目次  小説


Piece of Love


− 12 −

 まさかこんなところで原さんに会うなど思ってもみなかったので、俺はかなり驚いた。でも原さんのほうがもっと驚いただろう。
 きっとこの人は、頭では判っていても俺が売りをしているということを本当には理解できていなかったのだろうな……。
 小杉さんの腕は、まるで自分の所有物であるかのように俺の肩へ回されている。俺はそれへ甘えるように、軽く体重をかけている。
 ――今度こそ、良い機会なのかもしれない。
 俺は何とか気持ちを落ち着かせつつ、ちらりと原さんへ目をやり、すぐ視線を小杉さんへ戻した。
 行こう、というように、小杉さんの背へ手を回して促す。
「知り合いじゃないのかい?」
 怪訝そうに訊くのへ、わざと媚びを含んだ声音で言った。
「いいんだよ。今はあんたといるんだから」
「ああ、そういうこと…」
 俺のちょっとした態度やその一言だけで、カンの良い小杉さんには全てが判ったのだろう、面白そうにニヤリと笑った。確かめるように原さんへ視線を向けるのには少しムカッとしたが、変にギクシャクせず余裕のある態度でいてくれることにちょっと安心した。
 が、安心している場面ではなかった。
「キャーッ!!」
 側で誰かが悲鳴を上げたかと思うと、次の瞬間、俺の横から温もりが消えた。あまりのことに、咄嗟に躰が固まった。
 原さんが、いきなり小杉さんを殴りつけたのだ!
 慌てて道路へ倒れこんだ小杉さんを助け起こそうとしたが、それより早く原さんに腕をつかまれた。
「おい! 何するんだよ!!」
 俺がどんなに抵抗し喚き散らそうと、原さんは構わず俺を引っ張っていく。
振り返ると小杉さんが殴られた顔へ手をやりながら、ゆっくりと起き上がろうとしているところだった。
 このままにはしておけない。小杉さんとはまたいつ会えるか判らないのに、こんな目に遭わせてしまうなんて…!
 けれど俺の胸中は、そんな申し訳なさや強引で乱暴な原さんへの憤りよりも、堪えようもなく込み上げてくる喜びで溢れそうになってくる。
 原さんが何を考えたのかなど判りきっていた。俺を所有物のようにしていた小杉さんへ嫉妬したのだろう。
 何を今更と、呆れる気持ちもある反面、いい歳をしてそんなふうに熱くなってくれることがたまらなく嬉しい。
 俺は遠くなっていく小杉さんを振り返り、原さんへ激しく抗議しつつ、掴まれた腕の痛みに歓喜による眩暈を覚えていた。


 腕を引かれたままで、どこまで行くのだろうと不安に思いかけたとき、目的の場所へ着いたようだった。紅茶専門店と書かれた小さな看板の先に、古っぽい木のドアが見える。それを開けて中へ入ると、小さなカウンターの他にテーブルが3つという小さなバーだった。
 照明を抑えた店内は、紅茶の缶も並んでいるが、それよりもアルコールの瓶が凄い。メニューを見ると、ここにないカクテルはないのではと思うほどぎっしり名前が書き込まれていた。
 飲んでいる客はほろ酔いで、ここは飲むことより話したり静かに物思いにふけったりするための店といった感じだった。込み入った話をするのに適しているとは思えないが、誰にも邪魔されずに話すにはいいかもしれない。
 席について、とりあえずメニューから適当な紅茶を頼むと、俺は早速抗議した。
「いきなり何てことすんだよ、あんた!」
 目一杯怒りをあらわにしてみせたつもりだが、原さんはひるまなかった。
「なんであんなやつといたんだ!?」
「あんなって…」
「さっきの奴、別に知り合いとかってわけじゃないんだろう?」
 やっぱりそっちへ話が行くのか。
(小杉さんはね、俺にとってちょっと特別な人だったけど、原さんほどじゃないんだよ)
 心の中でこっそり呟く。けれどそれが原さんへ伝わることはなかった。代わりに攻撃的な言葉が口をつく。
「客だよ。けど、それが何だってんだよ。あんただって知ってたことだろう?! 今更だからどうだってんだ!」
「そういうことを言うのか? 俺がリョウのことをどう思ってるか知ってて、それでああいう態度をとってそういうことを俺に言うのか?!」
 眉間に皺をよせて詰問してくる原さんに、胸の奥がじんわり温もる。
 二人とも、決して大声で怒鳴りあっているわけではない。だが、互いに精一杯の想いを込めて応酬していた。俺は口に出せない思いと裏腹なことを、原さんはやるせない気持ちを隠さず俺へぶつけてくる。
 傍から聞いたら決して気持ちの良い会話とはいえないだろう。でも、こうして原さんの本心を聞けることが、原さんが想ってくれることが俺は何より嬉しかった。
「言えるよ」
 それでも、俺は冷たい態度を貫き通そうとした。原さんに、俺のような重荷を背負わせてはいけない。
「あんたはそうと知ってて俺に構ってたんだし、会ってる間だって何もやめろとかそういうこと言わなかったじゃねえか。それが目にした途端、急に思い出して我慢できなくなったなんて、そんなガキみたいなことを言うわけ?」
 原さんは返す言葉が浮かばないように唇を引き結ぶ。
(そんな顔をさせてしまって、ごめんなさい)
 心の中でなら、いくらでも本心を言えるというのに……。
 俺ももうそろそろ苦しくて我慢できなくなりそうだった。
(良い機会だから、これで終わりにしてしまおうか)
 俺は少し疲れ始めていたのかもしれない。
 周りはみんな受験のために準備しているというのに、自分だけがいつまでたっても取り残されている。家に帰れば何をするでもなく呆然とテレビを見ている父親と、相変わらず台所で酒を飲んでいる母親がいた。
『いい加減にしろよ!』
 そんな両親に何度怒鳴ったことか。しかし何も返ってはこないのだ…。
 虚しさ、行き場のない憤りに込み上げてくる涙を堪えた回数は数え切れない。悲しみを抱えたまま夜の街へ足を運び、そこで見知らぬ男達に買われて躰を開く日々は、あまりにも辛かった。
 どんなに割り切ったフリをして大人ぶってみせても、しょせん俺は15の子どもに過ぎないのだ。
 今にも諦めてうずくまってしまいそうになるのを懸命に堪えてなんとか生きていた。でももう、それも限界なのかもしれない。
 原さんを世間知らずとバカにして、その優しさを邪険にしながら、本当は、俺はずっと彼に抱かれたかったのだろう。彼に優しくされて嬉しくなかったことなんて、ただの一度もなかった。彼の煮えきらない態度に腹が立ち、さっさと抱いてくれていたらと八つ当たり気味なことを考えつつ、そんな彼を愛おしくさえ思っていたのだ。
 でも、もういい。いいような気がする。
 俺が引くことで原さんに道を踏み誤らせずに済むのなら、俺が食べられないことなんか大したことじゃないと思える。
 もう高校に行かれなくてもいい。金がないせいで学校で気まずくなっても、食べられずに飢えて死んでしまっても、こんな思いを抱えているよりずっとマシな気がする。だから――売りは、やめよう。
 でもそのことは原さんには教えない。携帯もどうにか処分してしまおう。そっと彼の前から姿を消すのだ。
「俺が好きでやってることだし、別にそれであんたに迷惑かけたこともないし。構わないだろうが」
 そうして売りをしていた『リョウ』は、いつか原さんの中から消えていくだろう……。
「構うよ!」
 原さんは必死で俺を説き伏せようとした。
「危ないことだろう、そういうのは。やっぱやめた方が…」
「それってシマのことか? それなら大丈夫だよ。ここら辺のやつらは互いに干渉しないように暗黙の了解があるし、客はけっこういるから取り合いもまずないし、飲食店やホテルはあってもソープみたいのはないから、コレもんが出てくる心配もないし」
 やくざを連想させるように、俺は自分の頬をスッと指先でなぞって見せた。
「病気のことだってあるだろう」
「一応ゴムはつかってるよ。だからって絶対安全じゃあないだろうけど、確率としては低いんだから、なったらもう運が悪いってことでしょうがねえよ」
「そんなのって…」
「わかってやってることなんだから、いいんだよ」
 俺は駄々をこねる子どもへ言い含めるように言った。
 しゅんと萎れてうつむく原さんは、いかにも俺にいじめられたようで可哀想に映った。
 黙りこんだ原さんを放っておいて、俺は目の前に置かれたチョコレートと紅茶へ手をつけた。ほろ苦いチョコと香りの良い紅茶のバランスは絶妙で、これなら看板にカクテルじゃなくて紅茶を掲げるのも頷けるなと、俺はこの場に不似合いな暢気なことを思った。
 紅茶を飲み干して顔を上げると、相変わらず原さんはうなだれていた。
 ――それを口にしたのは、ほんの気まぐれだった。まさか原さんが本当にやるとは思わず、そう言えば引くだろうかと思ったのだ。
「ここで俺にキスできる?」
 だが、心のどこかで原さんが今まで越えられなかった一線を越えてくる可能性のことも考えていた気がする。
 原さんはほんのわずか目を瞠り、そうっと手を上げて壊れ物でも扱うように俺の頬へ触れてきた。
(この人、一体何するつもりだ?)
 そっと唇と唇が重なり、一瞬の吐息を残して温もりが離れていくのを感じながら、俺はその事実が信じられなかった。
 触れるだけのキス。この上なく優しい愛情だった。
「――君の値段、いくら?」
 愛しい人が、そっと訊ねた。
(――原さん!)
 絶望的な気持ちで悟った。――俺はもう、この人を手放せない……。
 なのに不覚にも、俺は無自覚に微笑んでいた。
 原さんの体温に触れられる。そう考えるだけで、躰の奥深くから例えようのない歓喜が込み上げてくる。
 同時に、思い切ることができなかった苦しみも俺を襲ってきた。
 この人を俺と同じ地獄に引きずり込んでしまうのか? この人に俺の穢れを背負わせて、では俺は一体どこに救いを求めればいいのだろう…?
 これからどうなるのか。俺は愛する人を手に入れられる喜びに身を浸しつつ、先の見えない恐怖に目の前が真っ暗になるような、言いようのない戦慄を覚えた。

back next


目次  小説