White Labyrinth


〜 17 〜

 『リーン』とは何か?
 それは古きに於いて、余所から移り住んできて慣れない過酷な環境で生きなければならなくなった人々が考え出した、呪(まじな)い的な知恵であった。
 何百年も昔に実際に彼らからの脅威にさらされ、同胞であるはずの赤子に殺戮される恐怖に怯た記憶は、人々の心の奥深くに根強く残っていた。それらを解消するには、リーンを遠ざけることが最も有効だった。
 また、リーンという者を作ることは何かと都合が良かったのだろう。
 しかし、誰もがいつまでもそのようなナンセンスな考えを信じてはいられない。人々はそれがいかに莫迦げたことであるかも理解するようになっていった。
 リーンを他の者と分けるための法律は存在しない。いかなる規則や書類上でも、建て前としてでもリーンと呼ばれる者達にも「人権が存在していなければならない」のだ。
 よって、リーンはただ黙殺された。
 法律によって殺されることはないが、出生を公にしなくとも罰せられることはない。リーンとして生まれた者は、人外のものとして家庭内に組み込めなくなる。つまるところ、法律の範囲外の物となるのだ。
 だが『常識的な人間』達の間では、そのような不当な行為は否定される。手を差し出さずに死なすなど人道的ではない、あってはならないことだ。ひとたび存在が公になれば、人としての生活が保障されていないことは不味いのだ。
 とはいうものの、リーンの存在が公になるような事例は過去になかった。そのことが『リーン』という奇妙で非道な慣習を人々に定着させていた。
 「皆がそうしているのだから、己もそうすべきだ。」
 排除されることへの恐れと、そうしてさえいれば社会の一員として認められるのだという歪んだ考えによる安心感によって、『リーン』は生まれ続けて来た。
 『リーン』とは、差別によって存在を否定された者である。そのことに、リーンは気づいてしまった……。



 リーンはカーヌ家の所有する領地内の端にあった牢屋のような粗末な一室から、カーヌ家一族の住む豪奢な一棟を与えられ移り住むことになった。筆頭本家の暮らす領内へは迎え入れられなかったものの、それまでと比べたら格段の違いだ。
 カーヌ家は常に世間の視線を浴びる家柄なため、事件を起こして公にその姿を現したリーンをそのまま放置しておくことができなかった。過去に例のないことではあるが、リーンは名もない『リーン』から、一般的な人間としての生活をさせられることになった。それが彼にとって良いことなのかどうかは、この時点ではまだ何とも言えないが……。
 身一つでやってきたリーンは与えられた室に入るや、そのあまりの豪華さ眩さにに軽い眩暈すら覚えた。
 美しい彩色を施された壁紙に、繊細な蔦模様を描く真鍮の枠にはまった曇りない玻璃が填められた窓、金銀を多く含んだ鮮やかな刺繍を施したカーテン、寄せ木や塗りの素晴らしい箪笥や机などの家具調度品。床は足首まで埋まりそうな絨毯で覆われている。
 どれもこれも初めて目にする物ばかりだ。彼は唖然としてそれらを見回しながら、ずっと口を開けっ放しだった。
 部屋だけでなく、リーンをとりまく環境はあらゆるものが変えられた。
 それまでリーンの養育係だったウィニーは、リーンの世話をするには不適当としてその役を解かれた。代わりに多くの教育係や世話係の女官が選ばれた。リーンが家柄に相応しいだけの教養を身につけるための家庭教師は六名、部屋の掃除や衣類の支度等をする女官は三名、その他にも雑用をこなす下男達が数名与えられた。
 それらはカーヌ家の者ならば当たり前に与えられているものだった。時期当主たるギリアークなどは、実にその数倍もの召使いを抱えていたのだ。
「リーン!」
 そのギリアークが、初めてリーンがそこへ移り住んできた日にやってきた。
「どう? 住み心地は。何か足りない物があったら遠慮なく言いなよ!」
 土産と称してギリアークは大量の食料品や衣類を持参していた。それらはどれもリーンが見たこともないような贅沢な品ばかりで、まだ自分と同じ子どもである彼が当然のようにそうした物を好きに出来ることへ、リーンは驚きを禁じ得なかった。
 ギリアークはリーンへいつでも満面の笑みを向けてくれた。無邪気で屈託のないその笑顔は、既にリーンからは消え失せたものだった。そんなギリアークに惹かれつつも、自分にない多くの物を持つ彼に、リーンは何やらもやもやとした気持ちになった。
 単純な嫉妬ではない。同じ両親から生まれながら彼だけが恵まれていることへの憤懣がまったくないとは言えないが、それ自体は彼の罪ではないのだとちゃんと理解できている。それに、自分は充分なものを与えられた。
 また、ギリアークに与えられたものは何も物だけではないことも、何となくだが察せられた。彼には与えられた物の分、カーヌ家という重い負担をも与えられているのだ。
 どちらにしても、自分たちに選択権はなかったのだ。だから彼へこんな気持ちを抱くことは間違っている。それは判っているのだが……。
「あれ、これってもしかしてハース叔父さんのところにあった物じゃない?」
 ギリアークがリーンの部屋にあった机を見て言った。
「ハース…?」
「ああ、まだ親族への紹介もしていないんだったっけ。やたら模様替えの好きな叔父さんがいるんだよ。ヒョロッと細くて背が高くて、口髭生やしててさ。あの叔父さん、しょっちゅう箪笥だの机だの買い換えてるから、そこからもらって来たんだな」
「へえ……」
 別に誰かのお下がりなど、リーンにとってはどうでもいいことだ。新しい物が良いという感覚もリーンにはない。だが、その話はどこか不快なものをはらんでいた。
(なんでだろう?)
 考えてみても、リーンにはその理由が思い浮かばなかった。
 言うならば、それは疎外感のようなものだっただろう。自分だけが人と違う。ギリアークが特別扱いされることと、リーンのそれとは意味が違う。リーンに向けられる人々の感情は、あまり深く考えたくない、直視しがたいものばかりだった。
 リーンには既に親族への不信感があった。自分をあのような状態に置き、存在を否定して、リーンがいなくなることを望んでいた人々を、どうやって信じたらいいのか?
 また、人間全般への不信感もあったかもしれない。裁判の際に目にした人々の印象から、自分以外の人間は頼れない、信用できないと感じたとしても、それは無理のないことではないだろうか。
 これからは、否応なしにそうした人々と接していかなければならないのだ。
「あ、あのカーテン! 母様がずっと取り替えたいって言ってた客間のだ。…うわぁ、なんだか…懐かしいような物がいっぱいだなあ」
 ――ギリアークと一緒に自分を生んでおきながら、今まで顔一つ見せたことのない母親――
 胸の奥で、訳の分からないどす黒いものが広がっていく。
(おれ、これから大丈夫なんだろうか)
 言い様のない不安がリーンの胸中をうずまく。自分は何も知らない。それなのに、自分を良く思わない人々の中でやっていかなければならないのだ。
 この家の中には、リーンの知らないそれらの物が、リーンの知らない間に詰め込まれている。使用人さえ信用できない。自分を消したがっていた親が、自分にそんなに良い人をあてがってくれるとは到底考えられない。
 自分に好意を抱いてくれているのは、ただギリアークだけなのか。
 明るく屈託のないギリアークが、リーンを暗く不安な気持ちにさせていく。まったく同じ顔をしながら、彼と自分は確かにまるで違う人間なのだということをまざまざと思い知らされる。
 ギリアークは、リーンが『リーン』であることを突きつける。それは自分を『リーン』にした存在だからなのか、それとも……?
 ギリアークがやってきたことで、リーンは初めて自分の背景にあるもののことを真剣に考えたのだった。

 その日、ギリアークは泊まっていった。
「初めて過ごす家で一人なのは淋しいと思って」
 いつも一人だったし、この家には数人の召使いが住み込むことになっている。一人なわけではないと思ったが、ギリアークと過ごせることは嬉しいので喜んでその申し出を受けた。
 ギリアークが帰ってから、リーンはようやく彼の言った意味を理解した。この家で、自分は一人なのだ。親や兄弟が一緒にいる訳ではない。リーンには友達もいない。ほんのわずかでも特別に感じられる人などいなかった。
 ただ、ギリアークのことは好きだと思った。彼の明るい笑顔を見ることは純粋に嬉しい。彼が自分を慕ってくれることは、強い喜びを感じさせた。
 こんな気持ちになるのは初めてのことだった。
 それまでリーンは人と接する機会が極端になかった。側に人が居ても、それほど長いこと話し込むことはなかった。快不快は判っても、好悪の感情はそれまでのリーンにはほとんどなかったものだ。
 リーンは急速に自分が変わっていくのを感じた。そうして、最も自分を変えるのはギリアークだろうと思った。
 いかにも目一杯愛されて育ったらしい彼の言動は、時にリーンを激しく苛立たせたが、それでも彼を憎むことはできなかった。ギリアークはそれ以上に、自分に沢山のものを与えてくれるから……。
 夕飯に出た肉について、ギリアークは嬉しそうに説明した。
「僕がしとめたんだ!」
 どうやらリーンに食べさせたくて、わざわざ狩りへ行ってきたらしい。
 だが、狩りというものをリーンは知らなかった。狩りの話をギリアークがしてくれるが、さっぱり理解できない。
 「くら?」
 「むち?」
 「くつわ?」
 「やじり…?」
 ウマにしても、狩りに使う弓や仕掛けにしても、リーンにはさっぱり判らないことだらけで、話をきちんと理解しようとしたら、質問するために頻繁に話の腰を折らなければならなかった。ギリアークは気にした風もなく丁寧に教えてくれたが、そのことが余計に苛立ちを煽る。知識欲の旺盛なリーンには特異なことだった。
「今度は一緒に行こうね!」
 ギリアークはそんなリーンでも屈託なく誘ってきた。
「でもおれ、ウマって知らないし…」
「大丈夫、教えて上げるよ! きっとすぐ上手くなるよ」
「そうかな…」
「そうだよ!」
 明るく断定する。ギリアークがそう言ってくれるのなら、ウマをやってみてもいいかなと思えた。
 二人はギリアークが持ってきてくれた食材で作られた豪勢な食事で腹を満たした。主にギリアークが話し、たくさんの遊びの約束をした。

 ベッドへ入る前に、リーン達は下女の手伝いで湯を浴びた。
 服を脱いでいるとき、ギリアークが首からさげていた物へリーンの目が留まった。
「それなに?」
「ああ、これ?」
 リーンが訊ねると、ギリアークは何でもないように首からはずしてリーンへ手渡した。細い革ひもの先に片手で握れるほどの小さな塊がついている。
 その塊に触れると、乾いた土に水が沁みていく快さに似た不思議な波動を感じた。
「ただの守り石だよ。リーンだって持ってるだろう」
「もってない」
 あっさり言うと、ギリアークはエッと驚いた声をあげた。
「持ってないはずないだろう、守り石ってのは、異教徒でもない限り生まれたとき誰でも与えられる物……」
 ギリアークは言いながらハッと気づいたようだった。
 リーンは誰にでも与えられる物を、与えられない者なのだ。
「……ごめん」
 ギリアークは小さく謝った。リーンは首を振り、石をギリアークへ返そうとした。
「いいよ、あげる」
 その手をギリアークは押し返した。
「別にないと困るものでもないし。きっと僕たち、二人に別れて生まれてきたから石が一つしかなかったんだよ。今までは僕が持ってたから、これからはリーンが持ってるといいよ」
「でも……」
「いいよね?」
「……うん」
 その石は、ギリアークにとっても大事な存在だったはずだ。
 守り石とは、生まれてきた子どもが丈夫にきちんと育つようにとの祈りを込めて、一人に一つ与えられ、生涯を通じて持ち続けるお守りだ。どんな石を与えられたかで、出生や親の想いの深さなど色々なことが判るという代物だった。
 人によっては、形ばかり与えられた石ころを嫌がって箪笥の奥へしまい込んでいたりもする。常に首から下げているということは、身につけることが比較的当たり前といえる守り石でも、特に大事にしている証と言えた。
 リーンは小さな石をぎゅっと強く握りしめた。


 楽しい一夜はあっという間に過ぎた。翌日、ギリアークは昼食前に帰っていった。
 リーンは広い屋敷に一人ぽつんと取り残された。
 これからやらなければならないことは沢山ある。まず祖父の元へ行き、名を与えられることになっていた。リーンがリーンでなくなるのだ。考えただけでも胸が熱くなってきた。
 また、親族達へのお披露目もあるという。一般的な学業などの知識の他に、それまでに行儀作法を始めとして多くのことを学んでおかなければいけない。
 こんなふうにぼうっとしている場合ではないのだが――。
 リーンは無意識に胸に下げた守り石へ手をやった。それを握っているとそこからじんわり躰が暖かくなるようで、何となく気持ちが安らぐのだ。
 ――…リ…ン……
 そのとき、いつか聞いた覚えのある声が聞こえてきた。
「誰っ!?」
 驚いて周りを見回すが、人影はない。使用人達はそれぞれの仕事をこなすか、用がなければ自分たちの休憩場所に指定されたところにいる。あえてリーンの近くへ寄ってこようとする者はいなかった。
 ――……リ……ーヌ……
 やはり声がする。しかも、以前よりはっきり聞こえるような気がした。
(この石のせい……?)
 声は次第に弱くなり消えていった。
 だが、その声はきっとまたリーンへ話しかけてくるだろう。今はリーンに充分聞き取れるだけの力がないだけで、きっとその声の主と会える日がくる。
 何の根拠もないが、なんとなくそんな気がした。
 またしても判らないことが増えてしまったが、とにかく自分はもうリーンではなくなるのだ。それだけで自分が素晴らしいものへ変われるような気がし、リーンの胸は躍った。
「……うん」
 誰へともなくリーンは頷いた。
 守り石を握りしめながら、リーンはこの先に待ち受ける歓喜と辛苦とを想った。

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