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「…ハァ……アッ……」
狭い室内にねっとりとした湿気が充満している。
互いの肉を貪る音と、抑えた喘ぎ声だけが聞こえる。
「……ッ、哲矢ぁ!」
促され、俺は動きを激しくする。途端に手の中で、愛しい者が一際甘い声をあげて身をよじった。
――俺の、運命の相手。
出会った瞬間、運命というものを知った。
『あいつだ……』
一目でわかった。彼は他の誰とも違う空気を身にまとっていた。
その時初めて目にし、名前も知らなかった。だがそんなことは関係ない。
難しいことなんか判らない。説明しろと言われてもできない。
ただ判ったのだ、こいつだけが俺の相手だということが――。
× × × × ×
「ねぇ、見て哲矢!」
中学卒業してすぐの春休み、俺はよくダベりにいく喫茶店で数人の仲間と適当に時を過ごしていた。
「ンだよ、るっせえな」
その女は仲間の誰だったかの彼女の友人で、最近になって俺らの集まりに入り込んでくるようになっていた。
「あのね、私と哲矢の相性、最高だって!」
「ああ?」
女が示したのは、思わずむムカっ腹がたちそうなほど愛嬌を振りまくキャラクターで埋めつくされた、雑誌の占いページだった。
「『何をやってもツーカーで、遊びも仕事も積極的に楽しめる相手。一緒にいないと周囲も自分達も何か不自然に感じるほどのベストカップルです。特別なアクションを起こさなくても、時の流れとともに当たり前のように結ばれることでしょう』だって!」
「ハン、占いね」
俺は軽く失笑した。
俺の態度に女は不服そうな顔をした。俺がまったく興味を持たなかったことが不満なんだろう。
俺は自分の力以外、何も信じない。この目で見、この手に触れるものが世の中のすべてだ。
他人のでっち上げなんかに右往左往される奴ら、特にこういう女は、いくら俺より成績が良くてもバカだ。ありもしないものをよく信じられるものだ。
「ま、それが本当だったら俺とお前は話もしなくていいってことだな」
俺は立ち上がった。
「おい哲矢、もうじき河合さんが来るってのに、どこ行くつもりだ?」
そんな俺に仲間の一人が慌てて腰を浮かせた。
「なんか気ィ乗らねぇ。今日は適当に流して帰るよ」
「何言ってんだよ! 今日は大事な話があるって河合さん言ってたんだ。お前は特に絶対来させるようにって言われてんのに、いなかったらお前、大変なことになるぞ!」
俺の言葉に大慌てで喚きたてる。
「どうせ下らねぇヤの字絡みの下働きとかだろ。あの人に何か恩があるわけでもねえし、悪ィけど俺は高校入ってまでンなことする気はねえよ」
河合というのは中学で一コ上だった奴だ。俺が入学するまでは中学で一番強かったらしく、何かというと衝突してきたが、俺は面倒を避けるために適当にかわしていた。俺は喧嘩は強いが別に暴れることが好きなんじゃない。
それをどう勘違いしたのか、河合は俺を弟分のように扱って色々とヤバい仕事の片棒をさせた。割が良かったから何度か手を貸したが、俺はヤクザになる気はなかったのでゴタゴタを起こさない程度にあしらっていたという感じだ。
河合は中学を卒業してからヤの字の世話になってクダをまいているらしい。今回の話もおそらくそういうことだろう。
(俺を子分か何かと勘違いしてるようなら、思い知らせてやらねえとな)
ずっとそう考えていた。向こうも一応判ってはいるのか、用心してなかなか尻尾は見せなかったが。
それで暇でもあったし今日の呼び出しに応じてみたが、時間になってもやって来る気配がない。サ店で座り込んでるのもいい加減に飽きた。
「おい、ちょっと待てよ……!」
引き止めるのをうっちゃって店を出ようとした時だ。
「おい、お前なに帰ろうとしてんだよ」
「河合さん!」
ようやく現れた奴は、ガンつけるように俺を睨み上げた。俺はそれを気のない目で見下ろした。――俺のほうが背が高かったので。
「お前は先輩を敬うっつー気持ちがないのか? ああ?」
「……」
「そんなこっちゃ世の中渡っていかれねえぞ?」
俺は黙っていた。そんな下らないことに返す言葉は、生憎と持ち合わせていなかったので。
「なんだお前、その生意気な面はァ!」
河合が喚きざま、いきなり殴りかかってきた。
俺は軽くかわすと、突っ込んできた河合へ足を引っ掛けながら、傾いていた肩を押した。
河合はあっけなくすっ転び、派手な音をたてて店のテーブルへ突っ込んでいった。
「…ッ! こんの野郎っ!」
痛そうに顔をしかめながら、河合はなおも立ち上がって向かってくる。
周りの奴らはびくびくしながら俺らを遠巻きに見守っていた。
あまり店の迷惑にならないようにしないと。こういうところで考えなしに行動すると、とんだところでとばっちりを受けるハメになるものだしな。
俺は冷静に判断し、河合の鳩尾へ拳を一発入れた。
「ウッ! …グゥ……」
河合は気を失って、ずるずると俺の足元へ崩れ落ちた。簡単なものだ。
後は他の奴らが何とかするだろう。こいつはまた俺にちょっかいをかけてくるかもしれないが、結局はこの程度の奴だ。上にどんな奴がついていようと、俺の敵というほどの存在にはなれないのは目に見えている。
喧嘩が強いとわかると、どういう訳かこういう奴らが群がってくる。実に面倒だ。
公立だと厄介な奴らがうようよいるので、私立の男子校にしておいた。
そこでだったら、こんな下らねえことをする奴はまずいないだろう。それもまた退屈かもしれないが…。
俺を不安げに見つめる奴らを残し、俺は一人で店を出た。
入学式はごく普通で退屈だった。
高校は俺が思っていたようなお坊ちゃん学校というわけでもなかった。俺が入学できる程度だから、当然といえば当然だが。
それなりに喧嘩好きのやんちゃはいる。だが誰も俺に手を出そうとはしてこなかった。
まだ知られていないのか、知りすぎて手を出せないのか。
どちらにしても、退屈な当たり前の高校生活を過ごせそうだ。
当たり前の生活を送りたかったわけでもないが、こんな俺にも将来の夢ってやつがあって、そのためにはきちんと勉強しておく必要がある。
以前、親父が事故ってたいへんになったことがある。今後は自分の足で立って歩くこともままならないと医者には言われたが、リハビリを担当してくれた人の励ましで、父は不自由ながらも普通の生活を送れるまでに回復した。
あの時、俺は生まれて初めて感動というものを知った気がする。そうして単純な話だが、俺も療法士というものになりたいと考えたのだ。
基本的にバカな俺が医大に入るのは無理だろう。高校卒業後に専門学校へ入り、資格を取るというのが俺の考えた設計図だ。
そのために、なるべく問題は起こさず、留年だの浪人だのは避けたい。
それくらいのことは、いくら俺でもできるだろう。――と、この時はそう考えていたのだが……。
式が終わって教室ですることもなく机へ頬杖をついて座っていた。
俺のことを知らなくとも雰囲気で察するのか、誰も俺に話し掛けたり近づこうとしたりしない。
それも構わなかった。変に人間関係を築いて厄介なことに巻き込まれたくない。
気の合う奴というのは、いれば自然とつるむようになるものだ。必要なときに知り合えばいい。
「やあ。ここの席、いいか?」
そんなことを考えていた矢先、一人が話し掛けてきた。
教室の机は人数分しかないはずだが、何故か俺の周りだけ余っていた。荷物というほどの物もなく、式の前はそのまま突っ立っていても良かったが、式の後には担任から話があるらしい。立っているわけにもいかず、仕方なく席を埋めることにしたのだろう。
「ああ」
俺はちらりとそいつを見やると、短く言った。そうしてまた目を瞑って居眠りを始める。
そいつは音を立てて椅子へ座ると、またしても話し掛けてきた。
「なあ、あんた名前なんていうの?」
…どうやら俺を怖がって座らなかったわけじゃなかったらしい。それとも他の奴と席を替わってやったのか。
どっちでも構やしない。俺は薄目を開けると、そいつを値踏みした。
全体に細い感じで、腕力でいったら到底俺の敵ではないだろう。そいつも笑顔の下で俺のことを値踏みしている様子が伺えた。
この目はいい。意思のはっきりした、常に自分の考えで行動している目だ。
「俺は丹羽哲矢(にわ・てつや)だ」
「俺は伊吹八雲(いぶき・やくも)。よろしくな」
「ああ」
礼儀として、一応返事をしておいた。
「丹羽って大門中だったろう?」
俺なんかがそんなに珍しいのか、単に退屈なのか、伊吹は屈託なく話し掛けてくる。
「ああ」
「もうかなり有名になってるらしいぞ。ここらの学中のボスだったとか、春休みにヤクザを熨したとか」
「それはデマだ。そこまでのことはしてない」
そんな話を広められたら迷惑だ。はっきり否定しておいた。
「慌てず騒がず、真顔で言うのな」
何が可笑しいのか、伊吹はくすくす笑い出した。
「俺がその話を聞いたのは……って奴からなんだけど。知ってるか?」
「ああ」
確か俺が河合を熨した喫茶店に出入りしていた奴だ。
「あんまり親しくない奴だったんだ」
「ああ」
「丹羽って『ああ』ばっかなのな」
そう言って、また伊吹は笑った。変わった奴だ。
だが情報に長けている様子なのは評価に値する。これから短くもない時間を過ごす学校だ、良い話し相手はいるに越したことはない。
そうこうする内に、担任がやってきて校則の説明やら様々なプリントを配って説明し始めた。
今週は授業もなく、校内の見学や係りや委員会の説明等で追われるようだ。
半ドンで帰れて有難いほどでもないが、やはり学校は退屈すぎる。HRが終わり、鞄もない俺は、あくびをかみ殺しながらポケットへ手を突っ込んでそのまま帰ろうとした。
「丹羽、一人なら途中まで一緒にいこうぜ」
俺の何がそんなに気に入ったのか、伊吹がついてきた。俺の腰ぎんちゃくになりたがるタイプにも見えないが、俺に何かメリットでも感じたのだろうか。
「ああ」
今のところ俺には不利益はないので、今日のところは一緒することにした。
「丹羽は電車?」
「ああ」
「俺もだ。じゃあJRだよな。最寄り駅はどこ?」
そんな会話をしながら昇降口まで来たときだ。
「…あ」
伊吹が何やら見つけた様子で足を止めた。
「どうした?」
「あの人。この学校の隠れた有名人だぜ」
伊吹が示した方向に、先輩らしい人物が立っていた。
友人らしき背の高い男達に、まるで守られるように囲まれて微笑を浮かべている。
(――あいつだ!)
その瞬間、背筋へ電流が走りぬけた。
「二年の、確か佐倉とかいう先輩。国立も狙えるような秀才だって。なんでこんな高校に来たのか謎なんだけど、とにかく教師も周りも特別扱いで、影のあだ名が『お嬢』っての」
俺の耳にはほとんど伊吹の声が聞こえていなかった。俺の目はそいつに釘付けで、他は一切意識の外に追いやられてしまった。
彼は美しい人だった。顔立ちは平凡だったかもしれないが、まだまったく穢れを知らない儚げな風情が印象的だ。おそらく周囲の庇護欲をそそる、いかにも育ちの良いお坊ちゃん風で、俺のもっとも苦手とするタイプの一人だ。
それでもあいつが俺の相手だ。どんなに好みでなかったとしても……。
運命なんてあるわけないとバカにしていた。星の巡りだのそういうものは自分に自信がないやつの逃げだとさえ考えていた。
だが同時に、俺は俺自身の勘が絶対であることも知っていた。今までに俺の勘がはずれたことは一度たりともなかったのだ。
それまでやりたい放題に過ごして来た俺が、目に見えない、抗い得ない何か大きなものの存在を感じた初めての瞬間だった。
――俺は、己の運命を見つけてしまった。
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