BITTER


- 2 -

  遠藤さんが連れていったのは、艶出しされた木目が美しいカウンターのみの小さなバーだった。
 こういう場所は嫌いではない。照明を絞った店内は不思議と落ち着く。
 遠藤さんはサイドカー(ブランデーベースのショートカクテル。因みにこのベースをラムにするとXYZになる)を、俺はさっき飲み過ぎたので、ちょっと考えてプース・カフェ(リキュールの比重差を利用して虹のような層を作るカクテル。味わうためというより観賞用)を頼んだ。
 注文を済ませ、俺がカウンター奥の壁一面にずらりと並べられた様々なアルコールの瓶を興味深く眺めていると、遠藤さんはさっそく切り出してきた。
「俺の従姉妹がうちの社内にいるんだけど、知ってるか?」
「え、そうなんですか?」
 俺は話の流れが読めず、当たり前の返事をした。
「同じ部内なんだけど。佐倉君も毎日のように顔を合わせてるんだけど。知らなかったか」
「ええと……」
 俺は一応考えてみたが、誰だかさっぱり判らなかった。遠藤という名前の人はうちの部署内にはいないし、顔立ちの似たような人も思い浮かばない。
「わかりません。どなたなんですか?」
 遠藤さんは苦笑した。
「そりゃそうだよな、従姉妹ったって、名前が違えば判るはずないよな。――いや、実は中山なんだけど。中山笙子(しょうこ)
 これには驚いた。
「中山さんですか! 今までそんな話、まったく聞いたことありませんでしたよ」
「別に隠していた訳じゃないんだけどさ。同じ会社を受けるのは知ってたけど、まさか同じ部署になるとは俺も思ってなかったし」
「会社側は知ってるんですか?」
「いや、どうだろう。多分知らないんじゃないかな。同じ部署内に親戚がいるってのは、あんまり周りにいい印象は与えないだろうから、必要がなければこの先も話すことはなかったかもしれないけど」
 遠藤さんはグラスをちょっと啜ると続けた。
「でも家も割に近いし、親同士――ってこれは姉妹なわけだけど、仲がいいからよく互いの情報が流れててさ。そうすると、俺達も話す機会があると話が弾むわけだ。で、こないだたまたま俺が車出して買い物に付き合うことになって、まあ親も一緒だけど出かけてさ。その時に、笙ちゃんが、最近ずっと気になってる相手がいるってことをポロッともらしてね」
「はあ……」
「それがどうやら会社の人間らしいってことで、ピーンときてさ。それってあいつだろって名前言ったら見事にドンピシャでね。そいつのことは俺も気に入ってるから、これはぜひ橋渡ししてやるよってことになったんだ」
「はぁ、そうなんですか」
「……鈍い奴だな」
 遠藤さんが呆れたような笑みを浮かべて、俺はようやくハタと思い当たった。
「それってまさか……なんてこと言いませんよね?」
「何言ってんだ。わざわざこんなとこまで連れてきて、個人的に話そうってんだから、お前以外にいないだろうが」
 俺は当惑し、俯いた。
 正直な話、面倒なことになったと思った。俺はどうしても女とは付き合えない。試したことはないが、まず結婚はできないと諦めている。
 だから、なるべくならそうした恋愛とも無縁でありたいのだ。何かコトが起きれば、俺の性癖が周りに知られかねない。そんなことになったら俺はきっと会社に居づらくなって、仕事にも支障をきたして居たたまれずに自主退職――と転がり落ちていくのが目に見えるようだ。
 臆病で打たれ弱い自分の性格は、自分で哀しいほど判りきっていた。
「見たところ、付き合ってる相手もいなさそうだけど。もし良かったら本気で検討してみてくれよ。俺が言うのも何だけど、笙ちゃんは性格もさっぱりしてて付き合いやすいと思うよ。しっかりしてて、かしましく噂話に興じるような軽々しいところもないし、普段の生活もきちんとしてる。せっかく良い物を持ってるのに押しの弱い君にはぴったりなんじゃないかな」
「はあ………」
 俺は曖昧に言葉を濁した。
「笙ちゃんも今まで恋愛より学業って感じの真面目なとこがあったから、慣れなくてきっかけが掴めないでいるみたいでさ、俺がおせっかいしちゃったんだけどね。君に気持ちを知ってもらえたら、もっと自分から行動できると思うんだ。そのうちモーションがあるかもしれないけど、そのつもりでいてやってよ。もちろん、君から行動してくれればそれにこしたことないけど」
「…………」
「俺で力になれることだったら、できるだけのことをするから。何かあったら遠慮しないで言ってくれよ」
「……わかりました」
 俺はそれだけ言うのがやっとだった。
 その後、言いたいことを伝え終えた遠藤さんは気持ちよく酔い始め、強いカクテルを何杯か飲み干した後、それまでのザルっぷりはどこへいったのかと思うほど酔いつぶれてしまった。
 勘定は、その時だけ正気に戻った遠藤さんがカードで驕ってくれたが、そのまま眠り込んでしまいそうな遠藤さんを抱えながら、俺は仕方なしにタクシーを拾って自宅まで送り届けた。
 遠藤さんを、起きて帰りを待っていた奥さんに無事引き渡すと、俺はほっとして、何とか間にあった終電でようやく帰途についたのだった。
 だが、長い一日はこれで終わったわけではなかったのだ。


 アパートに帰ると、中で明かりが灯っていた。
 合い鍵でドアを開けると、こちらを向いて座っていた哲矢を出来る限り険しい目で睨み付けた。
「まだ起きてたのか? 今日は遅くなるって言っただろう、お前もしょうがない奴だ……」
 最後まで言うことができなかった。
 突然立ち上がった哲矢が、俺の腕を掴むとそのまま引き倒してきたのだ。床に叩きつけられるようにして乱暴に押さえ込まれ、俺は背中を打った衝撃で軽く噎せ込んだ。
「なっ、何するん……」
 抗議しようとした途端、パンと頬を叩(はた)かれた。衝撃に脳裏がジンと痺れる。続けて反対側の頬を打たれ、俺は必死で両腕を上げて顔をガードした。
 何とかして哲矢の下から逃れようと足をばたつかせたが、ずしりと重い躰を少しでもどけることは困難だった。
 顔を覆っていた腕を掴まれ、開かせられる。再び殴られることを覚悟してきつく両目をつぶり、歯を噛みしめる。その唇へ、噛みつくようなキスをされた。歯がぶつかって唇が切れたのか、ピリッと鋭い痛みを感じる。
 顔を押しのけようとするがかなわず、逆に強い掌で顎を掴まれ、口を開かせられる。押し入ってきた舌と共に、微かに鈍い鉄のような血の味がした。
 どんなに嫌がって躰をよじって逃れようとしても、哲矢は俺を離さない。はぎ取るようにしてシャツをくつろげられ、前を開かれる。敏感な部分に忍んできた手に、口を塞がれたままの俺はくぐもった呻きを漏らした。
 いつも強引だが、これはそれにも増して強引すぎる。
「ま……待て、待てっ!」
 俺は何とかして顔をそむけると怒鳴った。
「お前、何そんなに慌ててるんだ?」
 哲矢の動きが止まった。恐る恐る見上げると、蛍光灯を背に逆光になった哲矢が怖ろしい形相で俺を睨んでいた。
「――あいつに乗り換えるのか?」
 絞り出すように言われた言葉の意味が分からず、俺は眉根を寄せた。
「あいつって何だよ!?」
「とぼけんな! 俺は見たんだ、あんたが男と二人でタクシーに乗り込むとこを!」
 ――遠藤さんのことか!
 どうして哲矢があんな場所にいたのかは判らないが、勝手に誤解をして腹を立てているらしいことは判った。そんな単純なことで有無を言わさず俺を殴ったのかと思うと、猛烈に腹が立った。
「あれは俺の上司だ。俺はただ酔ったあの人を家まで送っていっただけだ」
「嘘だっ!」
 哲矢が叫ぶのへ、負けじと怒鳴り返した。
「なんで俺がお前にそんな嘘つかなきゃいけない! 遠藤さんには奥さんも子どももいるんだ」
「結婚してるくせに遥路を犯ろうとしたのか!?」
 これには俺は心底呆れた。
「何考えてるんだ、いい加減にしろよ! 遠藤さんはそんな人じゃないし、そんな関係じゃない。それに俺はそういう相手ができたらお前にははっきり言って別れてやるよ!!」
 最後の言葉を言い終えるか終えないうちに、激しく頬を張られた。バシーンと激しい音がし、痛みで涙が滲んだ。
 ――もうダメかもしれない。
 俺はふいに激しい虚脱感に見舞われた。
 嫌々ながら哲矢のモノにされて、随分と長い年月が経った。その間、何度別れようと思ったか知れないが、それでもこうして関係が続いていたのは、俺の中でこんなやつでも愛しいと思う気持ちが少なからずあったからだ。
 それももう限界なのかもしれない。一緒にいて幸福を感じられる瞬間など、ほんのわずかだった。相性が悪いとは思っていたが、いい加減にこれが潮時なのかもしれない……。
 俺が何を言おうと、哲矢はそれを理解しようとしない。男でも女でも、俺がちょっとでも親しくする人間を嫌がり、できもしないことを要求し、俺を束縛する。
 常に一方通行の関係―――。
 哲矢は俺が大人しくなったのをいいことに、衣服をはぎ取ると俺の中に侵入し揺さぶり始める。痛みに呻きつつ、それを茫然と見上げながら、俺は今まで哲矢を拒めなかった自己嫌悪でいっぱいになっていた。

 朝、勝手な行為でボロボロにされた俺は、横で眠っている哲矢を起こさないよう慎重にベッドから身を起こした。痛みで躰が軋み、呻きそうになるのをどうにか堪える。
 躰のいたるところに情交の痕が残っていたが、俺はかまわず衣服を身につけると、手頃な鞄に貴重品や当座の衣類を詰め込んで、スーツケースと共に手に提げてアパートを出た。
 二度とここには戻って来るまい――。



 会社が休みで助かった。金曜から日曜まで、俺は痛手を被った躰をホテルで休めた。
 日曜、頬の腫れが引くと、俺は早速出かけて新しい携帯電話を買った。今持っている携帯は、哲矢らしい電話がひっきりなしに入ってきて鬱陶しかったので電源を切ってある。
 月曜に、出来るだけ早い日に臨時の有給許可を申請して、携帯とアパートの解約と新しいアパートの契約をしよう。
 哲矢は俺の勤め先を知っているが、アパートにいられないとなれば、大した貯金もない哲矢はもっと本気で仕事に励むしかない。しばらくは俺につきまとう余裕もないだろう。
 もししつこく付きまとわれて、会社にばれたら……と考えると身震いしたが、向こうの方が立場は弱く、訴えられたらどうしようもないだろう。
 俺は被害者でいればいい。
 いじけた考えだが、今の俺にはそれだけ考えるのが限界だった。


 幸い会社前に待ち伏せされることもなく、月曜は無事に出社できた。体調も万全ではないが、なんとか普通に動けるまで回復していた。
 それでも重い気分が抜けないまま、休憩時間に社内の自動販売機の前でコーヒーを飲んでいると、横に手が伸びてきた。
 自販機を使う邪魔をしていると思って「すみません」と退きながら、相手を見て思わず声をあげてしまった。
「中山さん!」
 慌てて自分の口を手で押さえたが、遅い。
 中山さんは小さく笑って俺を見上げた。その目はどことなく済まなさそうな色合いをしていた。
 カップから立ちのぼる熱そうな湯気を吹きながら、中山さんが訊ねてきた。
「晴ちゃん――あ、遠藤晴臣さんね、私のこと話したって聞いたんだけど」
「あ、うん。聞きました」
 思わず敬語になる俺に、また小さく笑みを浮かべる。
「あまり固く考えないで欲しいんだけど――その、もし良かったら、今日一緒に御飯食べに行かれないかな?」
 しばらくは帰れる家がない俺としては、夜も何の予定もない。むしろ何か用事が出来た方が有難かった。
「いいよ。じゃ、仕事が終わったらここで」
 俺は哲矢から逃れたいためだけに、申し出を受け入れた。

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