〜 13 〜
――どこを向いても、どう手探りしても、まったく何もない空間――
そこは少年のか細い嗚咽など、まるで聞こえないかのように吸収してしまう。
物音が響くことも影が映ることもないこの場所に、ティングは戻ってきた。
辛い過去をさらけ出され、涙の跡も痛々しいティングを前に、グラシアスは考え込むように眉根を寄せて厳しい表情をしていた。
「お前は……」
ティングをじっと見つめ、口を開こうとしてまた噤(つぐ)む。
グラシアスは数百年もの間、この場所から見透せる限定された範囲でだが、様々なものを見聞きしてきた。そんな彼にさえ、ティングの過去は衝撃的だったのだろう。
そんなグラシアスを、ティングはまだ夢から覚めきらない顔をしてぼうっと見返していた。
グラシアスはティングの頬に残っていた水滴の跡を指先でぬぐった。されるがままのティングの手を取り、脈を測るように手首に触れる。そこにはごくうっすらとだが、無数の傷跡を見てとれた。
他の場所も確かめようと衣服を脱がせかかると、ティングは鈍い動作で身を捩って抵抗を見せた。が、グラシアスの「何もしない」という言葉に大人しくされるままになった。
今更ながら、胸でも背中でも足でも、ティングの躰でおよそ傷ついていない場所はないほどだった。
「…………」
元通りティングに服を着せかけたグラシアスは、怒っているようでいてどこか哀しそうな、なんともいえない表情で黙り込んだ。
やり場のない怒りを隠すように、グラシアスはくしゃくしゃとティングの髪をかき回した。
柔らかな髪、小さな顔、細い首……。
実を言えば、グラシアスはティングよりももっと小さな子どもを屠ったことさえある。だがそれは決して不必要な行為ではなかった。自分にとってどうしても必要だったからこそ、人の命を奪う行為を敢えてしたのだ。
長い沈黙が辺りを包んだ。
どれだけ経ったのか――やがて口を開いたグラシアスは、ようやく目つきのしっかりしてきたティングへ言った。
「俺を封印したのは、俺の実の兄だ」
いきなり話しかけられたことと言われた内容に、ティングの両目が大きく見開かれた。
「こんなこと、人に話すのは初めてだけどな……って、当然か。封印されてから人と話すことなんてまずなかったからな」
そう言ってグラシアスは自嘲した。
「ここに来て、誰かと話したいなんて思ったのはお前が初めてだよ」
「…会いたい人とかいなかったの?」
まだ喉が嗄れているのか、ティングの声は小さかった。もっとも、他に何の物音もしないここでは、そんな声でも充分に聞こえたが。
「いるにはいたがな。けどそいつは俺がここに閉じこめられる前に死んじまったから、俺がたとえ自由の身でも会えねえんだよ。さすがの俺も冥界にまでは行かれねえし。霊返しの術なんて、未来視より高等テクでさすがの俺様にもまだ無理だしな」
最後の方は、グラシアスにしてみたら洒落のつもりだったのかもしれない。「まだ」という辺りに、言外に「いずれ出来るようになってやる」という意気込みが窺えた。
「でも、おれ以外にもここには何人もの人が来たんでしょう?」
「ああ。そいつらと話したこともあるよ。大概のやつは怯えきってどうしようもねえから、会話が成立するほどの奴とは滅多にお目にかかれなかったけどな。けど、それだって話したくて話したわけじゃねえ。ま、一時の退屈しのぎってやつだ。俺が聞いて面白い話ができる奴なんか、まず滅多にいねえしな」
「なのにおれには話してくれるの?」
不思議そうに見上げるティングへ、グラシアスは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「……ま、黙って聞いてろよ。これは俺にとって大変な出来事なんだぜ? きっとお前以外の奴に話す気になることはねえだろうから、有り難く拝聴しな」
グラシアスの不遜な物言いに対し、ティングは丁重な仕草でうなずいた。
「今からどれくらい前になるのかね――面倒になって、途中からは年数なんか気にしなくなっちまったから、まるっきり見当がつかねえけど。ま、千年とは経ってねえよ。建物も、人の衣服もまるっきり変わっちまうくらいの年数は経ったがな。昔からあったいろんな風習もほとんどなくなっちまったし、人の体質みたいなもんも変わった。最たるものは、魔導らしい魔導を遣えるやつがいなくなっちまったことかね。
ま、俺の生まれた頃だって、俺ほどの遣い手はいなかったけどな。もうろくジジイが『昔はそれくらいの力を持ってた』とかほざいてが、どうだかな。
そんな奴等でも何十人も束になれば、まあ何とか俺よりは強い力になったもんだが。これだけ長いことこの俺様を閉じこめられるくらいの力は作れたんだからな。それが今じゃなあ……」
グラシアスは一人、滔々と喋り続けた。ときどきティングの額に手を当て、当時の映像を鮮やかな記憶としてティングの脳裏に送り込んでやる。
ティングは大人しくしゃがみ込んでグラシアスの話に聞き入り、そうして送り込まれる映像に驚嘆して目を瞠った。
「人ってのは今も馬鹿だが、昔もどうしようもない馬鹿ばっかでな。己の利益を守るために、下らんことに遮二無二になって。馬鹿な風習なんかとっとと止めてりゃあ、あんなことも起こらなかったろうし、俺ももうちっと違う人間になって、こんなとこで退屈してることもなかったろうになあ。
――今でも聞いたことのあるやつはいるかもしれねえな。双子は不吉だって話、聞いたことねえか?」
ティングは首を傾げた。
「知らねえか。…ま、凡人ってのはとかく平凡を好むんだな。何も事件なんぞ起こらねえ、己のなすべき仕事さえこなしていればいい、平穏無事でつまんねえ人生ってのを必死で守ろうとしやがる。だから特別なこととか奇形とか、そんなのを極端に嫌うんだ。それに妙な思い込みが加わっちまったら、もうどうしようもねえ。
元々この土地には人っ子一人いなかったのが、大昔に突然大挙して移り住んできたらしい。これはさすがに知らねえだろう? どこか全然別の土地に住んでた奴等が、原因ははっきりしねえんだが、いきなりやってきて住み着いたんだと。
住み慣れた土地とはまったく違う気候のせいか、この地に来てから奇形の出生率が急激に上がったらしくてな。手足が短いだの、大人になりきれねえだの、果ては立ち上がれねえまま死んでいく赤ん坊が後を絶たねえ。役に立たんだけならまだしも、中にはとんでもない化け物になって脅威を降り撒いたりもしたらしく、そんなことから奇形が生まれたらすぐさま処分するのがいつの間にか習わしになったわけだ。
数百年も経つとようやく土地に体質が慣れたのか、そんな極端な奇形が生まれることは滅多になくなったが、一つだけ強固な風習が残った。――双子の片方は『生かさない』ことだ。
ここがおかしな点でな、いらないなら処分すればいいものを、殺してしまうのは『文化的でない』なぞとほざいて、隔離することにしたんだ。
双子でも三つ子でも、とにかく後から生まれた奴は『人』じゃねえってことにされて、人とは異なる格下の生き物として扱われる。同じ兄弟でも別に生まれた奴は問題ないんだが、一緒に生まれた奴は、必ずこの土地の呪いがかかってるっていうんだ。――笑っちまうじゃねえか、文化だなんだと言うその口で、呪いだとさ。それも魔導ではっきり形作られるもんじゃねえ、誰もお目にかかったことのねえ土地神の呪いだと!
しかも一番最初を人だって決める根拠は何もねえんだからお笑い草だ。とにかく一番ならそれが人だなんざ、まるっきり自己満足以外の何物でもねえじゃねえか。
ま、言い分はチンケだが、やり方はそう馬鹿にしたもんでもないけどな。昔も今も、偉い奴とそうでない奴がいるが、ことに権力を握ろうとする奴らは後継者を誰にするかで躍起になる。簡単なのは長子に家督相続させる方法だが、そうした社会の中では双子は厄介だ。いくら兄だ弟だと言ったところで、生まれたのは同じ日なんだからな。いくら順番を決めてみたって、必ず争いが起こる。
けど、片方をはっきりと区別して『こいつは人じゃない』ってことにしとけば、それほど問題は起こらねえ。一方だけひたすら可愛がって学や教養を付けて、片方は満足に文字も書けねえってんなら、どっちが跡継ぎに相応しいかは瞭然だ。そうして万一その長子がおっ死んじまった場合は、残ったほうはまあ仕事はできねえだろうから、子どもだけ作らせて、一代抜かしでそいつに継がせればいい、と。
なんとも良くできた図式じゃねえか!?」
(まるで人間じゃなくて、家畜か何か道具の話みたいだ)
ティングは額にグラシアスの熱を感じながら哀しく思った。
そうだったのか、と。
(きっとグラシアスは……)
「そういう奇形には名前も与えられず、檻に入れられて餌だけ与えられて生かされるんだ。呼び名がないのは不便だから、一応通り名みたいのはあってな。ウマだのトリだのとおんなじようなもんだけどな」
長い長い前置きの末に、グラシアスの物語がようやく紡がれようとしていた。
そうした奇形は固有名を持たず、ただ『リーン』とのみ呼ばれていた――
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