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昼休みに廊下を歩いていたときだった。
「安藤!」
名前を呼ばれて振り返った。ちなみに俺のフルネームは安藤涼史(あんどう・りょうじ)という。
まだ若い担任が、作ったような笑みを浮かべて近づいてきた。
「なんですか? 何か急ぎの用でも?」
この教師はすぐ俺や何人かの生徒をあてにする。自分一人でもできそうな雑用を手伝わせることもしばしばだ。
部活も何もしていない俺としては、放課後はさっさと帰って自分の部屋で休みたかった。家にはリストラで無職になって以来すっかり無気力になった父と、嘆いてばかりで何も行動しない母とがずっと沈み込んでいて鬱陶しいが、それでも他に帰るべき場所は俺にはないのだから……。
「あ、ええと、今日は違うんだ」
さすがに自覚があるのか、バツの悪そうな顔をして担任は言った。
「進路のことなんだけど、まだ安藤、用紙提出してなかったよな?」
「進路希望調査書ですか」
「そう、それ」
嬉しそうな笑顔をされて、俺は軽い目眩を感じた。言い直されてそんな顔ができるとは、こいつって……。
そんなことじゃ、生徒になめられても仕方ないだろう。俺は、初めての受験を迎える中3の大事な時期に、心底能天気で鈍感なこの教師に当たった自分達の不幸を少しばかり呪った。
「まあ家庭の事情も色々あるだろうし、大変だろうけど……」
担任が通り一遍の言葉を、自分ではそう思っていないらしい様子で話す。
家庭の事情というのは、俺の父親が現在無職なことだ。父がそれまで勤めていた会社をリストラされてから、もうどれだけ経ったのか…。既に数カ月になるはずだが、相変わらず無職のままだった。ちなみに母も働いていない。
全く収入がなく、保険と貯金で生活している(と思われているはずだ)家庭の子である俺が、希望の高校を受験するのが難しい状況にあるのだろうと、それを心配しているのだろう。
うまい言葉が見つからないのか言いよどんだ担任に、俺はあっさり言った。
「俺のことだったら心配いりません。一応下見に行ってからと思って時間が取れないだけで、候補は考えてありますから」
「そ、そうか……」
予想外のセリフを聞いたためか、初めて担任らしい助言ができそうなチャンスを逃したためか。担任は俺の言葉に妙に動揺し、僅かながら不満そうな顔色を見せた。
だがそれを打ち消すようにいつもの嘘臭い笑みを口辺に張り付かせると、
「そういうことならじゃあ、もうしばらく待ってるから。でも、なるべく早く提出してくれよ?」
言い残して、まだ何か未練ありげな様子で去っていった。
昇降口で、また引き留められた。今度はクラスメートだった。
「あのさ、また頼めないかな、試合。今度の土曜なんだけど」
弱小野球部の試合に臨時で出て欲しいというのだ。
足の早い俺は、どうにかヒットを出せば盗塁だけで得点を稼げたりする。ギリギリの人数な上、守りは多少堅くとも攻めに弱いうちの部としては、普段何もしていない素人の俺みたいのでもいると助かるらしい。
前に一度出て期待に応えて以来、入部して欲しいと言われていた。ずっと帰宅部を通して3年になった今更、どこかに入るつもりもないし、こんな状況になってからは選択の余地もなく部活などできないので断ったが。
「まだこないだノート貸したツケを貰ってない気がするけど?」
「あんど〜!」
冷たく言ったのへ甘えるような声で返されて、俺苦笑した。
「男にそんな声出されてもキモいんだよっ!」
あんまり滑稽で思わず笑ってしまう。
「しょうがないな。土曜の何時からだって?」
「安藤っ! さすが、持つべきものは友達だなぁ!」
ううっと腕を目元に当てて盛大な泣き真似をする。
「その代わり、何か見返りはあるんだよな?」
「もー、最近そんなのばっかだな、安藤は」
こいつはうちの状態をしらないので、軽い気持ちでそう言っているだけだと判っているが、ちょっとドキッとした。
「試合の後で何かおごるよ。それでいい?」
「OK、判った。じゃあ商談成立ってことで」
俺は靴をはきかえると、さっさと学校を後にした。
(あ、そうだ)
そのまま行きかけて、俺は駅へ向かって方向転換した。家にもう何もないから、どこか寄って買い物していかないと。
昨日父に財布にあった札はすべて持って行かれたが、小銭だけで何とか俺一人分の一日の食費にはなるだろう。
うちは時間になったら食事が出てくるわけではない。以前はそうだったが、この頃は母がすっかり家事を放棄してしまったため、俺も父も適当に外食したり、自分の分の食事を買って帰ったりしている。母がどうしているのかは知らない。よく酒を飲んでいるのは知っているが。
ちなみに俺も父も、母に代わって家事をするつもりはない。家に母がいるのに家事をするのは、なんとなく躊躇われるのだ。母に対する抗議の意味も多少あったし、代わりに行ってしまうことで母がそこにいる意味を完全になくしてしまうことも怖かったのだと思う。
駅前のファーストフード店で小腹を充たし、スーパーで夕食のおにぎりと朝食のパンを買った。ちなみに飲み物は水だけだ。余計な金は使えないから、家や学校で水道の水を飲む。
そうして手持ちが無くなった。
明日の昼はツケのある誰かから奪うとして、問題は夜か…。
(それでも三食ちゃんと食べられてるんだから凄いよな)
自嘲を交えた苦笑がもれた。
だが明日も三食食べられるかどうかは判らない。それは今後の俺の行動次第で決まる。
(明日…じゃ、遅いな。確実に稼げる保証はないし、ヤってる最中に腹の虫が鳴っても興ざめだしな。……あ、そうだ。今度の土曜は走らないといけないんだっけ。だったら余計早めに済ませたほうがいいな)
躰で稼ぐことに対する後ろめたさが全くないわけではない。それでも俺には他の方法が判らなかったのだ。
金がなくなるたびに稼ぎに行くのではなく、週1回でも定期的にやろうかと思い始めている。いつ思わぬ出費があるか判らないし。
好きで始めたことじゃないけど、元々合っていたのだろう、はまりそうな自分が怖かった。
一度家に戻って着替えて――。
俺は、気弱になりそうな自らを奮い立たせて夜の街へ向かう自分を想像し、なんともいえないモヤモヤしたものが胸の奥で揺らいでいるのを感じた。
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