〜 14 〜
リーンははじめ、時間の観念を持っていなかった。明るい時と、暗い時と、その中間くらいの不思議な時間があるだけだった。
リーンのいるところは灰色がかった何もない場所で、一方の高いところが小さく切り取られて明かりが漏れ、反対の一方が黒い何本もの棒で塞がれていた。棒の向こうはこちらと同じような灰色だった。
リーンはそこで何をするでもなく、転がってみたり、ぐるぐる走ってみたり、アーアーと声を出してみたりしていた。
面白くはないが、特に不満はなかった。
一日に一度餌をもらえて、それが楽しみといえば楽しみだったが、口に入れた物にはいつも顔をしかめてしまう。どうにか飲み込んで腹がちょっと重くなると、その後はなんだか嬉しくなった。
自分はここに一人だったが、すぐ隣りに違う生き物が居るらしかった。それらは大勢でいるようで、ひっきりなしに嘶(いなな)きや鋭い鳴き声が聞こえてきた。臭いも強くて、自分とは全然違うものがいるんだなとぼんやり知覚した。
自分に餌を運んでくるものは、自分と形が似ているような気がした。窓からときどき見えた生き物は、自分のように床に足をつけていない。色も形もまるっきり違う。このものは、きっと仲間だから餌をくれるのだろう。
でもそれは、決して声を聞かせてくれなかった。もしかすると自分のように音を出すことができないのかもしれない。それは自分より少し肌の色が濃くて、手も足も大きくて、やっぱり自分とは違うのかもしれなかった。
あるときリーンは、自分もあの窓の向こうのもののように飛んでみたいと思った。懸命に足で床を蹴って地面から離れようとしたが、なかなかできない。あれはあんなに気持ちよさそうに飛んでいるのに、あれではない自分にはやっぱり無理なんだろうか。
そう、哀しく思ったとき。
哀しみと共に、大きな怒りが生まれた。
――ナンデ!?
あれにできて自分にできないはずがない。きっと何か、やり方に間違いがあるのだ。
リーンは命令した。自分へ、周りの目に見えないものたちへ……。
強く強く念じるうち、長い時間が経った。空腹を感じ始めたとき、躰が傾いでリーンの足が少しだけ浮き上がった。
――ヤッタ!
だが意識を乱した途端に足の裏に床の温みを感じた。
ちょっとがっかりしたが、自分もあれと同じようにできるのだと判って嬉しくなった。
ちょうどその時、いつもの餌が運ばれてきた。
それはじっとリーンが餌を食べ終わるのを見ていたが、リーンは最近そうして見られることが何となく気持ちよくなかった。それはリーンと違って奇妙な薄いものを躰につけていたが、リーンは何もつけていない。肌をすっかり晒したリーンの躰を、それはじろじろと無遠慮に見回す。
ごく時々、これと似たようなものがいくつかやってきてリーンに色々なことをしていくのだが、あれも嫌だった。不思議な機械に吊るされたり、真っ直ぐ立たせられて何やらさぐられ、他にも目や口を覗き込まれたり躰をあちこ触られたりする。訳が分からなくて暴れたら、チクンと痛みを覚えて意識がなくなり、気づいたらまたここにひとりでいた。
あのときのあれらは餌を乗せるのとは違う板に、餌を食べるのとは違う棒を持って何やらしていた。あれは何をしているのか、いつもリーンは気になって仕方なかったが、決して覗かせてはくれなかった。リーンのことは好き勝手にするくせに。そう思うと怒りがこみあげた。
リーンが食べ終わると、それはリーンの首に紐のついた輪っかをつけて、目隠しをした。時々されて慣れているので、リーンは大人しくされるままになった。
それの案内で歩きながら、部屋から出させられるのが判る。こうやって時々違うところへ連れていかれ、温かい液につけられるのだ。
躰をいじられるのは好きではないが、擦られるとちょっと気持ちよくなる。隣の部屋のなにかに似た臭いがついた自分が、いい匂いになる。
いつもアッという間に終わってしまうのが物足りなかったが、一度ごねたらびっくりするような熱い液をかけられて長いこと痛くて苦しんだことがあったから、それの望む通りにすることに決めていた。
液に頭まで全身を浸からされて、すっかり濡れたところを、それの身につけているものに似たもっと小さくて濡れたもので体中を拭かれる。ときどき良い匂いのする物を持ってきて、擦って白いふわふわになったそれで擦られるのが好きだった。このごろはそれを使ってくれることが多くなってとても嬉しい。
ここ何回か、だんだんと躰を撫でるのが長くなってきていた。それは気持ち良いけれど、特定の場所ばりいつまでもゴシゴシされていると不愉快で、ことに胸の二つの突起や足の付け根をいつまでもグリグリ擦られていると、両の目から水が出そうになった。
「アー! ウウッ!」
躰をねじって手をはずそうとしたら、首を掴まれて液を入れた桶に押し込められた。驚いて口を開けると濁った液が口いっぱいに入り込んできた。飲み込んで噎せて、でも息が出来なくて苦しくなる一方で、必死でもがいているうちに段々とぼんやりしてきた。力が抜けて暴れられなくなったら、ようやく液から引き上げてくれた。
うっすら開けた目に映るそれの目が、リーンの知らない不穏なものを湛えている。
怖ろしかった。走るか飛ぶかして逃げ出したかったが、首を繋がれているのでそれができない。
執拗に股の間をさぐられ、いつも何かを吐き出すところへ指を入れられる。ぬるりと入り込んだそれに、ピリッとした痛みと不快感を感じて、リーンは小さく悲鳴を上げた。
引き抜こうと必死で腕を掴んだら顔を殴られた。勢いで桶の縁に頭をぶつけ、頭がクラクラした。ぐったりしているところを液から引き出され、床へ俯せさせられた。
それはリーンの上にのしかかってきて、さっきよりさくさんの指を押し込んでくる。
「アアッ! アウーッ!」
痛みに何とか逃れようとするが、頭を打った衝撃のためかうまく力が入らない。それは良い匂いのする物を手にたっぷり擦り付け、何度も何度もそこへ指を出し入れする。
「アウッ! アーッ! ウガゥッ!」
リーンの叫びなど聞き入れてはくれない。ピリピリするそこを乱暴に擦られ続け、痛みばかりが大きくなっていく。
「フゥッ、ウウッ……ガアーッ!」
腰を掴まれ、躰を持ち上げられて――めちゃくちゃに暴れまくったら、足に何か固い物が当たった。
「くぅっ!」
それが音を出した。初めて聞いて、リーンは驚いた。てっきりリーンと違うのかと思っていたが、では同じものなのかもしれない。
だが、次に聞いた音に、やっぱり違うのかもしれないと思った。
「…こっ…の小僧、ふざけやがって…!」
リーンはそんな音は出さない。初めて耳にする不可思議な音の羅列に、リーンは興味を持ちつつ怯えた。
それは股間を押さえて蹲っていたが、怒りに燃える目でリーンを睨み付けると逃げようとしたリーンの足を掴んで持ち上げた。
「アッ!」
「待ってろ、いま串刺しにしてやる!」
乱暴に床に叩きつけられ、リーンがギャンと悲鳴を上げる。苦しむリーンにかまわず両腿を掴み、無理矢理に捻り込もうとしてきた。
「キ…アーーーッ!!」
リーンは届かぬ手を必死で振り上げると、それの顔へ向けてぶつけた。
「ぐあっ!!」
突然それがリーンを放り投げ、顔を押さえてのたうち回った。
押さえた指の間から赤い液が流れている。
リーンは驚き、床にへたり込みながら思わずそれをまじまじと見つめた。
リーンを見るそれの眼差しに、リーンの知らないものが窺えた。激しい恐怖だった。
それはジリジリと後じさっていくと見るや、首を繋がれたままのリーンを置きざりにして一目散に駆け去って行った。
ぽつんとひとりきりになって、リーンはちょっと安心した。
床に転がっていた、いい匂いのする白いものを掴むと、温い液に入り込んで自分で躰を擦ってみた。去っていったあれが執拗にいじっていた突起などに触れると変な感じがして躰がビクンと震えたが、そのほかの場所は普通に気持ちよかった。
そうして一人で遊んでいると、部屋の扉が開いて見たことのないものがいくつか入ってきた。
いくつかは不思議そうに見上げるリーンを液から出させて、新しい綺麗な液で躰をすすいだ。それはいつもは去っていったものがやっていたことだった。
ひとつは見守るようにただリーンたちを眺めていたが、リーンがすっかり綺麗になって乾いた物で拭かれ終わると、リーンへ近づいてきた。
リーンの顎を持ち上げ、じっと顔を覗き込んでくる。リーンは戸惑いながらも真っ直ぐその目を見返した。
それはすぐにリーンから視線を逸らした。何か不味い物を見たような顔をされ、リーンはムッとした。
ともあれ、そのことのためにリーンは住処を移された。
今度は床に柔らかな物が敷かれ、排泄する部屋は別についていて、寝るところもふかふかの台の上だった。透明な板のはめこまれた壁は、前よりもっとよく空を飛ぶものが見える。
リーンはとても喜んだ。
だが、これがリーンの苦悩の始まりだった。
リーンの世話係は、前の男から若い青年に変えられた。
「お前、前は家畜小屋の中に住んでたんだって?」
ウィニーという青年は、リーンによく話しかけた。
リーンに話しかけることは、本当はいけないことなのだそうだ。
「赤ん坊ってのは、構われないと、食事だけ与えられても死んじまうものなんだって。リーンは殺せない物だから、普通はそうやって誰にも抱かれることも話しかけられることもなく置いておかれて、自然に弱って死ぬのを待つんだけど、さすがにカーヌ家のリーンは違うよな。こんなに元気でさ。オレ、こんなに大きくなったリーンって初めて見たよ」
ウィニーの言葉は判るようで判らないことだらけだった。それでもリーンは漏らさずその言葉を覚えておいて、後で一人になったとき何度も自分で繰り返し呟いてみるのだった。
「あかんぼうってのは、かまわれないと……しぬ……」
死ぬ、ということがどういうことなのか、リーンには判らなかった。ただ、その言葉からはとても嫌なものを感じた。
ウィニーにたくさん話しかけられて、リーンはアッという間に多くの言葉を覚えていった。言葉を知ることは楽しかったが、知れば知るほどリーンには判らないことが増えていくような気がした。
『ウマ』というのは何か、『隣のうち』とは、『女』というのは?
大人と子どもは何となくわかる気がしたが、偉いというのがどういうことなのかも判らない。ウィニーの言葉によるとリーンは偉くないけれどリーンとしては偉いという、なんだか訳の分からない物らしかった。
リーンのところへは時々監視役の男がやってきたが、ウィニーはそれに隠れて自分の知っている限りのことをリーンに聞かせてくれた。ウィニーの知識は後年成長したリーンから見ると実にささやかな取るに足らないことばかりだったが、それでも当時のリーンからしてみたら唯一の貴重な情報源だった。
「話をするのは人間だけじゃないんだ。声を出す動物はみんな自分たちの言葉で話をしているっていうよ。しかもオレのばあちゃんによると、動物じゃなくて声を出せないのに話せる物もあるっていうんだ。それじゃいくらなんでもお伽噺だって思うけどさ。――例えば? なんだったかな、昔の偉い人が書いた本が、本も偉くなっちまったのか、読んで欲しい人に自分から話しかけて来るんだって。読む人を本が選ぶんだってんだから恐れ入っちゃうよなァ」
ウィニーは、近所の娘のことや今年のウマの出来具合の他に、たまにこうした変わった話も聞かせてくれた。中でもこの話はリーンの意識に強く残ったのだった。
そうして穏やかに日々は過ぎていった。
そうする内に、やがてリーンの中でどうにもならない懊悩が生じ始めた。
「お前だって、仮にも名門カーヌ家のリーンなんだもんなぁ?」
ウィニーが優しくその名を口にするたびに、心の片隅でチクンと鈍い痛みを感じた。
「他のリーンとは違うんだもんなぁ。もしかすると種付けに使われることだってあるかもしれないし」
――チクン、チクン。
ウィニーは何も悪くない。そう判っているのに、やるせない怒りがリーンを苛んだ。
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