White Labyrinth


〜 10 〜

 暗い空に赤く点々と光るものがある。小さな欠片は無数に散乱し、またたくまに燃え盛る炎となって家々を飲み込んでいく。
 聞こえるのは崩れ落ちる建物の瓦礫と化す音や、言葉にならない人々の悲鳴ばかりだ。その悲鳴の中に、自分のものが混じっていたことに気づいたのは、どんなきっかけからだったか。
 ――母さん!!
 そう、一人の女が炎に飲まれたのだ。瓦礫の中から指先だけが覗いていて――その後、自分は一体どうしたのだったか?
(寒い……)
 そうだ――あれからずっと、寒気を感じていた気がする。大切なものを失くした心は凍え、運命の抗い難い奔流に翻弄され続けた躰は、打ちのめされて襤褸屑(ぼろくず)と成り果てた。
 際限なく失い続ける日々……もうこれ以上失うものとてないはずが、それでもまだ残っていた僅かなもの――誇り、希望、喜怒哀楽といったいっさいの感情――まで奪われ続けた。
 こんなに何もない自分は、一体どうなってしまうのだろう。それとも遂にもうどうにもなりようがないところまで堕ちてきたのだろうか。
 何もない、見晴らす限り何も掴めない世界。
 ティングは透明な世界――白い迷宮にさまよい込んでいた。
 一切がもうどうでも良いような気さえした。
 自分のようなちっぽけな存在が無理に生きようとすること自体が間違いであったようにさえ思えた。
 見る目も、聞く耳も失っていた。
 その、はずだった。
 なのに。
 そこに、
 ――…………
 声が、聞こえた。
 聞き覚えのない声だった。だが、心暖まる声だった。
 何もない唯白の世界の中で、それは、ほとんど消えかけていたティングという存在が在り続けるための核となった。



 誰かに呼ばれたような気がして、重い瞼をうっすらと開けた。深い洞穴を抜けたような感覚がしていた。
 そこは仄かな明かりに充たされていた。
 ティングは上質の寝具に包まれ、立派な家具調度の置かれた室内に寝かされていた。
 立派といってもティングの規準からで、特別贅沢というほどではない。明らかに上流階級の邸内だが、豪奢を感じさせる類の物ではなかった。ただそれらの調度品はどれも大切に使い込まれた様子が窺え、持ち主の優しい気遣いを強く感じさせた。
 力の入らない手足でどうにか身を起こすと、頬にふわりと心地よい風を感じた。見ると、美しい花の咲く庭園に面した窓が開いており、やわらかなドレープを描くカーテンが風に揺れていた。
 強すぎない柔らかな生花の芳香は、室内にいても感じられた。部屋の一隅にさりげなく花瓶が飾られ、活けられた花の香りが部屋にほんのり満ちている。
 ティングは自分の置かれた状況が判らずとまどった。
 彼の人生の中で、今までこんなことは一度もなかった。こんなに柔らかい布団や穏やかな空気に充ちた場所は、ティングの想像しえないものだった。
 ティングは、これもまた何か悪いことの前兆なのではと不安を募らせた。
「……ん……」
 人の声にティングはハッと身を固くした。見ると、自分の寝かされているベッドの傍らに、うつ伏せるようにして一人の男が眠っていた。
 どうしてか、怖ろしい気はしなかった。掛け布の隙間から見える面(おもて)の、どこかあどけない寝顔が、ティングを陵辱した男達とどこにも共通するところがなかったためかもしれない。
 淡い金髪に白い肌が美しい。黒髪の自分とは違う珍しいその髪に思わず手を伸ばしかけ、はっと気づいて手を引っこめる。
 どうしてこういうことになったのか判らないが、おそらくこの男にきけば判るだろう。だが、ティングはぐっすり寝込んでいる男を起こす気になれなかった。
 ティングは不思議そうにその寝顔を眺めた。
 あのことは夢なんかじゃないはずだ。自分は確かにあの地下室にいて、日夜男達の慰み者にされていた。
 ティングの脳裏に、あの屈辱さえ感じられないほどの拷問の日々が蘇る。
 そう、そうだ。そうして……あの少年が……――
「……あっ」
 ふっと男が目覚めた。上半身を起こしているティングに気づき、慌てたように起き上がる。
「気がついた!?」
 その声はティングの耳に届いていなかった。ティングの心は暗い記憶で一杯に膨れ上がり、破裂寸前で悲鳴を上げていた。
「うああぁぁ――――っ!!!」
 悲鳴はティング自身の声となって迸った。
 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、臭いや触感や、何もかもがティングの前から消え失せた。哀しみ、怒り、絶望といった負の感情で全ての感覚が埋め尽くされ、ティングの心を圧迫していく。
 だが……。
「……大丈夫、大丈夫だよ……」
 やがて、錯乱するティングを男がしっかりと抱き抱えていることにティングは気づいた。
「落ち着いて……安心して。ここには君を傷つける者は誰もいないから……」
 暴れるティングを押さえるために傷だらけになりながら、男は穏やかな声で優しい言葉を繰り返し囁いていた。
 いつしかティングの悲鳴が止み、ティングの視線と男のそれが合わさっていた。
(この声……どこかで聞いたような……)
 切ないような喜びに満ちた既視感がティングを捕らえる。
(そうだ……)
 自分はずっとこの声を聞いていた。この声が、絶望の淵から自分を現実の世界に救い上げたんだ――。
 男の慈愛に満ちたあたたかな眼差しに包まれ、ティングはようやく心から落ち着き静かになった。頬には涙の跡がべったりついていたが、不思議と気分は悪くなかった。
「大丈夫かい? 君は丸三日も眠り込んでいたんだよ」
 心配そうに自分を見る瞳に、またしても涙がこぼれそうになる。
「その前にも何度か起きて飲み物くらいは摂ったけど、咀嚼はできないし何も受け付けてくれなくて……。一週間以上、まともな食事をしていないはずだよ」
 男の瞳は淡い緑で、その美しい色をティングはただただ見つめていた。
「何が食べられるかな? 今なにか持ってきてもらうから、ちょっと待っていてね」
 男がベッドサイドの小卓にあった銀の鈴を手に取って鳴らすと、澄んだ音色が響いた。
 やがて清潔そうなお仕着せを着た使用人の手で、極力ティングに食べられそうなもの――白湯に近い粥や、砂糖で煮て柔らかくした果物、果汁などが、ベッドの上に設置された小卓の上に並べられた。
 はじめ、それでもティングは食事を受け入れることができなかった。どうしても物を食べる気になれないティングを、男はじっくり時間を掛けて説得した。
 長い時間を掛けて、ようやくほんのわずかだけティングは口にした。
 久々の食物の味は、ティングの心まで潤した。


 ティングは初め、満足に喋ることもできなかった。暗い日々の記憶が頻繁にティングを苛み、生きるための活力を根こそぎ奪っていこうとする。
 それを引き留めたのは男の優しい手だった。男はこの屋敷の主らしいが、少量ながらようやく物を食べられるようになったティングの傍らで寝起きし、自ら手厚い看護をした。
 ティングが快方に向かっているのは、明らかに男のおかげだった。彼がいなかったらティングは既に母親の元へ行っていただろう。
 放っておくとティングはすぐにも息絶えてしまいそうだった。手足はこれ以上ないほど痩せ細り、男の優しく熱心な言葉がなければ進んで食事を取ることもしなかった。
 日々を重ねるにつれて意識がはっきりしてきて、そうすると死にたいという願望が幾度となくティングを襲った。この安全な屋敷の暮らしは決してティングの慰めにはならなかった。
 だが魔導を持たない男の、要領は悪いが献身的な看護に、ティングは心身ともに徐々に、確実に癒されていった。
「君の名前は何ていうの?」
 ティングは自ら話そうとせず、男の語りかけにもほとんど応じなかった。それでも男は毎日のようにティングに訊いた。
「『君』なんて呼び方じゃなく、名前を呼びたいな」
「…………」
「君といろんな話をしてみたいんだ。きっと君は私の知らない世界のことを知っていると思うから。それは良いことばかりじゃないんだろうけど、私には知らないことが沢山あるから…。良いことも悪いことも、楽しいことも哀しいことも、いろんなことを知ってみたいんだ」
 男はティングがどんなに無反応だろうと、その穏やかな口調を変えることはなかった。常に気を配り、優しく飽きず語りかける。
「………ィ……」
「――えっ!?」
 男は微かに聞こえた声に、大慌てでベッドへ寝ているティングの顔を覗き込んだ。
「……ティング」
 久しぶりに話すためか、ティングの声は掠れて小さかった。だが男ははっきりと聞き取った。
「ティング、だね? それが君の名前なんだね!」
 男が満面に笑みを浮かべたのへ、ティングの口元が少しだけほころんだ。
「あなたの名前……」
「ああ、ごめん。私の紹介がまだだったか」
 笑み崩れた顔で男は告げた。
「私の名はラムス。ラムス・ソスフィスだ」
 ティングにとって運命の出会いだった。

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