周囲には壊れかけた露店や散らかった売り物が多数。正面の相手は長物に籠手、そして透き通る鎧で
身を固めている。人の身では有り得ないサイズの胸が膝まで覆い隠しており、一撃で心臓狙いの突きを
打ち込む真似は出来そうにない。何より体を取り巻く魔力は常軌を逸している。冷静に観察を続けつつ
リリアナは小さく舌打ちしていた。
(正面から挑むのは愚かですわね)
此方の手持ちは取り回しを重視した軽装備だ。武器と言えばレイピアにハンドクロスボウのみ。
どちらも一撃で命を奪うには厳しいだろう。狙うとすれば首から上だが、籠手の有る左腕一本で
充分隠し切れる。足の付け根や手首を斬って出血を狙おうにも胸が邪魔だ。相手の得物が操船に
使う長いパドルという事も有ってリーチでも不利。ふざけた見た目以上に厄介な相手だ。
「……」
打つべき手を悩むリリアナに対し、無言で距離を詰めるアル。道具で生み出した幻の服を消し去る程に
己の魔力を纏い、その巨大過ぎる胸を揺らしもせずに摺り足で間合いを調整。記憶を失えど、己の体が
覚えている経験は無意識の内に成すべき事を成していた。
「勇気と無謀を履き違えるな、ですわね。ここは引くとしましょうか」
先に動いたのはリリアナ。クロスボウで狙うは略奪で集めた背後の物資。
視線を逸らさず飛び退きながら手近な油壷を撃ち抜いて油を撒き散らす。
粘っこい油が石畳の上に広がり始めた。
「て、やぁっ!」
その隙を見逃さずに踏み込むアル。横一文字に薙ぎ払われた櫂がリリアナに迫る。
すかさず倒れるように後ろへ転げて回避すると、その勢いのままに小麦粉の袋を
掴み取った。
「そんなに怒ると顔にしわが残ってしまいますわよ」
軽口を叩きつつ封が開いた小麦粉の袋を投げつけると、煙幕さながらに粉が舞う。
視界確保で回避か、速攻重視で突貫か? 一瞬の逡巡を経て回避すべく飛び退き
迂回するアル。その間に次の手を打つリリアナだった。
(あそこまで辿り着けば……!)
略奪の際に起きた火災で火種なら周囲に幾らでも転がっている。砲撃で砕け、火が点いた木っ端を
走りながら踵で後方へ蹴り込む。油に塗れた略奪品へ火に触れるや否や、次々と引火して燃え上がる。
財貨も可能であれば回収したかった所では有るが、それで捕まっては本末転倒だ。ならば焼き払って
敵の力を削いだという事にしておけば沼地の魔女の配下から口煩く干渉される事もなかろう。
「私に構えば皆様の大事な財産が焼けてしまいますわよ? そうなれば食うにも困る事になりますわ」
ついでに言えば、直前の会話でアルの性根が善性である事は明白。こうして揺さぶれば足を止めると
リリアナは読んでいた。事実としてその推測は正しかった。
「そこまでやるなんて……!」
今リリアナを追跡すれば火を消す余裕は無くなる。そうなれば町の復興まで耐えきれずに
路頭に迷う人が産まれてしまうだろう。アルは即座に周囲の露天店舗から天幕を引き剥がし、
耳に付けたイヤリングに触れた。水を集めて作られた鎧が胸元を露わにするべく形状を変える。
「油に水を掛けると危ないから……とりあえずこれで!」
彼女の巨大な双乳が更なる肥大化を始めた。母乳が乳首から溢れ出し、その勢いは徐々に増す。
そして張りに張った超乳を己の手で挟み込めば間欠泉の如く濃厚な母乳が迸る。あとは湿った
天幕を火の上から被せれば、空気が入らず火が消し止められる。
(お店の人がイヤリングを見せてくれてよかった……)
水気を集めて操る魔法のイヤリングを用いれば、周囲の水を自身の体内に溜め込む事もできる。
思いの外役に立つ掘り出し物だったようだ。事が済んだら必ず買い取ろうアルは決意した。が、
その間にリリアナは相当な距離を稼いでいた。
「野郎共! ずらかりますわよ!」
生き残りを纏め上げ、来た時と同じように空を駆ける船で逃げに入る海賊達。
これなら最早足取りを追う事すらも出来まい。そう判断して安堵の溜息を吐く
リリアナであった。厄介な女戦士にやたら危険な気配を感じる若奥様、そして
聖職者達すらも空まで手出しができるとは思えない。だが――
「これで一先ずは大丈夫。さて……」
――数少ない例外が居たのは不運と言えるだろう。かつてのアルドラには
逢魔の女王と言う二つ名が有った。それは冥界の悪鬼と契約を交わす為に
魔と逢った者、という意味の他に彼女の出生を暗示する意味合いもあった。
アルの背中には蝙蝠の如き翼が、額には一対の角が生え始める。
尻から伸び始めた濃藍色の尻尾は先端が鋭く尖り悪魔さながら。
そして虎眼石を連想させる瞳の色は、翡翠の如き輝きを放った。
魔との出逢いが産みし者。則ち、ハーフデーモンなのである。
「来たれ――ミニオン!」
怒りや恐怖、悲しみに晒され続けて昂り過ぎた感情が悪鬼の力を呼び覚ます。
かつて契約によって悪鬼から授けられていた冥界の力は失われて久しい。だが
生来の才能たる召喚能力は未だ健在。新たな悪鬼を呼び出す事には制限は無い。
呼び声に応え、妖しく輝く六芒星が石畳に描かれる。その中央が十文字に引き裂かれ、
異形の怪物達が次々と空を埋め尽くす。蝙蝠の如き翼、拳大の単眼、蛭を思わせる体、
獲物は必ずや喰らい尽くさんと言わんばかりに牙を生やした口を持つ最下級の悪鬼達。
それが群れを成して空飛ぶ船に向かって行く。これで見失う事は無いだろう。
「我が手に戻れ――デーモンズブレイド!」
再び魔法陣が割れる。今度は深紅に輝く大刀が飛び出した。1.5m近い全長、掌に等しい
刀身の厚み、琥珀と良く似た色の宝玉が埋め込まれた馴染み深い得物が再び彼女の手に
渡った。具合を試すように一振り。それだけで周囲を包む煙が奇麗に晴れ渡る。
次いで片眼鏡さながらに右目を隠す眼帯を作り出す。以前ならば危険過ぎる冥界の力を
封じる為に魔力で編み出した眼帯だったが、今は別の理由で塞ぐ判断を下す。ついでに
鎧の形も調整。両脚はサイハイブーツ、腕にガントレット、腰へフォールズを作り出し、
ティアラの力を用いて上から幻影を被せる。そしてマリアに近づいた。
「町の皆を助けて貰った借りは返させて貰うぞ」
瓦礫と化した出店から拝借した適当な長さの木材と、船の櫂へ天幕の切れ端を
巻き付けて即席の担架を作り、それを呼び出した悪鬼の群れに持ち上げさせる。
痛みと眠気でノックアウトしたマリアが火の気の無い場所まで運ばれる様子を
見届け、アルは翼を羽ばたかせて空を舞った。
「まずは火の始末から済ませるとしよう」
立っていながらも地面に接するサイズまで膨れ上がった双乳を下に向け、火元へと母乳を注ぎ込む。
水と違って粘性を帯びた母乳は可燃物に触れてもすぐに流れ落ちる事はない。音を立てて黒い煙が
白い煙へと入れ替わり、周囲に甘い香りが満ち始めた。
「あっちは……もう間に合わんな。仕方ない、壊すか」
特に延焼が激しい場所は建物が丸ごと火に包まれている。こうなっては母乳を掛ける程度では無理だ。
やむを得ず大刀へ手を伸ばし、宝玉の力を引き出す。赤い閃光が放たれ、それを引き抜く様に掴むと
アルの手中に輝ける槍が収まった。
「貫け、天槍!」
上空に向けて大きく振りかぶり、燃え盛る建物へ槍を投擲する。空の蒼に飲み込まれて姿を消して数秒。
再び落ちてきた光の槍は狙いを過たず火元を撃ち抜いた。抉り抜いた地面の窪みへ吸い込まれるように
燃える建物が崩れ落ち、崩落により瓦礫が積み重なる事で十分な空気が得られず火勢が弱まった。
「よし、これなら対処も出来よう」
後は先程と同じく母乳で火を消し止めるだけだ。二本の白い滝が瞬く間に紅蓮の山を
飲み込んで埋め尽くす。とりあえずこれで町の被害は増える事は無いだろう。残るは
全ての元凶たる海賊だけだ。上空で群れを成す悪鬼を目指し、彼女は街に背を向けた。
「余の愛する全てを危険に晒した罪、その身を持って償え」
口調も思考も女王時代を彷彿させる苛烈さが滲み出ていた。
もはや変わり果てた彼女を止める障害は何も無い。真紅の
魔人は己が本能のままに牙を剥き始めたのであった。