(一時間は誰も帰ってこないな)
家族が出払っているのを確かめ、俺――橘琳(たちばな・りん)――は防音室へ行った。しっかりとドアを閉め、二重窓も閉まっているのを確認する。
外は、夏の空がゆっくりと暮れかけていた。
防音室は半地下になっていて、大分暗くなっている。それでも俺は照明をつけず、グランドピアノの蓋を開けるとポンポンといくつか音をとって、いつもの発声練習を始めた。
中学時代、変声期を迎えた声は酷いことになっていて、こうして練習するのが苦痛だったが、高校2年になった今は大分落ちついてきて、我ながら張りのあるいい声が響く。
十分ほど発声をすると、俺は昨夜自室でこっそり暗譜した曲を歌ってみた。
――そう、こっそり。
俺は物心ついた頃から歌っていた。母が声楽をやっていた影響で、ずっと童謡やクラシックの曲を専門の先生に師事して習っていたのだ。今はもうやめてしまったが…。
理由は、強請される毎日の練習が苦痛だったためと、当然のように中学は専門科へと受験準備をさせられそうになったことへの幼い反発心からだった。自分の将来をそんなに早く決めようとする母や先生への反抗心から、俺は声楽をやめてしまったのだ。
それなのに、俺は結局歌を完全にやめることができなかった。こうして、母の目を盗んでこっそり一人で練習を続けている。
意地で見つかるわけにいかないから、こうして内緒で防音室へ入り込み、電気もつけず、楽譜は自室に隠して声に出さずに暗譜して……。
真夏の密室で歌い続ける俺の頬を、幾筋もの汗が伝い落ちる。
「カラオケだったら、こんな気兼ねなんかいらないのにな」
俺は自嘲した。今更こんなことを続けても意味がないと判っているつもりだが、何故かやめることができない……。
結局俺は、昔も今も「歌」という鎖に縛られたままなのだった。