〜 19 〜
ルバース王立学院特級府では、その日も多くの授業や研究が行われていた。適度に暖かくうららかな陽気に、学生も教師もそれぞれの勉学や研究に気持ちよく没頭していたときだ。
――ドドーン!
突然の破壊音と地響きに、人々は大慌てで建物の外へ飛び出した。
「なんだ、なんだ!?」
「一体何があったんだ!?」
見ると、王立学院の中でも最高学府である特級府に於いてさえ、特に優秀な者しか足を踏み入れることが許されない、権威ある特級研究棟の壁面の一画が無惨に崩れて土煙が上がっている。
研究棟とはいっても、実際には個人の研究よりも特に優秀な生徒を集めて個人的な授業を行うことが主とされている。そのような事故を招くどんな授業がなされていたのか、爆音に集まった人々は、大慌てで研究棟から表へ避難してきた者達を疑念と好奇の目で見つめた。
「……アハハハハハハッ!」
慌てて土煙を手で払いながら出てくる者達の中で、ただ一人愉快そうに高笑いしている青年がいた。
「グラシアス! お前はまたっ……」
後から、やはり頭上を舞う土埃を払いながら出てきた白髭の教師とおぼしき老人が、怒鳴った拍子に口へ入り込んだ埃を慌ててペッと吐き出した。
「なんだよ、俺は言われた通りのことをやっただけだぜ?」
いかにも学士らしい軟弱そうな青年達の中で、ただ一人とてもそうとは思えない立派な体躯に浅黒い肌を持つグラシアスは、傲岸な口調でそう反発した。
「空気中の成分で作られるものを示せっていうから、そうしてみせただけだろう」
「馬鹿者ッ! そういう場合は水球を作ると決まっているだろう」
「へえぇ、そいつは知らなかったな。じゃあ今度、そういう決まりを先に教えといてくれなきゃ」
一人まったく土煙の影響を受けずに涼しい顔をしているグラシアスは、そう言って教師に背中を向けた。
「あれじゃあんた方はもう授業できねえだろ。退屈してたとこだし、今日はもう終わりな」
「こ、こら待て…!」
教師がグラシアスを止めようと手を伸ばしたところへ、突然教師の頭上に特大の水球が現れた。
「ま、そんなに水球を出させたいんなら、出しといてやるよ」
見ていた人々はとっさに目をつぶり、顔を背ける。予想通り勢い良く水球が落下して、激しい水音と共に教師はびしょ濡れになった。
グラシアスは去り、後には怒りに顔を真っ赤にしたまま硬直した教師と、成す術なく茫然と教師を見つめる生徒達とが残された。
モントル大陸には大きく三つの国がある。その内の一つルバース王国は南方が広く海に面しており、漁業も発展しているが、それよりも他大陸との交易が盛んで学芸の進んでいることで有名だ。グラシアスが生まれ育ったのは、様々な文化が混在する独特の趣のあるルバース国では珍しく民族意識の強い北方の土地フルールだった。
フルールは魔導を修得したい者にとって修行しやすい土地柄なようで、古くから魔導師を目指す多くの者が集まっていた。また、魔導を修めるためには一般の学問も広く知る必要があったことから、魔導に限らず他の学問を修めようとする多くの者達も自然と集まるようになっていた。
おそらくモントル大陸では最大最高の学士の土地で、グラシアスは学ぶことになったのだ。
グラシアスがカーヌ家の一因として屋敷と共に与えられた家庭教師達は、国の幼児達が学ぶ一般的なことを教えるだけの、ごく普通の教師だった。貴族の子弟も普通は学校へ通うが、そんな中でどうしても学業が遅れてしまう、いわゆる頭の回転のよろしくない子どももいる。家庭教師というと普通そうした子どもために雇われ、ごく初歩の勉強を教える存在だった。
無論、学校では教えない高度な学習指導をするための家庭教師も存在する。だがグラシアスの父親であるカーヌ家の当主が、グラシアスに充分な教養を身につけさせる気がないのは明白だった。教師にもいくつかのレベルがあるが、彼らのランクは最低に近かった。
リーンとして生まれた者を自分たちは虐待などしていない、家にみあった物を与えているという表面さえ繕えればいいと考えていることは、ヴァンの目には明白だった。そのためグラシアスを学校へ通うよう手配したのだ。
祖父の元でほんの一月も学ぶと、グラシアスはギリアークと同じ学校へ通い始めた。そうして充分についていくことができた。――いや、それ以上だ。
学校へ通い始めたばかりの頃は、グラシアスにとって何もかもが目新しく驚きの連続で、授業で様々なことを学べるのは楽しく嬉しかった。だが、それらにもすぐ飽き始めた。学ぶべきことがなくなってしまったからだ。
祖父の手配した学校はおそらく大陸で最高の教師が集まっていたが、集団相手の授業はどうしても平均的な学力へ合わせたものになりがちだ。グラシアスはそれまでの貧相な生活が惜しまれるほど飛び抜けた頭脳を持っていて、一度聞いたことは忘れず、更に先のことを鋭く見通す。そんな彼にとって、学校の授業はすぐに面白味のないものになってしまった。
与えられた教科書に、授業で学ぶことのほとんどが詰め込まれている。その一冊を一度読めば済むことを、どうして時間をかけて座って聞かねばならないのか?
畏敬する祖父の言いつけなので大人しく学校へ通っていたグラシアスだが、そのうちにこっそり授業をさぼるようになっていった。空いた時間で学校の図書館へ行く。そこではまだ自分の知らない多くのことを知ることができ、もし自分で判らないことがあったら祖父に会ったときに訊けば教えてもらえた。
そんなふうにグラシアスは、おそらく問題を起こさないよう平凡な人間に育てたかっただろう親の意向に反して、どんどん自分の足で進んでいった。
グラシアスが授業から遠ざかる要因がもう一つあった。
学校でグラシアスは孤独だった。そこは驚くべき小さな社会で、以前と同じくグラシアスを拒絶した。
ギリアークそっくりの整った容貌を持ち、かつずば抜けて優秀なグラシアスは、編入一日目は感嘆と好感を得てうまく過ごすことができた。一般常識に欠けるところはあるが、概ね好ましい人物と思われたようだった。
ところがそのすぐ翌日に、グラシアスがギリアークのリーンであることが学校中に知れ渡っていた。
子ども達の多くがリーンを知らなかった。噂によって初めて知る者が大半だっただろう。中にはリーンという言葉だけ知って、それがどういうものか理解せずに、ただ悪いものらしいと子どもっぽい単純さで信じ込んだ者も多くいた。
昨日友達だと思った者が、今日は邪険になって友達などではないと言ってくる。グラシアスにはどうしてそうなるのか判じ難く、彼らの身替わりの速さに唖然とした。
「お前、リーンなんだって?」
そう言われて、すべてが判った気がした。
リーンという一語が自分を雁字搦めにする。何をどんなに頑張っても、人々の好意を得ることが出来ない。
人に嫌われることは辛い。どうにか受け入れてもらいたいとあれこれ考えたが、いくら勉強ができても他人の心理を推し量る機知に乏しく世間知らずのグラシアスにとって、それは非常に困難なことだった。人とずれた言動は更なる反感を煽り、グラシアスをより孤独へと追いやる。
自分は彼らの中に入れない――それからの日々、グラシアスはそのことを痛いほどに感じ続けた。
自分の魅力は容貌と頭脳だと知ると、元々頭の回転がいいのを更に励んで学んだ。それまで学年一だったギリアークを抜かして段突のトップに躍り出たため、教師達の間では大いに騒がれ生徒間でも秘かに話題になった。
だがグラシアスの成績は悪かった。どんなに頑張っても総合評価で平均を多少上回る程度にしかなれない。
その理由を、教師達は口を揃えて「彼は授業態度が宜しくないので…」と語った。確かにグラシアスはじっと座っていることが苦手で、学校へ通い始めた最初の頃こそ授業に目を輝かせて聞き入っていたが、すぐに飽きて他のことへ意識を向けるようになり、いくらも経たない内に授業そのものをさぼるようになっていった。
しかしもしグラシアスが真面目に授業を聞いていたとしても、教師達は同じことを言って評価を落としただろう。
それでも充分に優秀と言えたが、誰もそれをグラシアス自身の力だと認めようとはしなかった。しばしばある公での研究発表や口頭試問などの場でグラシアスがその優秀な面を示しても、それは決まってカーヌ家の力のためだとみなされた。
カーヌ家の者は優秀で、後継者となると必ずその年齢の者の中では最高の成績を残している。その『事実』を残すために、カーヌ家の圧力が実際にかかることは過去にあった。グラシアスもおそらくそうなのだろうと大人は考え、子どもも影響を受けた。
実際にはその反対だったが、噂を助長するような態度を教師の大半が取ったためにそのことは事実と捉えられていた。そのことはグラシアスに更なる衝撃を与えた。
学院はカーヌ家から多額の寄付を受けている。何としてもギリアークを最優秀者にしなければならず、リーンがギリアークに取って代わるなど言語道断というのだ。
唯一自分の味方をしてくれるギリアークのために、自分の足を絶えず引っ張られていることは、グラシアスにやるせない葛藤を与えた。
一方ギリアークはというと、幸いにというか、グラシアスとは違う意味で世間知らずなために、そうした風潮にまったく気づいていなかった。
カーヌ家の者ならば出来て当然という周囲の期待を誇りとし、自分の誉れは家の誉れだと喜ばしく感じているようだった。
「僕は注目されているから。がっかりさせないように、頑張らないとね」
その言葉にはギリアークという人間がよく表されていた。
ギリアークにとってどうにもできないことは、魔導だけだった。実際に彼は優秀で大抵のことはこなしていたが、魔導だけは思うように扱えずにいた。平均的な修得レベルには達していたものの、それを越えることが出来ない。
魔導ほど本当の実力を試されるものはない。こればかりは誰も代わりになることができない。実技が主となるため事前に試験内容は告知されていることがほとんどで、与えられた課題をどれだけこなせるかで評価される。真の実力を測られるといっていい魔導で点を稼げることは、グラシアスに大いに安心を与えた。
上位陣の中でもグラシアスは特別で、過去に例がないほど優秀な成績を残し続けた。
「僕はどうにも不器用で…。上がり性なせいか、試験ではいつも文句をどもったり印を組み間違えたり、小さなミスを重ねてしまう。魔導で有名なカーヌ家の後継者だっていうのに、制限時間ギリギリになんとか出来る程度だなんて……」
ある試験の後、ギリアークが漏らした言葉にグラシアスは慰めの意味で祖父の言葉を反芻した。
「魔導は技も大事だが、それ以上に強い意志が必要だ。自信を持って望まなければ、せっかくの力が表面だけ空回りして文句などの道具に振り回されてしまう。呪文も印も薬草等も、より集中するための補助でしかない」
正論を言うグラシアスを、ギリアークは苦いような眩しいような顔で見た。
「それはお祖父様の仰っていたこと?」
グラシアスは頷いた。
「いつも出来ているなら必ずできる。また、そうでなければいざという時に使えるはずがない。試験ごときで動揺して出来ないようでは、それは完全に身に付いたものではないのだと言っていた」
「…いかにもお祖父様らしい言葉だね」
ギリアークは苦笑した。
「僕も自信がないわけじゃないんだけど、なかなか本番でいつも通りにはできないよ」
「そんなことはない。ギリアークなら出来るはずだ。ただまだ本番での気の入れ方を掴めていないだけで」
「……僕もお祖父様に教えて頂いていれば……」
ギリアークの呟きに、グラシアスは押し黙った。
何でも人並み以上にこなすギリアークだが、こと魔導に関してはそうして愚痴ってばかりだった。
ギリアークは、本当はヴァンに習いたかったのだ。だがヴァンは引退した身とはいえ未だに何かと多忙を極め、今ではグラシアスを除いて自ら手ほどきすることはなくなっていた。大事な孫であるはずのギリアークも自分の弟子に一切を任せ、一度たりとも指導したことがない。
魔導の第一人者であるヴァンに習うことは、ギリアークの憧れであるらしかった。ギリアークは小さな頃から、いつかうんと上達したらヴァンに手ほどきしてもらえるのではという希望を持っていた。それがグラシアスには熱心に教えているようなのに、自分のことはまったく省みてくれないことに、妬みを抑えきれないのだ。
天使のようだと思ったギリアークの中にも自分と同じようにドロドロとした醜い嫉妬心がある。それを知ったとき、グラシアスは安堵すると共に少なからず失望した。
――彼はやはり、自分の片割れなのだ……。
ギリアークがもっと特別な者なら諦められた。リーンとして破格の扱いを受けていることだけで満足し、影としての人生を歩むこともやぶさかではなかった。
だが、そうではないのだ――。
勝手な理想だということは判っていた。ギリアークは彼なりに努力し、人々の期待に応えようと日々鍛錬し、並外れた自制心でもって常に変わらぬ態度でグラシアスに接してくれる。
しかしそのことでグラシアスを納得させることはできなかった。
グラシアスをその名で呼ぶ者は、ギリアークとヴァンくらいだった。教師でさえ、その大層な名を口にするのを厭って『リーン』と蔑みの響きを込めて呼ぶ。
血を分けた兄弟ということを除いても、ギリアークは自分をグラシアスという個人として扱ってくれる大切な人間だ。うかつに恨んだり邪険に思いたくはなかったが、歳が経つにつれ、彼の存在はグラシアスの上により重くのしかかっていった。
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