こちらからも教皇庁に掛け合ってみましょう」
メルファの依頼に快く応じ、シギィはアルへ向き直った。
「さて・・・胸の異変についてですね。話を聞く限り貴女の主人に捧げる
愛へ応える為に、無意識の内に聖なる力を振るっていたと考えられます」
シギィは聞きだした事情を時系列順に思い描きつつ答えた。
「最初に胸が大きくなったのは御主人に振る舞う料理を作る時。
次に母乳が止まったのは肉体の変化で嫌われる事を恐れた時。
船の上では御主人からの愛を感じていた時に母乳が出ました。
共通しているのは御主人への愛に関わっている点なのですよ」
呪詛についてはメルファが祓ってしまったので推測すら難しい。
解呪したら母乳の出が良くなった事を考えれば、アルの神聖力を
封ずる類だったのだろう。
「あ〜・・・成程。そう言われてみれば納得です。
でも、普通は胸が大きくなったりはしませんよね?」
「そうですが、神の御業には聖なる力を宿す者が持つ力を高める奇跡も有るのです。
心配する事は有りませんよ。貴女の主人を想う愛に神は応えて下さったのですから」
徳を積み、神の祝福を受けた者の器は一時だけ仮初の命を得られる。
逆に神罰を与えて相手の命を衰弱させる事も可能だ。アルの場合は
強力な肉体強化として現れているようであった。肥大化した双乳と
蓄えた母乳の重さを抱えているにも関わらず軽々と動けるのだから。
「胸の大きさは主人への愛の大きさ、かぁ・・・そう考えると悪い気はしませんね」
人並み外れた双乳も、偏に旦那様への愛を示す証だと思えば嬉しい物である。
例え今後も胸が更に大きくなっても、安心して旦那様に心を委ねられるなら問題は
無い。昨日とて最初は驚かれたものの、喜んで変化を受け入れられたのだから。
「とはいえ、このままでは日々の暮らしに支障が出るでしょう。宜しければ、
一つ修行を積みませんか? 不埒にも呪われた品を売りに出す不届き者が
居るなら、御主人を守れる力を持っていた方が安心できるでしょうから」
シギィは穏やかな笑みを浮かべて誘った。
一歩間違えばアルの旦那さんに呪いが掛かっていてもおかしくは無かったのだ。
状況からしてピンポイントで狙われた訳ではないにせよ、再び巻き込まれない
保障は無い。仕事の都合も有って教会に常駐できる訳ではない以上、己の身を
守れる術は持っていて欲しい。それはシギィの偽らざる本音であった。
「確かに、万が一が有ったらと思うと不安です。でも、審問官様も仕事が
忙しいでしょう? 態々時間を割いて貰うのは気が引けるのですが・・・」
シギィの肩書こそ異端審問官ではあるが、布教や犯罪証拠品の押収等々で
教会を留守にする事が多い。その事は定期的に教会へ通うアルは知っている。
「御心配無く。実を言うと、私が此処に来たのもザネフの皆様に修行の機会を
用意する為なんです。修行の時間を設ける事は予め予定していましたから、
気になさる必要は有りませんよ」
メルファは荷物から丸めた紙を取り出した。
「こちらがダンタン枢機卿からの書状です。どうぞ御査収下さい」
差し出された紙を受け取って開くシギィ。内容を要約すると、街中に紛れている
魔物の噂が人々の不安を煽っている。布教を口実に炙り出しを行い、人々を安心
させる手伝いをメルファに任せるという内容であった。
「成程・・・修行に参加した者は白と保証されるなら此方としても手間が省けます」
「流石に準備が有りますから、今日明日に始めるとは行きませんけどね」
幾ら伝手が有るとはいえ、宣伝用のビラを貼ったりするとなれば相応に準備が
必要である。見回りついでに準備をするのがメルファに課された使命なのだ。
「もちろん、旦那様と過ごす時間が一番大事ですから無理にとは
言いません。時間が有る時に顔を出して頂ければ、それで充分ですよ」
「分かりました。少しだけ考えてみてから決めようと思います」
メルファの穏やかな声音に安らぎを得るアルであった。
@ @ @
「とりあえず、お掃除しなくちゃ」
教会を出て船に乗り込むアル。母乳が船底で乾く前に洗わねば染みになってしまう。
いそいそと近場の水汲み場へ向かうのであった。
「よい・・・しょっと」
迫り出した胸が水に浸からぬように気を付けて水を汲み取り船へと戻る。
ブラシ掛けも足元が見えないので一苦労だ。うっかりすると足を滑らせかねない。
街中で流れは穏やかとは言え、水の上は少なからず揺れるのだから。
「今日の夕飯は何にしましょうか」
鼻歌交じりに献立を考えるアル。そんな彼女の死角から忍び寄る足音が一つ。
されど町の喧騒とブラシが擦れる音で紛れては気付ける筈も無かった。
足音の主は恐る恐る手を伸ばし――
「きゃんっ!?」
アルは突如として尻を撫でられる感触に思わず悲鳴を上げてしまう。
振り返れば背を向けて走り去る子供の姿。その手には見覚えの有る巾着が有った。
「こらっ、お財布は取っちゃいけません!」
かっぱらいと分かるや否やブラシを放り出して陸へと跳ね上がる。
おかずも買わずに帰宅する訳には行かないのだ。脚に籠もる力も
自然と高まる物。ブーツの音が石畳の上で高らかに響く。
初動の遅れこそあれど、大人と子供では歩幅が違う。まして、かつてのアルは
生半な闘士なぞ歯牙にも掛けない武王である。鍛えられた脚力たるや、軽々と
首を狩り落とす程。いわんや、子供程度に振り切られる訳も無い。
「大人しくしなさい!」
瞬く間に距離を詰めて飛び付くアル。頭から胸の谷間に押し込めれば
即席の拘束具の出来上がりだ。おっぱいだけで軽々と子供の上半身を
包み込んで立ち上がり、はみ出た足を両手で掴めば逃げ場なぞ無い。
「ふぅ・・・これで一安心ね」
谷間の中で子供の抵抗が次第に弱まっていく。アルの体は急激な膨乳にも耐えられる
しなやかさと柔らかさを兼ね備えている。抜け出す為に手を突き込めば乳肉へと沈み、
籠った熱で蒸れた皮膚は滑って掴み所が無い。さながら肉の牢獄であった。
「っとと、いけないいけない」
このままだと窒息しかねない。胸の谷間から引っ張り出して下手人の顔を拝めば、
年端も行かない男の子であった。薄汚れた服と顔。痩せこけた体は青白く冷たい。
その眼は怯えた様子で彼女を見つめ返していた。
「ん〜・・・この子も孤児なのかしら」
戦火を逃れて逃げ込んだ、あるいは親を亡くした子供。それが悪事に手を染めて
生活の糧を得ようとするのは珍しい事ではない。とは言え、この街で見かける事に
なるとは世も末である。
「でも、悪い事はしちゃいけませ・・・ん?」
財布を取り戻そうと男の子の手を取ると、ざらついた感触が伝わる。
よく見ると男の子の腕は瘡蓋とミミズ腫れで覆われていた。他にも
古傷らしき痣が幾つも見受けられる。
「ねぇ、僕? この怪我、一体どうしたの?」
人為的に付けられた傷跡と、明らかに尋常では無い様子に不安を覚えるアル。
しかし、男の子は涙を浮かべて首を振るばかりであった。
(子供に鞭打ち? しかも碌な食事も摂って無さそう・・・)
嫌な予感が脳裏をよぎる。人目を避けるべく路地裏へと移り、自分の体で
子供を隠す様に壁際で降ろして服を捲り上げる。案の定と言うべきだろう。
服の下にも痛々しい傷跡が有った。
「これは・・・事件よね」
腕だけなら兎も角、背中にまで傷が有るとなると自傷とは思えない。子供同士の
喧嘩や転倒等で付いたとしても、曲線を描く傷は普通の怪我で付く訳も無し。
即ち人為的な物である。恐らくは鞭打ちの傷であろうか?
「とりあえず審問官様には伝えておくとして、手当て位はしておこうかしら」
子供の弱り方は甚だしく、放っておけば今にも倒れそうだ。幸いにも今の
アルには売り捌ける程の母乳が有るのだ。子供一人の胃袋を満たす程度に
苦労する事は無い。
「ほら、おっぱい飲んで。お腹が空いてるなら好きなだけ飲んで良いからね」
エプロンを緩めて子供を開放し、有無を言わさず乳首を子供の口へと押し込む。
それだけの刺激で容易く溢れた母乳は、胃袋に流れ込んだ。背中には壁。前は
乳肉の山。逃げ場が無い故に飲むしかなかったと言えば、そうであったが。
「もう、いいからっ・・・」
飲ませ続けて暫くすると、胸を押し退けて子供が声を上げた。
ようやく会話の意思を見せたのだ。すかさずアルは畳み掛ける。
「そうそう、言いたい事が有ったら言わないとね」
アルは暴れ出す子供を再び胸で挟み込んで抱え上げると、
エプロンの紐を締めて立ち上がった。そのまま船に戻り、
舫いを解いて漕ぎ出す。
「離して!」
衛兵に突き出されるとでも思ったのか、子供は火が点いた様に暴れ出す。
「大丈夫、怖がらないで。お父さんやお母さんは居るの?」
アルは宥める様に努めて優しい声音で語り掛けるつつ辺りを見渡した。
かっぱらいとて何度も犯罪を重ねれば顔が割れるリスクが増えるのだ。
同じ場所で盗みを避けるのは当然の事であり、拠点から離れた場所で
行うのも然り。ならば近づいて子供が嫌がる場所は直近で盗みをした
現場、もしくは拠点である可能性が高いだろう。
「・・・・・・ううん」
「お家はどこかな? 送ってあげよっか?」
事情を聞きだしながらも周囲への注意は怠らない。水路を曲がり、
船とすれ違う度に自分達へと向けられる視線が無いか探していた。
胸に隠れる様にして不安げに道行く人々に視線を投げかける子供。
逃げ道を探すよりも視線を避けようとする仕草。その反応を見せた
場所を脳裏に刻んで会話を続けるアルであった。
「お家なんて無いもん!」
親無し、家無し、財布を盗んだ事を鑑みれば財産も無し。恐らく
身寄りも無いのだろう。でなければ粗末な服のままで居る訳も無し。
それでいて傷だらけとなれば・・・
(よからぬ輩が居る、と言う事でしょうね)
衛兵に掴まって処罰を受けたのならば孤児院なりに送られるだろう。
にも関わらず捕えられていないと言えば、残された可能性は少ない。
そうなると話は変わってくる。戦災孤児が生きる為に仕方なくやっているならば
孤児の引き取り手を探すなりするのだが、この場合だと何者かが盗みをやらせて
いる事となる。その黒幕を対処しなければ根本的な解決にはならず、子供自身も
再犯せざるを得なくなるのだ。戻る場所が黒幕の下にしかないのであらば・・・
「そっかぁ、辛かったんだね。じゃあ、お姉さんの家に来る?」
「えっ・・・」
ポカンと口を開けて目を見開く子供。こんな提案が来るとは
予想していなかったようだ。
「シチューとパンでよければ出せるわ。お昼御飯、一緒に食べない?」
目線を合わせ、ウインク交じりに微笑むアル。誘いに乗ってくれれば
御の字だが、反応や如何に。
「・・・・・・」
返事は無かった。が、腹の虫が鳴る音が雄弁に答えを物語っていた。
「恥ずかしがらないで良いのよ。食べ終わったら、お風呂に入って汗を流しましょ♪」
すかさず甘い言葉を重ねるアル。ついでに舵も家に向かう方向へと切り直す。
観光案内を生業としている以上、町の治安が悪くなっては困るのだ。治安悪化で
お客さんが減ったとなれば、稼ぎも当然減ってしまう。なればこそ不穏の火種は
早めに消しておきたい。その為にも情報を少しでも多く引き出したい所だ。
「・・・いいの?」
「勿論。遠慮はしなくて良いのよ。お母さんだと思って甘えても構わないんだからね」
恐る恐ると言った様子で声を漏らす子供。多少は警戒心が薄れたようだ。
己の過去を知らないアルにとって大切な物は、愛する旦那様と優しい町の人々。
それを悩ませる原因が有るのであれば、手の届く限りで取り除きたいのだ。
いつか子を持ちたい身としても、子供の笑顔が曇る原因は見過ごせない。
アルは確固たる意志で子供を救うと決めたのであった。