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「ただいま……」
なんだかんだ言いつつ、必ずそう口にしてしまう自分に自嘲する。
台所で人の蠢く重苦しい気配がし、和室へ目をやると気の滅入る人影がチラッと見えた。思わずげんなりする……が、いつものことだ。
俺はそのまま二階へ上がると、その辺に鞄を放り出してベッドへ身を投げ出した。
「疲れた……」
この後、重労働が待っている。決して楽ではない『仕事』に対して、俺は思った以上にストレスを感じているようだった。
男と寝ることにまったく抵抗がなかった訳じゃない。――因みに女とは一度しか試していないが。一度買われて、どうやら自分が異性と行為をできないらしいと気づいてからは、誘われても断っている。
客を取ることに慣れた今でも、行為に対する凝りは感じている。
まだ義務教育中の俺にできる『仕事』が他になかったから、と安易に売りをやることを選んだのは、確かに俺自身の責任だ。だが、本来ならしなくて良いはずの苦労をしていることにかわりない。
突然のリストラで衝撃を受けた父も、その後しばらくは再就職のために走り回っていた。だが真面目に勤めてきたという実績以外に何の資格も特技もない父が新たに出来る仕事は、あまりに限られていた。収入もそれまでの半分も得られない。
『こんな条件なんかで、ばかばかしくて働けるか!』
ボーナスもなく、サービス残業を強いられるのが目に見えている、しかもやりがいを見いだせない種類の仕事をすることに、父は強く反発した。だが現実として、それ以外に選べるものはなかった。
そうして父は選ばなかった。
母にも見栄があった。大手企業で部長代理とはいえ役職についていた男の妻という立場である自分を、母はいつも誇らしげにしていた。
初め父を切った会社へ恨みつらみを言い続け、次にいつまで経っても次の仕事が決まらない父へ悪口雑言を喚きちらし、そのうち無気力になって何もしなくなっていった。
良い気分で酔っていた淡い過去はとっくに消え去ったというのに、母はそれを受け入れて父を助けることができなかった。むしろ、家事放棄して昼間から酒を飲み続けることで、家族の大きな負担になった。
そうしておかしなプライドで働くことを放棄した父と、世の中と父とへ無言の抗議を続ける母とに、俺は失望し、敢えて何か言う気力もなくなってしまった。
無職になった時点で生活環境を変えようとしなかったことも大きかっただろう。辛い現実から目をそむけてそれまでの生活水準を保とうと、生活費を切り詰めるようなことは両親とも一切しなかった。食卓に上るおかずは以前と変わらず、庭にはたっぷりと水が撒かれ、習い事や趣味を一時止めることもしなかった。
そうしていくらも経たないある日、突然食事の用意がされなくなった。代わりに、母は一日寝巻姿で酒浸りになっていた。父は飲めない人だがやはり毎日飲んでいるようで、居間で新聞を広げて日がな一日過ごしていた。そうして時折、声を荒げて二人が喧嘩する様子が自室にこもる俺の耳に届いてきた。
いつの間にか覚えた暗証番号でこっそり開けてみた金庫を調べると、僅かな貯金が目に見えて減っているのが判った。家のローンなどを考えると、生活費に使える額はごくわずかだが、毎週のようにほぼ決まった額が下ろされていた。
今、まだすっかり困窮するほど金がない訳ではないのだとその時は少々安心したのだが、甘い考えだった。家事を放棄した母に弁当を渡されることもなく、小遣いもなくなり、昼食代ももらえない。家にいても食事は出てこない。
掃除洗濯はまだなんとかなるが、食べられないのは辛い。
あの日――空腹で、家には帰りたくなくて、なんとなく繁華街を歩いた。楽しそうに行き交う人々が鬱陶しく、人混みを避けて路地に入った。腹減ったな、としゃがみ込んでいたら知らないオッサンが声をかけてきた。
「君、そこで何してるの?」
「……」
「暇だったら、おじさんにちょっと付き合ってくれないかなぁ? そしたらお礼にいい物あげるよ」
そのオヤジは薄気味悪い笑いを浮かべていた。いつもなら関わり合いになりたくないと思ったに違いない。だが、半ば自棄になっていた俺はついその言葉に惹かれてしまった。
「なんだよ、いい物って」
変な下心でもいい、なんでも良いから助けが欲しいと思ってしまったのだ。
オヤジは俺に酒臭い息のする顔を寄せて言った。
「さんまんえん。欲しくない?」
「欲しい!」
即答していた。
そうして俺は、そのオヤジに連れられて生まれて初めてラブホへ入った。金は手に入ったが代わりに散々な目にあった。オヤジははっきりとヘタクソで、やり方も思いやりのカケラもなかった。酔っていたせいか、拍子抜けするくらい早く終わったのが幸いだったが。
尤も、その辺の道端とかでヤられなかっただけマシなのかもしれない。
それが最初にやったウリだった。援交なんて誤魔化した意識じゃない、はっきりと俺は稼ぐために躰を他人に与えたのだ。
そうしてまた空腹に堪えられなくなるとそこへ行った。危険はあるが、躰を売るのはかなり割の良い仕事だった。客の取り方などどうやればいいのか判らなかったが、大抵向こうから声をかけてくるのでそんなに困るようなこともなかった。
そのうち似たようなことをしている何人かと知り合い、軽いいざこざはあったが俺の痩せ具合に同情したのか、色々と情報を教えて貰ったりした。どれだけ効果があるかは知らないが、客の引っかけ方とか、補導員の目から逃れる方法とか。
「このK辺りって、コレもん(と頬を人差し指の先でツッと切る真似をし、)の奴が多いらしいから、あんまりこういうことしてるとヤバいんだけどさ。Y駅の方だと、事故だの酔っぱらいの喧嘩だの細かい事件が多いから、俺らみたいのがいても目立たなくて穴場なんだよな。俺はちょっとしつこい客がいてイヤだったから、しばらく河岸を変えるつもりで来たんだけどさ」
そう聞いて俺も主な繁華街を見て回り、確かにY駅は穴場だなと思ってしばらくそこで仕事することにした。交通費はかかるが、安全な方がいいに決まっている。
最初、俺みたいに困ってる訳じゃないのに、そんな思いをしてまでウリをしている彼らを俺は理解できなかった。
すること自体を楽しんでいる様子の奴もいた。
「相手、気に入らなかったらテキトーなこと言って断っちゃえばいいしィ。だって、こーゆーのって無理強いできることじゃないでしょ? 気持ちいーことしてお金ももらえちゃうんだよ? 下手に恋人なんか作って小遣いの残り計算してるよりよっぽどいいじゃん」
理屈だな、と思った。行動に辻褄を合わせているだけで、まるで説得力を感じない。嫌な相手、危険な相手に当たる可能性だってあるのに、そんな思いをしてまでやりたいことだろうか?
だが、そのうち思った。――みんな淋しいのかもしれない、と。
俺みたいに目に見える物に困窮していないだけで、みんな実は色々な物を求めて、その代償に躰を与えているのだろうか…。俺自身も含めて、本当はそんなことで何かを得るなど間違ったことなんだろうけど。
でもやはり、俺と彼らはどこか違った。買う相手がいなければ文字どおり飢えるしかないという切羽詰まった背景がある俺は、どうしても異質な感じが否めなかったのだろう。俺が『仕事』をしにその場へ行っても、必要な情報のやりとりをする以外に、彼らは次第俺に話しかけなくなっていった。
そうして何度かウリをやって金を手に入れ、当面困ることもなさそうだと思っていた矢先、財布からごっそり金がなくなっていた。
驚いたが、同時に納得もした。これは父だ、と直感した。そうしてその内、母もはっきりと俺に無心してくるようになった。
とうとうそこまで堕ちたか――と哀しくもあり、憤りも感じた。子どもが知らない間に大金を持っていたことを問いつめもせず、逆にこれ幸いと持っていくなど、普通ならとても考えられないことだ。だが、うちはもう普通の家庭などではなくなっていた。
普通じゃない――そう思ったとき、行方不明の兄のことが思い浮かんだ。
兄は綺麗なものの好きな人だった。小さい頃から女の子が身につけるようなリボンやレースに執着を見せていたが、高校卒業の日に、実は女になりたいのだとカミングアウトして、大喧嘩の末家を出ていった。以来、音信不通だ。
確かに普通と違ったし、色々と変わったところのある兄だったが、真面目で優しくて俺は好きだった。兄が今の家のこと――特に俺のことを知ったら、一体どう思うだろうか?
思わず深い溜息がこぼれた。
(俺はこの先、一体どうなっちまうんだろう……)
将来に対する不安は強い。
今日担任にああは言ったが、実際には進学はほとんど断念していた。行ってみたい学校は確かにあったが、今ではもう夢物語だ。入学金なんてとても出せないのに、どうやって高校へ通えというのか。
あらゆることが俺を憂鬱にした。
いつの間にかまどろんでいた。薄暗くなった部屋のベッドから身を起こした俺は、まだぼうっとする頭を軽く振って、着替えに手を伸ばした。
「『仕事』に行かなきゃ……」
長い夜が訪れようとしていた。
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