White Labyrinth


〜 3 〜

「……うっ……」
 意識が冷めたとき、少年は猛烈な吐き気に襲われて噎せ返った。しばらく倒れ伏したままの姿でゼイゼイと苦しげに喘ぐ。
 強制的に異空間へ転送された衝撃のためだろうが、そんなことは少年に判ろうはずもない。ただ苦しみが和らぐのを目に涙を溜めて我慢するほかなかった。
 落ち着いてくると、少年は呻きながらもゆっくり半身を起こした。全身がだるく、微かにキンと頭痛がした。
 未だ鈍い意識をなんとか回復させようと、頭を振って立ち上がる。一体自分がどこにいるのか確認しようと視線を周囲に向け……困惑した。何度か瞬きし、次に自分の手を見て自分の目が確かに開き、はっきり見えてもいることを確信すると、背筋が慄然とした。
 ――何もない…?
 慌ててぐるりと辺りを見回す。そこは、どちらを向いてもただ白い空間が広がるのみのだった。廃虚と呼ぶほどの物もない、空虚な世界。
 ――そんな莫迦な!?
 どんなに目を凝らしても何も見えない場所など、この世にあろうはずが……そんなことは………
 焦燥に駆られて少年はふらつく足で無意識に歩き出した。そうしていくらもしないうちに、がむしゃらに走り出していた。
 いつかどこかへブチ当たることを望みつつ力の限り走り続けたが、無駄だった。息が上がり、疲れて足がもつれる。走って走って走り続けて、ついにガクリと膝をつき、足が止まった。
 激しく苦しみを訴える心臓をなだめながら、ふと怖ろしい予感にそうっと頭上を見上げてみた。――何もない。そこに少年が知っている青かったり灰色だったりする空はなかった。同じように白い空間があるだけ……。
 上下左右、どこを向いても何も無い。どこでもなく、どこに行き着くこともできない、まるで出口のない迷路のような場所――。
 少年の手足は疲労と異なる理由で小刻みに震え始めていた。
(まさか、下もなんて……)
 こんな場所にいると、自分を支えているはずの足元が信用できなくなる。触れようと伸ばされた手が、地に着く前に恐怖で止まる。
 もしもやそこに触れることができなかったら――底なしの異界へとずぶずぶ沈み込んで、どことも知れぬ処へと永遠に落ち込んでいってしまったら……。
 そんな考え囚われ、少年は身動きできなくなってしまった。
 時間にしたら、おそらくいくらも経ってはいなかっただろう。だが、その僅かな時で少年は既に気が狂いそうな恐怖の内に沈み込んでいた。なんとか負けまい、しっかり意識を保とうとはするのだが、それは相当に難しいことであった。
 実際、こんな何の拠り所もない無為な場所へいつまでもいたら、本当に気がふれてしまっただろう。
 だが、その時だ。
「――おい」
 突然、何者かの声がして、少年の肩に軽い重みがかかった。
 すっかり何もないと思い込んでいた少年は、ヒッと喉を鳴らして硬直した。
 此処には誰もいなかったはずだ。人どころか、小さな虫一匹、草一本さえ目にすることは出来なかったのだから。
 それなのに、自分の後ろに確かに誰かがいる。それが何を意味するのか、少年には判りすぎるほど判っていた。
 唐突に現れた人物の正体、そのようなことができ、この何もない処に存在できる――存在しているはずの唯一の者、それは……
「おい!」
 肩に置かれた大きな掌で軽くグイッと押されて促され、少年はおそるおそる振り返った。
 そこに一人の男が立っていた。
 浅黒い肌、固そうな黒く真っ直ぐな髪、闇色をした眼光鋭い瞳。背が高く、戦士のような逞しい躰付きをしている。
 少年は驚いた。もし彼がかの伝説の魔導師だとするならば、その言い伝えの古さから想像されるよりも随分と若い。もっとも伝説になるほどの魔導師ならば、外面上の姿などいかようにも変幻可能なのだろうが。
 男は少年と同じ最低限の布地を躰に巻き付けただけの姿で、唯一の装飾が首から革紐で下げられた不思議な虹色に光る胸元の宝玉だった。
 恐怖で半ば凍り付いたまま、少年は無意識にその宝玉に見入っていた。もしかすると少年の本能が、彼の心がこの異様な事態に崩壊しないよう、それから意識を逸らさせるために働いたのかもしれない。
「これか? こいつは守り石だ。」
 視線に気づき、男は片頬を歪めた皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。腹に響くような深い声だった。
「俺の生まれた時代には、子どもが生まれるとすぐにこういう呪(まじな)い物を身につけさせる習慣があったんだよ。それで自分の呪い物は、生涯肌身離さず身につけたもんだ」
「……」
 何と答えたら良いものか、未だ思考のうまく働かない少年には判断出来ず、無言で男を見上げていた。
 とはいうものの、少年の心は急速に溶け始めていた。すっかり畏縮した心の奥で、思いがけず気さくに話す男に対して少年は仄かな好意を抱き始めていた。
 対して男は、そうして話しかけてもウンともスンとも言わない少年に焦れ始めている様子を見せた。再び不機嫌そうに言う。
「おい。お前、名前は?」
「――ティング」
 固まった喉の奥から押し出すように、掠れた声でなんとか答えた。
「フン。ちゃんと喋れるんじゃねえか」
 男は先ほど見せたのと同じように片頬だけで嗤った。
「それにしても変な名前だな」
 『ティング』という単語自体には何の意味もない。それは特定の言葉の後ろにつけて行動を強調して表現するための付録のようなもので、普通、人の名前に付けたりはしない。
 おそらく言われ慣れているのだろう、ティングは微かな翳りを瞳に浮かべはしたが、これといった表情の変化は見せなかった。
「ちなみに俺の名前はグラシアスだ」
「グラシアス……」
 たどたどしい口調でティングがその名を発音すると、男は僅かに嬉しげな表情を見せた。
「正式な名前はグラシアス・リ・カーヌ。まあ、どうせ喰っちまうんだから名乗り合ったって無意味なんだけどな。そこは俺の趣味ってやつでな」
 そうして男はまたニヤリと皮肉っぽい笑みを見せた。ティングはそれを不思議と不快には感じなかった。
(あいつらに比べたら全然真っ当な表情だ)
 過去に自分を苦しめた者達の面影が脳裏を過ぎる。それだけでティングの心は哀しみや怒りや絶望で溢れそうになり、そうならないために必死でそれらを頭の中から追い出さなければならなかった。
 そんなティングに男は不審そうな眼差しを見せたが、特にそれへ触れはしなかった。
「喰うって言っても俺の場合、生き物が普通に食事するみたいに口でボリボリ貪り喰うわけじゃねえけどな。もっとも、ある意味その方が喰われる側としては有り難いんだろうが」
「……」
 男が話すのを聞くうちに、ティングは大分落ち着いてきた。
 だがそれにしても、『喰う』という言葉を聞いて平静でいられたものは、男が知る限り恐怖で意識を手放してしまった者か、幼すぎて男の言葉をよく理解できない者くらいだった。それでなければ、必死で理性を保とうとするあっぱれなほど意固地な者か。
「お前は俺が怖くないか?」
 男はティングの顔を覗き込んで訊ねた。ティングはふっと表情を和らげ、首を左右に振った。
「怖いと思ったけど……」
「思ったより怖くなさそうな兄ちゃんに見えるか?」
 頷きかけて、ティングは僅かに躊躇った。
 男はどうやら確かにあの魔導師のようだ。別に本物の魔導師が存在している可能性がなくもないが、よく聞いてみると彼の声は確かにあの洞窟で聞いた声とよく似ているし、わざわざそんなことを欺る何の必然性もないように思われた。
 ならば、このグラシアスと名乗る男をその表面だけ見て怖ろしくないと言うことは果たして正当なのだろうか?
「……今は、まだ怖くない」
 ティングはそんな考えも含めて正直なところを述べた。それが判ったのだろう、男は声をたてて笑うと「お前、面白い奴だな」とティングの頭を大きな掌で軽く叩いた。
「まあな、見ての通り俺は一応普通の人間だよ。けど、恐怖で顔面蒼白になって走り回るお前を楽しんで見てたし、獲物が多く引っかかったときなんかは、喰うにはあんまり好みじゃない奴だと指も触れずに散々嬲って遊んでそのまんま殺しちまったことも何度もあるぜ」
 ティングがどのような反応を見せるか楽しむように、男は話を続けた。
「化け物がいて、恐怖を感じる間もなく頭から喰われちまうんだったら楽だろうけどな、それじゃ俺は面白くないんで色々とやるわけだ。何しろこんな何もないとこにもうかれこれ五百年近く閉じこめられてるもんでな」
 ――閉じこめられてる!?
 驚くべき告白に、ティングは思わず目を瞠って男を見上げた。
「俺はね、お前だけじゃなくてお前の知ってる誰も影も形もなかったような大昔に、危険人物としてここに封印されたわけ」
 男は自嘲するように薄い笑みを口辺に浮かべ、そんなティングを真っ直ぐ見返した。

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