約束の三日後、俺は軽い緊張を覚えつつ、ロフトで最も広いその部屋へと向かった。
ドアの前に立つと、完全な遮音が出来るわけではない防音室の中から微かに楽器の音が漏れ聞こえる。俺は意を決して防音室のドアを開けた。
中にいた3人が一斉に俺へ目を向けた。
「琳!」
山下が真っ先に嬉しそうな声を上げた。
「来たな」
目白がにやりと笑い、その細められた目元にほっとした。
「……じゃ、まあ合わせてみるか」
とりあえずの笑みを浮かべていた初対面とはうってかわってポーカーフェイスの片瀬さんが、ボソリと言った。
俺は「ああ」と頷いた。
今では俺のものになった楽譜を鞄から出し、全て暗譜してきたオリジナル曲のうち最も自信のある一曲を指定する。それぞれが、自分のパートの楽譜を取り出してチェックの目通しをしたり、きちんと弾けることの確認にぱらぱらと音を出したりし始める。
俺も部屋にあったマイクを手に取り、具合を見るための声出しを始めた。
『AZURE』。
借りに付けていたバンド名を、正式に決めた。アジュール、紺碧という意味だ。
夏に結成したバンドだから、青空をイメージしたこともあるが、昔聞いた話から考えたことが大きい。
地上から見る空は水蒸気や塵で濁っていて、本当の青空は人が生きていられないような過酷な砂漠のような土地ででもないと見られないのだという。それはもしかすると、天国や地獄と同義語なのかもしれない。俺達は、音楽を作ることでそうした生きている人間が本来なら味わえない物を感じさせたい。
いくつか上げた名前の候補から選んだ言葉だが、多分そんな俺の気持ちに賛同してくれたんだと思っている。
俺が加わってから、練習を始めるとすぐに欠点の言い合いになることが多くなったようだ。といっても、それは相手を排除するための揚げ足取りではなく、同じメンバーとして良い物を作り上げていくための、必要な話し合いだ。
喧嘩にも似た、真剣勝負の世界。
神経も使うし疲れるやりとりだが、そうした感覚を味わえるのがどんなに幸せなことか、俺は表に出せない心の奥でじんわりと噛みしめていた。
問題は確かにあるし、いつまで出来るのかも全く判らない。だが技術的には本当に申し分無い連中で、こんな充実した練習をできるのは生涯の間でも少ないのでは…などと少しセンチになって思ったりした。
夏っぽく海のシーンを入れた曲を詰めているときだった。メロディーは悪くないがどうも全体が単調な感じのする曲に、俺は言った。
「これ、前奏だけでもちょっと音階変えて異国っぽくしてみたらどうかなあ? 片瀬さん、『慈雨』でそんな感じのメロディー作ってたじゃん」
一緒に練習し始めてすぐ、俺の口調はすっかりタメ口になっていた。夢中になると、いちいち敬語でなんか話していられない。
「ああ、あれか。でもこれをそうすると繋がり悪くなるし、全体を変えるのは歌詞とも合わないし、できねえよ」
「いや、そういうことでなくて」
こんな話を始めると、つい俺と片瀬さんの言い合いになる。山下が時々ちょっと口を挟んで意見を述べるか、ちゃかしたい気分の時や、俺と片瀬さんが激しく言い争いそうになると目白が割って入る、というのが定番になりつつあった。
「まだバンドとしてもどんなふうにやっていくかって決まってないんだし、そしたらこの曲にはこういう感じ、みたいな決めつけする必要はないんじゃない? 逆にむしろ俺としては、そういう固定観念を引っくり返すようなことしたいんだけど」
「どうするってんだよ?」
俺はようやく自分の中で見えてきたものを、初めて口にしてみた。自分でもまだよく判っていないことだからうやむやな言い方になってしまうが。
「前々から思ってたんだけど、こういうポップスって聴く人が限定されちゃうだろ、結構歳がいってる人が聴いたって楽しい曲とかもいっぱいあるのにさ。昼のドラマで使ったり、演歌歌手がコンサートでちょっと歌うのは聴いてても、自分からはCDを手に取ろうとしない人が多いと思って。いきなりギター掻き鳴らす前奏とかだと余計に聴きにくいんじゃないか? で、反対に耳慣れた感じの音で始まれば、後は割にすんなり聴けるんじゃないかと思って」
「なんだよ、それ。全然意味わかんねえよ?」
俺はう〜んと頭を掻いた。
「つまり大雑把に言うと、どんなジャンルが好みの人が聴いても違和感無く楽しめる感じにしたらどうかな、ってこと。一曲の中に、そういう別ジャンルの色んな要素を入れられたら面白いだろうし。メリハリつけたいんだったらそうやって雰囲気変えるのが一番じゃないか?」
「んなこと言ったってよ」
片瀬さんは思いきり眉を寄せた。
「何をしたって結局はナントカ風ってどこかのジャンルに収まるもんだろ。制限が全くないものなんか出来っこねえし」
「ま、ね。どうしてもそういう肩書きみたいのは付くし、それぞれの良さは否定できないけどさ。例えばクラシックみたいに優雅に始まって、いきなりエレキ入れたりとかってびっくりして面白いじゃん。そういうのやってる奴、もういるけどさ。けど単なる味付けってだけじゃなく、好き嫌いはともかく誰が聴いても『この曲はいい』って言うようなのをちゃんと突っ込んでやってみたいんだ」
「ンなこと言ったって、俺らがやるならやっぱ俺らくらいの年齢を考えて作るし、いい曲だと思ったらそんなのこだわりなく聴くもんじゃないのか?」
「どうかな。とっかかりを作る必要はあると思うよ。それと俺が言いたいのはつまり、いろんなジャンルの良いところを取って、『ここの曲は何々だ』みたいに一括りにできないようちゃんと消化させた新しい曲を作れたら面白いし、それこそ言葉通りポピュラーな物ができるんじゃないかってこと」
「それはかなり難しいんでねえの?」
呆れたように目白が口を挟んだ。
「でも、やりがいあるだろ?」
「琳が言うのはつまり、どうせ作るなら万民性のある曲にしたいってことだよね。で、新鮮さも欲しいと。…まあ今すぐには難しいだろうけど、目標としてはなかなかいいんじゃないの?」
山下がにっこり笑って言う。
「……ま、売れ線を狙うとしたら、それくらい訳判らねえ方がやりがいはあるけどな」
またひねくれた言い方で、でも片瀬さんがようやく賛同の意を示した。俺の胸にポッと火が灯った気がした。
「えっと、一応ちょっと浮かんだフレーズみたいのがあるんだけど。まずここまでを同主調の短調にして、それも和声的短音階にして……」
「あ〜、そういう小難しいコトバはいいから。音で聴かせろよ」
俺は苦笑した。このメンバーの中で唯一目白さんだけ理論を学ぶ気がないのだ。まあ、この人にそれは必要なさそうだけど。むしろ、そういうことを考え始めたら個性が消えそうな気もする。
俺は自分のイメージを具体的な音にしてみた。ハミングで歌ってみる。
「あれ、ここってちょっと合わないかな?」
「そういうのはこう変えるんだよ」
途中でちょっと詰まったが、片瀬さんがギターで訂正してくれた。
「だったらおれの伴奏も変えたいかな?」
山下が言って、シンセを鳴らし始める。あらかじめ機械に記憶させておいたベースの音を消して、和音を分散和音に変える。それだけで俺がイメージした優雅な異国の雰囲気がすっかり安定する。
「……すげえや!」
思わず呟くのへ、片瀬さんが鼻で笑った。
「当然だろ、俺が認めたメンバーなんだから」
俺は思わずハハッと声に出して苦笑した。
――ここが俺の、帰る場所。
『AZURE』が動き始めてから3週間が過ぎた。もうそろそろ夏休みも終わりだ。
メンバーはとりあえず、片瀬さん、目白、山下、俺の4人でとりあえずやっていくことになった。週2〜3日のペースで定期的にセッションするようになり、俺は人と合わせることがこんなにも楽しいことだったのかと初めて開眼した思いだった。
駅前や道端で歌うという経験もした。恥ずかしいは恥ずかしかったが……なんというか、病みつきになりそうな快感があった。俺達の演奏に足を止める人があんまり増えてきたので、遠出してもっと広いところでないと公道ではちょっと難しくなってきたが。
今はもう来週に控えたコンテストのための調整に入って、猛練習の毎日だった。もっとも、ヴォーカルは楽器ほど長時間はやれないから、俺はただ聴いているだけの時も多いけど。
片瀬さんの曲は編曲がいまいちだと思っていたが、山下がパソコンで何やらいじって作ったらしい音をスピーカーに繋げて合わせてみたら、ビシッとしたかなり見事な曲に仕上がった。
「なんだ、これなら何も問題ないじゃん」
俺が言うのへ、片瀬さんがいいやと首を振った。
「今はベースがいないから仕方ないけど、やっぱライヴでやるにはもう一人くらいいないと。もっと幅のある音作りたいし、機械に頼った演奏じゃな」
言っていることはもっともだが、この人は必ず反対意見を言わずにいられないようだ。その辺はまあ、「仕方ない」と割り切っていくしかないが。いつかそれで破綻しそうな気配はあるけれど……。
ほんの一ヶ月前、俺は自分に何ができるだろうと考えていた。今は、胸を張って「俺には音楽がある」と言える。そうして、この幸福感をもたらしてくれることになった長門さんも、俺のすぐ側にいてくれる――。
長門さんとはあれ以来、上手くやっている。どちらかというと、上手いことされているといった感じだが。店の定休日にはデートらしいこともして、泊まりも何度かした。
まあ、そんな感じだ。
「ウーッ、あっちーあっちー!」
練習を終えて部屋から出た途端に、目白が汗だくのシャツを脱ぎ捨てた。冷房はかけているが、それほど広くもない部屋に男4人が詰め込まれて夢中で合わせているのだ、室内温度は下がる間がない。
「狭い部屋でごめんね」
長門さんはそう言って、俺達全員に冷たい飲み物を渡してくれた。俺はそれを飲みながら、何とも言えない充実感を味わっていた。疲労感が心地良い。
信用できるテクを持ったメンバーと、スタジオを借りるよりずっと安価で部屋を提供してくれる半スポンサーで恋人の長門さん。
(俺って見る目あるなァ!)
片瀬さんのセリフじゃないけど、満足していい気分で伸びをする。
ふと思いつき、俺はその手を広げたまま長門さんに言った。
「いつか…近い将来にさ、有名になっていっぱい稼げたら、長門さんにでーっかいホール、建ててやるよ!」
長門さんは一瞬きょとんとし、次いで破顔すると「期待してるよ」と心から嬉しそうに笑った。
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