− 10 −
いつの間にか金曜の晩は原さんに会うのが習慣のようになっていた。それどころか、金曜以外にも会って一緒に食事へ行ったりしている。
(俺ってば何やってんだろう。近づかないって決めたのに、思ってることとやってることが全然違うじゃん……)
原さんの前では生意気で乱暴な口調の普通の男子のフリをしていたが、内実はそんな表面とは裏腹に、あらゆることに自信がなくて、頼っていいものなら何にでも縋りたくてたまらなかった。
(でもきっと、原さんは俺のことを知ったらきっと俺なんか嫌いになる。きっと気持ち悪いと思うに決まってる……)
人に嫌悪されて当然と思えることを、俺は散々してきた。金さえくれればどんな奴とも寝た。若い奴とも年寄りとも、妙な趣味の奴とも寝た。
一度、それで酷い目に遭った。まだそんなに前のことじゃない。原さんと出会ってしばらくした頃のことだ。
ごく普通の中年サラリーマンに見えた男が、酷いサド趣味の持ち主で、薬や道具を使われ散々な目にあった。俺は本気で殺されるかもしれない恐怖に怯え、やり逃げされたことにさえ頓着していられないほどだった。その後しばらくは売りをやることが怖く、声をかけられるたびに躰が震えるのを客に隠すのに苦労したものだった。
その時の傷跡は、今もまだ少し残っている。知らない奴と二人で密室にこもる怖さを、俺はようやく身を持って知ったのだった。
(たとえ原さんが俺を抱きたいとはっきり言ってきても、俺は喜んでそれに応えることなんかできない…!)
こんな汚れ切った躰をどうしてあの人の前に曝せるだろう!?
――どうしてもっと早く出会えなかったんだろう。
そんな女々しい考えが頭から離れない。
――もし最初に俺に声を掛けたのが原さんだったら……。
考えても仕方のないことをつい考えてしまう。原さんのことなんて、何とも思っていないはずなのに……。
せわしげに、楽しげに、あるいは疲れた顔をして通り過ぎるたくさんの人々――ネオンに装われた夜の街は、よそよそしいくせにどこか媚びを感じさせる。
俺は何とはなしに、手の中に収まる機械を弄くりながら、いつものように佇んでいた。
開いた携帯電話を閉じると、パコッと小気味いい音がする。それが面白くて、つい何度もその動作を繰り返すうちに癖のようになってしまった。
開かれた画面の時計を見ながら、ついボタンをカチカチと押してしまうのも……。
あ、と思ったときには「ツーッ、ツーッ」と耳慣れた保留音が鳴る。それで俺は諦めて、原さんが出るのを待つのだ。
なんとも思っていないつもりが、ついリダイヤルを押してしまう。俺の持つ携帯には原さんが登録した番号が一件入っているだけで、当然ながらそれは原さんの番号だ。けれど、俺が登録画面から番号を呼び出すことはほとんどなく、リダイヤルに唯一残るその番号へかけるのがほとんどだった。
(携帯なんて俺には珍しいから。つい、指が弄っちゃうんだよ……)
そのたびに、そんなバカらしい言い訳を自分にしていた。
本当は判っている。俺は原さんに助けて欲しいのだ。――きつくて苦しい現状を、穢れきったこの躰を、考えると胸が痛くてたまらない…この想いを…――。
俺はずっと真面目ないい子だった。ちょっと生意気で、成績はそこそこ良く、運動の好きなごく普通の中学生。
もし俺がもう少しだけ不真面目で、塾をサボって繁華街で遊んでいるような子だったら。親を誤魔化して友人のところに外泊したフリをして、夜の街へナンパに行くような少年だったら。
そうしたら、こんな風になる前に原さんと出会えていたんだろうか。出会って、俺を女と間違えた原さんを嘲笑って、そうしてやはりご飯を奢ってもらっていただろうか……。
無意味な仮定なのは判っている。それでもふと気が付くと、そんなことばかり考えてしまうのだ。最近進路など先行きのことに不安になっているせいか、気弱になっているのかもしれない。
(なんで俺はこんななんだろう……)
目頭が熱くなるのを必死で堪えた。俺に泣く資格なんてないのに……。
「俺、リョウが好きだな」
突然の告白に、俺は言葉の意味を理解できずに一瞬キョトンとしてしまった。
今夜も俺は「食費を浮かすため」と原さんを呼び出して一緒に夕飯を食べていたところだった。
これまでにそれらしいことを聞いたことは何度かあった気がするが、はっきり言葉にされたのは初めてだった。
どういう意味だろうと、つい疑ってしまった。自分に自信がないから、自分を信用できないから他人も信用できないのだ。
思いついたことは一つ。
「あんた、俺と寝たいの?」
「エッ、それは……」
今度は原さんが固まった。
俺は牽制するように、思い切り皮肉な口調で言った。
「驕ってくれるのは有り難いけど、妙なこと言われてもこっちも気持ち悪いんだよね。単に寝たいってだけならわかるんだけど」
おそらく原さんにしてみれば、何気なく口にのぼせただけだったのだろう。それがこんな毒を孕んだ返答をされ、明らかに困惑しているようだった。
返事が思いつかないように黙り込まれてしまい、俺は内心「またバカなこと言っちまったなぁ」と後悔しつつ自嘲した。
「あんたも物好きだよな」
「そうかな?」
「そうだよ。こんな一文の得にもならないどころか、金をドブに捨てるような真似してさ。まあ、驕ってもらっといて言うべきことじゃねえんだけど」
「…確かに、俺はおかしいのかもしれないな」
原さんは苦しげに顔を歪めた。
「そうだな……たぶん、俺はリョウが好きだから。一緒にいられれば、口実なんて何でも良かったんだ」
それはおそらく、一世一代の告白だったのだろう。だが、俺の心を解かすには程遠い言葉だった。
俺が望むものはそんな曖昧な言葉じゃない、もっと強烈な、有無を言わさず引っ攫い飲み込んでいく激情だった。
「あんたノンケだったんじゃないのか?」
「そのはずなんだけど、リョウに関しては違っちゃったみたいだなあ」
明るく苦笑されて、ふいに何かがコトンと落ちてきた。
(ああ、やっぱそうなんだ……)
原さんは今まで俺を買った誰とも違っている。それは俺に何の手出しもできずにただ飯だけ奢らされていることとは別の、もっと本質的な体質のようなものだ。
原さんは初め、俺を女と間違えていた。たまたまこういった造作の顔が好きで、だから俺を男と知っても手放し難く、とりあえず側に置いておきたかっただけなのだ。
(そんなこと、知ってたけどさ…)
けれど、知ることと判ることは違う。出来得ることならば、俺はそれを判りたくはなかった。
(原さんを解放してあげなきゃ……)
奇跡なんて起きない。世の中は、起こるべくして起こる出来事でのみ形成されているのだ。
「もし…本気で俺を好きだっていうんなら、ここで俺にキスしてみろよ」
レストランの中はほどよく混んでいた。仔犬のように俺を慕って来た原さんだが、内面はごく当たり前の大人の男だ。とてもこんな公の場所でそんなことはできないだろう。
要求に応えられなければ、そこで恋愛の可能性を否定してやればいい。きっとそれで目が覚めて、俺から離れて自分にふさわしい誰かの元へ行くだろう。
諦めさせるためであり、俺自身思い切るための挑発だった。――なのに、
「…そこまでの勇気はないよ」
自分から仕掛けたことなのに、いざ予想通りの答えが返ってきたら、俺は心臓が凍り付くような激しい衝撃に打ちのめされた。
――拒否された!
まるで自分自身を否定されたかのような深い哀しみが、頭から、つま先から、躰の節々から浸透してくる。俺が壊れていく……。
泣きそうになるのを必死で堪えた。
「できないよな、そうだよな、それが当たり前だよ」
そんなことを言うのは理不尽だと判っているのに、自分を止められない。
「人間誰しも自分が可愛いもんな、よっぽどのことがあったってそこまでするようなやつはいないよ。こんなとこで男同士でさ、できるわけないよな」
「いや、その……」
ダメだ、やめろと心のどこかで叫ぶ声がした。が、自分の喚き声のほうが大きかった。次第に込み上げてくる怒りに侵食され、俺は溜まりに溜まっていたフラストレーションを原さんへ叩きつけた。
「狡いよ!」
俺の中にどれほどの絶望や怒りや哀しみといった負の感情が閉じ込められていたか、まるで知らしめるように俺は原さんを睨みつけた。
「本当に好きだって言うなら、本当ならそれくらいできるんだ。ちょっとおかしなことがあったって、一瞬くらい周りの人間は知らん顔するさ。けど、それでもやっぱりって思う、それって結局なんだかんだ言っても自分が可愛いんだ。そいうエゴ、いっつもあんたから感じてたよ。いっつも人の顔色ばっか伺って、口では色々いいながら実際に自分から何かしようとはしないんだ。相手のこと思いやってるフリして自分じゃ考えずに人に決めさせようとするんだ。――これはどうか、あれは好きか、さりげないフリして訊いて、絶対失敗がないように自分が傷つかないようにしてる」
確かにほんの少しばかりそんなことを考えたことはあった。でも決してそこまで思っていたわけではない。なのに俺は自分の感情を抑えきれず、ヒステリーのように原さんを詰りつけてしまった。
「そんな、リョウ……」
原さんは俺の勢いに圧倒されたのか、戸惑うばかりで何も言い返せない。
俺は一方的に喚いて怒鳴って――プツンと糸が切れたように口をつぐんだ。
気まずい沈黙が流れる。俺は何もせずに原さんの前に座っているのが居たたまれず、ひたすら目の前の料理を片づけはじめた。
原さんは俺の勢いに食欲をなくしてしまったのか、この日はほとんど食事に手をつけなかった。そのことに俺の胸は痛んだが、いまさら何も言えず、ただ重いしこりだけが後に残った。
店を出るとき、あまりに悄然としている原さんの姿に、ついポロリと言葉が口をついて出た。
「べつに、あんたに何か期待してるわけじゃないし、これからもいつも通りケータイするから」
そうして店先に原さんを残し、逃げるように夜の雑踏の中へ紛れ込んだ。
今日の俺は最低だ。いつも最低だが、いつにも増してどうしようもない。
傷つけるだけ傷つけて、結局なんにもならなかった。
原さんとの関係を断ち切ることも、進展させることもできず、事態はゆるやかに悪いほうへと堕ちて行く――。
(やっぱりダメなんだ。俺なんかを誰も本気で相手なんかするはずない……!)
残ったのはそんな手前勝手な感情ばかり…。
見上げたネオンが滲む。涙が溢れて止まらなかった。
|