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「……ふっ……う、ん……」
その晩から、俺は魘されるようになった。
躰がきついことは今まで数え切れないほどあったし、精神的に辛かったことも同様だ。それが何故、突然この日からそうなったのだろう?
――やめてくれ!
俺は夢の中で叫んでいたような気がする。
――俺はそんなに強い人間じゃないんだ!
どんな夢を見たのかはまったく覚えていない。
起きたとき、まるでたった今プールから上がったばかりのように全身にびっしょり汗をかいていた。
ベッドから起き上がると本当に水が滴り落ちて驚いた。シーツもぐっしょり濡れている。
寝間着も下着も脱ぎ捨て、枕カバーを剥ぐとそれで汗で冷えた躰を拭う。着替えて洗面所へ行き、濡れた衣類を洗濯篭に突っ込んだ。
窓からは、明け始めの眩しい陽光が差し込んでいた。
眠気で頭が重い。顔をしかめて窓から目をそむける。
喉がカラカラに渇いていたが、俺はまた汗をかくのが怖さに水分は取らずに再びベッドへ戻った。
濡れたシーツの代わりにバスタオルを敷く。
起床時間まで数時間ある。俺はベッドに身を横たえた。
夏だというのに、俺は妙に寒気を感じていた。
学校への支払いがあったせいで、ちょっと前に稼いだ分がそっくりなくなってしまった。悪いことは重なるもので、どうも風邪をひいたようで喉は痛いし体もだるい。
俺は病院へ行き、恥を忍んでツケで薬をもらってきた。病院というのは当たり前だが具合の悪い人が行くので、例え支払いが出来なくとも無碍に追い返したりはできないのだ。
以前そんなことを耳にしていたので試しに窓口で頼んでみたところ、本当に大丈夫だったので安心した。
そうはいっても無期限に待ってもらうわけにもいかない。空腹も辛い。
家で寝ているのは気分的に嫌だったから、俺は学校の保健室で一日休ませてもらい、夕方から仕事をしに行くことにした。
夏の粘つくような夜気が気持ち悪かった。でもこれで帰ったらまたここに来るまでの交通費にさえ困窮する。何が何でも帰るわけにはいかない。
できたら飲食店がやっている時間帯の内に稼ぎたかった。最近ろくに食べていないせいか、いつもは病気になると食欲も落ちるのに、立っているのも辛いほど空腹がひどかった。
だがこんな日に限ってお声がかからない。
(困ったな)
自慢じゃないが、俺はそれほど待った経験がない。いつもなら同じように立っている少年少女の中から真っ先に売れていく自分が、どうした訳かいつまでも佇んでいるのは、どうにも居心地わるかった。
(やっぱ見て判るほど顔色が悪いんだろうか……)
仕方がない、客を取る前になけなしの金で腹に何か詰めて来ようと、雑踏の波に乗るようにその場を離れて歩き出した。
(こんなに人がいるっていうのに、なんで誰も俺を見てくれないんだろう……)
本来はそれが普通なのかもしれないが、選ばれて買われるのが次第に当たり前になっていた俺には、そのことが無性に哀しく腹立たしかった。
そのときだった。
「ねぇ、君」
自分に向かって誰かが声をかけてきた。
が、あんまり遠慮がちだったものだから、俺を呼んでいるのだということに直ぐには気づけなかった。
「ねえ、ちょっと…」
後ろから軽く肩を掴まれ、驚いて振り返った。
一体何事かと思ったら、更に驚いたことに、そこにいたのは変なオヤジやどこかイッた目をした男でもなかった。気は弱そうだがかなり格好良い部類に入りそうな、だがごく普通のサラリーマン風の男だ。
「…………」
まさかナンパだとは思わず、何かの勧誘かと俺は無言でそいつを睨み付けた。
「あの……突然だけど、もしできたら一緒に夕飯食べるの付き合って貰えないかな?」
「――エッ!?」
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「…ダメかな? ホントにちょっと、御飯だけ付き合ってくれればいいんだけど……」
優しげな奥二重の目がじっと俺を見つめていた。
(捨てられる仔犬みたいな目だなぁ)
俺はその男を見て、ついそんなことを考えた。
昔、拾った犬をまた捨てたことがあった。
捨てられていた犬を見つけ、可愛かったので一緒に遊んだ。気に入ってうちで飼おうと連れて帰ったが、親の強固な拒否にあって、元の場所へ捨ててくることになってしまった。
何の打算もなくただひたすら俺の後を付いてきたその仔犬を、捨てるために草原へ置き去りにする。二度捨てられることになる仔犬を想い、俺はちょっと泣いた。
だが、仔犬はそんな状況にも何の文句も表さなかった。教えたばかりの「待て」の命令をすると、その場でお座りをして遠ざかっていく俺をずっと見送っていた。
それでもその瞳は哀しげに見えた。単に俺自身の哀しみや憤りや後ろめたさのせいで、無垢な仔犬の澄んだ瞳さえそんなふうに映っただけなのかもしれないが…。
「――いいよ」
その縋るような瞳に、考える前に口をついて出た。
(どうせ何か食べようと思ってたとこだし、これで買ってくれたらまた立たなくて済むしな)
そうして理由付けしつつ、俺は客サービスだと男に微笑んでみせた。
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