夜明けの夢


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 朝食を終え、各自の荷物と田舎への土産を車のトランクに積み込むと、すぐに出発した。
 連休なのでさぞかし道が混んでいるだろうと思ったが、実際に走ってみると不況が尾を引いているのかたまたま運が良かったのか、それほどの渋滞に巻き込まれることもなかった。
 途中のドライブインで遥とおれで作った弁当を食べ、再び出発。都心から走り続けること5時間強で、目的地へと到着した。
 そこは、まだこんな場所も残っていたのかと驚くほどの田舎だった。夜になれば数えるほどの街灯を残して真っ暗になる。僅かな田畑と数件の家以外は見渡す限りすべてが山だ。夏になれば蝉にカブトムシに蛍と、子どもには嬉しい昆虫も山ほど捕れる。怖ろしくなるほどの天の川の輝きを見ることもできた。
 隆さんがいなければ、おれは多分ここで暮らすことを選んだだろう。たとえ最寄りの駅まで自転車を走らせても二十分もかかるような田舎でも、ここは楽園だった。
 都心とは比べものにならない美味い空気を肺いっぱいに吸い込みながら車を降りる。門も塀もないが、ここいらの土地一帯が所有地なのでわざわざ作る必要を感じていないらしい。
 おれ達はまず土産の海苔や干物、菓子などを抱えてその家へ向かった。広さはあるが素朴な普通の一軒家で、変わっているのは隣りに土蔵があるくらいか。もう何度か見ているはずなのに口を開けて白壁を見上げている遥におれはこっそり吹き出した。
 『川澄』と表札のかかった玄関を開け、こんにちはーと叫びながら広い上がり框へ荷物を置く。すぐに奥から人の顔が覗いた。
「まぁ、志生くん! 久しぶりねぇ。大きくなって!」
「えっ、ユキちゃんが来たの!?」
 いつもお決まりのセリフを口にすると、あっという間に伯母達がわらわらと寄ってきておれを奥へと引っ張っていった。
 ちなみに母は8人兄弟だ。上3人が女で、後は男女交互に5人。母は上から5番目、隆さんは8番目の末っ子だ。一昔前なら知らず、今時珍しい大人数と言えるだろう。
 母は2番目の伯父と並んで兄弟の中で人気が高かったようだ。若い頃は輝くばかりに美しく、言い寄る男の多さに一人でよく外も歩けないほどだったという。
「車で来たのかい? 隆の運転で酔わなかったろうね?」
「失礼な。大丈夫だったよなぁ?」
 隆さんが伯父達と話しながらも一瞬こちらを向いて憤慨したように言うのに、おれは笑って答えた。
「ああ、はい。おれは車は平気なんで」
「そう? ああそうだ、お腹減ってないかい? おばさん、餡ころ餅作ってきたんだよ」
「あ、嬉しいです。伯母さんの、おれ大好物なんで」
「ユキちゃん、わたしもお稲荷さん作ってきたよ。あと伊達巻卵も。これが上手くできてねぇ」
 いつものことだが、あっという間に御馳走責めになる。それに困ることもあるが、ちょっと疲れて腹の減っていたこの時は嬉しかった。遥と一緒にさっそく御馳走になる。
 優しくて、手先が器用でよく色んな小物や編み物などを作ってはプレゼントしていた母は、自慢の妹であり姉だったようだ。遥のようにおれよりずっと幼い可愛いいとこも沢山いるのだが、おれに対してはみんな特別に優しくしてくれる気がする。
「本当にユキちゃんはキミちゃんにそっくりだね」
「エッ…!?」
 おれをしみじみと見つめながら叔母の一人が言うのに、おれはひどく驚いた。おれはずっと自分のことを父親似だと思っていたのだ。
 ちなみに母は貴美子といって、キミちゃんと呼ばれていたらしい。兄弟が多いといちいち兄さん、姉さんなどとは呼ばないようで、叔父や叔母も母をキミちゃんと呼ぶ。
 父は気が弱く、その性格を表すように外見も線の細い頼りなげな人だった。優しいばかりで、おれは本当はあまり好きではなかった。そんな父に自分は似ている気がして、ずっと自分のことも好きになれずにいた。おれが隆さんに惹かれるのも、彼の厳しさゆえだったかもしれない。
 そんなおれが、あの母に似ている…?
「あの。おれ、ずっと父親似かと思ってたんですけど」
「いやぁ、ユキちゃんはキミちゃん似でしょう」
「そうよねぇ、目とか口元とか、そっくりよね」
「ほんと羨ましい。わたしらのお婆さんがまた綺麗な人だったらしいけど、子どもが似ないかなーと思ってたのに」
「だから今度はユキちゃんにその血が出たんでしょ」
「ああ、そっか。う〜ん、残念ねぇ。孫まで待つとして、随分先の話だし…」
 伯母達がおれを見ながら楽しげに笑い合う。もしかすると、おれが母に似ていると思うだけでいなくなった母が帰ってくるようで嬉しいのかも知れない。複雑な感じだが、自分がいることで誰かが少しでも幸せな気分になれるのなら悪い気はしなかった。
「ねぇ、今からでも遅くないからうちの子にならない? 志生君みたいな子がうちにいてくれたら毎日すごく楽しいでしょうねぇ」
「まーちゃん、ずるいわ。だったら私が引き取りたいわよ、うちは晴彦しかいないんだもの。まーちゃんちは二人兄妹なんだからいいじゃないの」
 食べる物も食べ終え、いつの間にか本人を置いてそんな有り難い会話が弾み始めて困りだしたとき。
「あっ、志生。今から川のほう行くけど一緒に行かないか?」
 従兄の萩一(しゅういち)が声をかけてきた。
 3番目の伯母の息子である彼とは家も割合近く、歳も二つ違いで他のいとこ達よりはずっと近く、気さくな関係だった。
「行く! ちょっと待ってて」
 おれは遥を従姉妹達に任せると、慌てて靴を履いた。

「久しぶりだな。最近遊びに来ないじゃないか」
 小川の流れる砂利道を歩きながら他愛のない会話を交わす。
「入学したばっかで忙しかったから。萩ちゃんこそ、部活とか忙しいんじゃないの?」
「まぁな。でもそれはいつものことだし」
「でも高3だし、最後の大会でしょう」
「そうだな。ま、大変といえば大変か。でも大学行っても相変わらず続けるつもりだけどな」
 萩一はテニスをしていて、かなり良い成績を残している。スポーツでやっていくつもりはないらしいが。
 しばらく歩いた先の行き止まりで舗装されていない山道に入り、5分ほど登ると大きな滝の流れ落ちる滝壷にたどり着いた。
 おれ達にとって、川へ行くというのはここへ来ることだった。冬には20メートル近くあるこれがすっかり凍り付いて絶景になる。危ないので子どもだけで行ってはいけないと禁止されながらも何度も遊びに来た、お気に入りの場所だ。
 少し前ならすぐ靴を脱いで川に入り、水遊びを楽しんだものだが、そうして遊ぶには年が上がってしまった。なんとなく近くの岩に腰掛け、近況など話し合う。
「てっきりうちの高校に来るかと思ってたのに、R高に行ったんだって?」
「うん。一度私学ってのも経験してみたくて。大学は国立に行くつもりだから」
「そうなのか? 変わってんな」
「そう?」
「だって、普通は大学が繋がってるからとかで選ぶんじゃないのか? あとは家が近いとか、カリキュラムとか。経験してみたかった、か」
「おかしいかな?」
「いや。別にそういうのもいいんじゃないのか」
 あっさり納得してくれる。こういう彼だから、おれも色々と話しやすいのだろう。
「私立だと隆さんに負担かけちゃうかと思ったけどね、一応親が残した分もあったみたいだし、おれが好きにした方が喜んでくれるみたいだったから」
「そうだな。志生は特別可愛がられてるからなぁ。うちの親なんかも夢中だし」
 おれは曖昧に笑った。おれは母ではないのにと、そんなふうに過分に思われても申し訳なく心苦しいばかりだった。萩一はそれを判ってくれているのだ。
「志生が好きな子できたり、将来結婚するような時には大変だろうな。叔母さんのときも相当にもめたみたいだしな」
「……おれ、多分生涯結婚はしないんじゃないかと思う」
 澄んだ空気と心地よい湿気が、おれの中のタガをはずしてしまったのか――自然と、それまで考えていたことを口に出していた。
「そりゃまた、どうして?」
「え……なんとなく、そんな気がしただけなんだけど。結婚したいと思えるほどの相手には出会えないような気がして……」
「ふぅん……」
 萩一はおれの言葉に反論したり、そんなことないよ、などと気慰みを言ったりはしなかった。頭上の緑を仰ぎ見ながらのんびりした風を崩さないまま、しばらく考え込む様子だ。
 そうして唐突に言った。
「志生。お前、もしかして今、好きな人いるだろう?」
 おれは驚いたが、素直に頷いていた。
「すごく好きな人、いるよ。でも絶対そんなこと、口にすることもできない相手だけどね……」
「誰だろうな。俺の知ってる人か?」
「それは言えないな。下手なこと言うと、萩ちゃんにはみんなバレちゃいそうだし」
「じゃ、知ってる奴か」
「――これだもん」
 おれは微苦笑した。
 まぁいいか、という気分になる。彼だったら、何を知っても頑なに反対したり周りに言いふらしたりする心配はない。こんなことを口にできるのも、これっきりかもしれないのだし。
「絶対に好きになっちゃいけない相手でさ。でもどうしても気持ちが止まらないんだ。どうしていいのか判らない。――いや、諦めなきゃいけないんだってことは判ってるんだ。でも、どうやって諦めたらいいのか判らない。初めっから実らないのは判りきってるのに……。
 時々無性に自己嫌悪にかられるんだ。どうしておれはこんななんだろう、どうしてあの人だけ特別なんだろうって…。もうずっと長いこと好きで、収まんなくて、それどころかどんどん好きな気持ちが強まってってどうしようもないんだ。好きになっちゃいけないって思うほど好きになってくような気がして、こんなうだうだした気持ちを断ち切れない自分が本当に嫌になるよ。
 どうにも我慢できなくて、何もかも放り出して消えてなくなりたくなったり…ね。今、あそこから飛び降りれば……もしくはこの手首を掻ききってしまえば。そうすれば楽になるし、もし突発的に告白なんかしてあの人を苦しませることも起こりようがなくなるのに、って」
「志生」
「それとも本当におれがいなくなってしまえばいいんだろうか? 誰のことも傷つけようがない場所へ行ってしまえば、一時は悲しませても、後のことを考えたらそのほうがいいのかもしれない……」
「バカ野郎!」
 静かだが激しい怒気を含んだ声に、俺は弾かれたように萩一を見た。そうしてそこに、今まで見たことのない真摯な瞳を見つけた。
「死なんて安易なこと、ちょっとでも考えるな。お前はお前一人で生きてるわけじゃないんだぞ」
  彼の真剣さに圧倒されながらも、おれは(おれの死が悲しいから反対するってんじゃないのが彼らしいな)などと頭の片隅で思った。
「生きるってのは、おれはしがらみを持つってことじゃないかと思う」
 言葉の一つ一つを丹念に辿るようにゆっくりと話す彼の言葉に、おれは注意して聞き入った。
「人ってのは、単に食って寝るだけじゃ生きられない生き物だ。誰かと関係を持つことで、初めて生きてるって感じることが出来る。人と関わりを持つこと、つまりしがらみを持つことが出来て、初めて自分って存在を意識することが出来るんだ。
 それで、そういうしがらみを持った段階で、たとえ自分の身体や命でも、もう個人の責任でどうこうできない物になってるんだよ。生まれてから今まで大なり小なり関わってきた何十人、何百人って人間に対して、責任が生まれるんだ。人ってやつは、そうした網の目みたいなパーソナリティを持って初めて存在しうるもんじゃないのか?」
「でも……もし自分の周りの人全てに嫌われたら? もっと大勢、例えば世界中の人間に嫌われて、お前なんかいない方がいいって思われたら? 軽蔑されて、嫌悪されて、お前なんかこの世に必要ないんだって言われたらどうする?」
 子どもっぽい質問だったと思う。けれど萩一は真面目に答えてくれた。
「世界中ってのはオーバーだけど、例えば周りにいる日頃顔を合わせてる人間全てから嫌われるようなことがあったとしても、だからといって簡単に『じゃあいなくなろう』って結論を出すのは、俺は間違いだと思う」
 彼は信念を持った口調できっぱりと言い放った。
「必要悪なんて言葉があるけど、本来なら悪い物が必要なことだってあるだろう。例えばカビを利用して旨いチーズを作ったり、そんな例は沢山ある。光と影みたいなもので、どちらか一方ってのは不自然なんじゃないのか? 比較の対象としても、良い物と悪い物があった方が、より良い物を作り出せる訳だしな。
 勿論、それは病気や犯罪があっていいっていう意味とは違うぞ」
 おれは判っている、と頷いた。
「そういうの、人の気持ちも同じじゃないのか? 例えばほんの一言言葉を交わしたことがあるだけの相手だって、それで惚れて恋煩いで痩せ細っちまう人間だっているし、悪い奴じゃないのに妙に苛々させられる奴がいたりな。それこそ相手次第でこっちの気持ちも対応も千差万別に変わるだろう。
 人って内面が外見に現れるよな、表情とか仕草とか。そういう感情を起こさせるのも、すべてそれまでのそいつの生き様が関係してるだろうし、その要素として更に関係してきた人間も含まれるはずだろ。人が生きることって、良い悪いじゃ片づけられない物なんじゃないかと思うよ。そういうこと考えると、特に死なんて重大事項は、安易に口にするのもはばかるぐらいの気持ちでいて欲しいものだな」
「それ、ちょっと変わってると思うけど、なんか凄く納得させられるよ。――うん、ごめん。もう言わないよ」
 (萩一って、ちょっと隆さんに似てるな)と思った。こういう変に生真面目で厳しいところとか。せめておれが好きになったのが、隆さんでなく萩一だったら物事はもう少し違っていただろうか。
 しかしそんなことを考えてみても仕方がない。おれが好きなのは隆さんなのだから。あの人しか好きになれないから、こんなにも苦しいのだから……。
「正直言うとさ、それって去年の今頃、失恋して考えたことなんだ」
 思わず熱がこもってしまった自分に照れるように、萩一は破顔した。
「ずっと自分のことが好きだと思ってた相手を、他の奴に浚われちまってさ。俺もそいつのことは好きで、まぁその内…なんて思ってたのがいけなかった。突然いともあっさり、思ってもみなかった奴に奪われちまったんだ。相手の気持ちの上に胡座かいてたからこんな結果になるんだって、後悔したときにはもう遅いんだからなぁ。まったく……」
 お前も後悔だけはしないようにな、と少し苦しそうに微笑んでみせる萩一におれは強く頷いた。
 あまりにも幸せで、ついもっと幸せになれることを考えてしまったりする。自分の強欲さにときどき嫌になる。
 けれど――ほんの少し、ときどき妄想に浸るくらいは許してもらおう。おれが隆さんの息子で在るために……。

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