中山さんとの会話は楽しかった。
よくある小洒落たイタリアン・レストランで夕食を摂りながら、今まで知らなかったお互いのことを話し合った。中山さんの話し方は喋りすぎず少なすぎず、俺は今まで彼女に持っていた微かな好感が、まさにその通りだったことを感じた。
最近のニュースや話題の映画、小説、音楽、パソコンにインターネット――何を話しても彼女は詳しく、また俺と好みがかなり似通っていた。異性とこれだけ会話が弾んだのは、俺には生まれて初めてのことだった。
食事を終えてもまだ話したりない気分だった。中山さんがもう一件寄って少し飲みたいと言ってきたとき、俺は喜んでそれに応じた。
少なくともこの時まで、中山さんは一時俺から哲矢のことを忘れさせてくれていた。
「ここ、最近見つけて気に入ってるところなんだけど……」
中山さんの勧めで行った店は、先日遠藤さんに連れて行かれたのと似たような雰囲気のバーだった。ただし、こちらはカウンター以外にもいくつかテーブルがあったが。
週頭ということで、店内は空いていた。俺達は迷わずカウンターに腰掛けた。
俺は先日遠藤さんと飲みに行った時にメニューを見て気になっていたバラライカというカクテル(サイドカーのベースをウォッカにしたもの。ウォッカがロシア発祥のため、ロシアの楽器の名前が付けられた)を頼んだ。中山さんはかなり迷った後、店内に掛けられていたボードから、お薦めらしいブラッドハウンドというカクテル(ジンをベースにドライベルモットとスウィートベルモットを加える)を頼んだ。
「苺のカクテルだって。なんか美味しそう」
俺も興味を惹かれ、バーテンダーの手元を一緒に見守った。アルコールの瓶と艶やかな果物が取り出され、ミキサーに入れられる。ウィーン…という音に腹の底から小さな笑いがこみ上げてきた。
「カクテルってステアする(混ぜる)かシェーカーを使うんだと思ってたけど、色んなことするんだな」
俺が思わず口元を綻ばせて言うと、彼女も同様に笑みを浮かべて頷いた。
「ほんと。こんな静かで落ち着いたお店でミキサーの音が響いてるって、なんかおかしいわね」
出来上がったカクテルが、無言でそれぞれの前に置かれる。
「わぁ、可愛い」
ブラッドハウンド(警察犬)という名前に反して、淡紅色の液体に短いストローが二本差されたそのグラスはなかなかに愛らしかった。
俺も自分の仄白いグラスを持つと、彼女と軽くグラスを打ち合わせた。
「これって苺の時期でないと飲めないのかな?」
一口飲んで気に入ったのか、グラスを見つめながら中山さんが呟く。
「ラズベリーでも作れます。いつもはそれで作ってますが、今は苺が美味しいので」
今まで無言だったバーテンダーが、静かな雰囲気を崩さぬ口調で説明した。
「へぇ。今度はそれも飲んでみたいな」
その時を想像したのか嬉しそうに微笑んだ中山さんを、俺は可愛いと思った。
店内に音楽はなかった。余計なものがなく、その分満ち足りた空気が流れている。
いいな…、と思った。こんな雰囲気は、哲矢といるときには到底味わうことができない。
そういえば、哲矢とこうした店に来たことは今までに一度もなかった。あいつと食事をする時は大抵金のかからないチェーン店で、バーで飲むということもしない。
そんなことをするくらいなら瓶ごと買ってうちで飲むか、もしくは俺とヤっている方が良いという奴なのだ、あいつは。
つい哲矢のことを思い出してしまう自分に気づき、俺は軽く頭を振った。あんな奴のことなど、思い出したくもない。
「佐倉君? どうしたの?」
酔うにはまだ早すぎる。中山さんが不思議そうに見るのへ、俺は「いや…」と苦笑してごまかした。
「あ、そうだ。忘れない内に渡したい物があるんだけど……」
中山さんが、ふいに一度置いた鞄を手に取った。中から小さな包みを取り出すと、俺へそれを差し出す。
「甘い物、大丈夫か判らないけど。良かったら貰ってもらえないかな?」
「これって…チョコ?」
「うん」
中山さんは、はにかむような顔をした。
「らしくないと思ったけど、どうしても渡せなくて。今更なんだけど、受け取ってもらえないかな? チョコくらいで、渡したからどうこうなんて勿論言わないし」
恥ずかしそうに頷き加減になっていく中山さんを目にしながら、俺はふいに先月のことを思い出した。
2月14日の夜、哲矢が小さな紙袋を俺に渡して言った。
「どうせ俺が欲しいって言ってもあんたは買ってきてなんかくれないだろうから、俺が買った」
中身はチョコレート味の――カステラだった。
去年、俺が職場で初めて義理チョコをいくつか貰って来たことを覚えていて、どうやら対抗意識を燃やしたらしい。普段はこうしたイベントにも鈍感なヤツが、変なときにこだわるものだ。
「さすがにあの売場で買うのはどうも、さ……」
耳を赤くして目線をそらす哲矢を、俺はその時愛しく感じた。
あの瞬間は、確かに俺と哲矢は恋人同士だったかもしれない。
「あの……やっぱり甘い物って苦手かな?」
とまどいがちな声に、ハッと現実に引き戻される。
「あ、いや、全然。――ただ、ちょっと驚いただけ。中山さんからチョコを貰うことになるなんてさ。中山さん狙いの男共にすごい恨まれそうだなぁ」
俺が小さな包みを受け取ると、中山さんは明らかにほっとした顔をした。よほど緊張していたのだろう。
「ダメね、ほんと。こんなチョコくらいで。今時こんな子、そうそういないわよね」
小さく溜息を吐くのを聞いて、俺はいいやと否定した。
「いいんじゃないかな、そういうのって。あんまり平気になりすぎても、それで言われても嘘っぽい感じがするかもしれないし。俺はそういう方が……いいと思うよ」
好き、と言う言葉を敢えて外した。中山さんの前では言葉の一つ一つが重要で、大きな重みを持つように感じられたからだ。
(恋愛を始める時って、誰しもこんな感じなんだろうか)
中山さんの気持ちを知ったときは気が重かったというのに、今もう俺は現金にも、面倒だと思っていたやりとりを楽しんでいた。
それは、まだ俺が彼女の本気を感じとれずにいるからかもしれない。俺の中には、哲矢のことと一緒に中山さんの気持ちからも目を逸らして逃げていたい気持ちが確かにあった。
俺自身は彼女とどうこうなることは生理的にできないし、となるとこの先俺が彼女に何らかの責任を持つようになる可能性もない。彼女はそんなことは知らないわけで、失望させる結果になることは判っているのだけれど……。
結局俺は狡いのだ。自分が傷つかないなら、何がどうなろうと気にせずに済む。
「でも良かった。まさか佐倉君と二人で飲みに行ったりできるなんて、ちょっと前まで思ってもみなかった。晴ちゃんに感謝しなくちゃ」
中山さんが、独り言のように言った。
「そんなの。食事とか飲みに行く程度なら、いつでも付き合うのに」
偽善だな、と思いながらも俺は言った。
「いつでもって訳にはいかないと思うけど」
グラスから俺へ顔を向けると、中山さんは突然思いがけないことを口にした。
「だって佐倉君、本当は決まった相手がいるんじゃない?」
一瞬、俺は何を言われたのか理解できなかった。
俺が声もなく固まっているのを見て、中山さんは微苦笑した。
「佐倉君って、女は嫌いなのかと思ってた。だからこうやって付き合ってもらえるだけで凄いと思って……」
自分の鼓動が聞こえる気がする。
「もし違ってたらごめんね。佐倉君、…そういう趣味の人なんじゃない?」
ふいに声のトーンを落として訊ねられた。
「エッ……趣味って……」
俺は動揺するばかりで、ろくに返事もできない自分に苛ついた。
――しらばっくれてしまえばいい。確たる証拠なんて掴めるはずがない。
心のどこかでそんな声が聞こえた時、決定的な一言が告げられた。
「佐倉君、暮れのクリスマスにKホテルに行かなかった?」
その言葉に、俺は今度こそ激しい衝撃を受けた。
クリスマスくらいそれらしい気持ちになりたいと、俺は堅苦しいのは嫌だという哲矢を連れて無理にホテルへ一泊した。無論、アパートからも会社からもずっと離れている場所を選んだのだが、それだけに気が抜けていた。不必要に親密な態度をしていたのだろう。
それに哲矢は元々、周囲を気にする質ではない。そうして、そこを見られた……。
「雰囲気で、もしかしてって思ったの。多分他の人だったらなんとも思わなかったんだろうけど、佐倉君だったから気になって注意して見ちゃって……なんていうか、様子が私が普通に知ってるような男友達とのそういうのと違うなって……」
「………」
どう答えたらいいのか。
「もし全然見当違いのこと言ってたらごめんね。でも、多分間違ってないと思うんだけど」
「…………」
否定することはできなかった。否定したら、俺は彼女を受け入れなければいけないだろう。それだけ言われてなお不自然でなく彼女を断ることは、相当に難しいことに思われた。そして、それには非常な危険が伴った。
「別に、もし本当に佐倉君がそういう人だとしても、だからって私が佐倉君に感じてる気持ちは変わらない…って、信じて貰っていいと思う。ただ、その場合は私の片思いが完全に失恋になることになっちゃうけどね……」
俺は中山さんをまじまじと見つめた。真摯な双眸が、俺を見返していた。
「……誤解じゃないよ」
それでも幾ばくか逡巡し、俺はようやく告白した。とりあえず嫌悪感を持たれていないことにほっとした。
そうして、それでも俺を好きだと言ってくれたことに、違う意味で動揺している自分を感じていた。
その後しばらく、互いに無言でグラスを空けていた。沈黙は多少心苦しくはあったが、不快ではなかった。
これ以上グラスを重ねる気はないのだが、何となくメニューへ視線を泳がせていると、ためらいがちに中山さんが口を開いた。
「あのね……できなくてもいいから。もし嫌でなかったら、一度――試してみる?」
――俺は、狡い。
俺は突然酔いを感じた。そうして興味のないはずのものを知ってみたい衝動に駆られた。
多分、俺はダメだ。それはできない。
できないと判っているのに、必死の体で頬を染めている中山さんに、気持ちが揺れるのを感じた。
「……出ようか」
俺は伝票を手に、彼女へ頷いてみせた。