〜 5 〜
辺りはしんと静かだった。
微かな水の音と、頭上の方で微かに金属と金属がぶつかり合う音がするだけだ。
夜霧がたちこめ暗い中を目を凝らすと、ぼんやりと大勢の人影が蠢くのを確認できた。深い濠底のような川の中を、大勢の者が物音をたてずに歩いていく。――不気味な静けさ。
ティングもまた、胸近くまで水に浸かりながら水の流れに沿って懸命に歩いていた。
――何とか夜の内にこの川を下ってしまわなければ。
誰も何も言わないが、そこにいた全員の心がその一事で占められていただろう。
もう永遠にこうして川の中を歩き続けている気がする。けれど、日暮れ前にはティングも地上を走り回っていた。逃げ走っていた、というのが正しいだろうか。
今も耳から離れない――逃げまどう人々の叫声、剣と剣の合わさる金属音、何かの破壊音、馬のいななきと蹄の音……。
ティングの生まれ育った町は、侵略者達が射かけた火矢によってアッという間に炎に包み込まれた。それは突然の出来事で、着の身着のままで命からがら家を飛び出し、大勢の人々と共に逃げまどった。
ひっきりなしにどこかで上がる悲鳴が耳をつんざき、炎によって出る煙と家屋が倒壊する土煙とで噎せ、涙を流しながら必死で安全な場所を求めて走り回った。
数年前から、終わらない戦争のためにティングの生まれ育った町は次第に活気をなくし薄汚れていた。その町だけではない。国全体が疲弊しきっているのが誰の目にも明らかだったが、国王は敗北を認めようとはしなかった。
まだ広大な国有地の一部を刈り取られたにすぎない。
そう宣言し、周りにも強引に納得させて、それまでの雪辱を晴らそうと無理を重ねた。その結果がこれだった。
国境からそう近いわけでもない町が、ある日突然侵略者達の手で破壊された。人は殺され、家は焼かれ、物は奪われた。欠片も容赦なかった。
電光石火の出来事に、ティングは足を怪我して動けなくなった母親を抱え、逃げ場を失い茫然としていた。
敗国の民に、勝者は常に残酷だ。
街に火を付け、荒らしながら勢い良くなだれ込んでくる兵士達のあげる声が、疲れ切って思考力の低下したティングの耳に、まるで夢の中の出来事のように聞こえた。
どこへ逃げれば良いのやらまるで判らない。人目を避けつつさまよっていたとき、すぐ近くで何かのガラガラという耳障りな音を聞いた。
と、それまで抱えるように支えて歩いていた母親が、突然ティングを激しく突き飛ばした。地へ手を突いて倒れたティングが驚いて振り返った時、母の姿は崩れ落ちた瓦礫の下敷きになってほとんど姿が見えなかった。辛うじて腕先だけが瓦礫の下から覗いている。
「……か…あ、さん……」
呼びかける声が震えていた。
どう見ても母が無事でないことは明らかだった。助け出したとしても、もはや命はないだろう。頭の片隅でそれを判ってはいたが、ティングはそんな考えを否定した。
大声で喚きながら、所々火がついて燃えている木材や石壁の欠片を必死に手でかき分けた。重い木材はなかなか持ち上がらず、砂利は掻いても掻いてもなくならない。
悪夢のような時間は、実際にはほんの数分だっただろう。やがて、微かに聞こえていた呻きも聞こえなくなった。
そんなはずはない。父を早くに亡くしたティングは、これまで母と二人で貧しいながらも必死に生きていた。仕事があれば何でもこなし、どうにか支え合いながら今まで生きていたのだ。
その母が、いなくなるなんて…――
ティングは信じられなかった。諦められず、もう無駄だと判っていながら瓦礫を除ける作業を無我夢中で続けた。ティングの頬は汗と涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
だが、やがてその作業も諦めざるをえなくなった。
鎖帷子を着た兵士達が通りかかり、ティングに気づいて声を上げた。
「おっ、こんなとこに子どもがいるぜ」
「おや、本当だ。坊や一人でどうしたのかい?」
嫌な薄笑いを浮かべて近づいてくる。
ティングは後退りかけ、兵士から目を逸らさぬようにチラと母の方へ目を走らせた。
こんなところへ置き去りにしたくない。贅沢は出来ないができれば、せめて墓を立てて手向けたい。
だが、そんなささやかな願いも叶えられることはなかった。
――例えちっぽけな子どもだろうと、奴隷商へ売れば幾ばくかの金にはなる。子どもや若い娘の血は若さを保つ妙薬になるというから、そうした物を扱う薬屋へ売ってもいい。または金にも何もならなくとも、戯れに切り刻んで遊んでも多少の気晴らしにはなる……。
ティングを見る兵士達の目は、無言でそう語っていた。
(母さん、ごめん………)
じりじりと近づいてくる兵士達へパッと背を向けると、ティングは母の亡骸をその場へ残して走り出した。背後でわっと喚声があがる。彼らがすぐさまティングを追ってくるのが分かった。
あとはもう、無我夢中だった。
人の気配を避け、瓦礫を押しのけ、またはよじ登り、道ともいえない道を擦り傷だらけになって走った。いつしか兵士達が諦めていなくなっても、ティングは張り裂けそうな心臓に喘ぎながらひたすら安全な場所を求めて駆け続けた。
やがて町を抜けたティングの足元には潅木が生え並び、裸足の裏に柔らかな土を感じていた。
――痛い、苦しい、哀しい…………
再び視界が涙で滲んだとき、ふいに足元の地面が消えた。
「アッ!」
木々と下草に隠れて気づかなかった崖から、ティングは勢い良く転落した。
幸い落ちた先は川だった。激しい飛沫をあげ、躰が冷たい水へ沈む。
必死に水から顔を出すと、そこは暗くシンと静寂に満ちていた。
(疲れた……)
あまりに色々なことがありすぎて、考えることが辛かった。ティングは躰の力を抜き、流れのままに川を下っていった。時々川縁に躰がぶつかるときの痛みも、もうティングには判らなくなっていた。
ぼんやりと流されながら、ときたま何かが自分と同じように川へ落ちたらしい音を耳にした。次第にそう遠くないところに人の気配を感じるようになっていったが、ティングはもう頓着しなかった。
誰が自分をどうしようと、もうどうでも良いような気さえした。疲れきっていたティングは、既に逃げる意志さえ無くしてしまったように見えた。
だが川を下ると共に満ち溢れてくる人の気配に、ティングは起き上がらざるを得なかった。たいして幅もない川は、いつの間にかティングと同じように逃げ場を求めてやってきた難民で溢れ返っていたのだ。
中には明らかにもう息絶えている者もいた。俯いて浮かんだ背中が水を吸って脹らみ始めている。怪我を負い、今にも倒れそうによろけながら歩く者も大勢いる。血の臭いと、何のだか判らない腐臭が漂い始めていた。
夜の闇の中で、ティングは微かな金属音を耳にしハッと顔を上げた。僅かな星明かりに、堤防の上に大勢の兵士や騎士達が待機しているのが窺えた。
彼らは気配さえ隠して難民達を監視していた。
何故すぐにも自分たちを殺してしまわないのか、ティングにはどう考えても理由が判らず、それゆえに戦慄した。ここは敵地の町中になるのだろうか、だから今ここでは殺さず民への影響を考慮し、場所を移して惨殺しようというのか?
またはいつでも殺せると判っているから無駄な体力は使わず、ただ見張って長い下流への旅路に自滅するのを待っているとでもいうのだろうか?
それともこの先に何か罠でも待っているのか?
澱んだ空気の中で、休むこともできずに歩きながらティングは考えた。そうしている内に、次第に死が生々しく身近に迫って感じられてくる。
今はまだこうして闇が自分たちの姿を隠してくれるから、何故か篝火をたいていない敵兵にはっきり姿を見られることもない。だが、やがて必ず朝が来る。陽の光の元で、果たして自分たちは無事でいられるのだろうか……。
それはぞっとしない考えだった。
どうすれば助かるのか。長い時間水の中を歩き続けて冷え切った躰は意識を確かにしてくれる。母が身を呈して守った自分の命を惜しめるようになり、ティングは懸命に考えた。
横で、一人が小さな水音をたてて倒れた。力尽きたのか、起き上がらずにやがて水底へ沈んでいった。しばらくすれば、ところどころに見える彼らのように膨れ上がって浮かんでくるのだろう。――自分もあの一人になるのだろうか?
それは嫌だった。一晩で自分の小ささ非力さを知ったゆえに、虫螻のように無為に死にたくはなかった。
(川上はどうだろう…!?)
唐突にティングの脳裏に一つの考えが浮かんだ。
川を下る人々は、このまま敵も味方も関係のない海辺の街へ逃れられれば助かるかも知れないとの希望を抱いて歩き続けているはずだった。だが、それが果たして安全な方策なのかは疑問だ。ただ他に道を考えられないからそうしているだけなのだ。
実は自分が後にしてきた川上の森のほうが、姿を隠す場所も多く確実に生き長らえられるのでは――!?
思いつくと、ティングはもうそれ以上川を下ることが怖ろしくてならなくなった。これ以上、大勢の難民と一緒に行動することは危険でしかないように思えた。
ティングは静かに水へ潜ると、水と人々の流れに反して川を遡り始めた。それは下りの容易さに比べて困難ではあったが、不可能ではなかった。
半時間もすると、周囲の人の数はめっきり減っていた。
人がいない分、川を上る自分の姿が目に映りやすくなる。ティングは堤防を一定の距離を置いて並ぶ柱の影に隠れながら、潜水を繰り返した。
なんとか陽が昇る前に街中を抜けたかった。頭上の兵士達の姿は減り始めていたが、いなくなりはしなかった。
そうして怖ろしいのは、一応兵士が歩き回っているとはいえ、この街の人々がふだんと変わらない生活をしているらしい気配が感じられることだ。朝まだきとはいえ、早くも食物を煮炊きしたり商売の準備を始める気配が川辺の家々に漂い始めている。
難民が大勢川を下って逃げていることを知らないはずはないだろうに、すぐそこを行く女達など、洗濯物を入れた篭を抱えて何やら忍び笑いをもらしながら通り過ぎていった。戦争などどこ吹く風という感じだ。
彼らはここにこうしているティングを見かけても、きっと欠片も気になどしないのだろう。敗国の民など人ではないと言われているかのようだ。
事実、彼らはそう思っているに違いなかった。
彼らの気紛れによって生かされている自分を感じ、言い様のない憤りに胸が詰まった。
街を完全に抜けられないうちに、やがて辺りに眩しい光が満ち始めた。哀しみの内に闇の中を漂っている間は感じなかった危機感がティングを焦らせる。
森へ入れば再び現れる川岸の崖も、ここでは大した高さもなかった。手を伸ばせば岸へ上がれそうだが、腐臭を漂わせ、何かで引き裂いたらしいボロボロの服を身に纏ったこの格好で街へ潜り込むことは不可能だ。かといってこのまま先へ行ったらすぐさま見つけられ、その場で殺されるだろう。
橋の袂で一息ついたティングは、どんどん白んでいく空を見ながら途方に暮れた。もう身を隠すこともできない。八方ふさがりだった。
その時だ。
「…っ!!」
いきなり強い力で躰を持ち上げられ、地上へ投げ出された。
「やあ、いいモノを見つけたぜ」
下卑た嗤いに顔を歪ませた男が、自分を見下ろしていた。着古した皮の鎧を身につけているところからみて、下級兵士だろうか。
突然のことに驚き固まったティングだが、それでも思考は完全に硬直したわけではなかった。すぐさま逃げようと走りかけ――だが、疲弊しきった躰は意志に添って動くことができなかった。すぐさま足が縺れ、ティングは泥にまみれて倒れ込んだ。
再び押さえられた時、ティングは完全に抵抗する力を失っていた。
「そんな汚い小僧、どうする気だよ?」
男の隣へいつの間にかもう一人、似たような兵士がやってきて訊ねた。
「へへ、確かに汚いわな。けど実は、これくらいの子どもを丁度探してたとこだったんだ。ザビオン様の優雅なお遊びのために献上するのに、な……」
兵士の下卑た笑いをどこか遠くに聞きながら、ティングは意識を失った。
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