絶え間なく降りしきる雨の中、彼には少し不釣合いに大きい青い傘をさして少年は歩いている。
新世紀、その始まりの年に起こった未曾有の災害。
それはこの国から四季を奪ってしまったが、母なる自然はこうして時たま昔を思い出す。
旧世紀、梅雨と呼ばれていた季節。
幾日も続いている雨が、木々に恵みを、人々に安らぎをを与える様を少女は部屋からずっと見ていた。
少年は一つの建物の前に来た。
罅が入り薄汚れたそのマンションは雨に濡れてより陰を増している。
大きな青い傘が家の前に来るのを、少女は身じろぎもせずに見ていた。
少年は階段を上っていた。
閉じた傘の先から流れる水滴が細い線を途切れ途切れに描いた。
少女は玄関の方を向いてベッドに座り直した。
ドアの前に来た少年はノックをせずにノブを回した。
軋んだ音を立ててドアが開く。
ポストに溢れていたチラシが何枚かその勢いで落ちた。
落ちたチラシを拾い、当然のごとくポストの中も片付ける少年を、少女は静かに見ていた。
「綾波」
ちょっと驚いた感じで少年は呼びかけた。
「こんにちは、碇君」
あくまで静かにゆっくりと少女は言った。
「あ、こんにちは綾波」
少年は少し早口で挨拶に応じた。
少女は少年をじっと見ていた。その紅い瞳で。
「びっくりしたよ。まるでぼくが来るのを知っていたみたいにじっとこっちを見てたから」
本当に驚いたように言う少年。
「知っていたわ」
当たり前のように言う少女。
「えっ、ほんとに」
「見ていたもの、この窓から」
少年が窓に歩み寄る。少女はそれを目で追う。
「ほんとだ。これなら誰か来たらわかるね。」
少年はそういって振り返った。
少女と目が合い、気恥ずかしさに顔に朱をさしながら言った。
「でも、ぼくは傘をさしていたんだよ。よく、ぼくだってわかったね」
少女は答えない。
少年は視線を外すと再び窓の方を向いた。
窓に映る少女を見ながら言った。
「雨の日はあまり好きじゃない。でも、こうして家の中で静かに雨の音を聞くのは好きなんだ。綾波は」
「わたしも好き。雨の音を聞くのは好き。雨は生命の源だから」
「こんな日には使徒に来てほしくないなぁ。
こんな雨の日はエヴァに乗って戦うよりもこうしている方がいいや」
「そうね」
そのまま二人は口を開かず、しばらくの間、雨音だけが部屋の中に優しく響いていた。
「座っていい」
「ええ」
少女の反対側に少年は座った。
二人は雨の織り成す絶え間のない、二度と繰り返すことのないメロディを聞いていた。
「そうか、わかったよ」
少年が振り返ると少女とまた目が合った。
「初号機に閉じ込められた時に、何か音を聞いていたんだ。何か懐かしい音を」
少年はゆっくりと言葉を紡いだ。
その囁くような声は雨音に重なって掻き消されがちだったが、傍らにいる少女には確かに届いていた。
「その音が何かわかったんだ。それは心臓の音。
ぼくが母さんのお腹の中にいた時に聞いた、母さんの心臓の音だった。それと同じ音だった」
少年は微笑みながらそう言った。
少女は口を噤んだままだった。
少年は途惑いながら言った。
「綾波」
少女も途惑いながらこう言った。
「わからないわ」
「えっ」
「だって、知らないもの」
少年には俯いた少女がとても悲しげに見えた。
「おいで、綾波。ぼくの心臓の音を聞かせてあげるよ」
少年は真っ直ぐ少女の方へ向きを変えた。
不思議と顔が赤くなったりはしなかった。
何も恥ずかしいことではなく、とても自然なことに思えた。
「碇君...」
少女はその白く、そしてほのかに赤い柔らかな耳を少年の左胸にそっと押し付けた。
「聞こえるかな」
「聞こえるわ、あなたのいのちの音が」
何時の間にか雨音は聞こえない。
部屋の中では、蒼と黒の穏やかな沈黙が寄り添っている。
「雨、止んだね」
「そうね。また降るわ」
ふと、安らかに目を閉じて自分に身をあずけている少女の体温を感じて、少年は優しく微笑んだ。
繊細な硝子細工を扱うかのように、華奢な少女の身体を静かにいだいた。
その腕から少女の鼓動をかすかに感じる気がした。
もう一方の手で蒼い髪を慈しむかのようにかしずいた。
やがて再び始まった優しい雨音の中で、力強くそして温かな心音に少女は時を感じていた。
これからは綾波の好きな音は心臓の音になるのかな?
もちろんイカリクンの(*^^*)
素晴らしい小説を書いて下さった乾さんにぜひ感想を!
感想は作者への感謝と次回作を生み出すエネルギーです。