ON WINGS OF SONG


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「ところで琳君」
「はい?」
「突然で何だけど、歌を聴かせてもらえないかな?」
 俺は長門さんの奢りのバニラアイスがたっぷり乗ったアイスコーヒーを飲んでいたが、そのお願いにきょとんとしてしまった。
「別にいいですけど…?」
 今まで、請われればいつでも歌っていた。それを今更どうしたのだろう。
 電話で呼び出されていなければ、本当だったら今は例の楽譜に目を通して練習しているはずだから、余計な時間を割かせてしまうという意味で言ったのだろうか。でもそれにしたって、一曲歌うくらい、大した時間もかからないのだが。
 それに山下たちは俺を受け入れることを決めてくれているのだし、後は俺が彼らに自分の力を再確認してもらうだけのものを見せられればいいのだから切羽詰まってもいない。
「ああ、言い方が悪かったね」
 長門さんは考え込んだ俺に苦笑した。
「いつものカラオケじゃなくて、もしできたら琳君が昔習ってたっていう歌を聴いてみたいんだ」
「声楽ですか?」
 俺は面食らった。
「ダメ?」
「いえ、ダメってことないですけど……長いこと歌ってなかったんで」
 これは半分本当で、半分嘘だ。家での練習は毎日欠かさずしていたが、人前ではもう何年も歌っていなかった。実力を保持するための訓練的な練習として歌っていたのであり、人に聴いて貰うのを意識していなかったという意味で、歌っていなかったと言ったのだった。
 改めて人前で披露するとなると、少々どころではなく緊張した。
「えっと……ちょっと発声練習してもいいですか?」
「勿論構わないよ。御覧の通り、閑古鳥も鳴いてることだし」
 ロフトはバーとしての顔を見せる夜の方が人が入る。平日の真昼ならランチに来る会社員もいるようだが、昼でも夜でもない半端な時間の今は哀しいほどに閑散としていた。
「じゃあ、遠慮無く」
 俺はカウンターの足の高いスツールから下りると、なるべく広く声を響かせるため店の奥へ向いて発声練習を始めた。
 まずは音を取るため、軽く声を出して完璧に覚え込んでいるA音を取る。腹筋を意識しつつ横隔膜を開くように一瞬で息を吸い込み、頭のてっぺんから抜けるように声を響かせる。視線は常に前方やや上へ。
 低音から高音まで充分に喉が慣れ、呼吸がスムーズにいっていることを確認したところで俺は長門さんに訊いた。
「曲は何がいいでしょうね。何かリクエストとかあります?」
「そうだねぇ……僕はクラシックの歌はほとんど知らないからなぁ……」
「俺も歌詞をちゃんと覚えてる曲ってあんまりないですけど。カラオケにも唱歌なんかは入ってるみたいだけど、もしア・カペラでいいんならメロディーだけで歌いますよ」
 そう言いながら、実は内心何をリクエストされるかとドキドキしていた。知ってはいても技術的に難しくて歌えない曲もまだあるのだ。歌詞がないと締まらない曲もある。
 何より自信がなかったのは、正式に習っていたのが小学生までだったことだ。変声期前に習った曲は童謡や唱歌がほとんどだ。いかにもクラシックというオペラの歌曲なども多少は自分で譜を見て歌っていたが、レッスンで見て貰った曲とそうでない物との差はやはり歴然としている。
 自分の耳やセンスにどんなに自信があろうと、出来る限り人に聴いて貰って意見を聞く方がいい。自分一人で出来ることには限界があるのだ。
 そうしてリクエストされた曲は、ある意味半端なものだった。
「じゃあ、琳君にふさわしいタイトルってことで。『歌の翼』なんてどうかな?」
「いいですよ」
 俺はちょっとホッとしながら承諾した。
 ピアノ曲など様々にアレンジされて楽しまれているメンデルスゾーンの『歌の翼に』は、女声で歌われるのが一般的だろうが、オペラなどと違って単独で歌われるので、自分の喉に合わせて移調させれば不自然でなく歌える。歌詞は覚えていないが、メロディーが美しいので気にはならないだろう。
 俺は数年振りに人前で披露する声楽に、多少の緊張を覚えつつ歌い始めた。
 クラシックではマイクは使わない。ポップスでは語りかけるような自然な声を出すが、クラシックは広いホールで端の席どころか扉の向こうにまで朗々と声を響かせるような発声をする。
 歌いながら、俺は徐々に喉が、肺が、横隔膜が……躰が開いていくのを感じた。想いの深さを声量の豊かさで表現していく……。
 コーダ(終止部)に入る前、4拍分伸ばすところを充分にフェルマータをかけ、最後は消えるように密やかに、夢見るように歌い終える。
(気持ちいい……)
 いつの間にか歌うこと――自分の出す声を追うことに夢中になっていて、周りのことなどみんな忘れていた。長門さんの拍手でようやく我に返って、そんな自分に口元が緩んでしまった。
 本当、俺って歌バカなんだよな……。
「凄いな! 琳君の本領発揮って感じだね。これはポピュラーを歌わせようなんてまずいことをしたかな」
 長門さんは俺なんかの歌に随分と熱心に聞き入ってくれていたようで、そんな心からの賛辞にくすぐったいような気がしつつ素直に嬉しかった。
「そんなに言ってもらうほど凄くもないと思いますけど……でももし山下達とバンドをやってくことで、俺にとってだけじゃなく、互いに負担になるようだったらすぐ転向しようと思ってますけどね。俺、実を言うとまだ迷ってるんですよ。やっぱり声楽って楽しいし、一曲一曲の小さな塊っていうだけの歌より、連作とか大きな話の一つになってる歌の方が深みもありますし……」
「まぁ、若いんだから転向したくなったらいつでもできるだろうけど。色々難しいんだねぇ」
 顎に手を当てて「うーん」と唸ってしまった長門さんに、俺は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「実は、もしできたら両方できないかなーとも思ってんですけどね」
「え?」
 長門さんは予想通りの反応を見せた。驚いたように俺を見る。俺は説明した。
「大学、特に何をやりたいって物もないですし、強いて言うならやっぱり歌をやりたいかなと思って。今からならまだ間に合うと思うから音大、目指してみようかなって…。これはちょっと前から迷ってはいたんですけど」
 俺は本音を晒すのが気恥ずかしくて、まくしたてるように早口で言った。多少喋りすぎたかも知れない。
「学科は大学にもよりますけど一般の大学ほど難しくはないですし、実技やソルフェージュ関係も実はあんまり心配してないんですよ。自信がないとしたら副科のピアノですけど、まだ一年以上あるんだから大丈夫かなって」
 今でもごくたまに、母に付き合わされて音大志望者や音大生の出演するような発表会などを覗きに行くので、大体どれくらいの実力があればいいのかは判っている。後は当日までの調整と、自分の気持ちの問題だけだ。
「やりなよ!」
 長門さんは自分のことのように嬉しそうに言った。
「音大って、別に歌だけ教わるんじゃないんだろう? 他にも音楽全般を専門家に習えるんだ」
「音楽のことを何でもって訳じゃないでしょうけど、まあそうですね」
「だったら行きなよ! 琳君が行かなかったら誰が行くの!?」
 そこまで言われると、嬉しいよりもいたたまれないような恥ずかしさを感じてしまう。
「それは言い過ぎですよ」
 興奮してまくしたてる長門さんに、俺は赤面しそうになるのを抑えながら苦笑していた。
「でも、まだ知りたいことは沢山あるし。きっと俺の知らないこと、まだまだ沢山あるでしょうしね。女の先生にしか習ったことがないんで、いろんな人に習ってみたいなって気持ちもあるから。――でもそうすると、ポピュラーを歌うには声が違いすぎちゃうと思うんですよね。どっちの歌い方もできるように出来ないかなぁと思うんですけど……」
「琳君なら大丈夫…と思うけど、うーん。なかなか簡単にはいかないものなんだねぇ。お母さんとか、その昔習った先生とかに相談できないの?」
「そうですね。相談してみますよ、素直になって」
 俺は頷いた。
「じゃあ、この話はここまでってことで。せっかくだからもう一曲ぐらい何か歌いましょうか?」
「そうだね、聴かせて欲しいな」
 長門さんは嬉しそうににっこりすると、店内で俺の歌を一番よく聞けそうな席に移動した。
 俺はそれを目で追いながら少し考え、思いついた曲名を言ってみた。
「またジャンルが違いますけど、ポピュラーっぽい感じでミュージカルの『CATS』から『メモリー』なんてどうです?」
「ああ、有名なやつだね。あれの中間のとこ、好きだな」
「俺もです」
 自分が思っているのと同じことを言われ、俺は思わずニヤッと顔が笑ってしまった。
 長調から短調に転調し憂いを帯びる中間部は、思いきり気持ちを込められるので俺にとっては歌いやすい。ミュージカルでは老婆や子猫の役が哀しく、または可愛らしく歌っているが、テノールがコンサート等で単独で取り上げて力強く歌っているものもあって、俺はそれが気に入っている。(蛇足だが、この時俺が歌った歌詞はミュージカルで歌われるのとちょっと違い、T.ナンが手を加えたものだった。)
 「夜が明け、また新しい日が始まる」――その歌詞にふさわしく、転調を繰り返してまた最初のメロディーに戻ったところで俺はより明るく生き生きと歌い上げた。
 長門さんはまたしても、ちょっとオーバーではないかと思うくらい拍手をくれて、盛大に溜息をついた。
「ハーッ。やっぱりいいねぇ!」
 その一言だけで充分だった。俺の顔は自然に笑み崩れた。
「これ、俺も歌ってて気持ち良かったです」
 この後、他にもイタリア歌曲から何曲か歌った。
 そのうちの一曲に『愛の喜び』を選んだ。美しいメロディーは結婚式に使われることもあるようだが、実は失恋の歌だ。
「なんだか思わせぶり……って思うのは考えすぎかな?」
 長門さんがニヤッと口の端で笑うのへ、「長門さん、オヤジっぽい」と突っ込んでやった。
「それは考え過ぎです。大体そんなこと言ったら、歌なんて恋愛を扱ってんのばっかじゃないですか」
「まあ、そうだけど。やっぱりタイトルって気になるよね」
 長門さんが含み笑いをしたまま、つと立って俺の肩を掴んだ。今更その腕を拒絶する気はないので、俺はされるままに口づけを受けた。
 でも、こうした行為にはまだ慣れない。胸の中に抱き込まれて、心臓が早鐘を打つという表現そのままに脈打っていた。暖かい腕に抱かれているのは安心感もあるけれど……。
 そうして大人しく腕の中に収まっていると、長門さんが俺のシャツを捲って素肌に触れてきた。微妙にくすぐったいのを我慢していると、次第にただくすぐったかったのがむず痒い感じになり、体温が上がっていく感じがしはじめた。
 更にもう片手が前に触れて、俺を追い上げようとする。俺は反応してしまうギリギリのところで意を決して両腕を突っぱね、密着した躰を離した。
「……や、やばいですって」
 声がうまく出ず、少し掠れた。
「またあんなことされたら俺、ちゃんと練習できなくなっちゃうよ」
「そうかな、ちょっとくらい大丈夫じゃない?」
「大丈夫じゃないです。余計な体力使いたくないです」
 少し冷たい感じて拒否を伝えると、長門さんは残念そうに短く溜息をついて俺を離してくれた。
「三日後の合わせが終わるまでおあずけかぁ。切ないね」
「ウ……」
 もしかして、三日経ったら解禁とか思ってないだろうな?
 昨日の今日で、いきなり躰の関係まで考えることは俺にはできなかった。長門さんと付き合うことにしても、一人になって少し考えて気持ちの整理をしたいし…。今更考えるも何もないのかもしれないが。
「じゃ、続きは三日後に……ね」
(ウッ。やっぱり……)
 俺は曖昧に「はぁ」と答えて、否定も肯定もしなかった。
「それじゃ、また合わせの時に」
 いつまでも離れがたい様子で店先まで見送りに出てくれた長門さんに軽く手を振ると、家路についた。
 また一つ、宿題が増えてしまったかな――。

 

 その晩。俺は夕飯の支度をする母の背中に言った。
「今日からこの時間、防音室借りるから。いい?」
「……えっ!?」
 数瞬あって振り返った母は、目を丸くしていた。
「勿論いいわよ!」
 そうして見るからに嬉しそうな顔で返事をくれた。
 俺はあれこれうるさく言われない内にと、「じゃ、そういうことだから」と言い捨ててさっさと逃げてきた。
 防音室に入り、重いドアを閉めると心底からホッとした。
 部屋に置かれたピアノを、何だか初めて見るような心持ちで眺める。そっと蓋を開け、愛おしい気持ちでポーンと中心のA音を鳴らした。部屋に聞き慣れた音が響く。思わず頬が緩んだ。
(さて、まず何から始めるかな)
 俺は異なるジャンルの歌を歌い分けるという貪欲な計画を実行するための、新たな練習を始めた。

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