White Labyrinth


〜 7 〜

 初めて奴隷としての「仕事」を終えた晩、ティングはようやく数日振りの食事を口にすることができた。
 それ以前からの疲れや飢えで、半ば失神するようにベッドへ横たわっていたティングを、いつの間にか入ってきた小姓達――これはただ雑用をこなすだけの者だった――によって起こされ、身なりを整えた後に食堂へ通された。
 後に知ることだが、邸の使用人と奴隷とは普段暮らす住居も食事も別で、その中にも何段階かある。奴隷は種類別に分けられ、ティングのような直接館の主人と接する者は、仕事内容に支障を来さぬよう、それなりに待遇を配慮されていた。
 とはいえ、あのような行為を繰り返されてはどんなに頑健な者でも躰が保つはずがない。多少待遇が良かろうが、それは束の間の安らぎでしかなく、喜ぶべきものであるはずがなかった。
 余計な装飾はないものの小綺麗に整えられた食堂へ入ると、良い匂いが漂っていた。夜中とはいえ、憔悴しきったティングのために食事の用意が成されていたことに、ティングはふと一抹の希望を感じた。
(こういう気遣いをしてくれるような人がここにもいるんだ。もしかすると、なんとか抜け出して助かる道があるかも……)
 食事内容も、何日も絶食していたティングのことを考えて作られたもののようだった。それでも今のティングの胃には重すぎて、用意された半分も消化できなかったが、気分はずっと楽になった。
 用意された部屋に案内されると、ティングはベッドへ倒れ込むようにして寝入ってしまった。数日振りの布団だった。
 疲労困憊しきっていたはずなのに、朝までの短い間にティングは、燃える瓦礫の下敷きになる母親の夢で何度も飛び起きたのだった。


 数日は、体力を回復させるためと、より「主人」が楽しめるための仕込みとに費やされた。最初に受けた水攻めのようなことはされなかったものの、体力の回復と共に再びティングの心が取り戻した羞恥心や誇りを再びずたずたにするには充分なものだった。
 夜の奉仕をするにはティングは幼すぎることはないが、あまりに知識も経験も乏しかった。初物という意味では重宝されるが、それは一度きりのことだ。無理矢理に覚え込まされる行為の間、ティングは幾度となくそう言い聞かせられた。
 ――お前は快楽を与えるための道具なんだ。
 最初の晩に躰の奥深くへ楔を打ち込まれた時、自分がそういうものになるのだということは自覚し、覚悟はしていた。だが『物』として扱われることに全くショックを受けなかったと言うと嘘になる。
 それでも、そうはっきり言われることで却って気持ちは納得し、状況を受け入れやすくなったかもしれない。
 自分は生きた道具だ。
 そう思って過ごす内に、ティングは自分が独特の無表情をしていることに気づいた。それはこの館内で暮らす奴隷達に共通したものだった。ただ一人の主人のために選択肢なしに労働を強要される奴隷達は、皆どこか神経が壊れているかのような無表情を纏っている。
 食堂では最も多くの者と顔を合わせるが、誰もが目を合わせまいとし、近づこうとするとさりげなく離れていく。どうせ話すこともないし、不用意に会話などして世話頭の男に見つかれば、あらぬ誤解を受けて叱責を受けないとも限らない。その場合、かならずきつい体罰が待っているのだ。
 異様な場所だということは判りきっていたが、これだけの人がいるのにまったく話ができないことは辛かった。
 脱走も考えた。与えられた部屋はそこそこ居心地良いが、窓には格子がはまっている。丈夫な鉄格子にその窓から逃げるのは不可能と断念したが、他の場所では常に監視の目がある。
 どこか手薄な場所はないか? どうにかして追手の目をかいくぐって逃げられないものだろうか?
 ティングは必死で考え続けた。
 他の部屋の窓からということも考えたが、どの部屋にも鍵がかかっている。自分の部屋から廊下へは出られるがそれは手水へ行くためで、廊下にある仕切のドアには鍵がかかっていて他の部屋へ行くことは出来ない。
 食堂や、『仕事』の手ほどきを受けるための場所へ行くときには必ずその係りの者と一緒で、それを振り切って逃げようにも入り組んだ廊下で迷って確実に掴まってしまうだろう。
 部屋や廊下の窓から見える庭も、高い塀で囲まれている。どこからどう逃げればいいのか、皆目見当もつかなかった。
 それでも何もしないではいられない。一か八か、ティングはついに脱走を試みた。
 部屋にいるとき以外、ティングには必ず見張りを兼ねた世話係がついているが(他の者もそうなのかもしれないが、ティングはそれを知らない)、食堂から戻る途中、その付人の隙を見計らっていきなり付き倒すなり走り出した。
 窓はどれも高い位置にあり、そこから外へ出ることは出来ない。あらかじめ目星をつけておいた、蝶番の緩んだ比較的板の薄いドアに、体当たりするようにぶつかると、狙い通りバンと勢い良く開いてくれた。追手に見つからない内に急いでドアを一見何事もなかったかのように閉め、美しく木々が刈り込まれた庭へ急いだ。
 庭へ出るのは初めてだった。屋敷の中から高い塀を目にしては、足がかりになりそうな凹凸のないそれをどう越えるか思案していたが、実際に目の前にして、これはどうにもならなさそうだと途方に暮れた。周りに植えられた木々も、塀を越える足がかりになりそうなほど高いものはない。
(でもこれだけ広い屋敷なんだから、どこか塀を抜けるか越えられるそうな場所があるはずだ)
 普通に出入りできる門などには見張りがいるはずだが、どこか塀が崩れるなり何かしている目の行き届いていない場所がないものかと、ティングは僅かな可能性に縋って塀に添って走り始めた。
 追手はすぐには来なかったが、掴まれば命も危ういだろうティングは必死だった。追手の者達はおそらく、ティングはほんの少年であるし地の利もないため甘くみているのだろう。
 そこにつけ目がないものか……ティングは激しい運動のためばかりでなくドクドクと耳にまでこだまする胸の鼓動を聞きながら、祈るように広い庭を走り続けた。
 だが走っても走っても、庭の趣は変化していくものの、その高く無慈悲な塀には何の変化もなかった。
(どうせ逃げられるはずがないと判っているからこそ、なかなか追手が来ないのかも。疲れたところを捕まえた方が楽だから、わざと俺を泳がせてるだけなんじゃ……)
 躰の疲労と共に、絶望的な気持ちが高まっていく。
 深い植え込みをかき分けていると、すぐ先に何か光る物があることに気づいた。突破口にならないかと、咄嗟に期待して足が早まる。
 あったのは、人工の小さな湖だった。
(あっ……)
 ティングの脳裏を、数日前に川を下った記憶がフィードバックした。目の前で次々と倒れ、うつ伏せて、または虚ろな目をして水に浮かび、やがて沈んでいった多くの人々の悲惨な光景と共に、どうにもならない絶望感も蘇る。
 スウッと頭から血の気が引いていった。足の力が萎え、その場にしゃがみ込む。
 その拍子に足先が水面に触れた。――と思った瞬間、湖岸の土が崩れ落ちた。そのままずるりと躰が湖へ滑り落ちた。
 すぐさま岸へ上がろうとしなければいけないのに、瞬時の対応ができなかった。小さな水音を立てて湖へ落ちるとごく僅かの浅瀬があり、泥にぬめって更に落ちた先が驚くほど深くなっていた。
 とっさに口を開けてしまい、途端に空気が逃げていく。慌てて顔を水面へ出そうとしたとき、足に鋭い痛みが走った。いきなり冷たい水に浸かったために足が攣ったのだ。
「ガハッ……」
 必死で水を掻くが、疲れた躰の腕の力だけでは浮かび上がれない。何度か水面へ顔を出すことが出来たが、やがて力足りずに沈んでいった。
 水の外を焦がれて見上げる先に、空気の泡がゆらゆらと揺れながらのぼっていくのが見える。頭のなかでガンガンと激しい警鐘が聞こえた。
 ――ここで死ぬのか
 苦しみながらも諦めの気持ちが勝ったとき、鈍い痛みを感じた。何か固い物が躰に当たったらしい。…と、何かの力でぐんぐん水面へと引き上げられていくのが判った。
 ようやく追いついた追手が、鉤の付いた棒でティングを引き上げたのだ。
 死にそうで死ねない自分に、ティングは朦朧とした意識のなかで自嘲した。

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