♪
注 意 ♪
この章は、琳と長門の二人が延々と音楽について語り合っているだけです。
マニア(苦笑)以外は読み飛ばしをお勧めいたします。
- 5 -
ふいに、今の俺の考えを長門さんに知って欲しいと思った。今まで誰にも話したことのなかった昔を話さなければならないが、この人になら聞いて欲しい。
「俺……物心ついた頃にはお袋にいろんな童謡とかの歌をしこまれて、絶対音感の訓練もさせられてたんです。そういうのが特別なことだなんて思ってもみなかった。それで幼稚園に行って、みんなやたら怒鳴って音程なんてめちゃくちゃで歌ってるの聞いて、すごいびっくりしたんですよ」
唐突に語り始めた俺を、長門さんは時々頷きながら静かに聞いていてくれた。
「そのことをお袋に言ったら、そんなひどい幼稚園だと思わなかったってひどい憤慨して。そこって大学の付属幼稚園だったんですけど、それでとてもいいって話を聞いたのにって。実状は、保母がそこの新卒生ばっかで大学生の実習とかも頻繁にしてて、要するにベテランじゃない人達の実験場みたくなってたんですよ」
「ありゃ。それは大変だ」
「ええ。で、俺、いきなり幼稚園を換えさせられたんですよ。学校法人とかって、もっとバリバリ教育してるようなとこに」
「幼稚園を換えちゃう! すごいお母さんだねえ」
長門さんは心底驚いたようだった。
「そこは歌中心のカリキュラムが組まれてて、児童合唱団なんかもあって、歌やピアノの先生が保母さんとは別に雇われて来るんですよ。それはそれで別に構わなかったんですけど……そういえば俺、その幼稚園でどうしても気になってしょうがないことがあったんですよね」
「ん?」
「つまりそこって、音楽に強い感心を持ってる親が特別に、通園バスじゃなくて定期持たせて普通のバスで通わせるようなとこなんですよ。で、外国はどうか知りませんけど日本だと、そこまでして音楽させるのって普通は女の子じゃないですか」
「そうかもねえ。…ああ、じゃあその幼稚園って」
「そう、男の子が全っ然いなかったんですよ」
そのことも、誰にも話したことのない苦い思い出だった。
「まあ、それはもう済んだことっていうか、今どうこう言っても仕方ないんですけどね。俺が言いたいのは、幼稚園のことじゃないんで…。――小学校に入ってからはお袋の友達でプロとして舞台で活躍してるような人のところで教わるようになって」
「ちなみにそれは、どのくらいの年数やってたの?」
「ええと……きちんとしたレッスンを受けるようになってから計算すると、やめたのが小5の夏だから、四年とちょっとですね」
「それだけ続けたのにやめちゃったんだ」
「そんな勿体ないってほど大したことはしてませんよ。天才ならいざ知らず、それこそ十年、二十年続けないと」
「そんな大変なものなの?」
長門さんはひどく意外そうな顔をした。
「昔のアイドルと違いますから、ほんの数カ月のレッスンでデビューって訳にはいきませんよ。そんなんで人を感動させられる歌を歌えるようになれると思えます? よほどの天分でもない限り、地道な訓練と経験の積み重ねはしないと」
「でも琳君は充分上手いと思うけど」
納得できないらしい長門さんに、俺は付け足した。
「それはプロに対する耳で聞いてる訳じゃないからですよ。それに発声一つ取ってもクラシックとポピュラーは全然違うものだから」
「そっか、演歌なんかで下積み何年っていうのは僕は余計な大変なことみたいに思えてたけど、琳君に言わせるとそれが本来あるべき姿って感じかな」
ちょっと違う気もするが、俺は頷いて肯定した。
「好きで頑張って努力を積み重ねて、初めてその人の天分が芽を出してくるっていうのが本当だって、俺は思いますけどね」
我ながら生意気なこと言ってるなあ、と俺は内心苦笑した。
「別にポップスやってる人のことバカにする訳じゃないですよ。好きな曲いっぱいあるし。ある一定の年齢にしかできないものっていうのも確かにあるでしょうしね。でも本人がどういうつもりだろうと半端な物は所詮半端だし、未熟さを売りにするってのは普通は不可能ですよ」
「ああ……」
俺のわかりにくい説明を、長門さんは何とか理解しようとしてくれているようだった。
「それは確かにそうだろうね。ポップスに関して言えば、僕の考えとしては普通にテレビやラジオなんかから与えられる物だけで生活してるぶんだと売れてる人しか目に留まらないから、そう思われる部分もあるんじゃないかな。マイナーな人の方が、却って実力があるから好きなことして少数を相手にでもやって行かれてるんだろうし、そうするとそれなりの愛好家でないと耳に入らないってだけのことなのかもしれないよ」
「そうですね、それはあるのかも」
俺は頷き、話を進めた。
「それで、そういうこと考えて行き着く先って、つまり『俺に何ができるんだろう』ってことなんです。俺は歌は好きだけど、実はすごく狭い範囲でしかものを見れない人間なんじゃないかって思えて…。結局、俺は頭が固いんでしょうね。カラオケやって、みんなに楽しんでもらえてすごく嬉しいくせに、昔習ったクラシックのきちんとした発声を崩してしまうことに心のどこかでいつも抵抗持ってるんです」
「そうか、琳君の歌い方って声の出し方からしてもう素人とは全然違うけど、だからって今時のポピュラー歌手とも違うよね。どんな音程のどんな声を出しても、しっかり声に芯が通ってる。張りがあるっていうのかな」
俺はうなずいた。
「それがつまり、クラシックなんですよ。アゴーギグ――揺れとかもあるんですけど、それもきっちり計算されて割り切れちゃう訳です。感情は勿論あるんですけど、それも理屈で割り切って、ここはこうだからこうするんだ、って計算できるまで考え込まれたものでなければいけない」
そこが欠点にもなり、魅力でもある。
「本当言うと、どんなに好きでいい曲だろうと、俺はマイクを通してしか歌えない歌じゃなくて、広いホールの扉の外にまで声を響かせる声楽に俄然魅力を感じてるんです。こうしてカラオケするのもすごく楽しいし、まだまだって思うけど…あの歌をもう一度やりたい、って。……クラシックが嫌でやめたはずなんですけどね……」
本当に、我ながら呆れてしまう。もう歌はやらないとお袋に宣言してから、俺は半年もの間そのことで喧嘩しっぱなしだったのだ。
「歌をやめたきっかけとかって、あったの?」
「そうですね、色々あるような気がするけど、一番は近所の金管バンドかな。隣の学区の小学校に金管バンドがあって、それがなかなか上手かったんです。その学校の隣が公園なんで遊びながら時々見物してたんですけど、男の子もけっこういてドラムとかペットとか、すごいカッコイイ! って羨ましくなっちゃって。それに比べて俺は何だって童謡なんかやってんだろうって」
長門さんがしみじみと頷いた。
「そういうのって、気にしだすともうダメなんだよな」
「そうなんですよね。で、智久が俺の一番長い友達なんですけど、親しくなったのはクラス替えがあって3年生からで、その頃にはうすうす自分のやってる声楽ってのはあんまり男らしくない、カッコヨクナイって思われてるらしいって気づきはじめてて、それからずーっとひた隠しにしてきたんです。今日バレちゃいましたけどね。
あ〜あ……せめてヴァイオリンとかだったら良かったのに。ってまあ、俺は異様に不器っちょだから無理だったろうけど」
「勿体ないことを。せっかくあれだけ歌えるのに」
「そんなことないですよ」
俺は一応謙遜しておいた。
「そういえば思い出した。親に『やめる!』って宣言したきっかけ」
「何だったの?」
「中学からどこか音楽科の学校に行ったらどうかって話があったんです。そのために色々と準備しなきゃいけなくなって、ソルフェージュ――コールユーブンゲン(新曲視唱)とか聴音と、あと楽典とピアノと…って、いきなり山ほどの勉強しなきゃいけなくなって急にものすごいスパルタさせられたんですよ。遊ぶ時間どころか睡眠まで削られて、俺、キレちゃいました。――こんなん冗談じゃねぇ!! って」
俺はちょっとブルーな気持ちになりつつ口の端を上げて薄く笑うと、氷が溶けて薄くなったウーロン茶を一口すすった。
「でもそれって、受験の苦労のことじゃなくて勝手に盛り上がっていく親の方に腹立ててたんですよね、今思うと。自分の人生を勝手に決められていくような感じが嫌だったんです」
「そういうことって、どこの家庭でもあるものなんじゃないの」
「まあそうでしょうけど、この場合はちょっと違いません?」
「まあ、特殊だろうね」
納得してもらえて安心した。その分、そんな自分が情けなくなったが。
「それが今になって、やっぱりやりたい気になってるんだもんなぁ……」
そんな俺を長門さんは励ますように言った。
「やりたいならやればいいじゃんないか? その頃と今とじゃ、全然…なんていうの、立場みたいのが違うんだから」
「問題はそれですよね。実際どうするのか、やるのかやらないのか…。もし本気で声楽をやってくつもりなら、大学受験のためには今からもう始めないと。今もう高2の夏で、ソルフェージュにしろピアノにしろ、まったく初めてではないにしても準備期間としては短いし、一年前には大学の先生についておきたいし」
「ちゃんと考えてるんじゃない」
「いえ」
俺は苦笑し、白状した。
「実はさっき考えたばっかなんです。山下に見抜かれて、俺、自分がずっと未練たらたらだったんだって、ようやく自覚したとこ。…なんだかなあ」
ハーッとため息を付いた俺に、長門さんは明るく言った。
「間に合う内に気づいて良かったって思えばいいんじゃないかい」
「まあ…でも迷いますよ。考えれば考えるほど問題は出てくるし、どうしても色々……考えちゃって……」
長門さんはその先を聞きたそうだったが、俺はなんだか話し疲れてしまった。
溶けかけた氷のために白っぽく薄まったグラスに目を落とし、俺は考えた。
『俺に何ができるのか?』
クラシックをやるつもりなら、世界を視野に置かないといけないだろう。元来ヨーロッパの音楽なのだし、プロとして演奏活動したいなら、欧州で賞を取れるようでないと日本でいくら賞を取ってもあまり認められない。
欧米人と躰のつくりが違う自分が、どこまで彼らにひけをとらない声を作れるようになるのか。
歌は三十代がピークと言われる。十代のうちは例えその時点でどんなに優秀であっても、思春期で声変わりがあること等から、将来かならずものになるとは言い切れないところがある。
そもそもの発声から、寿命の短さ、勉強内容、何を取ってもあまりにもポピュラーとクラシックは違いすぎる。
本心では両方やりたい。可能ならばこの先ずっと歌っていきたいし、やる気さえあれば自分ならどこかでヴォーカルとしてやらせてもらうこともできるだろうという自信もある。でなければ専門学校にでも行くのが手っ取り早い。だけど……。
「……やっぱりまだ決めかねるなあ」
俺は静かに俺を見守ってくれていた長門さんへ目を向けると苦笑した。
「もし俺が一生の仕事に声楽を選んだとしても、ただでさえクラシックじゃ需要が少なすぎて食べてけないって聞くのに、せっかく勉強して大学出ても、短大出の子の方がよっぽど自立してたなんてことになったら情けないですよね。――やっぱりまだ歌を選んで後悔しないって言い切れるほど、悟りきれないなあ」
そうかあ、と顎に手をあてて考え込む長門さんは、俺の子どもくさい悩みにいかにも親身になってくれていた。
「でもそういうのは、やってみた後からついてくるものなんじゃないの? まずは行動してみてからだっていいじゃない…って、他人ごとだから言えるんだって思えるかもしれないけど」
「いえ、長門さんの言われるのは当然のことですよ」
俺はあまりにつまらない俺などの話に懸命になって耳を傾けてくれる長門さんに、なんだか申し訳ないような気がした。
俺は結局、長門さんに甘えているだけなんだろう。
長門さんは当たりが優しく穏やかで、普段接しているだけだと、どちらかというと人から守られるタイプのように思えるが、実は確固とした自分があってとても大人だ。
「ただ俺は、長門さんにとってのこの店みたいなものが自分は手に入れられるんだろうかって、それだけ心配なんです。――レゾン・デートルってやつですか、俺が生まれてきたのはこのためだったんだって思えるようなものを手に入れたい、そう思えるようになりたい、って……」
「――ちょうどいい話があるよ」
「はい?」
長門さんはいつも笑顔だが、特別嬉しそうに目を輝かせた。
「実はちょっと計画してることがあってね、そのことで琳君に頼めないかなって思ってたんだ」
「ああ、そういえば智久がそんなこと言ってたっけ」
俺はここに来るとき気になっていたそのことをようやく思い出した。
「いくら考えても結論の出せないことってあるし、試しに行動してみるといいんじゃないかな」
「行動って――その頼みって、一体何なんです?」
「うん、それなんだけどね」
ようやくそれを聞き出そうとした時だ。