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Piece of Love


− 8 −

 移動した先は牛丼屋だった。シケてるなぁと思ったが、確かに手っ取り早く腹一杯になるからいいか。そうした内心は口には出さないでおいたが。
 席に付いて注文するなり、俺は男にツッコミを入れた。
「で。あんた結局何なわけ?」
「何って……」
 男はとまどった顔で口ごもった。
「だって、なんにもしないで飯だけ驕るなんてさ」
 気持ち悪いに決まっている。単に食事するのに何となく華が欲しかったから、なんて理由じゃないんだろうし。
「おかしいかな?」
「すっげえ変」
 思ったままをキツくぶつける。それに対して、男は不快になるどころか嬉しそうに微笑みやがった。喜ぶなよっ!
 この男はなんだか調子が狂う。なんだって俺も、こんなのの相手をする気になったのか……。まあ今更だが。
 疲れるので、俺はそれ以上の追及は今はやめておくことにした。
 俺が黙ると、今度は男が質問してきた。
「ところでリョウは、本名なんて言うんだ?」
「……」
 そんなことを訊かれてホイホイ答えるわけもないだろうに、本当にものの判らない奴だな。
「別に言いたくないなら無理に言わなくてもいいけどさ。リョウっていうのは本名なの?」
 俺は迷った。これがただの客なら絶対に口にしないところだが、考えてみたらこいつとは体の関係はない。今後も何もナシで色々奢ってくれそうだし、他所で阿呆な言動さえしなければ名前くらい教えても問題ないかもしれない。むしろ、それくらいの『恩』を売っておいた方が今後有利になるかもしれないし…。
 俺の顔色をうかがってビクついている男に同情したわけでもないが、俺は一つだけ『ご褒美』をやることにした。
「……リョウジ」
「え?」
 やばい。柄にもなく、俺もちょっと緊張しているようだ。声が掠れてうまく出なかった。
 なんだか気恥ずかしくなって、俺は怒鳴るように一息に言った。
「安藤涼史ってんだよ、俺のフルネーム!」
 途端に男がにこっと何とも幸せそうに微笑んだ。
「涼史君かぁ」
 ……だから、そんな信頼しきった仔犬みたいな目で見るなって……。
「涼史って呼ぶなよ」
「エ、なんで……」
 ぶっきらぼうに言うと、男はすぐさまシュンと沈み込んだ。そういうところがイヌっぽいっての。
「ここらでは、俺はリョウって通してんだよ。本名が知れると何か面倒があったとき困んだろう」
 それくらい判れよ。それにその顔、せっかくのいい男が台無しだろう!
(ああもう、イライラするなーっ!)
 あまりにも色々なことが恥ずかしい男だ。俺は正視に耐えず、男から視線をそらした。
「つまりそれって、俺のこと信用してくれたっていうこと?」
 ああ、そういえば。確かにそういう捉え方もできるな。
「別にそういうんじゃねえけど……まあ、あんたは学校とも商売とも関係ないし」
 嬉しそうにそう訊く男に(きっと尻尾があったら思いきり振っているに違いない)、あまり邪険にするのも可哀想な気がして、俺は曖昧に答えておいた。男はいいように解釈してご機嫌なようだ。
 その勢いで、言わなくてもいいことを口にする。
「じゃ、俺が客になったら?」
「……ご馳走様」
 不機嫌な面を作って席を立つそぶりを見せたら、「冗談だよ!」と慌てて引き留められた。まったく、扱い易い奴だ。
 それでも懲りずに、男は主張を始めた。名前を教えたことで、かなりいい気分になっているらしい。
「あのさ、リョウ。できたら『あんた』はやめて欲しいんだけど」
 まあ、その程度のことなら許すけど。
「じゃあ名前教えろよ」
「前に会ったときに言ったんだけどね」
 あれ、そうだっけ。まったく覚えていないが、あまり恥ずかしいとかいう気はしなかった。あの時はかなり具合が悪かったし、この男は一見だと思っていたから、名前なんぞ気にもしていなかった。それは仕方ないことだと思うし、男もその辺りは判っているようだ。
 男はいそいそと鞄を漁って名刺を取り出すと、俺へ差し出した。
「原貴生(はら・たかき)といいます。ハイ、これ名刺ね」
「ああ……」
 そういえば、あのとき名刺を渡してもらった気がする。あれってどうしたっけ……って、そうだ。確かズボンのポケットに入れっぱなしで、洗濯したとき溶けてごわついて大変だったんだ。ティッシュを抜き忘れて洗濯したときほどの惨状じゃなかったけど。
 あのときの、あれと同じ名刺かぁ。
 渡された物に対する記憶はまったくなかったが、やはりこうして物珍しく眺めたような気もする。会社と部署名に、直通の電話番号。俺なんかには何をしてるのかよく判らないが、名前からして薬屋さんらしい。
 裏面に自宅の住所と携帯電話の番号が手書きで書いてあった。どうやらこれは、私的な関係者へ渡すためのものらしい。
(なんだかな……)
 俺はそのことが結構嬉しいらしい自分に、気恥ずかしい感じがした。
 その後、なんとなく勢いで俺自身のことを詳しく話させられた。晩飯を毎晩のように外で食っていることを話してしまったのがきっかけだ。我ながら迂闊だったが、そこから俺の年齢や家庭の事情まで暴露されてしまった。
 でも俺のそんな細かな事情に興味を持って聞いてくれたのは、考えてみたらこの人が初めてだったんだ……。
「この辺には毎日来てるの?」
 そう訊かれて、週一回金曜日に来ようと思っていたことを口にした。俺に会いたくてそう訊いてくれていることは明白で、不思議なことに、俺もこの妙な男とまた話したい気分になっていた。
(なんとなく見捨てられない気分にさせるよな、こいつ)
 俺の中でこの男――原さんは、すっかり無垢な仔犬のイメージになっていた。気弱な口調と優しい瞳のせいかもしれない。
「よかったら来週も俺と一緒にご飯食べない? 自分でもよくわからないんだけど、リョウとまた会いたいんだ」
 そう言う原さんへ、俺は「別にいいけど」と了解した。
 あまり一緒にいると情が移る。飼えないモノにあまり優しくしてはいけないと、俺は学んでいたはずだ。
(もう誰かに振り回されるのは嫌だ……)
 ふと、小杉さんの姿が脳裏に浮かんだ。
「じゃ、ごっそーさん」
 俺は原さんが食べ終わるのを待たずに、さっさと席を立つと店を後にした。
 この日、俺の心に暖かな灯が燈ると共に、切ない風が吹き始めていた。

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