「――PWのシリーズは全てこのCスペースになるんで、とりあえず番号順にそこへ……あ、PFXですか。それは舞台下だけどまだ舞台上に置くグランドが届いてないんで、設置はそれが済んでからになりますから梱包は解かないであの階段脇に……」
フェア前日。いよいよ会場設置が始まった。恩は次々と搬入される楽器の配置のために、会場見取り図を片手に運搬係に指示を出しながらあちこち奔走していた。
恩が実際に働いている現場を見るのはこれが初めてだ。学生時代の記憶しかないためだろう、恩の仕事姿を見ながら俺は何やら奇妙な感じがした。
再会して一ヶ月が経ったが、あの後ほんの数回打ち合わせがあっただけで、恩と会うのも大抵そのついでだった。携帯やメールの交換はしたが、互いに忙しく、家も遠いし…と遠慮があって、やりとりしたのは携帯メールの数回のみだった。とても恋人同士といった感じではない。
確かにあの時、恩は「宿代がわり」で「今夜だけでもいい」とは言ったのだが、俺はちゃんと自分の気持ちを話したし関係を持った。普通ならそれで恋人と言って良いのだろうが、不満を抱きつつも俺としては珍しいことに、自分から積極的に動くのが怖くて未だに内心の全てを晒け出せずにいた。
あの日久々の再会を楽しみながら、互いに外見は変わっても中身は同じだなと笑い合った。しかしそれは大まかな部分で、実際はまったく同じではない。
俺も変わったし、恩も何らかの変化をしているはずだ。昔はあの人の上に気持ちのあった恩だが、今は――?
それが俺には未だに掴みきれないのだった。
だが、今はまず仕事だ。今回は販売にこだわらずここ近年の新機種を紹介するのが目的らしく、その配置や扱いには細心の注意がなされていることが窺えた。
かなり様々な楽器が運び込まれる中、恩はよどみなくテキパキと指示を出している。搬入される楽器の機種名だけで、ほとんど会場図に目を落とすことなく場所を指示する恩に俺は正直舌を巻いた。
電子楽器はパーツがいくつかに別れ、キーボードとスピーカーとで別々に搬入されてくるが、それらをまったく迷いなく指示するのだ。パンフを見ながらであれば、ピアノならば台数もそれほどないし、木目や黒・白などの塗りや大きさの違いで多少は俺でも違いが判りそうだが、電子楽器はかなり様々だ。大きさも奥行きも、似ているようで全て違う。同種の微妙に違う物も覚え込んでいるらしい。
それでも何万とあるわけではなく数十種類だから、その程度の自社製品なら全て把握していて別に驚くことでもないのかもしれない。だが門外漢の俺からしてみれば、段ボールに入っていても瞬時に区別できるのは驚異だった。
それらがきちんと音が出るよう、コードの接続なども行わなければならない。正直、半日くらいじゃ終わらないだろうと思ったが、ほんの二時間ばかりでほぼ会場設置は終了してしまった。
わかりやすく整然と並んだ楽器の眺めは、なかなか壮観だった。
ふと見ると、電子ピアノのほとんどに楽譜が置かれている。なんとなく興味が湧いて手に取ると、いつの間にか近くに来ていた恩が説明した。
「それは付録なんだ。大抵の楽器に二冊ついてて、一冊は楽器に内蔵されてる模範演奏と同じ曲で、もう一冊はその時々のポピュラー曲とかが初心者にも優しくアレンジされて載ってるよ」
もくじをめくって見せてくれる。
「デモ演奏、何か聴いてみる?」
よどみなく説明する恩に感心しつつ、俺はちょっと考えて俺でも知っていそうな曲を選んだ。
「じゃあこの、『子犬のワルツ』ってやつ」
「オッケー」
恩の指先が、キーボード上に配置されたボタンをいくつか押すと、本物のピアノそっくりの綺麗な音色で演奏が再現された。
「結構いい音でしょ」
恩が自慢げに言うのに、俺は感心して頷いた。
「ああ、大したもんだな。最近のはみんなこういうのが入ってるのか?」
「うん、ほとんどね。…って、パンフに書いてあったと思うけど」
そう言われ、俺はちょっとバツが悪い気がした。
「悪いけどそこまで読み込んでねえよ。俺の仕事はあくまで会場の運営だから、それに直接関係のあることを優先するし…」
「まあ、それもそうだね」
恩は気にしたふうもなく、あっさり納得した。
「ところでさ。今日は初日だから色々あるかもしれないけど、展示自体は六時までだし、夕飯は遅めになるだろうけど普通に食べに行かれるよね?」
「そうだな。準備とかは結構かかったけど、始まっちまえば何とかなるもんだし」
時間通りには閉場できないものだが、それから再び会場を整備し直して、反省会のようなことをして…。もう一つ担当している会場はあるが、そこは今は何も行われていないので、ここさえ終われば今日は解放される。どんなに遅くても八時にはならないだろう。
「今まで忙しさに紛れてゆっくり話もできなかったしさ。もし時間できそうだったら、今夜軽く…どう?」
「ああ、いいな。前半より後半のほうが絶対忙しくなるしな。今の内に飲みに行っとくか」
特に何も考えず応えた俺の言葉に、恩は意味ありげにフフッと笑った。
「? なんだよ?」
「いや、別にィ。ただ、飲むんだったらうちで飲んで欲しいと思っただけ」
そこで初めて、俺は誘われたことに気づいた。夕飯を口実にした、夜のお誘いだったのだ。
俺としたことが、不覚だ!
「仕事熱心な男っていいよねぇ」
恩は含み笑いをしつつ、すいと背中を向けて仕事へ戻って行った。
取り残された俺は、何とも面映ゆい気持ちを抱えて一人赤面していたのだった。
二度目の関係を持ってからは、互いに遠慮がなくなった。何度も肌を重ねる内に想いも強まっていく…。
恩と再会し、またこうして関係を結べたことは文句無しに嬉しい。なのにずっと俺は、あの別れたときのことが気になって仕方なかった。あの晩は大丈夫と思ったことが、日を追う毎にまた首をもたげてきて俺の心をじわじわと苛む。
恩の態度もはっきりしているし、こういう関係になって、つきあってる訳じゃないなどと言われたりはしないだろう。むしろそんなことを俺が少しでも疑っているとは恩だって考えてなどいないはずだ。
それなのに、俺のまだ気持ちは不安定なままだった。
多かれ少なかれ、未だに恩は昔のことを引きずっているように感じられた。それについて色々訊きいてみたい。素直に不安な気持ちを伝えて訊けば良いのだろうが、どう切り出せば良いのか判らない…。
その相手がまだ全く知らない奴か、逆にある程度知っている人間だったらもっと違っただろう。知らない奴なら目の前にいる恩のことだけ考えていられただろうし、知人と呼べるほどの奴なら今の関係の予測を付けて気を静めることもできただろう。
顔と名前だけ半端に知っているものだから、妙に気にかかって仕方がない。
「真惟も料理できたんだね。結構美味しかったよ」
恩の部屋で、空になった皿を前に恩が満足そうにフゥと嘆息した。
「俺も一応一人暮らししてるんだから、これくらいはな」
泊めて貰うのだから、いつも上げ膳据え膳でなく何かしようと、今夜は俺が食事を作った。ささやかな幸せに気持ちがほっこり暖まる。
こうした小さな積み重ねで、この心の小さな穴を塞ぐことはできるんだろうか……。
「腹が満たされたら運動したくなった」
俺は小さな卓袱台を部屋の隅へやると、フローリングへカーペットを敷いただけの床へ恩をゆっくり押し倒した。
「このままやるの? 背中痛くなるよ。布団敷くからちょっと待てない?」
「嫌だ。待てない」
「お子様だねぇ」
性急に自分を欲する俺にまんざらでもないようで、小さく笑う。
その唇を塞ぎ、柔らかな舌を自分のそれでからめ取った。わざと音を立てて吸い、早くも固くなっているソコを恩の腰に押しつける。恩のシャツをズボンから引き出して脇へ手を入れると、軽く汗ばんで吸い付くような肌の感触を楽しんだ。
いつもと同じような行為だが、いつもよりずっと余裕がなく性急だった。
「真惟……」
恩は何か言いかけて黙った。
顔を見たくて唇を離すと、二人の間にツーッと糸が繋がった。濡れた唇が壮絶に色っぽい。それ以上に、何か言いたげで、でも自らは何も語ってはくれない恩の艶やかな黒い瞳に俺は魅了される。
恩の手が伸びて、俺のシャツのボタンを外し始めた。俺も恩の服を脱がせる。
充分に暖房のきいた部屋は暑かった。汗をかいた肌を重ねる頃には、俺の我慢は限界にきていた。
「真惟、ゴム!」
後が面倒だからと、恩はいつもコンドームを付けさせる。抗議を含んだ声音にかまわず、俺は恩の足を抱え上げた。
「あ、ちょっ……」
逃げようとする躰を本気で押さえ込み、俺はむりやり侵入を果たした。
「アァ……」
恩が大きく喘ぐ。眉間に深く皺を寄せて辛そうに顔をしかめる恩と、想像の中の『本当は俺を大して好きでも何でもない恩』とが重なった。
俺を拒もうとするようにきつく締めつけてくる恩を、俺は力任せに揺さぶり続けた。
一組の布団で重なるように眠っている恩の体温を感じながら、俺はなかなか眠れずにいた。
『もう。何なんだよ一体!?』
強引に抱いたことを、恩はむくれながらも許してくれた。そんな優しさにも不安が募る。
俺は眠るのを諦め、そっと布団を出ると、何か飲もうと冷蔵庫を開けた。ビールを飲みながら、偶然そこへ目がいった。
冷蔵庫脇の壁にレターラックがある。そこにDMではない細い封筒が差し込まれていた。
この歳になると、友達からの手紙も大抵が年賀状や旅行先からのハガキか、もしくは寿の封筒ばかりになる。旅行で撮った写真を送ってきたりもするが、いかにも文面のみの手紙ですといった長形封筒は珍しい。
手紙の中身を見る気はなかったが、どんな奴が出してきたのかつい気になって手が伸びた。達筆で繊細なボールペン書きで『岩崎恩様』とある。裏書きを見て――俺の心臓がドクンと鳴った。
――有賀浩嗣
それは高校時代……いや、それ以前も以後も、長い間ずっと恩が好きだった人の名前だった。
今も文通するほど仲が良いなど、まったく聞いていない。
俺はざわめく気持ちを抑えきれず、いけないことをしていると考える余裕もないまま封筒の中身を抜き出した。
手紙の間から短冊のようなものが足元にパサリと抜け落ちた。拾ってみると、『御招待』と赤いスタンプの押されたコンサートのチケットだった。
――Hirotsugu Ariga Piano Recital――
紛れもない彼の横顔を写したチラシに、ごく短い手紙が添えられている。
“連絡ありがとう。手元にチケットが残っていたので送ります。時間があったら聴きに来て下さい。”
俺の手紙を持つ指先が震えている。
高校時代、恩自身はあまりピアノは弾かないようだったが、音楽は好きらしく、俺の知らないクラシックをよく聴いていた。
彼はピアノ教師だった恩の父親の生徒だったという。しかし中学へ入る前にやめたと聞いていて、それで俺は彼がピアノを止めてしまったのだと思っていた。だから恩と彼との共通項は、近所で高校が同じなだけだと思い込んでいた。
近所で会っても会釈する程度の仲で、恩の片思いだとも聞いていたから、二人の間にそうしたつながりがあるなど考えたことはなかった。
それがこの手紙は何だ――?
手紙を元通りしまいながら、俺は泣き出しそうな気分になっていた。
(やっぱり忘れてないんだ。恩の気持ちは今も昔も変わってない……)
その晩、眠れない俺の時間はやけにゆっくり進むような気がした。
その楽器フェアが開催中、恩はずっと忙しく走り回っていて、俺とゆっくり昼食をとる余裕もなかった。
俺が受け持っている催事場はそこだけではなく、この楽器フェアより少し遅れて始まった隣の会場での催しも管理しなければならない。意識してなるべくマメに顔を出すようにはしたが、なかなか恩と過ごせなかった。
あの手紙を見つけて以来、俺はバカみたいに臆病になっていた。自分が滑稽に思えるほど自信がなくなり恩の内心を伺ってばかりいる。
(こんなんじゃダメだ)
思うのだが、なかなか行動に移せないでいた。
その日、恩は幼稚園くらいの子どもの相手をしていた。
「『やっとこハムじろう』ってひける?」
どうやら子どもに演奏をねだられているらしい。
タイトルで最近流行のアニメだということは判ったが、俺はそれを一度も見たことがない。恩にはあまりテレビを見る習慣がないようだったから、おそらく知らないだろう。大体が部屋にキーボードもなかったし、今は弾けないんじゃないだろうか。
そう思ったら、案の定恩は困った顔で言った。
「うーんごめん、弾けないや。お兄さんは楽器のことは知ってるけど、弾くのは苦手なんだ」
「なんだー、つまんないの。わたしの先生なんて『ぽけモン』とかもすっごい上手なんだよー」
子どもの言うこととはいえ、思わずムカッときた。
(だったらその先生に弾いてもらえ。でなきゃ自分で弾け)
内心大人らしくないことを考えてしまったが、肝心の恩はというとまるで怒ったふうはなくにこやかに対応している。
「そうかあ、凄いねえ」
子どもの相手に慣れているというより、単に子どもが好きならしい。
「じゃあねー、これ知ってる?」
その子が片手だけの下手クソな演奏をしてみせた。偉そうな態度をしているのがおかしいほどたどたどしい弾き方で、何を弾いているのかさっぱり判らない。
「ううーん、難しいなあ。何だろう?」
「え〜、わかんないの? なんだ、全然知らないんじゃーん」
……イヤなガキんちょだ……。
そういえば親はどこに行ったんだろう。迷子だったらアナウンスをするなり対処しなければならない。だがまあ、恩もその子も落ち着いていたので迷子ではないのだろうと様子を見た。
しばらくすると母親らしい女がやってきて、「あら、すみません」と口先ばかり言うと、さっさとその子を連れていってしまった。子どもを放って恩に相手をさせていたのに、まるで悪いと思っていない様子に俺は腹が立った。
そんな相手にも、恩は笑みを絶やさず「またお越し下さい」と頭を下げて、振り返った子どもに手を振っていた。仕事だから…という雰囲気はない。心からそう思ってしているように見える(事実そうなのだろう)恩の態度に、ほとほと感心してしまった。
恩、と呼ぶと俺に気づいてこちらを向いた。その顔が嬉しそうで、逆に俺はげんなりした。
「お前って凄いな」
「ええ?」
「さっきの子どもだよ。見てたけど、すっげー生意気でムカついちまったよ。親も感じ悪いし。お前、よくそうやって笑顔でいられるよな」
「何言ってんの」
顔をしかめて言う俺に、恩はアハハと声を出して笑った。
「まあ、ちょっと物言いキツイかもしれないけど、そういうのが無邪気って感じがして。やっぱ子どもは可愛いよ〜」
「……」
俺にはアレを可愛いとは到底思えないのだが……。
恩は本気で可愛いと思っているらしく、愛おしそうに目を細めている。俺は無言になるしかなかった。
そういえば、恩はこういう奴だった。ちょっと人とずれているというか…。
人の内心なんて、他人の物差しで探ろうとしても所詮は無駄なのかも知れない。気持ちを察することはできても、考えを正確に読みとることは至難だ。
まじまじと恩を見つめる俺を、恩が「何?」というように見返してくる。
(勝手に悩んでないで、思いきって聞いてみるしかないよな…)
俺はようやく恩の気持ちを聞く決心をつけた。
最終日はアッという間にやってきた。
また明日片づけに来るとはいえ、もうこうして頻繁に顔を合わせることはなくなってしまう。今日、俺は恩と話をするつもりだった。
忙しいだろうし、全てが終わってからの方が本当は誘いやすいのだが、気持ちの切り替えをするためにはやはり今日だろう。
そう思って恩に声をかけると、「俺もちょうど誘おうと思ってたんだ」と言われた。
「まあ、最終日だしね。タイミングとしてそうなるんだろうけど、真惟とはほんっと気が合うよねぇ」
嬉しそうな恩に、秘かに緊張していた俺の顔も自然とほころんだ。
そうして俺はまた恩の部屋にいた。
恩は必要とあれば平気で嘘もつくが、変にごまかしたり曖昧にさせるような奴ではない。その点は変わっていないと信じている。
――俺の気持ちを全部お前にやるから。でもお前の気持ちを全て俺に向けて欲しいとは言わないから。だから、お前の心の中を全部見せて欲しい……。
「恩に聞きたいことがあるんだ」
食事の後片づけも終え、一服するときを見計らって切り出した。
「なに?」
腹が膨れたのと仕事の疲れのためか、少しぽうっとしている恩がテレビから俺に目を移した。
大してよく見やしないのを判っているので、俺は立ち上がってテレビを消すと、例の手紙を勝手に持ってきた。
「これ」
「ああ…」
差し出すと、俺が話そうとしていることが判ったようだ。
「聞きたいんだ、お前の気持ち。この人のことと…」
恩は軽い感じで頷いた。
「浩嗣さん、大学は行かないで留学したんだ。独学でずっとピアノやってて。それで向こうでいくつかコンクールに入賞して、今も向こう中心に活躍してるんだけど、今度日本で演奏会することになって。ずっと連絡してなかったけど、そのコンサートのことが載ってた雑誌経由で手紙出したら、チケット送ってくれたんだ」
手紙の中身を出しながら説明する。
「最初の先生だった俺の父さんはもう死んでるし……確かに昔は親しかったけど、今はもう全然なんの連絡も取り合ってなかったのにね」
愛しそうにチケットを手に取る。俺の内心は穏やかではなかった。
「それで? 恩はやっぱり、その……まだそいつのこと、好きなのか?」
「うん。大好きだよ」
――大ショックだった。
ただの好きではない。「大好き」とまで言われてしまった。
何をどうしたら良いやら判らなくなってしまった俺に、恩は小さく笑った。
「でも、結局は憧れだったのかもね。彼は確かに外見も中身も魅力的だったけど、自分と並んで歩いてる姿は想像つかなかったし。…いま思い返してみるとね。話してると楽しいし、一緒にいられるだけで嬉しくて…そのせいか対等に恋愛できると思ってなかった気がする。彼の嫌な面もたくさん見てるはずなのに、何故かひたすら好きだったなぁ」
恩の話は段々と熱を帯びていく。
「ハーフでただでさえ目立つ容貌してたのに、目の色も緑でどう考えても純粋な日本人じゃないから、学校じゃ差別していじめてくる奴とかいたみたいだけど、いつも颯爽としててさ。友達が少ないのも、逆に孤高の人っぽくて格好良くみえたりしてね。
それとピアノ。ものすごい上手くて、難しい曲もどんどんこなしてって凄かったんだ。自分の親のことそんなふうに言うのもなんだけど、ただのお稽古の教室だったのにあんな上手い人が通ってくるなんて勿体ない、父さんなんかじゃなくてもっと偉い先生のところに行くべきなのにってずっと思ってた。天才ってこういう人のことを言うんだなって」
「そうか…」
恩が熱心に語るのへ、俺はようやくそれだけ返すのが精一杯だった。
「でも……ちょっとゴタゴタがあってさ……急にやめることになって……」
恩の声のトーンがふいに沈んだ。
「一緒に遊ぶのもそれ以来なくなったんだ。まったく顔を見なくなって、父さんも、家族の誰も浩嗣さんの名前を口に出さなくなった。近所と言っても歩ける距離っていうだけですごく近い訳じゃなかったから、滅多に顔も見なくなって……そのまま何の関係もない間みたいになってたのに。彼がピアノを続けていて、プロの演奏家になってるって知って、いてもたってもいられなくて、つい手紙出しちゃった」
恩はちょっと泣きそうな顔で苦笑した。
「本当に好きだったんだな」
「うん、好きだよ」
さりげなく現在形で、恩はこっくり頷いた。
「実際に彼を好きだって意識したのはそうやって話さなくなってからだから、きつかったよ。まったく連絡も取り合わないし、関係なくなっちゃったのに、好きだと思い始めたら忘れられなくなって。高校で同じ学校だって知ったときは、内心穏やかじゃなかった。本当はずっと、話す機会がないか、もう一度、せめて友達になれないかと思ってた。でも学年も違うし、そんな機会はなくって、そうこうする内に、彼といつも一緒にいる子がいることに気がついてさ。俺が何もできないでいる間に、あの人はどんどん遠くなる…。自分から何もできないなら諦めるしかない、俺の気持ちなんてその程度のものだったんだって思ったけど、でもどうしても気持ちを断ち切ることができなくて。真惟ともあんなふうに終わることになったっていうのに、俺の中で未だに気持ちが昇華されないままで、何か澱んでるみたいにもやもやしたものが消えないんだ」
だから、苦しい……。
力無く呟いた恩に、俺は何も返すことが出来なかった。想像以上に、これは俺にとってきついことだった。
「…ごめんな、こんなんで付き合ったりして。でも彼とどうこうなることはないし、そのつもりもない。多分、一度会って話したらただの『昔は親しかった人』になると思うんだ」
恩がふいに顔を上げた。俺を見る眼差しに、静かだが熱い想いが込められているように感じられた。
「一緒に過ごす相手は、浩嗣じゃなくて真惟だと思ってる。不安にさせて悪いけど、それじゃダメかな?」
そんな話を聞かされて、そんなふうに見つめられたら……。
俺は大きく溜息を吐くと言った。
「ダメじゃないよ。しょせん百パーセントの気持ちを貰うことなんて不可能だし、一番が俺ならそれでいい」
恩の顔がぱあっとほころんだ。
ありがとね、と言って、恩は俺の唇へチュッと軽く口吻けた。
「正直言うとね、想いの強さはかなり違うかもしれない。あの人が何をしても、多分俺は失望したりすることないだろうし。でも真惟には腹が立ったり喧嘩することもあるかもしれない。あの人がこの世からいなくなったら目の前が真っ暗になるような気がするし、でも真惟がいなくなったら、その時は泣くかもしれないけど、一時だけであとは普通に生活していかれると思う」
「おいおい、恩。それって……」
憤然とする俺に、恩が笑った。
「ごめん。でもまあ、それはあくまでも今そう思うってだけだから」
「あのな…」
「『真惟がいない世界になんて生きてられない!』ってことには絶対なりたくないし」
「おい、お前…」
「でもこうして一緒にいると、すごく気持ちが充実していく気がする。高校で別れてからも何人かと付き合ったけど、真惟との関係が一番理想的みたい。そういうのが凄くいいなって思ってるんだけど、真惟はそういうのどうかなぁ?」
そんなふうに、綺麗な顔でにっこり微笑まれると……。
(相変わらずの小悪魔め……)
そうだ、こいつはこういう奴だった。柔らかな物腰で、実は強引なのだ。
それにどうやら俺の方が惚れているようだから仕方がない。どうしたって、多く惚れている方が負けるんだ。
「ああ、判ったよ。お前の一番好きな人はそいつでも、恋人は俺だけ。それでいいよ」
「うん! …ワッ!?」
俺は力任せに恩をガシッと抱き寄せると、頭をぐしゃぐしゃ撫で回した。
「もう、なにするんだよ!」
恩が声をあげて笑う。俺も笑った。
恩を覗き込むと、会場で子どもへ向けていたのと同じような、しかしもっと強い気持ちのこもった愛しげな眼差しが俺を見つめていた。
「もう疑うなよ。――俺は真惟が好きだよ」
過去のことは仕方がない。これからも気になることはあるだろうが、それを払拭できるだけの関係を築いていけばいい。
「ああ、判った」
ついさっきまで、あんなに悩んでいたのがばからしくなるほど、俺の気持ちは安定した。我ながら単純だが……。
「お前が一番好きだよ」
自然に微笑むと、俺は優しく恩へ口吻けた。
――後日談。
件のコンサートから帰ってきた恩は、楽屋でもらったという自分が持っていった何倍もの花束を抱えて帰ってきた。
それから数日間、恩は異様なまでの興奮が続き、彼がいかに素晴らしかったかを延々俺に語り続けるのだった……。
2002.1.1
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