「――あれ、真惟?」
名前を呼ばれて、俺は思わずまじまじと相手を凝視した。
記憶の底からすっかり忘れ去っていた過去の名簿を掘り起こし、目の前の人物が見知った顔と名前であることを確認できた途端、俺、小杉真惟(こすぎ・まさのぶ)は驚いて叫んだ。
「アッ! お前、もしかして恩!?」
スーツ姿が板について、すっかりサラリーマンらしく別人のように凛々しくなった昔の恋人がそこにいた。
岩崎恩(いわさき・めぐむ)とは高校が一緒だった。実際に同じクラスになったことはなかったが、たまたま夜遊びをしているときに知り合い、その後互いが同じ高校の生徒であると知って自然とつるむことが多くなった。
気も合って、互いにその手の趣味の持ち主で、好みでフリーで……となれば、恋人関係になるのは当然の結果だっただろう。
だが付き合い始めた当初から恩にはずっと好きな相手がいたようで、結局それがきっかけで別れることになってしまった。
恩の好きだった相手は恩の家の近所に住んでいたので、俺もチラッと見かけたことがある。恩の父親がやっていたピアノ教室の生徒だったという彼は俺達より一つ年上で、ハーフだ聞いても驚くほど人間離れした美貌の持ち主だった。
思い出したらすっかり気になってしまった。ハーフの彼には既に相手がいたらしく、おそらく恩の恋が実ることはなかっただろうが、その後どうしていたのだろう…。
「うわぁ、久しぶり。何年ぶりかなぁ?」
「なんだ岩崎君、知り合いかい?」
一人で盛り上がっている恩に、不審な表情で恩の隣にいた上司らしい男が訊ねるのへハッとした。
そうだ、今は仕事中だった。
俺の仕事はK市にある超大型ショッピングモール内の催事場で行われるイベントの企画運営だ。ここは交通の便に恵まれているため、平日でもかなりの人出がある。夜景の美しいちょっとした遊園地も備えていて、宿泊施設も隣接し、衣料品を中心にレストラン等のショップがずらりと並ぶ。およそ街にあるもののほとんどが備わっていると言って過言でないだろう。
その一画に、自家用車等の大型品からブランド物の服飾品など大小様々な物を取り扱った展示場が並ぶ。俺はその一部の催事場の企画運営を受け持つチームに所属している。いつ何を催すかを取り決め、問題なく運営されることを管理する仕事だ。
今回、ここで某大手楽器店のピアノや電子楽器の販売を行うことになり、その打ち合わせのために催事場の一隅にある来客室にいたのだった。
「はい、高校の同級生だったんです」
恩が屈託なく答える。
本当だったら恋人同士だった過去を持つ相手とのこういう再会は好ましくないように思えるが、恩はまったく気にしていないようだった。
俺自身も会えて懐かしい気持ちが強い。きっと他の奴だったらこうはいかなかっただろう。それだけ恩は、俺にとってちょっと特別だったのだ。
「ほう。それは奇遇だねえ。それなら話もスムーズに進みそうだ。岩崎君の活躍に期待できそうだな」
「今回の件はずっとやりたかったことですし、俺にとっての正念場でもありますしね。頑張ります! ――ね、小杉クン」
いきなり話を振られて驚いたが、恩の俺を信頼しきっている眼差しに胸の奥が何やらほんわかすると共に、恩となら大丈夫という不思議な自信が湧いてきた。
「ええ。私もめぐ……岩崎君が相手だと大分やりやすいかと思います。今回の企画はこちらとしても大きな物で、力を入れておりますので。精一杯頑張らせて頂きます」
俺は、昔馴染みとはいえあくまでも仕事なのであり、良い面は使うがきちんとやるべきことはやるといった態度をさりげなくアピールしつつ微笑んだ。
その後は、いつも通りだが面倒な説明のやりとりが続いた。
今回展示する楽器のパンフを見ながらおおまかな配置を考え、受付や説明のための係員やコンパニオンの人数を相談する。電子楽器は扱いが特殊なので、実演もできる専門の従業員を数名寄越すという。
実際には俺達(別に俺ひとりで運営するわけではなく、数名のチームで行うのだ)が手配するのは空調や照明等を扱う会場の専用スタッフと警備員くらいで、あとはほとんどイベント専門の派遣会社と恩の楽器店任せになりそうだった。
今日は一ヶ月前の打ち合わせで、細かいことは実際に会場設置を行う直前になる。フェアの期間中は基本的に朝夕の簡単な打ち合わせのみで、終了後は完全に引き払ったかどうかのチェックを行う――等々。
いつも通りの説明といっても、この後目を通さなければいけない資料の多さは今までの比ではない。正直俺はちょっとうんざりした。
ピアノってやつは、ほんの数メートル運ぶにも専門の運送屋と調律師が必要なんだという。まあ、実際にそこまでメンテナンスを行うのはメインに設置するグランドピアノくらいだが、他の物も音を出すことを考えると、演奏を行う楽器同士は離して配置しなければいけない。
当日搬入される時までにはそうした細かいことは決まっているだろうが、当日にならないと判らないこともあるだろう。そこまで配慮して、諸々のスケジュールも決めていかなければならないのだ。
そんなことを話し合っている内に辺りはすっかり暗くなり、会社規定の終業時間を大分回っていた。今日はこの他の仕事は全て終了していたので、打ち合わせを終え次第帰宅できる。
「それでは宜しくお願い致します」
「こちらこそ……」
お決まりの挨拶を交わし、全てが終わったところで恩が声をかけてきた。
「この時間だから、もう仕事は終わりでしょう? もしこの後約束がないんだったら夕飯でも一緒にどう?」
高校時代はまだ頬ももう少し丸みを帯びた可愛らしい面影があったが、今の恩はすっきり引き締まった好青年になっていて、大分印象が変わってしまった。その代わりに成人した男の色気をほんのり浮かべ、艶のある微笑で誘う。
無論、俺はのった。
「ああ。実は俺も誘おうと思ってたんだ」
「あ、そうなんだ。良かった」
嬉しそうににっこりする。俺も微笑みを返した。
「じゃ、せっかくだからお薦めの店を案内するよ」
俺は帰宅準備のため十分ほど待ってもらった後、恩と夜の街を歩いた。
少し遠回りになるが、夜景が自慢の遊園地がよく見える通りを選ぶ。そうでなくても店舗というのは飾り付けに気を遣うもので、どこへ行っても賑々しい飾りがほどこされ、訪れる者の目を楽しませてくれた。
「すごいライトアップだね。電子ちゃんが怒りそう」
その感想に、俺は吹き出した。
「おいおい、うちの自慢のライトアップにそれはないだろう。これがなきゃ、ここの楽しみは半減…とまではいかなくとも、随分減っちまうのは確かなんだから」
「まあ、そうだね。確かにすごく綺麗だ……」
うっとりと照明を見上げる恩に、俺は見とれた。
黒目勝ちの艶めかしい瞳、すっきり通った高すぎない鼻、ふっくらした柔らかそうな下唇は、何かというと唇を噛む癖のためだろうか。相変わらずバランスの良い魅力的な容貌をしている。
体躯は、細身だが華奢な感じはしない。昔は小さい方だったが、大学に入ってから伸びたのか、今では俺とそう変わらなくなっていた。
早くに母親と弟を亡くしたという過去を持つためか、飄々としながらもどこか芯の強さを感じさせられたものだが、それは今も変わらなかった。目的のものに真っ直ぐ目を向ける、その瞳の強さに俺の胸は微かに高まっていた。
俺お薦めの、旨い地酒を飲める海鮮料理店でいい気持ちに酔いながら、自分たちの今の境遇や、高校時代の友人達のその後など語り合ってアッという間に時が過ぎた。
「あ、もうこんな時間だ。終電なくなっちゃう」
恩の言葉に腕時計に目をやった俺は青くなった。
「ああっ、やばい! 俺上りだから終電まであと十分もねえよ!」
都心へ向かう上り電車は、始発も早いが終電も早い。
「えっ、どうしよう。それって間に合うの?」
「かなりヤバい。走って間に合うか…」
焦りから慌てて立ち上がった俺は、久々に過ぎた酒に足を取られてよろめいた。
「アッ! 危ないなあ。ねえ、気の毒とは思うけど、諦めた方がいいんじゃ…」
「一応走ってみる。タクシーじゃ万札飛ぶから、もし間に合わなかったら駅前のサウナでも行くけど。――悪い、これで支払いやっといてもらえるか?」
俺は財布から慌ただしく適当な札を抜いて恩に差し出した。
「それはいいけど……」
恩は俺を見上げ、ためらいがちに言った。
「ねえ、もしなんだったらウチに来る?」
「恩んち?」
突然の申し出に驚いた。
「去年兄さんが結婚したから、今は一人暮らしなんだ。だから遠慮いらないし」
「そりゃ、泊めてくれるってなら有り難いけど…」
「明日は朝早かったりするの?」
「いや、実は明日は休みなんだ。平日だけど、こんな仕事してると土日に休みなんてなかなか取れなくて」
「あ、じゃあ丁度いいや。俺も明日休みだから。楽器店も土日って休まないからさ」
「えっ、そうなのか!? …あ、いや。だけど……」
俺はかなり躊躇った。確かに昔は親しかったが、今日数年振りに会った相手をそんな簡単に泊めていいものだろうか。それに――
「俺、今付き合ってる奴とかいないし。変な遠慮いらないよ?」
俺の危惧を先に言われてしまった。
「……じゃ、甘えさせてもらおうかな」
俺の言葉に恩がぱあっと笑みを浮かべる。その表情から、同情ではなく本心から誘ってくれたんだと判ってひとまず安堵した。
なんだか思わぬことになったな…と、俺は複雑なため息をつきながら腰を下ろした。
「俺も今フリーなんだ」
「へえ、そうなんだ。奇遇だねぇ」
恩は何も動じた風もなくにっこりした。
そうだった、こいつは普段の柔らかな物腰からは想像できないが、かなり侮れない奴だった。
「じゃ、本当に終電がなくなる前に帰ろうか」
そうして俺は、恩のペースにはまったまま『連行』されたのだった。
恩の部屋は普通の1DKだった。お世辞にも広いとは言えないが、男の一人暮らしにしてはこざっぱり片づけられている。
「適当に座って。今お茶でも入れるから。ビールもあるけど」
「あ、いや。できたら熱いお茶くれないか」
「わかった」
言われた通り遠慮なく座り込んで言う俺に、恩はにっこり微笑むとテキパキ動く。のほほんとした雰囲気を持ちながら行動が素早いのは相変わらずのようだ。
恩は特別成績が良い訳でも努力家というほどでもなかったのに、いつもきっちり宿題はやってあるし赤点追試になったこともなかった。好き嫌いの割と激しい俺から見ると、何でも同様にこなしていく恩は驚異だったものだ。
ベッドの中では俺が主導権を握っていたが、思えばいつでも本当に大事な場面ではこいつに頼っていた気がする……。
そんなことを考えながらボーッと恩を見ていたら、アッという間に良い香りのする緑茶が目の前にあった。
「熱めだから気を付けて」
俺は礼を言って湯飲みを持つと、慎重に湯気のたつ表面を啜った。
「…うまい」
熱い液体が、アルコールで参りかけた胃に心地よく沁みる。
「良かった。この前ちょっと奮発して、いいお茶買っておいたんだ」
本当に嬉しそうに微笑む恩に、俺は少しばかり申し訳ない気がした。
恩にだって好き嫌いはあるし、むしろ口には出さないが割に好みのはっきりした奴だと思う。だから親しい者として受け入れた相手なら、俺に限らず誰に対してもそうなんだろうけど、そんな風に大事に扱われるだけの価値が俺にはあるんだろうか…。
「悪いな」
「え、何が? お茶は飲まなきゃ傷んで捨てるだけだし、お客も珍しいから俺は真惟が来てくれて嬉しいよ」
本気で言っているのが判るから凄い。俺だったら手伝わせた上、恩着せがましい口調であれこれ喋っているところだ。
たかだかお茶一杯といえど、そこには人間性が現れてしまう。
「やっぱお前にゃ敵わねえなぁ」
俺は苦笑した。恩の気遣いには卑屈さがまったくない。本当に自然に人を和ませる、それは恩がそれだけ芯の強い人間だからだろう。
一見しっかりしていそうに見えて、実はいつまでたってもガキで不安定な俺とは全然違う……。
「そう?」
恩は床にゴロンと転がって俺を見上げながら相変わらずにこにこしている。――そうして、いきなり言った。
「だったらさ、例えば俺が真惟とヤりたなあって思ったら、真惟は抵抗できなくて俺としちゃうのかな?」
「…ッ!」
ちょうどお茶を飲んでいた俺は、そのあまりな直球に噎せ返ってしまった。
「だ、大丈夫っ!?」
慌てて恩が背中をさすってくれる。
「そんなに驚いた?」
「……驚いたよっ!」
俺は涙を滲ませながら叫んだ。そんな俺のことも、恩は実に嬉しそうな眼差しで見つめてくる。
「で、どうなんだろう。俺、今すっごくヤりたい気分なんだけど」
「…………」
正直、俺は恩のこういうところがかなり好きだ。結局俺のような小心者は、こういう裏表なく屈託のない好意に弱いのだろう。
「なんだったら宿代がわりということで」
「……まあ、お互いフリーだってなら特に問題ねえ訳だけど……」
そうなることを全く予想していなかったと言ったら嘘になる。俺は恩に未練があるし、恩の気持ちさえ俺に向いていてくれるなら――。
どうやら昔恩が『あの人』を想い切れずに離れていったことが、俺の中でネックになっているようだった。
一晩だけの遊びをしたことはあった。だが、例えば仕事のことを抜きにしても、それを恩相手にやりたくはない。
恩の気持ちが気になるところだが……。
「ねえ、ダメ?」
寝っころがったままモソモソ近づいてきた恩が、胡座をかいた俺の足にトンと頭をくっつけて、じっと俺を見上げてくる。
そんな目で見られたら……俺の理性が……。
アルコールと、恩の黒目勝ちのうるうるうした瞳でのお願い攻撃からまだ理性が正常に働くうちに、俺は真面目に告白しておくことにした。
「俺は…前、別れたときだって恩のこと好きだったし、今でも恩以上に好きになれる相手は見つかりそうもないと思ってる。恩がいいんだったら、すぐにでも恋人として付き合って欲しい」
出来る限り真剣な顔を作って言ってみたが、果たして恩の反応は良かった。ほぅっと頬を赤らめて、小さく「ありがと…」と呟く。
――これならいいかな…。
俺は見上げる恩の唇に、そっと自分のそれを落とした。
2001.12.20
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